6.太陽と月、光と闇、善と悪
「ごめんなさいね。突然こんな事を言い出して、あなた方が戸惑うのもよく分かるわ。でも聞いてほしいの、とても大事なこと。もうあまり、時間も残されていない。だから」
ヒスイはラー麺のスープまでほとんど飲み干していた。ジェイドは麺と具は食べ終わっていたがスープは手付かず。だが二人ともこれまでにないエヴァの焦燥感をはらんだ表情を見、ただ事ではないと察していた。食事を中断し、エヴァと机の上に並んだ二本の短剣とを交互を見比べる。
一見すれば何の変哲もない、短剣だ。銀色の刃はよく手入れされ少しも錆びていない。ずっと封印されていたとは思えない、とても良好な保存状態だった。特別な装飾もない。高価な物には見えず、これを伝説の聖剣だと言われてもすぐには納得できない。
それに……。
「師匠、勇者の剣は世界樹の根本に埋まっているはずでは? しかもなぜ、長剣ではないのですか?」
ジェイドが疑問を口にした。伝承でも、これまでに見てきた絵画でも、勇者の剣は長剣であるとされていたし、その剣は世界樹の下に埋められているはずだった。これも史実に基づいた話ではなくあくまで伝説、作り話か事実をかなり誇張して語ったものだろうとジェイドは考えていた。
「もっともな指摘ね。貴方らしいわ、ジェイド。でもこれは紛れもなくあの聖剣よ。その昔、6属性魔法全てを修め、世界最高の魔力と古の邪神の力によってあらゆる国を滅ぼし自身の帝国を打ち立てようとした魔王の、その邪心のみを打ち砕き、その際に真っ二つに折れた剣を二本の短剣に変化させたもの。太陽剣レオーネ」
エヴァは一本の短剣をヒスイの前に、
「月光剣ルカ」
もう一本をジェイドの前に置いた。
「旅立つ二人に、私からのプレゼントよ」
にこやかに言う。
「旅立つってどういう……」
あまりに唐突な展開に訳がわからず、ヒスイは訊いた。師匠の微笑みはとても穏やかで慈愛に満ちていた。それが却って不吉だった。
「本当はね、もう少し時間が残っていると思っていたの。この私の未来視もまだまだ甘いわね」
「未来視って……まさか予知ですか!?」
「そうよ、ジェイド。といっても未来には不確定の要素が多い。だから私の見た未来も変わることがある。今回は少しだけ、時間がズレたわね」
「何を言っているのか、わかりません」
「あとデザートを頂く時間くらいは残っているかと思っていたの。でももう無理ね」
バラバラと天井に何かが当たる音が聞こえてきた。雨粒の跳ねる音とは明らかに異なる、もっと大きく固いものがぶつかる音だった。
ヒスイとジェイドは立ち上がって天井を見上げる。
「勇者の剣エメラルド・ソードは世界樹の根本には埋まっていないし、そもそも世界樹はエメラルド・ソードから生えてきたものでもない。それは単なる作り話よ。真実を言うとね、剣は魔王を倒す際に2つに折れたの。勇者はその命を賭けて、邪神に乗っ取られた魔王の魂を浄化し、身代わりになって死んだわ。魔王は後に、折れた剣を2つの短剣へと修復し、封印した」
今まさにエヴァ宅の三角屋根に向かい火矢が射掛けられていることに二人は気づいていない。建物はレンガとその隙間を埋める土と藁の混合物によって作られている。基本的には耐燃性がある素材だ。その上、外は豪雨。火の手は上がりにくい。単なる火矢では効果が薄い。村民たちは、射手の放つ矢に魔法使いの火炎の呪文を施し、矢全体を燃え上がらせて放った。魔力による炎は通常の炎とは性質が異なる。魔法使いの念が込められている場合その炎は自然現象ではなく魔法使いの術としてある程度自由に操ることが出来るのだ。
屋根に弾かれた矢も多いが、一部はうまく突き刺さって魔力の炎を燃え上がらせた。その明かりを目印として燃料袋を結び付けた矢がどんどん放たれてゆく。火の手は瞬く間に広がっていった。
「師匠は何故そんなことを知っているのです!?」
焦げ臭が室内に漂い始める。ここにきてようやく、ヒスイとジェイドにも事態が呑み込めてきた。何者かが、この家に攻撃を仕掛けてきているのだ。
「何故って、それはね……」
その時、エヴァの背後の壁が爆音と共に吹き飛び多量の瓦礫が待った。エヴァの左手がまっすぐに突き出され、眩く輝く魔法の盾が形成される。その盾が襲い来る瓦礫を全て弾き返してしまう。
「爆炎術、荒っぽいわね」
不意打ちにも一切動じず、エヴァは盾を維持しながら二人の方へ向き直った。ヒスイは突然の轟音に身を竦めて、ジェイドに寄り添う。ジェイドはヒスイの肩を抱き寄せ、呆然と吹き飛んで無くなった壁と、その向こうの景色と、盾を展開するエヴァとを見ていた。
雨の中、揺らめく無数の松明。空中に浮かび上がるたくさんの火球。敵方に複数の魔法使いがいることの証左。
「私が、その短剣を生み出したからよ」
「えっ」
「何ですって!?」
「折れた聖剣を私の魔力で新たに生まれ変わらせたの。たいへんな作業だったわ。そのせいで私の魔力はほとんど空になってしまった」
次々に、火球が盾に叩きつけられる。その度に強い衝撃が盾を歪ませ、エヴァが唇をぎゅっと結ぶ。そう長い時間、盾を維持し続けられないのだろう。
「剣を、取りなさい!!」
声を張り上げ、エヴァは光の盾を構えたまま叩きつけるような横なぶりの雨の中へ踏み出した。
「師匠! まさか戦うつもりなのですか!?」
「来ないで!!」
加勢に向かおうとしたジェイドをエヴァは制止する。その眼差しは、温かい。こんな状況であるにも関わらず、エヴァは微笑みながら語る。
「私自身の未来は、ここで潰えます。それが運命。そして罰」
「……罰?」
「私はあまりにも多くの命を奪ってしまいました。気づいた時にはもう償いきれないほどに。だから死んで当然です。私はとても利己的で、自身の魔法の才に溺れ、この世界の全てを手に入れることが出来ると思っていました」
「何を……何のことを言っているんですか!?」
走りだそうとするジェイドにヒスイは後ろから抱きつき、
「ジェイド、ダメ!!」
行かせまいと強く踏ん張った。エヴァの告白、そして覚悟、彼女の正体……。
真実が、少しずつわかりかけてきた。師匠が何者で、何故聖剣を持っていて、勇者のことを知っているのか。
「もちろん貴方にもわかっているでしょう、ジェイド。頭のいい貴方なら、わかるわよね?」
「わかりません、僕には、僕にはっ!!」
「お願い。剣を取り、そして走って。裏手の小川を伝い下流へ向かいなさい。そうすればあなた方は逃げられる。ここは私が食い止めます。それほど長い間は、無理でしょうが」
「嫌です! 僕が一緒に戦いますから! 師匠!!」
「なりませんよ、ジェイド。彼らを傷つけてはいけません。人を殺めれば悪に堕ちます。私のようにならないで。彼らは貧しいだけなのです。貧困が人の心を奪い、小さな妬みを生み、たまたまそれが私に向いただけ。そして私がその原因……世界の荒廃と混乱の元凶なのです」
「ヒスイ、師匠が、師匠が!」
これほど取り乱しているジェイドを見るのは初めてだった。ヒスイの胸はぎゅっと締め付けられた。師匠の決意も、ジェイドの悲痛な思いもどちらもわかる。わかりすぎるほどに。でも、止められない。そんな力など無い。だから。
ヒスイは太陽剣レオーネを手に取り、胸の前で抱いた。
「いい子ね、ヒスイ」
「これで、いいんですか師匠。私は……」
「いいの。貴女はそれでいいのよ。直感を信じ、真っすぐ進みなさい。その先に、必ず光が見えるでしょう」
「真っすぐ進めば……光が見える」
震える声を絞り出して、ヒスイは復唱した。師匠の言葉。おそらく最後の、その言葉を。
光の盾が、相次ぐ爆炎によって大きく撓んだ。エヴァは押されて後退する。しかし歯を食いしばり、突き出した左手に右手も重ねて魔力を注ぎ込み、更に前進した。
「ジェイド!」
振り向かず背中越しに、エヴァは言う。
「貴方は頭のいい子。きっとこの先、想像を絶するような困難がその身に降りかかることでしょう。大いに迷い、大いに考えなさい。そして貴方にとって最も大切なものの為に行動なさい」
「最も大切な、もの?」
「ええ、その答えはもう既に貴方の中にあるわ。思いを馳せればすぐに気付くはずよ。そして……“闇”は“悪”ではないということを、決して忘れないで。誰の心にも闇はある。けれど闇は、自分自身の心で飼い慣らせるの。貴方にもきっと」
ドォン!!
ひときわ巨大な爆発が起こった。遂に、エヴァの盾がガラスのように砕け散って霧散した。
「くっ!」
バランスを崩し倒れ掛かるエヴァ。しかし持ちこたえ、両手を天へ、高く掲げる。高く。
「今だ!」
「殺せ!」
男たちの声。魔法使い達が火炎魔法を練り始めた。
「世界を!」
エヴァの周囲に、
火、
水、
土、
風、
光、
闇、
6つのエレメントが出現する。
「世界を救いなさい! 私には見えた。あなた方が進む道の先に、幾千幾万もの人々の笑顔が。いい? 幸福というのはおいしい料理をおなかいっぱい食べられること。それくらいで十分なのよ。あの熱血バカの勇者に教えられたの」
6色の光はエヴァの周囲を旋回し、虹色の尾を引いた。大地が、震動を始めた。
「我が名は魔王エヴァーランド。かつて世界を掌中に収めんとし、そして……暑苦しいだけが取り柄の勇者にほだされた愚かな女……」
大気が、エヴァの周囲で凝縮し始める。村民達の間に動揺が走る。まるで皮膚を目に見えないほど微細な針でそっと突かれているような、言い知れぬ不快感。
「は、早く、早くあの女を殺してくれ!!」
誰かの一声が、切っ掛けとなった。魔法使い達は身の丈よりも巨大な火球を一斉にエヴァへ向かい放射した。
「行きなさい、私の最後の教え子達よ。精霊奔流!!!」
瞬間、虹色の竜巻が吹きすさびエヴァを、村民を、魔法使い達を、全てを飲み込んだ。
ヒスイがジェイドの腕を引く。華奢な腕を。師匠は二人に未来を託した。だから絶対に、ここで死ぬわけにはいかない。
虹色の暴風を背に、ヒスイは駆ける。ジェイドと手を繋ぎ、轟々と唸りをあげて荒れ狂う氾濫した小川へと。