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24.あらゆるエレメントを越えるもの

「ジェイド様、申し訳ありません」


 アブリィの執事セバスチャンは慇懃(いんぎん)に礼をした後、鞭を取り出した。


「セバス、貴方と戦いたくはありません。しかし避けられないというのなら……」


 この寡黙な執事はアブリィの傍にいつも佇み、彼女の雑用兼意見係として長年務めあげてきた人物である。為政者として相応の猜疑心を持つアブリィの側近であり続けたセバスチャンの有能さは疑う余地がない。

 ジェイドは常日頃よりこの男が文武両道に優れた人物であろうとあたりを付けていた。立ち姿、歩く時の体幹の動き、物を運ぶ際の所作、いずれも歪みが一切ない。


「私は女王の為に、ジェイド様は愛する女性の為に。相容れない立場ですので」


「やるしかない、というわけですね」


「私はもう随分と平和な場所に暮らしておりました。かつて、血腥(ちなまぐさ)い戦場を渡り歩いていた頃に比べれば幾分腕もなまっていましょう。貴方様のお相手が務まるかどうか」


「初耳です。が、貴方が戦える方だとことは承知していましたよ」


 セバスの鞭が漆黒のオーラを纏っている。恐らく魔杖のような、魔力を伝導させる為に特別に作られた道具、魔道具であろう。しかもあの魔力の色……自分と同じ闇属性か。


「昔話を長々としている時間はありませんね。私は女王の為に全力で貴方様の命を頂きに参ります。ですからどうかジェイド様、私めにもそのつもりで応対してくださいませ」


「急にそんなことを言われても、ね」


「本気になりますよ、貴方は。私はこれから貴方の大切な女性を……殺します」


 踏み込みの予備動作は一切存在しなかった。一瞬セバスの体がブレたかと思った次の瞬間、ジェイドの目の前に出現した。影から影へ、闇の魔法独自の移動法。精度が極めて高い。

 ジェイドはしかし、怯まなかった。事前に足元に黒煙を用意し接近してきたセバスを捕える罠を張ってあった。

 至近距離、視線の刹那の交差。互いの闇魔法が足元でぶつかり合う。力はほぼ互角、相殺し合って黒煙が舞った。セバスは魔法での戦いを諦め、一歩下がりながら右手の鞭を振るった。ジェイドの顔面へしなる鞭が伸びて頬を強かに打つ直前に、水魔法が分厚いベールを形成、威力を殺す。


 鞭は空中で蛇のようにその身を躍らせて数回、ジェイドを叩きに行くがいずれも水のガードに阻まれダメージを徹せない。


「あなたの攻撃は僕には効きません」


 闇魔法の実力は互角、しかしジェイドには水魔法もある。総合力でセバスに勝る。


「だと思いました。しかし狙い通りです」


「……何?」


 ジェイドの頭上を、何本もの矢が通過してゆく。弓兵たちが一斉に放った矢が放物線を描いてヒスイとアブリィへ目掛けて降下を始めた。風魔法使いにより矢の軌道が操作されている。

 フローラとミームゥは何人かの魔法使いへの対処に釘付けにされてそこまで手が回らない。ならば、ジェイドがやるしかない。


 視線のセバスから切った瞬間、鞭が頭上から振り下ろされてきた。ヒスイを援護する為に放つはずだった水魔法を軌道修正して頭上をカバー。鞭は盛んに動いて次々と乱れ打ちしてくる。魔力によりコントロールされ、しなり、あるいは槍のように真っ直ぐに、ジェイドの全身へと打ち込まれていく。はじめから、こうしてジェイドを防戦一方にさせることがセバスの目的だった。


「くそっ」


 ジェイドが悪態をつく。助けにいくだけの余裕がない。


 矢は急降下しながらヒスイの背中へ収束。アブリィと対峙しているヒスイは背後からの攻撃に気付いていない。


「ヒスイ!!」


 ジェイドの叫び。矢がヒスイの背中に刺さる……ことは、無かった。

 突如駆け込んできた二人の兵士が盾を構え、矢を防いでいた。


「何者だ!?」


 ヒスイと向かい合っていたアブリィは、ヒスイらが間者(かんじゃ)を潜り込ませていたのかと思った。兵士の中に密かに仲間を潜り込ませ、頃合いを見計らって助けに入るよう指示をしていたものかと。だがそうではなかった。彼らは生粋のマノー兵団、しかもアブリィがわざわざ一人ずつ選抜した意気盛んな者達。この土壇場で裏切るような者など誰一人いるはずはなかった。


「お許しください! アブリィ様!」

「やはり我々には、ヒスイ様を殺すことは出来ません!」


 二人の兵士が、盾を構えながら言った。


 呆気に取られたのはヒスイも同じだった。魔法を解き、兵に振り向く。


 セバスは鞭を手元へ手繰り寄せ、追撃を止めた。やがて異変を察知した者から順に、皆が戦いを中断し始める。目に見えない何かが、王の間に伝播し始めた。


「どういうことだ? お前たち。事と次第によってはこの場で即刻処断するぞ」


「アブリィ様……我々は貴女様の忠実な配下。しかしヒスイ様を手に掛けることは出来ません。この方は……純粋に私たちの健康を願って料理をふるまってくださった。毎日厨房に立って、時には城内を歩き回り私たちに気さくに話し掛けて下さり、相談にも乗ってくれる」

「我々にとっては、聖女様のような存在なのです。刃を向けることは出来ません!」


「血迷ったか!? この女王に逆らい、こんな小娘に肩入れするのか」


 カラン


 乾いた音が一つ。


「俺も……俺もだ。ヒスイちゃんは俺の恋の悩みを聞いてくれた」


 剣を手放し、体を震わせた兵士が言う。それが引き金となった。


「俺の服のセンスを褒めてくれた!!」

「俺みたいな奴の肩を叩いてくれた!!」

「曲がり角でぶつかった!!」

「滑って転んだ拍子に俺に水をぶっかけてくれた!!」


 立て続けに、男達はヒスイの善行を(?)述べながら武器を捨てていった。


 それまで、フローラやミームゥ、ジェイドには剥き出しの殺意で斬りかかっていた兵士達が、我に返ったかのように戦闘を放棄し、相次いで膝をついた。魔法使い達もその異様な光景に戦意を失い、魔法を解いていく。


「これは……一体?」


 フローラは、ヒスイの背中を見遣った。そして気付く。今、この空間を満たすもの。ヒスイの背負う輝きが、煌めきながら降り注いでいる。


「魔法なの? ヒスイ、貴女がこれを……」


 魔法の英才教育を施されて育ったフローラですら、聞いたこともない。だがきっと、光魔法だ。兵士達の戦意を、喪失させた。まるで聖堂の中にいるような厳かな気配、神聖な空気をフローラは感じていた。思わず、ヒスイの祈りを捧げたくなるような、神と向き合っているような感覚。


「私が……こんな力を」


 体内から溢れる光を感じ、ヒスイは放心しながら立っている。彼女自身、魔法を行使しているという感触は持っていない。光は彼女の意志とは関係なく湧出して、場を満たしてゆく。


「光の上位魔法……こんなことが、可能なのか!?」


 ジェイドの知識の中にも、このような術は存在しない。考えられる可能性は一つだ。新たな魔法が、誕生した。


「貴様……この私から何もかも奪い去るつもりか!? 民も兵も、国も!! このアブリィ・イクリプスをかくも残酷に葬り去ろうというのか!?」


「私はただ、師匠の教えを守っているだけ。それと、自分自身の思いに従っているだけ。アブリィ、あなたは間違っている。力で支配するだけではダメなんだよ」


「いいや、私が正しい。力こそ全て。その証拠に私はまだ、貴様に対する殺意を失ってはいない! 我が魔力が上回っている何よりの証拠ではないか!?」


「だったら、私を殺してみなさい。私はあなたを傷つけない。みんなを守る。あなたも含めて!」


 戦いは、終わりを迎えている。ヒスイとアブリィを除いて。

 多くの兵が、魔法使いが跪き、ヒスイから放たれる閃光を崇めるように見上げていた。

 大勢は決していた。しかしなおアブリィの、女王の心は折れていない。屈してしまうことは許されない。絶対的支配者は一度でも敗北を喫してしまえばもう、折れた自尊心を修復できなくなる。アブリィは頑なにそう信じていた。負けないこと。勝ち続けること。我を徹し抜くことこそ、己が正義であると。


「偽善を……どこまでも軽薄な綺麗事を!! 言われなくとも、惨たらしく殺してくれよう。私は女王、あらゆる魔法を修め、この世界最強の魔法使いとして君臨すべき存在なのだ!!」


 火、


 水、


 土、


 風、


 光、


 闇、


 怒り猛るアブリィの周囲に6つのエレメントが出現する。赤と青と緑と紫と黄と黒。6色の顕現化されたエレメントの塊が、美しい顔に鬼気迫る表情を浮かべるアブリィの頭上で回転を始めた。


「見えるか、理解できるか、この魔法が。あらゆるエレメントを修めし魔法使いのみが放つことの出来る、全属性を混合した術だ。その名も」


精霊奔流(エレメンタラスト)、でしょ?」


「……っ!? 知っているのか」


「前に見たことがある」


 豪雨の中、エヴァ・クリミアはその魔法を放ち、ヒスイとジェイドの逃げるだけの時間を稼いでくれた。虹色の竜巻、あの当時のヒスイにはどれほど凄まじい魔法なのかはわからなかった。今になって、思う。得意げに精霊奔流を繰り出しているアブリィと、あの時のエヴァとを比べれば。


「でも、あなたのは大したことがないんだね」


「何、だと?」


「私が見た精霊奔流は、天まで届くほどの大きさだった」


「有り得ぬ。そのような桁外れの魔法など……」


「師匠は、もうほとんど力が残っていないと言っていた。本当だったかどうかは確かめようがないけど。そんな状態でさえ、天まで届く精霊奔流を放つことが出来たの。だからあなたは全然、師匠に比べれば未熟だよ!!」


「戯言をっ!! 適当なことを抜かすなよ、小娘。そのような強力な術師がどこにいる!? 貴様の師匠とは何者だ!?」


「私の師匠は、自分の犯した罪をずっと悔いて生きていた。多くの人の命を奪ったと言っていた。でも私からしたら親も同然。一人ぼっちになった私を、育て上げてくれた。師匠は……師匠は私の大好きな人」


 輝きは螺旋を描き、ヒスイの頭上へ収束し始める。


 それは、巨大な鳳凰(とり)のようであった。黄金に輝く羽は金襴(きんらん)屏風(びょうぶ)を思わせ、しなやかな首の先には豪奢な意匠の冠を被ったような煌びやかな頭部を持っていた。あくまで、イメージ。具象化された魔力のビジョンに過ぎない。しかし、あまりにも、あまりにも壮麗な光景だった。


「これは、この輝きは……!?」


 アブリィは息を呑んだ。場に滞る魔力は時として何らかの形を結ぶことがあるが、それはせいぜい原初的な精霊の姿に留まる。サーマンドラやウンディーネ等、特定の属性を象徴する精霊として表出する現象はそれほど珍しくも無い。が、今アブリィが目にしているのは全く未知なる生物の姿。巨大で、光り輝いていて、そして温かな……。


「魔王エヴァーランド。彼女が私の師匠だよ!! そして私は、ヒスイ・イシヅキは魔王の最後の教え子!!!」


 鳳凰は、鳴いた。大気中を魔力の波濤(はとう)が駆け抜け、その場にいる全ての者の精神を揺さぶった。一切の敵意も、殺意も、害意もそこには存在しなかった。ヒスイはずっと、そうやって生きてきたのだった。それは彼女の生来の強さ。だから、この力を手にすることも出来た。


「私の……精霊奔流が!?」


 アブリィの周囲を旋回する6色の光はどんどん力を失ってゆく。虹色の尾を引いて、鳳凰の方へと流されていた。魔力を、吸収されている。


「何ということだ……この世界に、これほどの魔法使いが存在していたのか。魔王の教え子だとっ!?」


「私は生きる。ジェイドと、かけがえのない仲間たちと。みんなを守り抜いて見せる。誰も、傷つけさせはしない!!」


 鳳凰は、アブリィの精霊奔流を全て吸収し高く舞い上がった。羽を広げ、天井をすり抜け、七色の輝きを残して消滅した。後には、敬虔なる信徒のように傅く者達と、仰向けに倒れた女王と、それを見下ろすヒスイの姿。


 今、ヒスイの魔力は細かな粒子となって王の間に漂っていた。二階部分のステンドグラスから降り注ぐ太陽光をプリズムのように乱反射させている。


「負けたのか、この私が」


 しみじみとした口調でアブリィは言った。もう、反撃する気力も残ってはいない。


「私はお前を殺そうとした。だが勝てなかった。どんな魔法をもってしても、お前を倒すことは出来ないと悟った。ならば……私は王として潔く敗北を認める」


 もっと慚愧(ざんき)の念を感じるだろうと思っていた。恥辱に身を震わせてしまうだろうと。しかし不思議と、悔しさは無かった。敗北者を見下ろすヒスイの目は、慈愛に満ちていた。怒りも蔑みも、否定的な感情の一切を持たない、聖女の眼差し。


 あぁ、これは勝てないな。心の中で首肯する。正しかったのはヒスイ。女王のルールでは、いつも勝者こそが正義。


「殺せ」


 他者を殺めようとするなら、反撃に遭い自分が逆に殺されても文句は言えない。アブリィはそういう世界で生きてきた。自然とその言葉を発していた。


 ヒスイは、右手をすっと差し出した。


「……何の、つもりだ? この私に情けをかけるか」


「情け? とんでもない。あなたにとっては死ぬよりも辛いことをしてもらう。生きて、悔い改めなさい、アブリィ」


 諭すような言葉。他の人間から言われれば自尊心の権化たるアブリィは激昂していただろう。が、彼女は無言で手を握り返した。


「つくづく、甘い小娘だ」


 ヒスイの腕を借りて立ち上がったアブリィは、王の間の惨状を目の当たりにした。自分が指示を出したのだからこうなることは了解していたが、


「見事なまでに……破壊され尽くしたものよ」


 壮観だった。意外にも、痛快な気がした。自身の心の内を写したかのような。崩落した天井。突き破られ砕け散った床面、壁際にならんだ石のオブジェも多くが破損している。これだけ荒れ果ててしまったなら、後はもう修復するのみ。徹底的に叩き潰された自尊心も、否定され尽くした最強の魔法使いとしての自負も、素直に受け入れられる。


「して、私は何をすればいい?」


 アブリィが側近に何かを訊ねるということはこれまでなかった。あくまで意見として聞くことはあっても、方針を他人に委ねることは絶対にしなかった。自分以上に聡明な者などいないと考えていたから。

 初めて、彼女は新鮮な気持ちで人にものを訊ねた。


「政治を。この国に住む全ての人々が幸せになれるような国作りを」


 きっとエヴァは全てを見抜いていたのだろう。こうなることまで。ヒスイは思う。

 アブリィはあらゆる属性の魔法を行使することができた。しかしその先、未来視の力は獲得していないようだった。未来が見えていれば、こうして戦いを挑むことをしなかっただろうから。アブリィは最強の魔法使いなどではない。まだ、未熟だった。


「よく分からんな。いや……分からなくなった、か。私は自分の正義を、すっかり見失ってしまった。これほど打ちのめされたのは初めてだ。しかし、悪い気はしない。お前のお陰だ」


 気づかぬうちに、ジェイドがヒスイの傍に立っていた。見上げた先、柔らかな幼馴染の笑みが見えた。


「ヒスイ、やっぱり君は凄い。アブリィ様に、ここまで言わせるんだから」


「ジェイド……私、師匠の想いに応えられたのかな?」


「もちろんだとも」


「そう、良かっ、た」


 ヒスイの目が閉じる。ぐらりと揺れた体を、ジェイドが抱き止めた。限界以上の力を発揮していたのだろう。ヒスイは緊張の糸が途切れた瞬間に、気を失った。


「ゆっくりお休み、ヒスイ」


 ジェイドは少し癖のあるブロンドヘアを優しく撫でる。この小さな体の中に、ヒスイはとても強い力を秘めていた。この厳しい世界で、こんなにも逞しく真っ直ぐに、生きてきたのだ。どんな美辞麗句よりもこのヒスイの存在が、腕の中に感じる温もりが、何よりも誇らしく尊く思える。


「ジェイドよ、お前がこの女に惚れた理由がわかった気がするよ」


「アブリィ様……」


「私は魔法使いとしても女としても、まだまだだったな」


「ええ」


「……少しは擁護しろ、バカ」


 アブリィは、拗ねたように唇を尖らせた。今まで見たこともないような初々しい反応に、ジェイドは表情を綻ばせた。


「今の貴女の方がずっと、可愛いですよ」


「いらぬ世辞だ」 


 そっぽを向いたアブリィに苦笑を投げかけ、ジェイドは眠れる聖女をその腕で抱き抱えた。


「この国を去るのか、ジェイド」


「いえ、僕には何とも。この子の意思に、従うだけです」


「甲斐甲斐しいじゃないか」


「僕はヒスイの影でいい。ずっとそう、心に決めていました」


「あーくそっ、忌々しい。とっとと私の目のつかない所へ行け。魔法使いども! 治癒魔法をこの小娘にかけてやれ! それと誰か、極上のワインと着替えを持ってこい。戦いは終いだ、持ち場へ戻れ!」


 投げやりに言って、アブリィは地べたに胡座をかいた。これまでの気品ある振る舞いからは想像もできない粗野な態度。だが思いの外、様になっている。案外アブリィはこちらが素なのかもしれないなと、ジェイドは思った。


「女王様、落ち着きましたら私どもにお声かけください。今後のお話をしましょう。貴方に許可なく立ち去るような無粋な真似は致しません」


「こんな惨めな私に馬鹿丁寧に接するな。女王を辞めたくなってきたよ」


「それはきっと、ヒスイが許さないでしょう」


「死ぬより辛いことをしてもらう、などと物騒なことを言っておったな。恐ろしい小娘だ」


「強情なところがありますから」


「はっ! 見事に押し通されたよ。私はもう、逆らう気力もない。早く、ベッドで休ませてやれ」


「有難うございます」


「頭は下げるな、ジェイド。感謝しているのは私の方だ」


 アブリィは手をひらひらと振った。早く退室せよ、という合図。

 

「では、失礼します」


 ヒスイの細い体を両腕でしっかりと抱えあげながら、ジェイドは踵を返して歩き出した。それと入れ違いに、フローラがアブリィの許へ。


「フローラさん、何を?」


「ふふっ、アブリィ様と少しご相談を、ね」


 悪戯っぽい笑みを浮かべるフローラ。きっとロクな相談ではないのだろう。興味はあったが、そろそろ腕が痺れてきた。


「これ以上、話を(こじ)らせないでくれよ」


「ご安心を。さ、早くヒスイを連れてお行きなさい」


「うーん、何だろうこの、不安感」


「おい、エンジェライトの娘、私に何の用だ?」


 アブリィの不審な眼差し。するりと膝をついて、フローラは女王ににじり寄った。


「今しがた、逆らう気力はないと、仰いましたわね?」


「あ、あぁ……それが何か?」


「私はヒスイとずっと旅を続けて参りました。ヒスイと私は一心同体、私の言葉は実質、ヒスイの言葉ということです」


「……妙な理屈だな」


「というわけで、貴女は私にも逆らえない。こういう論理が成り立つわけですわ」


「いや、それは違うだろ?」


「ですからっ! 敗れた貴女にはペナルティですわ!」


「なっ!?」


 アブリィに頬をぐいぐい押し付けて、とても下卑た顔で深窓の令嬢は囁いた。


「今夜は、私の言いなりになって頂きます。よろしいですわね? もちろん、痛いことは苦しいことはしませんわ! 気持ちいいことだけ、お約束します。さぁ、さぁー!」


「ちょ、ちょっとフローラさんっ!?」


「おい、変態! 誰か、この色狂いの女をつまみ出せ! うわっ、舐めるな! ひいっ!」


 言うまでもなく公衆の面前である。ジェイドはドン引きしたが、何故か兵士や魔法使い達は拍手喝采。


「アブリィ様……結構恨まれていたのかな」


 やはり力で締め付けるだけではいけないなと、ジェイドはしみじみ思った。

 ちなみに実際には皆、美女同士の戯れのあまりの尊さに歓喜していたのだが。


「戦は我が方の勝利で終わったな。喜べ、蘭丸!」


 ジェイドの肩に、真ん丸とした緑色のモフモフへ戻ったミームゥが飛び乗る。

 

「その姿の君が普通に喋っているのは違和感あるよね」


「我はむしろ精々しておるぞ! さ、奉仕せよ!」


「ええっと、多分なんだけど君は勘違いをしているよね? 僕は残念ながらランマルとかいう人物ではないし」


「お主、それ本気で言っておるのか?」


「うん」


「蘭丸では……ない?」


「違うよ」


「ガァーーーン!!!」


「ガーンって口に出して言う人初めて見たよ」


「信じられぬ……そんな……では蘭丸は? 我の愛しい蘭丸は!?」


 ミームゥはジェイドの肩から転がって地面に落ちた。


「おい、ミームゥ! 大丈夫かい?」


「口惜しや……我の蘭丸と始めるイチャラブ異世界ライフは夢幻のごとくなりや……しくしく」


「アブリィ様ぁ~!! レロレロレロ!!」


 ジェイドには理解の及ばない理由でさめざめと泣く緑色のモフモフ。

 女王の全身に舌を這わせて変な声を上げている欲望に忠実な令嬢。


「……変態しかいないじゃないか」


 ジェイドは肩をすくめ、ため息を漏らした。この調子では彼とヒスイの平和な日常はまだ、当分先のことになりそうだ。






 その日、多くの者が大空を華麗に舞う金色の鳳凰の姿を目撃した。

 占い師たちはこれを吉報を捉え喧伝し、農民たちは今年の豊作を確信した。商人は旅路の安全を祈り、兵士たちは戦の勝利を願掛けした。

 鳳凰は力強く羽ばたき、やがて空を高く、高く上昇していった。雲海を抜け、その先の濃紺の更に先へ、ヒスイの放った鳳凰は飛翔した。

 

 無限の星々の光が瞬く天へ。





 今、この世界は変革の時を迎えようとしている。


 アブリィはそう言った。女王は全てのエレメントを修めた先にある“時間”という概念を朧げに掴もうとする寸前だった。だから、具体的な未来は見えずともその予感を抱くことは出来たのだ。


 かつて、魔王エヴァーランドはヒスイとジェイドの行く道の先に幸福な世界を垣間見た。未来視が指し示した場所へ向かう二人の若者の物語はまだ、始まったばかり。


 今日という日は揺籃(ようらん)期の、ほんの1ページめ。

 生まれ変わろうとする世界がまさに、産声を上げた日。


 

 鳳凰は祝福した。新時代を切り開く聖者の誕生を。





 ヒスイ・イシヅキは夢を見ていた。とても幸福な夢。


 ジェイドが隣にいて、エヴァが小川の向こうから微笑みかけてくれていた。


「よく頑張ったわね、ヒスイ」


「師匠、ありがとうございます。私は師匠の教えがあったから、ここまで来られました」


「いいえ、ヒスイ。全てはあなたが成し遂げたこと。これからも、あなたは直感を信じ、真っすぐに進みなさい。大切な者達と共に」


 色とりどりの花が咲き乱れている。春のうららかな日差しに包まれた、鮮やかで温かな川のほとり。でもきっと、向こう岸へは渡れない。

 

「ヒスイ、私の最後の教え子よ……強く生きなさい。そして世界を、私がめちゃくちゃにしてしまった世界の後始末を……頼みましたよ」


 エヴァが言った。


 ふいに、ヒスイは落涙していた。

 悲しかったのじゃない。

 久しぶりにエヴァに会えてうれしかったからでもない。


 何の涙なのだろう。

 

 それは、


 これはきっと、決別の涙。


 過去を乗り越え、最愛の者と再び出会い、これから始まる新たな旅路の為の惜別の雫。


 人の悲しみは川となり、やがて大地を潤すのかもしれない。時に荒れ狂い、時に土壌を育み、そして誰もが等しくそこへ帰ってゆく。


 風が吹いた。


 花びらが一斉に空へ舞った。


 世界を、白き輝きが満たしてゆく。


 風が強く吹いた。


 目覚めの時を告げる風だった。


 ヒスイの意識が上昇してゆく。


 夢の時間はもう終わる。


 ジェイドがきっと待っているだろう。どんな顔をしているのかな。ヒスイは思った。ジェイドのことを。目が覚めてジェイドがそこにいたら、きっとこう言うだろう。ずっと言いたかった言葉。言いそびれてきた言葉。


 ジェイド、どうか━━


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