21.怒りの炎
「今、この世界は変革の時を迎えようとしている」
都市国家マノーの象徴、只の個人でありながら周辺を取り囲む列強国に対する抑止力足り得る存在、女王アブリィ・イクリプス。家柄ではなく、魔法使いとしての力量のみで王の座に君臨する彼女は、その極度に肥大した自我をも他者に納得させるほどの政治的辣腕と、魔法の実力と、何よりも美貌を備えていた。
玉座に腰かけ、すらりとした脚を組み、頬杖をつきながら空いた手でワイングラスを傾けている。そんな何気ない仕草でも絵になる。現実のものとは思えぬ造形美ながら、圧倒的実在感をも併せ持つ女傑。彼女の言葉には、人を惹きつけ有無を言わさぬ迫力がある。
この場にいるのはヒスイ、ジェイド、ミームゥ、フローラ、彼女らを取り囲む無数の兵と魔法使い。これはまるで為政者の演説だ。
「魔王が勇者により討伐されてから、早数十年。荒廃した土地を奪い合う国家間の醜い争いは今も絶えることなく続いている。人が人を殺し、憎しみは連鎖し、復讐が復讐を呼ぶ。皮肉なことに魔王軍と戦争をしていた時、人々の想いは一つに結ばれていた。侵略者を討ち滅ぼし、この世界に再び平和をもたらすこと、それだけを願っていたはずだ。だが共通の敵がいなくなって、人間は暴力を振るう先を見失ってしまった。命を、財産を守る為という建前のもと、殺意を、刃を、狩猟民族生来の攻撃性の矛先を向ける対象を喪失したのだ。故に戦争は止まない。本質的に人間という生き物は愚かだ」
淀みなくアブリィの口から転び出る言葉。ワイングラスを掲げ、ステンドグラス越しに投げかけられる七色の日光が液体を透過するのを女王は目を細めて眺めている。
「どんな種族よりも高い知能を持つが故、人の欲は底知れない。他者と調和せず、あくまで我欲を徹すことだけをいつも考えている。生活圏を拡大し自然を荒らし他者の領土を破壊し、魔法をも使って、この世の全てを統制下におけるなどと本気で信じている。実に滑稽だ」
グラスの底に残った紫色の液体を喉を鳴らして飲み干してから、女王は唇の端に残った雫を、舌で絡め取った。
「そして、その滑稽の最たる者がこの私だ。私こそ、この世界で最も俗欲にまみれし人間だ。この掌中に全てを掴めると確信している。我が最強の魔法と、精強なる軍隊とで、ゆくゆくは地図上の全ての国家を呑み込んでみせよう。さすれば戦乱の世は終わる。このアブリィ・イクリプスが世界を平等にし、新たなる神として君臨するのだ」
アブリィの空になったグラスへ、執事の男が再びワインを注いでゆく。
「世界を満たすのはこの私。だが、世界を平定するだけでは我が心は満たされぬ。足りないものがあるからだ。ジェイドよ、こちらへ」
「ねぇ」
ヒスイは隣に立つ幼馴染の横顔へ、呼びかける。決意を秘めたような澄んだ瞳。
「ヒスイ、大丈夫だよ。何も心配はいらない。それよりも、彼を頼む」
そう言ってジェイドはミームゥをヒスイへと手渡した。ヒスイが差し出した両手の上に、モフモフとした感触が載った。
「女王様がお呼びだ」
一瞬、ヒスイとジェイドの視線が交差した。とても精悍な顔つきをしていた。ジェイドの相貌はアブリィにもまったくひけを取らない。美しく、芯がある。長髪がさらりと揺れて、ヒスイの頬を撫でて過ぎた。
ジェイドが歩いてゆく。玉座へと続くゆるやかな階段を一歩ずつ、踏み締めて上る。
アブリィは安楽椅子から立ち上がり、グラスを執事へ手渡した。
「セバス、下がって良いぞ」
執事は軽くお辞儀をしてからジェイドと入れ違うように階段を下りて行った。やがてアブリィとジェイドは正対し、降り注ぐ虹色の中で見つめ合った。
「やはり、お前が最もふさわしい。この私と共に歩む者として、適任だ」
「その評価は、私の容姿に対してですか?」
「顔はもちろん重要だ。しかしそれだけではない。ジェイドよ、私は一代で国を成し、これから益々勢力を拡大せんとしている。当然、覇道の道半ばで私の寿命は尽きるであろう。その時は次代の王に我が道を継がせなくてはならん。このアブリィ・イクリプスの器に匹敵する子が必要なのだ」
アブリィの細腕がジェイドに絡み付く。腰をさすり、臍から正中線を指先でなぞりながら喉を、顎を、頬を、唇を。
「世界帝国の王家には、絶対的な美貌と才能の両方が要る。ジェイドよ、だから私はお前が欲しいと言っているのだ。女王に並び立つほどの器は、この世界中を探してもそうは出会えるものではない。お前を一目見た時から、私は決めていた。必ず手に入れるとな」
「私の自由意思は、尊重してくれないのですか」
「甘いことを。この世は弱肉強食、この理から逃れたくば、力を持つしかないぞジェイド」
アブリィの掌はさかんに蠢き、ジェイドの顔を撫でまわしている。少しずつ、女王の呼吸が荒くなってきているのが分かった。
「私とて悪魔ではない。お前がその一生を私に捧げ忠義を尽くすと誓ってくれれば、他の者達は解放してやる」
「それは、本当ですか? つい先ほどまで貴女は、ヒスイ達を殺そうとしていたのではありませんか?」
「あぁ、その通りだ。私は邪魔者には退場してもらおうと考えていた。しかし気が変わった。お前の愛する者達が生き残る道を、示してやる」
距離を詰め、アブリィはその身をジェイドに預けた。するりと両手がジェイドの首元に伸びて、軽く絞めた。呼吸が苦しくなるほどではない。喉元を掴んでいる、という程度。
「今、この場で、私を抱け」
「……仰る意味がわかりかねます」
「そのままの意味だ、色男よ。あの小娘の見ている前で、私と目合れ。お前の種を私にくれ。そうすれば、奴らの命は保証しよう」
じわりとアブリィの手に力がこもる。ジェイドは加えられる力に抵抗しようとしたが抗えない。魔力による肉体強化が成されている。ゆっくりと、頭が下がってゆく。
「この私の伴侶となれるのだぞ。お前にとっても幸福であろうが。まさか女を知らぬわけではあるまい? それとも……抱くよりも抱かれる方が好みか?」
「アブリィ様、その辺で止しておいた方が良いでしょう」
唇が触れ合う寸前で、ジェイドは言った。
「……どうした?」
「お怪我をされますよ」
「お前がこの私に危害を加えるとでも言うのか? 魔法でこのアブリィに勝ると?」
「いえ、私ではありません。とても怒っている子がいます」
パキッ
火の粉が爆ぜる、音。
アブリィがジェイドから離れ、艶然としながら振り向く。
「何だお前か、小娘……」
ヒスイの瞳に、紅蓮の色が灯っていた。未だかつてないほどの激しい感情が内から湧き出てきて止まらない。攻撃魔法を使うには少なからず敵意を持たなくてはならない。アブリィはその相手としてはこれ以上ないほどにふさわしかった。
端的に言って、ヒスイは怒っていた。あまりに身勝手な女王の振る舞い。ジェイドの気持ちなど一顧だにせず、一方的な要求を無理やり呑ませようとするアブリィに対し、ヒスイは怒る。
「許さない……アブリィ!!」
「いい眼だ、小娘。そういう眼をした人間は、壊し甲斐がある。希望から絶望へと移ろう時の人の表情というのはなかなかどうして儚い風情を持つものよ。が、火の魔法をそこから放てば、最愛の男をも巻き添えにすることになるぞ。ジェイド諸共、私を黒焦げにしてみるか?」
「ヒスイ、僕のことなら心配はいらない。自分の身くらい自分で守るさ」
その言葉とは裏腹にジェイドには逃走経路は残されていなかった。影の暗幕で逃れようにも、アブリィがジェイドの影に対し影縫いの魔法を掛けている為動けない。同系統の魔法同士は、より魔力の強い方が勝つ。
絶体絶命の状況下でなお、ジェイドは強く笑った。何も怖れてはいなかった。心配など、まるでしなくていい。信頼しているから。心の底から信用していた。
「イメージするんだ、ヒスイ。強い炎を。世界中の人々を一度に満腹にさせられるくらい大きな鍋だ。鍋に火をつけるんだ。みんなを、幸せにする料理を!!」
「余計なことを喋るな!!」
アブリィの魔法使いとしての感覚が告げる。今から、自分にとってよくないことが起こると。ジェイドを沈黙させるべく魔法を撃とうとしたアブリィはしかし、それを思いとどまることになった。
パチッ
パチッ
大気の温度が、急上昇した。ヒスイが天に向かって掲げる両手の先、太陽のように燃え盛る巨大な火球が姿を現したのだ。
ヒスイの髪が溢れ出る魔力の影響で深紅に輝いていた。火球の周囲を飛び回る火の粉は徐々に、小さな蝶の羽を持つ火竜へと変わってゆく。サーマンドラ、炎の精霊。彼らが可視化されるということはそれだけ一帯の魔力濃度が高まっているということ。
「小娘……貴様っ!」
「直感を信じろ!! 撃て、ヒスイッ!!!」
ヒスイもまた、怖れてはいなかった。ジェイドが心配するなと言った。だったら絶対に大丈夫だ。今、為すべきことは……これだけ。
アブリィ・イクリプスを倒す。そしてジェイドと、みんなで、この先も生き続ける。
火球が膨張した。ヒスイは叫ぶ。
「紅焔爆轟術!!!」
ヒスイが振り下ろした両腕から放たれた巨大な火球が、アブリィを直撃して大爆発を起こす!




