10.ジェイドの苦悩
都市国家マノーの女王アブリィ・イクリプスの玉座へと上る数段の階段の前に傅くジェイド。広大な部屋の中央に敷かれた赤い絨毯。左右の壁面に沿って並べられた美術品の数々。アブリィはロココ調の豪奢なホワイトレース地のドレスに身を包み、まさに支配者然として優雅に足を組み肘掛けに立てた右拳で頬杖をついていた。
「進捗状況を聞かせてもらおう」
底冷えのする眼光、声音も透き通っているが極めて酷薄な印象を与える。
「はい」
ジェイドは面を上げてアブリィを見上げる。この高名な魔法使いは対峙するだけで心の弱い者であれば圧倒してしまう。類稀な美貌、自信に満ち満ちた威容、それらをより引き立たせる魔法使いとしての力量。
「私が考えていたよりもずっと、事態は深刻のようです。兵はロカボ氏のラー麺の魅力に憑りつかれています」
「例の水では間に合わぬか」
「そも、飲んでもらえません。濃厚な味に舌が慣れてしまえば普通のメニューに満足できなくなる。いずれ、あれしか食さなくなるのも時間の問題かと」
「業の深いメニューよの……ラー麺とは」
アブリィはため息をついた。
「アブリィ様も御存じの通り、兵の肥満は深刻です。ロカボ氏には何度か、もっと健康的なラー麺にしてはどうかと進言してみたのですが聞き入れてもらえません。そしてここまで兵に人気が出てしまえば、今更“豚のエサ”を取り上げることは難しいと思います。暴動が起きるかもしれない」
「ふむ……して、毒素の件はいかに?」
「ロカボ氏の目を盗んで“豚のエサ”にユニコーンの角を浸してみましたが何の反応もありませんでした。つまりあれは全て自然の食材で出来ている味ということ。人体に害のある麻薬等は一切使用されていないことを確認いたしました」
「ほぅ……自然食材だけであれほどの中毒性を生み出すのか」
アブリィもジェイドも密かに、ロカボが何らかの薬物をスープに混入させているのではと疑っていた。ユニコーンの角は人体にとって有害な物質にはだいたい反応する。食物に触れさせた瞬間に角が変色するのである。魔法使いはその変化した色から毒物を推定する。今回、“豚のエサ”には一切反応を示さなかった。カロリーの爆弾とも言える“豚のエサ”ではあるがあくまで原材料は全て人体に無害であることが証明されたのだ。ならばあの中毒性はあくまで味のみで成り立っていることになる。それはそれで恐ろしいものだ。
「申し訳ありません。お役に立てず」
「何を言う。まだお前の取り組みは始まったばかりではないか。すぐに結果が出るとは私は考えていない。じっくりと進めてゆくがよい。必要なものがあれば遠慮なく申せ」
「はい、ありがとうございます」
「それと、だ」
アブリィは組んでいた足を解き立ち上がると、階段を下りてジェイドの前までやってきた。身長的にはややジェイドが高いが、人間としての存在感はアブリィが圧倒的だ。至近距離で見つめられると内面を全て覗かれているような錯覚に陥る。
ふいにアブリィはジェイドの外套の襟元を掴んで引き寄せる。鼻先が触れ合うような距離で、アブリィが妖しく微笑んだ。
「いつも気になっていたのだが……変わった服を着ている。赤と金はそれぞれ火属性と光属性を象徴するカラー。水の魔法使いであるお前が身につけるのは似合わぬ」
「……なるほど。私はファッションセンスはあまり」
「いや、女の相が見えるな」
「え?」
顔に出さぬよう注意を払っていたが突然の指摘にジェイドは思わずドキリとした。
「過去の呪縛に囚われているようだな、ジェイド。私にはうっすらと見える。だからお前は他人との関わりを避ける。誰かを傷つけるのではないか、と」
アブリィが襟元から手を離した。
ジェイドは後退しようとしたがそれより早くアブリィの手が彼の両頬を挟んだ。いつそのような動きをしたのかジェイドにはまるで見えなかった。幻術を喰らったかのようだ。
「アブリィ様!?」
「城内には、私がお前を寵愛する事を快く思わない者達もいる。家名も持たぬ下賎の者をなぜ傍に置いておくのかとな。古い考えだ。私はお前の能力を買っている。そしてこの私と並び立つべき美貌を、お前は有している。家名が必要なら私と婚約しイクリプスを名乗るがいい。名など所詮その程度の価値しかない。重要なのは何を成すか、だ」
繊細だが血が通っていないかのように冷たい指先がジェイドの頬を撫で上げた。
「お前は自分を卑下し過ぎている。もっと尊大で良い。つまらぬ古傷をいつまでも気にするな。女が欲しくば、ここにいる。私ならお前をその痛みから永遠に守ってやれるぞ。ジェイド……」
耳朶を唇に含んで甘く噛み、アブリィはジェイドの鼓膜の奥へ囁きかける。
「私のものになるがよい。そして共に覇道を歩もう。悪い話ではないと思うが」
「……検討しておきます」
「退屈な返事だな、色男」
ジェイドの唇を指先でなぞりながら、アブリィは身を引く。
「お前に真の平穏をもたらす者は誰か、よく考えよ。下がって良いぞ」
踵を返してアブリィは告げた。
一礼し、ジェイドは退室する。廊下へ出た瞬間、その場にへたり込みそうになった。女王と謁見するときは毎回そうなのだが、今日はいつも以上の緊張感があった。覚束ない足取りで城内のジェイド専用の個室へ戻った。
夕闇迫る薄暗い室内。ジェイドは安堵を覚えて安楽椅子にどさっと腰をおろした。
待ちわびたかのように緑色のモフモフが飛んできてジェイドの首にマフラーのように巻き付いた。
「みむぅ!」
ミームゥ、土の精霊たるノームに関連していると思われる謎の生き物である。本人も自分がどういう存在なのかよくわかっていないらしい。
「ふぅ……ミームゥ、僕は疲れたよ」
『心が乱れているようだな、ジェイド』
ジェイドの脳内に直接響いてくるミームゥの声。この一見可愛らしい生物は触れている相手にテレパシーを送ることが出来る。つまり会話が可能なのである。しかし肉体的に接触していない相手からすると「みむぅ」と鳴いているようにしか見えない。そのルックスからは信じられない渋みと威厳のあるバリトンボイスがジェイドの頭蓋骨に反響する。この感じは最初は気持ち悪かったものだがもう慣れた。口調はアブリィにとてもよく似ていて、もしかしたらこのミームゥも何らかの高貴な魂が転生したものではないかとジェイドは考えていた。
『あの女の事であろう?』
「うん、そうだね。君には隠し事をしても意味がない。わかっているだろ、僕はヒスイのことが好きなんだ」
『ならそう伝えれば良い』
「簡単に言ってくれるね」
『簡単なことだ。あの女からもお主に対する好意のようなものは感じたぞ。相思相愛であるのに何故離れようとする?』
「僕は、薄汚い人間だからだ」
ジェイドは暖かなミームゥのマフラーをヘッドレスト代わりにして天井を見上げる。様々な思いが交差して、彼の心を揺らしていた。
『お主だけではあるまい。人間は誰もが闇を抱えている。人には言えぬ過去を』
「その通りだけど、あの子は違う。ヒスイを一目見てわかったんだ。あの子は昔のまま、何も変わっていなかった。純粋で、明るくて、闇なんかとは無縁の存在だった。僕はダメだ。この体はもう……おぞましい程の業にまみれているよ」
『だから、あの女に触れられぬと言うわけか。お主がそうしたいというのなら勝手にするがいい。あるいはあの魔女に抱かれてみるのも一興か』
「ははっ……そいつはいい。体を売るのは僕の得意技だからね。ヒスイと離れ離れになったあの日からずっと、僕はそうやって生きてきた。幸い、男娼としての才能はあったから相手には困らなかったしね」
そう言って自虐的に笑うジェイド。その目はまるで笑っていない。天井を睨みながら、思い出したくもない輝かしい過去の風景が脳裏を流れていくのに耐える。ヒスイの笑顔と、その手の温もりを想う。
しかし決して戻れはしない。ヒスイは光属性の魔法に、己は闇に選ばれたのだ。
ヒスイの辿る道の先に自分がいてはいけない。穢らわしいこの身ではもう、あの子に触れる資格はない。
『人間は面倒な生き物だ。どうして素直にやりたいことをやらないのだ。我なら欲しい女がいればすぐさま飛び付くぞ』
「みむむぅ!」
ミームゥが笑う。
「君ほど気楽な身上であれば苦労しない」
『気持ちの問題だ。お主とて根無し草であろう』
「僕は……そうだな、君の言うとおり。素直じゃないだけか。そしてとても臆病なんだ。ヒスイをこの手で抱き締めることは怖い。僕の顔も体も、この手もこの心も……とても汚れたものだと思ってしまうんだ。ヒスイに触れようとしたらきっと、これまで僕が相手をしてきた貴族達の濁った笑みや、された事を鮮明に思い出してしまう。その罪の意識に、耐えられそうに」
そこまでジェイドが言った時、突如、扉が勢いよく開け放たれた。
「ダメっ!フローラってば!!」
「も、もう辛抱たまりませんわっ!! ジェイドさん! いえ、ジェイド様ぁ!! そのお話をもっと、もっと詳しく聞かせて下さらない!? エッチ過ぎますわ!!」
目を血走らせたフローラは制止するヒスイを引き摺りながら鼻息荒くジェイドに迫る! こっそり盗み聞きしていたら妄想がバーストして思わず暴走してしまう深窓の令嬢なのであった! 変態!