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1-1 退屈、路地、鉈

致命的な遅筆と無計画性のせいで死にそう

 平和な日々というものは退屈だ。起きて、身支度をし、仕事場に出て、仕事をし、帰路につき、寝支度をし、寝る。たったそれだけのルーチンワークに何の意味があるというのだろうか。何年も繰り返せば慣れてしまうのかもしれないが、それでも、退屈は僕にとっては耐え難いことだった。だから時折、仕事をサボって、街をぷらぷらと歩き周る。パン屋から小麦の良い匂いが漂うあっちの通りは、いつも通りだった。馬車の大群が通っていくこっちの通りも、やはりいつも通りだった。道端を走る子供も、買い出しに行く婦人も、道を忘れた老人も、何もかもが変わらない。退屈でたまらない。


 だけれども、退屈を覆すような非日常は街を出歩かなければ辿り着くことができない。外に出なければ馬車にかれることが無いように、外を出なければ非日常に出会うこともできない。虎穴こけつに入らずんば虎子こじを得ずというように、危険をおかさなければ非日常には出会えないのだ。だから治安の悪そうな薄暗い路地裏を何度も歩いた。それでも結局、一度として非日常に出会える機会はなかった。


 つまらないから、道の小石を蹴飛ばしながら歩いてみることもあった。だが、小石はぜることもなければ、溶けることもない。小石は小石でしかないのだ。


 だったら、これを誰かにぶつけてみようか。僕は小石を拾い上げた。僕の目の前をやんちゃなガキどもが走っていく。そうだ。これをあいつらにぶつけるだけでいい。そこから非日常が始まるだろう。しかし、それは本当に非日常だろうか。そんな作られた非日常は僕を満たしてくれるだろうか。


 僕はきっと、それくらいの非日常では満足しないだろう。僕は非日常に巻き込まれたい。それだけなのだ。この石を誰かにぶつけるような衝動はきっと非日常ではない。それはあくまで僕の自発的な、変わった日常の形成に過ぎない。


 僕は小石を川に投げ捨てた。ぼちゃんと大きな波が立ち、石は水の中に消えていった。

 今日も僕は退屈に街を歩き周る。僕の退屈を消してくれるような、破滅的な出来事を探しながら。けれども、どこにもそんな気配すらない。


 空は透き通るような青さで僕を照らしていた。そこに流れる雲は一つもない。昨日も一昨日おとといもこんな天気だった。変わらない。何もかも、同じ。つまらないほど、同じ。


 僕は日陰の中を歩き続け、レンガとレンガに挟まれた薄暗い路地の入口に着いた。細い路地は、こんなにも天気が良いというのに真っ暗で、いつの雨露かも分からない水でぬかるんでいた。僕は何のためらいもなくその路地に入っていった。後ろでは型にはまって毎日を送るだけの雑踏が聞こえていた。


 路地裏は妙に湿っているが、それ以外不快な点はない。これは僕個人の意見であり、後ろの雑踏の中からランダムに聞き出せば、十中八九、居心地が悪いと答えるだろう。だが、僕にとってはこういう場所の方が居心地がよかった。何か、僕を退屈から救ってくれるような出来事が起きそうという一点だけで、快不快の判定は快となる。


 こんな心地よい場所は、僕にとってのオアシスだった。変だと思うかもしれないが、それが僕にとっては事実だった。平日のみならず、休日さえも、路地裏にいることは珍しくなくなった。家にいる時間よりも小汚い路地裏にいるほうが、もはや多い。無論、こんなことを僕がしていることは誰も知らない。誰も興味を持たないのだから、どうして自分から明かす必要があるのかと言えば、答えは自明だろう。


 とはいえ、ずっと僕は退屈を殺す素晴らしい刺激に出会えずにいた。今日もそれを求めて徘徊している。心のどこかではわかっているのだろう。そんなものが得られるはずはないと。


 僕はぬかるんだ地面に足跡を付けながら進んでいった。人が通る様子はなく、たまに通るものといえば小さな獣くらいで、奴らも退屈そうに欠伸あくびをして去っていく。どこか遠くで聞こえる雑踏も、この場には関係のないことだった。


 しばらく歩いても日常は変化しなかった。


 少し変わったとすれば、空がくもったことくらいであったが、そんなことはどうでも良かった。どうせ日の当たらない路地裏で、空の様子を気にして何になるだろうか。そんなことよりも頭上の窓から何かが落ちてこないか警戒する方が重要だ。いくら非日常を欲しているからといって、それは決して病院に入院するような経験ではない。それはただ単に変化した日常であり、それは結局、新たなルーチンワークを構成するだけでしかない。それは僕の求める刺激的な非日常ではない。僕は繰り返しを求めない。乱雑さが増大しきった混沌こんとんが欲しいだけだ。整然と並んでいる真っ白の洗濯物のような、素晴らしい秩序なんていらない。


 湿った風がびゅうと吹き抜けた。窓がガタガタと揺れ、いくつかの鉢植えが地面に落ちた。僕は手で頭を守った。幸いというべきか、僕には何も当たることはなかった。僕はほっと胸をなでおろし、レンガに挟まれた空を見た。その狭い空の向こうには分厚い灰色の雲が見えた。


「しまったな。一雨来そうだ」


 僕は足早になった。流石に雨に濡れるのは嫌だった。それに雨が降ると人はいなくなる。当然、路地裏からも。ただでさえ少ない可能性が更に小さくなるのだから、雨は避けるに越したことはない。僕は一直線に帰ろうとした。


 その時、青年が右の角から飛び出した。互いに死角であったので思いっきりぶつかってしまった。僕は辛うじて転ぶことはなかったが、青年の方は跳ね飛んでしまった。僕は青年に手を差し伸べた。そこで僕は初めて気が付いた。青年の顔色が悪いことに。彼が小刻みにふるえるさまは、さながら捕食者におそわれた獣のようで、しかしそれと違うとするならば、転んだきり動こうとはせず、ただじっと自身の滅びる様を見つめているようだった。その証拠に、

僕が手を差し伸べていることさえ気付いていなかったようだ。


「どうしたんだ?」


 青年はその言葉にハッとしたのか、僕を見つめた。追い詰められた獣のような目で僕を見たのだ。そして、何やらもごもごとつぶやいたかと思うと、突然立ち上がり、走り去ろうとした。僕はその手を掴んだ。


「待てよ。何があったんだ?」


 青年は僕を振り切ろうとした。とにかく逃げようとしていた。僕はそれをありったけの力で食い止めた。



 何故かって?



 決まっている。これは僕が初めて出くわすかもしれない非日常の入口への切符だ。逃すわけがない。僕が欲しているものを、青年が知っていると踏んだ。僕は彼から全てを聞き出さなければならない。そして、待ち望んでいた非日常の世界へと足を踏み入れるのだ。


「おい。逃げるな。何があったのか聞かせてくれ」


 この言葉に返事を返したのは青年ではなかった。


「それは私が聞かせてあげる。だから、その手を離さないでね、お兄さん」


 突如として青年の頭上から少女が落ちてきた。いや、上から降りてきたのだ。その体躯たいくには似合わない巨大なナタを携えて。


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