四日目『帰らないよ』
つい、今日も僕はあの丘へ行ってしまった。
もしかしたら、なんて淡い期待を持って。
どれだけ待っても、真白ちゃんは来なかった。
もうこの町にはいないんだろうか。
今頃は飛行機の中……かな。
もう少しちゃんとしたお別れを言えればよかった。
いまさら、そんなことを僕は後悔していた。
「ただいま」
家に帰って、ソファの上に寝転ぶ。
何もする気は起きなかった。
町の散策も、もう興味はなかった。
テレビをつけても、よくわからないサスペンスドラマとか、芸能人カップルが破局したとか、五日間で死ぬあの病気を徹底解明だとか、どうでもいい番組ばかりで全然おもしろくなかった。
「ちょっと雪ちゃん」
台所から母さんが出てきた。
「暇ならお父さんのお見舞い行ってきてよ」
「今日は姉ちゃんの番でしょ?」
「お腹いたいって部屋から出てこないの」
絶対嘘だ。
でも、
「わかった」
家でじっとしているよりはマシだと思ったから、母さんから父さんの着替えの入った鞄を受け取って、僕は家を出た。
病院は家からそんなに遠くない。
でも歩いていくにはちょっとだけ疲れる距離だった。
だから姉ちゃんは父さんのお見舞いに行きたがらない。
ダイエットしなきゃとか言ってるくせに、外に出ずに食っちゃ寝してる姉ちゃんの思考回路が僕にはよくわからない。
病院の自動ドアをくぐると、独特なピリピリした空気が僕を包んだ。
何度きても、これには慣れないと思う。
難しそうな顔して走り回ってる看護師の人とか、醒めた目で歩いてる医者とか、嫌な感じがした。
階段を昇って、父さんの病室があるフロアに出た。
角を曲がろうとしたとき、僕は出会いがしらに女の子とぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい」
バサバサと女の子がお菓子の袋を落とした。
慌ててかがんで、僕はそれを拾っていく。
「えっ?」
女の子が小さく声をあげた。
見上げると、惚けたように虚ろな目で僕を見下ろしていた。
僕もたぶん、同じような顔をしていたと思う。
僕と目があった瞬間、女の子は顔を隠すように、かぶっていたニット帽を両手で引っ張った。
見たことがない子だった。
でもたぶん僕は……この子を知っていた。
「真白……ちゃん?」
名前を呼ばれてビクリと体を震わせて、真白ちゃんは僕に背を向けて逃げ出した。
「待って……待ってよ!」
咄嗟に追いかけた。
僕から逃げた理由なんて考えもしなかった。
なんでここにいるの?
引っ越すんじゃなかったの?
聞きたいことが一杯あった。
だから僕は、彼女の気持ちを思いやりもせず、ただ追いかけた。
階段を昇って、廊下を走って、真白ちゃんはある病室に飛び込んだ。
その病室の扉に、僕は手をかけた。
「入るよ?」
返事はなかったけど、僕は扉に力をこめた。
鍵はかかっていなかった。
そんなに広くはない部屋に、ベッドが一つだけ置かれていた。
真白ちゃんはそのベッドの上で毛布をかぶって、うずくまっていた。
「父さんのお見舞いにきたんだけど……真白ちゃんがいてびっくりした」
喋りかけても、答えてはくれなかった。
どうしていいかわからなくて、僕は病室の入り口で立ち尽くしていた。
「これ……さっき落としたお菓子」
近くにあった棚に、それを置いた。
何が真白ちゃんを傷つけたのか、僕にはさっぱりわからなかった。
それでもなんとか話そうとして、必死に話題を探してやっと出た言葉は、あまりにも無神経だったと思う。
「病気……なの?」
真白ちゃんがゆっくりと身を起こして、僕を見た。
いや、見たというよりは、睨むような強い目線で。
そして、いつもかぶっていたニット帽をゆっくりと脱いだ。
「……見られたくなかったのに」
言葉が出なかった。
真白ちゃんの髪の毛が、すっかり抜け落ちていた。
「今日で四日目なんだ」
そこで僕はようやく理解した。
真白ちゃんの瞳が青い理由。
会うたびに雰囲気が変わっていた理由。
僕が初めて真白ちゃんに会ったあの日。
真白ちゃんは、あの時すでに発症してたんだ。
考えもしなかった。
毎日の真白ちゃんの変化に気付いていたのに、適当な理由をつけてごまかしていた。
たまに見せた沈んだ顔の理由も、嫌われたんじゃないかって、僕は自分のことしか考えていなかった。
『真白ちゃんは日本人なの?』
『もっと洋風な名前想像してた』
あの時、僕は無神経に、何も考えず、僕は……。
「なんできちゃったの……?」
瞳がかすかに潤んだ。
きれいな真白ちゃんの顔。
でも初めて会った時とも、二回目も、昨日とも、その顔はどこか違っていた。
僕の知ってる真白ちゃんじゃなかった。
四日目?
じゃあ、じゃあ明日……真白ちゃんは?
「帰って」
今にも涙がこぼれそうな目で僕を睨みながら、真白ちゃんがそう言った。
僕の頭の中はグラグラと揺れて、足が震えて、手が痺れるように痛くて、本当はそうしたかった。
でも、しちゃいけないと思った。
「帰らないよ」
「帰って!」
ヒステリックに、叫んだ。
ボロボロと涙をこぼして、ギュッと毛布を握って。
「見られたくなかったのに! だから昨日バイバイって言ったのに! なんで来たの!? 帰って! 帰ってよ!」
握った手の甲で涙を拭きながら、真白ちゃんは鬱積したものを吐き出すように叫び続けた。
「帰ってって言ってるじゃない! 一回キスしたくらいでいい気にならないでよ! 帰れ! 帰ってぇ!」
枕を僕に投げた。
避けることもできたはずなのに、僕はそこから動けなかった。
「こんなの……私じゃない。……お願い見ないで……帰ってぇ……!」
毛布に顔をうずめて、真白ちゃんは声をあげながら泣き出した。
真白ちゃんの気持ちとか、ここでとるべき最善の行動とか、僕にはわからない。
だから僕は、自分の感情に従うことしかできなかった。
「いい気になって悪いか」
拾い上げた枕を、僕は床に叩き付けた。
「いい気になって悪いか! 初めてだったんだ! 昨日だってそのことばっかり考えてて中々眠れなかった!」
思えば、こんな風に誰かに怒鳴り散らしたことなんて、生まれて初めてだったと思う。
「ごっこ遊びだけど結婚式もあげた! 僕は真白ちゃんの旦那さんで! 真白ちゃんは僕のお嫁さんなんだ! お嫁さんの側にいたいと思って悪いか!」
自分でも何を言っているかはわからなかった。
言い終わるころにはすっかり息が切れて、肩が上下に揺れていた。
「手だして」
「え?」
驚いたように目を見開いて僕を見ていた真白ちゃんに、近づく。
「手!」
「う、うん」
ビクッと体を痙攣させて、恐る恐る小さな手を僕へと差し出した。
手袋をはいてない手をみるのは、初めてだった。
僕はポケットに手を突っ込んで、ずっとそこに入ったままだったあれを取り出して、真白ちゃんの手のひらにそっと乗せた。
「昨日、買ったんだ」
薬指にはめるなんてキザなことは、できなかった。
「別に渡せるなんて思ってなかったけど、なんとなく買っちゃったんだ」
千円札三枚でお釣りがくる、安物の指輪。
「あげる」
「で、でも」
プレゼントだなんていうにはおこがましい、ちゃちな指輪。
でも、僕の精一杯の気持ちがこもっていた。
「あげるから」
真白ちゃんはじっとそれを見つめて、胸元で大事そうに両手で包み込んだ。
「うん」
それから少しだけ、話をした。
朝起きて自分の目が青くなっていたとき、どれだけ絶望したか。
お医者さんのお父さんが絶対治してみせると入院させたけど、手の施しようがなくて、朝起きるたびに顔が変わって、体型も少しずつ変わっていって、それがどれほど怖かったか。
「特に今日の朝、髪の毛が全部抜けちゃったのはショックだったなぁ」
惜しむように、笑った。
それと、一番怖かったことを話してくれた。
僕に病気のことを知られてしまうことだと、真白ちゃんは言った。
「本当はね。昨日会うつもりはなかったんだ」
三日目の朝、真白ちゃんの顔に明らかな変化が現われた。
でもどうしてもお別れだけは言いたくて、お母さんに生まれて初めての化粧をしてもらって、なんとかごまかして、僕に会いに来てくれた。
「化粧してる? って聞かれたとき、気付いちゃったかなってドキドキしてた」
そういって、ちょっとだけはにかんだ。
僕を想ってくれていることがわかって、うれしかった。
もう少し僕の勘がするどかったら、僕に思いやりがあれば。
そう考えてしまうのは今となっては無意味だけど、もしそうだったなら、もっと早く、こんな風にお互い素直な気持ちで接することができたかもしれないのに。
真白ちゃんの不安を知ってようやく、僕は真白ちゃんそのものに触れることができた気がした。
でもそれは、あまりにも遅すぎた。
「お父さんのお見舞いにいかなくていいの?」
「あ、そっか」
「お父さん、きっと待ってるよ」
「うん」
ゆっくりと、真白ちゃんが用意してくれた椅子から腰をあげた。
「また明日も来ていい?」
「いいよ」
ニッコリと笑ってくれた。
「またね」
僕は病室から出て行った。
僕たちの最後の明日の約束をして。
父さんは、退屈そうにベッドの上で横になっていた。
病室に入ってきた僕を見て、その顔を輝かせる。
「どうした?」
そして、僕の様子をみて首をかしげた。
「これ、着替え」
父さんに鞄を渡して、僕は背を向けた。
「おいおいおい、もう帰るのか? 少しゆっくりしていけ」
腕を掴まれて仕方なく、僕はベッドの脇にあった椅子に腰かけた。
「元気ないな」
「別に」
何も話す気にはならなかった。
「なにかあったか?」
それでも父さんは、しつこく僕から話を聞きだそうとした。
観念して、話すことにした。
「遺伝子治療の副作用、知ってる?」
「ああ、最近よく聞くな。お前は遺伝子治療なんて受けてないから安心しろ。うちにそんなお金ないからな」
何がおかしいのか、大声で笑う。
「僕じゃないよ」
「友達か?」
頷く。
「この前知り合って毎日一緒にいたのに、今日知ったんだ。もう四日目だって、明日で消えちゃうんだって。明日もお見舞いにいくって約束したけど、どうしていいのかわからない」
「そうか」
父さんが小さく、息を吐いた。
「女の子か?」
「なんで」
「なんとなくだ」
父さんが得意げに笑った。
「好きなのか?」
「わからない」
「そうか」
父さんのゴツゴツした手が、僕の頭を乱暴に撫でた。
「つらいな」
「……うん」
いつもなら鬱陶しいって思うのに、父さんの大きな手が、今は何故か不快じゃなかった。




