一日目『また明日ね』
新雪を踏みしめると足首のあたりまで靴が沈んでいった。
眼前には空まで伸びる真っ白い坂道。振り向くと僕の足跡だけが綺麗に残っていた。
こっちに引っ越してきて二週間がたった。
すぐ冬休みに入ってしまって、学校には五日間しか行っていない。
手続きは済ませたものの、本当は区切りのいい新学期からの転校になるはずだった。
だけど長い長い冬休みを一人で過ごすのは寂しくて、無理を言って引越ししてすぐに学校へ通わせてもらった。
口下手な僕が、たった五日間で遊びに誘ってもらえるほどクラスメイトと仲良くなれるはずなんてなかったのに。
僕の甘すぎる目論見は見事に砕け散った。
足をとられないように、一歩一歩足場を確認しながら、ゆっくりと坂を登っていく。
少しずつ町が小さくなっていった。
まだまだ続く冬休み。
やることがない僕は、新しい故郷を散策しつくすことに決めた。
前を見ても後ろを見ても、右も左も雪景色。
姉ちゃんはこの町を「つまらなさそう」と言った。
母さんは「雪のせいで自転車で買い物にいけない」と腹を立てていた。
父さんは雪道の運転に慣れていなくせに調子になんてのるから、ここに来て三日目に病院送りになった。
病室で「ここは呪われた土地だ」なんてうわ言のように呟いてる。
みんなこの町が好きじゃないみたいだった。
でも僕にとって、この尋常じゃない雪の量は衝撃で、感動的で、美しくて。
前に住んでいたところは雪が降ってもこんなに積もることはなかったから、靴越しに伝わる雪を踏む感触も、雪を纏うひりつくような風の冷たさも、全てが新鮮だった。
だから今は、一人が苦じゃなかった。
歩いてるだけで楽しかった。
「雪を見るだけでそんなにテンション上がるなんて、ガキね」
昨日、姉ちゃんが呆れたように僕にこう言った。
十四歳なんだからガキで当然だろって言い返したら履いていたスリッパで頭を叩かれた。
大人ぶってないで僕みたいに楽しんだらいいじゃないか。これ以上ひどい目にあいたくはなかったから、その言葉は喉元で飲み込んだ。
最後の一歩を踏み出す。
なんとなく登り始めた小高い丘へと続く坂道。
さして急でもなく長くもないその坂を、僕は十五分かけてようやく登りきった。
「あれ、なんだろう」
丘の頂上には球と長方形が合体したような不思議な建物と、小さな鐘をぶら下げた白いアーチが建っていた。
なにもないと思っていたから、これはうれしい誤算だ。
ガラス張りになっている部分から建物を覗いてみる。
中が暗くて、どういった施設なのかはわからなかった。
アーチに近づいて見上げる。
僕の二倍くらいの高さに鐘があって、そこから長い鎖が伸びていた。
鐘のある街なんて、なんだかロマンチックだと思う。
鳴らしてみようかな。
そう思って手を伸ばしてみたけれど、小心者の僕はそのまま頭を掻いてポケットに手を突っ込んだ。
視線を前に向ける。鐘の先は展望台になっていた。
アーチをくぐってそっちの方へ行ってみる。
「うわぁ」
町が一望できた。
今まで見たこともない美しい白銀の世界。
夜になったら町の明かりでもっと綺麗になるんだろうな。
そうだ。
今度、母さんと姉ちゃんと一緒に来てみよう。
この景色を見たら少しは機嫌をなおしてくれるかもしれない。
うん、きっと――
「わっ!」
ぼんやりと景色を眺めていると背後で突然、甲高い鐘の音が鳴り響いた。
その不意打ちに驚いた僕は足を滑らせて、背中から雪の上に落ちていった。
「痛――」
――くはなかった。ただ背中が冷たかった。
「ごめんなさい。大丈夫?」
仰向けに倒れた僕の眼前に、唐突に女の子の顔が現われた。
暖かそうなニットの帽子。そこから伸びるふわふわにウェーブした柔らかそうな髪。吸い込まれそうな青い瞳。言葉を失ってしまうほど、可愛い子だった。
「だ、大丈夫?」
「う、うん」
不自然なほど素早い動きで立ち上がって、ぎこちない手つきで服についた雪を払った。
なぜだか急に、ここにいることが恥ずかしくなった。
「よかった」
女の子がニッコリと微笑む。
たぶん、僕の顔はゆでダコみたいに真っ赤になっていると思う。
「前からあの鐘、鳴らしてみたかったの。あんなに大きい音でるんだね。私もびっくりしちゃった。ごめんね」
「ううん、僕も鳴らそうと思ってたから、聞けてよかった」
女の子は驚いたように目を見開いて、手袋をはいた手を口に当てて声を出して笑った。
「変な人だねぇ」
「そ、そう?」
照れくさくなって、後頭部を掻く。
そんなにおかしいことを言ったつもりはなかった。
横目でちらりと彼女を見ると、たまに苦しそうに息を吸いながら、まだ笑っていた。
たぶん……同い年くらい。
外国の人だと思うけど、それにしては日本語がすごく上手だと思う。
ずっと日本に住んでいるのかな?
「どうかした?」
じっと彼女を見つめていた自分に気付いて、慌てて目をそらす。
「ご、ごめん」
「なんで謝るの?」
また、おかしそうに笑う。
あんまり女の子と接したことのない僕は、こういうときどんな顔をすればいいのか、どういう話をすればいいのか、さっぱりわからなかった。
「あなたも鳴らしてみる?」
女の子はアーチに駆け寄って鎖を握った。
空いた手でおいでおいで、と僕に向かって手招きをする。
「でも、いいのかな」
「大丈夫だよ。私が鳴らしても怒られなかったし」
「それも、そっか」
手渡された鎖をそっと引いてみる。
小さく揺れて、控えめな鐘の音があたりに響いた。
「さっきより音小さいね」
「性格が出たのかも」
「それは私が乱暴ってこと?」
「え? いや……えっと」
「うそうそ。でも」
ほうっと、息を吐く。
彼女の口の周りを白い粒子がきらきらと舞った。
「綺麗な音だね」
「うん」
二人で鐘を見上げながら、その音にじっと耳を傾ける。
余韻を残しながら、鐘の音は消えていった。
そして、沈黙が僕らを包んだ。
何を、話せばいいんだろう。
どこに住んでいるの?
趣味は?
好きな食べ物は?
「よいしょっと」
上を見たまま硬直していると、彼女は足元の雪を手で払って、アーチの土台に腰をおろした。
「少し、話そうよ。いいですか?」
座ったまま手を動かして、自分の隣の雪も払っていく。
「うん」
「どうぞ」
言われるまま、彼女が作ってくれたスペースに僕も腰かける。
お尻にひんやりとした冷たさが伝わってくる。
彼女が座りなおしたとき少しだけ肩と肩が触れ合って、僕の心臓がドキリと跳ねた。
「ここにはよく来るの?」
「初めて。引っ越してきたばかりだから」
「わー、そうなんだ! 前はどこに住んでたの?」
「名古屋」
「名古屋? んー。エビフリャアの街?」
「当たってるけど……実は誰もエビフライのことエビフリャアなんて言わないんだ」
「えー! ショック……」
とりとめもない会話が続いた。
もっとも僕は緊張であまり喋れなくて、ほとんど彼女が喋っていた。
自分の人見知りを、これほど情けないと思ったのは初めてだった。
「この町、つまらないでしょ?」
「そんなことないよ」
「うそっ」
信じられないといった表情で僕を見る。
「田んぼだらけだし、何にもないよ。服買いにいくのだって、電車で一時間だし。ありえないよ」
「でも、ここからの景色は綺麗だよ」
「うぅん」
僕から視線を外して、まっすぐ前を見る。
「うん。私もそう思う」
小さく、微笑む。
全身が金縛りにあったような、そんな感覚。
彼女のその顔が本当に可愛くて、きれいで、魅力的で、とても直視できなくて、僕は慌てて首を百八十度捻ってそっぽを向いた。
このまま見ていたら、口から心臓が飛び出して死んでしまいそうだった。
「あれ」
そらした視線の先に、男の人が立っていた。
こっちをじっと見ている。
スーツ姿で眼鏡をかけていて、知的そうな人だった。
「あー」
彼女も気付いて、声をあげる。
「お父さん?」
「うん」
立ち上がりながら僕の問いに頷いた。
「私もういかなきゃ」
お尻についた雪を両手で払って、申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんね。つき合わせちゃって」
「ううん。楽しかった」
「じゃあ、ね」
胸元でゆっくりと手を振る。
僕も無言で振り返した。
どこに住んでいるの?
趣味は?
好きな食べ物は?
結局、なにも聞けなかった。
手を振りながら見つめる。
少しずつ、彼女の背中が小さくなっていった。
「あ、あの!」
気付くと僕は立ち上がって、彼女を呼び止めていた。
「あの! 僕まだ友達いなくて……その、ずっと暇で! また明日もここに来ると思うから……えっと、その……」
どんどん声が小さくなっていく。
たぶん僕の顔は日本代表のユニフォームみたいに真っ青になってると思う。
勢いに任せてとんでもないことをしてしまった。
今すぐ逃げ出したくなるくらい恥ずかしかった。
あんな可愛い子が、僕なんかに興味持ってくれるわけないのに。
でも彼女はニッコリと笑って、こう言ってくれたんだ。
「また明日ね!」
手袋をはいた手を大きく振ってくれた。
僕もそれにこたえるように精一杯に手を振った。
姿が見えなくなるまで振り続けた。
たまに振り返って、彼女も手を振ってくれた。
また明日ね。
なんでもない言葉なのに、なにか強力な魔法がかかったみたいに頭の中をグルグルとまわって、僕を幸せな気分にしてくれた。
「ただいまー」
家に戻ると、ちょうど二階から降りてきた姉ちゃんと玄関で鉢合わせた。
「なによあんた」
じとっと僕を見つめる。
「ニヤニヤして、気持ちワルッ」
「うるさいな」
口を手で隠して、居間へ逃げ込んだ。
そんなつもりはなかった。
唇をギュッと引き締める。
……気をつけよう。
ソファに座って、リモコンでテレビをつける。
『あんちゃん! ……俺、コユ――』
『発症後五日間で死に至ると言う』
『いけー! マグナーム!!』
チャンネルを回していく。
再放送のドラマ。
ワイドショー。
子供向けのアニメ。
おもしろそうな番組はやっていなかった。
テレビを消してソファに寝転がる。
可愛い子だった。
本当に。
ぼうっと頭に彼女の顔を思い描いていく。
それだけで、僕の胸は高鳴った。
「そういえば……名前聞いていなかったな……」
ポツリと呟く。
「誰の?」
予想外の返事に、僕は飛び起きた。
……姉ちゃんがいた。
「誰でもいいだろ!」
居間を飛び出して、騒々しい音を立てながら階段を上がっていく。
会いたい。
早く会いたい。
まだ日も暮れていないのに、そんなことばかり考えていた。
こんなにも明日が楽しみなのは、初めてだった。