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◇妹分の手紙




 半ば無理やりリサキを追い払ってから、川のそばまでやってきた。もちろん釣り用具一式は携えたままだ。

 森の中は神秘的な空気に包まれている。鳥の啼き声が、透明で澄み切った空気の中に響き渡り、肌がざわざわするのを感じる。空高くまで伸びた樺の木の間隙からは、太陽の光が燦々と漏れ出していた。

 川の片端は、沿岸の土の一部を削るような形になっており、パティナが立っているのはその反対側だ。丸い石が無数に敷かれた川原になっていて、足場ががたつき、裸足では足の裏が刺激されて痛い。サンダルでも履いてくればよかったかと後悔したのも一瞬のことで、痛さにもすぐに慣れて、これはこれで悪くないか、と思う。

 川の流れは決して遅くはなかったが、せせらぎは耳にするだけで心地よい。流れていく水は透き通るような美しさで、上から覗いても川底がはっきり見えた。川底には、敷き詰められた茶色や黄土色の石が転がっている。背びれが緑っぽい色の魚が数匹連れ立って泳いでいるのも向こうに見えた。

 苔むした大きな石の上に腰掛けて、釣り道具一式を河原に置く。釣りを始める前に、森に満たされた空気を胸の中いっぱいに吸い込んで深呼吸する。先程までのイライラが、少しずつじわじわ解消されていくような気がする。静謐な空気に肺の中が満たされていく心地よさに目を瞑る。このまま森の中に溶けて、自身もこの自然と一体となる、気がした。



 だが、さて釣りを始めようと釣竿を持ち上げたその時、重大なことに気付いた。竿から繋がる釣り糸――正しくは釣り糸に取り付けられた、ウキのその先――が途切れていて、無くなっていたのだ。本来ならこのウキの先にも釣り糸が繋がり、釣り針と錘があるはずだった。何かおかしいと思ってよく調べてみると、手作りの木製ウキの一部が欠けていて、鋭利な破損跡が出来上がっていた。どうやらこの尖った部分に釣り糸が引っかかり、切れてしまったらしい。

 洞穴で見たときは残っていたので、ここに来るまでに森の中で落としてしまったのだろう。錘はともかく、釣り針はごくごく小さいもので、来た道を戻って探すとのは現実的と言えそうにない。


「……ちっ」


 釣り用具入れの中を調べてみたところ、釣り糸やウキ、それに錘の替えはあるものの、釣り針の替えだけがない。ちょうど無くしてしまったものが最後の一つだったらしい。

 釣り針がないのでは、釣りができない。パティナはため息をついて、川原に釣竿を投げ出した。カランカランと渇いた音を立てて、よくしなる木の枝を削って作った釣竿が、虚しく石の原に転がる。

 釣竿と同じように、最初は釣り針も自分で作っていたが、自分の手先が不器用だったせいもあって、不細工な釣り針では全く獲物が釣れなかった。なので釣り針はいつもリサキに頼み、手に入れていた。替えがないと分かっていたなら、さっきリサキに新しいものを頼んでおけばよかった、と後悔する。

 釣り針の配達を頼もうにも、次にリサキがやってくるのがいつかは分からない。今までの傾向を見るに、最低でも一週間に一度は顔を覗かせるが、何にせよ釣り針が自分の手元に来るまで、長い時間がかかることは明白だ。その間中ずっと釣りが出来ないというのは、あまりにも面白くない。パティナは両手で顔を抑え、どうにもならない悔しさを漏らすように、声にならない声を上げた。せっかく気分転換をしに来たのに、とため息をつく。



「いや」


 釣りが出来なくとも、この場所が神聖な雰囲気の気の落ち着く場所だということに変わりはない。動く気力も起きなかったし、ここまで来たこと自体が時間の無駄に思えたのが悔しかったので、このままここで時間を潰すことにする。

 荒んだ精神を落ち着けるために、大きく息を吸いこんで吐き出した。雑念が払われて、頭の中が川のせせらぎで満たされる。静かになっていく自分の世界。川の上空から降り注ぐ陽の光、ひんやりとした空気が肌を包んだ。

 釣りは出来ない。釣りは出来ないが、他のことなら出来る――。

 目線を落として静寂を味わう。川の流れ全体がここから見渡せた。川底に転がった岩の隙間から、小さな蟹がひょっこり姿を現した。魚が水面に波紋を起こしながら、悠々と川の中を泳いでいる。

 釣りが出来なかったことを忘れようと、他のことを考える。苛立たないことを考えようと、いろいろ思案したところで、ふとリサキが持ってきた郵便物のことが頭に浮かんだ。すっかり忘れていた手紙だ。中身も確認せずに受け取った手紙。

 どこにやったのかも忘れていたが、それはすぐに思い出し、後ろポケットに手を伸ばす。パティナはポケットの中から皺だらけになった封筒を取り出した。クリーム色の封筒。宛名には“パティ”と丁寧な文字が記されているが、裏面に送り主の名はない。だが自分の知っている中で、手紙を送ってくる相手は、ただ一人だけだ。送り主はいつも通り、誰か分かっている。

 ビリビリと封筒の端を破き、中身を取り出すと、封筒と同じクリーム色の便箋が折りたたまれて挟まっていた。中身を引っ張り出し、ぱらりと開いて中身を確認する。便箋の数は五枚ある。

 どの便箋も、小さな文字が呪文でも唱えるように延々と連なっていて、紙面は黒いインクで染まっていて真っ黒だ。その文字群を見、ほぼ反射的に「う」と呻きが漏れる。

 口の端に浮かぶ呆れの笑みを隠さずに、川の流れる音を背景にして、ゆっくりと手紙を読み始めた。



《 私の心の姉、パティへ

 あなたが手紙を返すのを億劫に思っていることは知っているけれど、さすがに返事が遅かったので、もう一度私から手紙を送ってしまうことにします。大丈夫、怒ってないわ! パティも忙しいもの、私は分かっています。せっかちな私を許してね。

 そちらは変わりなくやれていますか? 森の中の暮らしは苦しくない? 前みたいな無理はしていない? 聞きたいことがたくさんあるわ。私のお部屋で一緒にお話できる日はいつかまたやって来るのかしら? あなたが我が家を去ってから、長い時間が経ったけれど、あなたのいない毎日はやっぱり退屈だわ。

 リサキから、あなたがずっと一人で頑張っていると聞いています。何度も言うようだけど、もしも、もうダメだと思ったら、意地を張らずに素直になってね。うちの屋敷に戻ってきてくれたならもちろん私は嬉しいけど、それが難しいのなら、他に誰か、あなたがきちんと頼れる人を見つけて頂戴ね。

 それと、そちらでお友達が出来たなら、いつかまた私にも紹介してね。私もたくさんお友達をつくりたいの。パティと仲良くなれる人なら、私もきっと仲良くできるはずだから。とにかく、あなたはその意地っ張りさえ治せば絶対に―――― 》


 ここまで読んでも、まだ便箋一枚にも達していない。これ以降の四枚以上の文面も、同じような調子で、同じような文章が、つらつらつらつら連なっていた。

 途中まで、一言一句間違いのないように読んでいたが、文字の羅列に疲れ、次第に流し読みになる。必要そうなことだけ読み取ろうと思ったが、どうやら彼女の身の回りに起こった世間話や噂話が続いているだけで、特に大切なことが書かれている訳ではなさそうだ。何度も手紙の中で出てきた「意地っ張りを直して」――というのが、パティナに最も伝えたいことらしい。

 手紙の最後、締めの言葉の後に――何度も練習したのだろう――文中の文字よりもとびきり綺麗な文字で《シャナルル・インファイ》と名前が記されている。名前の後ろには、中身の塗りつぶされた小さな黒インクのハートが描かれている。


 シャナルル――この手紙の送り主は、パティナが一人でこの森に暮らすようになってからも繋がりのある、パティナにとって唯一の友人である。と言っても最後に直接会ったのは随分前で、しばらく手紙のやりとりという間接的な付き合いを続けていた。ちなみに、シャナルルはもちろん人狼である。

 シャナルルは金持ちのお嬢様だ。この森に来る前、パティナは訳あって彼女の生家であるインファイ家にしばらく世話になったことがあった。その家で、パティナとシャナルルは友人になったのだ。

年は十つも離れていたが、親の意向で友人を作ることのできなかったシャナルルは、パティナのことを実の姉のように慕い、そして同性の友人として敬愛した。

 パティナがインファイ家を出ることになったときは、シャナルルは箱入り娘のわがまま全開で、様々な手段を用いてパティナの出立を引き止めることを画策したが、結局それは失敗に終わった。最終的に「行って欲しくない」と涙目でパティナに直接訴えて、最終的にはこれからも手紙をやりとりしよう、という約束を交わし、なんとかインファイ家を脱することが出来た。

 パティナがインファイ家を離れたのにも様々な理由があったが、何にせよシャナルルに非はない。よく慕い、よく懐いてくれたシャナルルとの別れは、パティナにとっても辛いものだったが、背に腹は変えられなかった。

 シャナルルが涙ながらに見送ってくれてから、既にかなりの月日が経っている。



 しかし、手紙を交換すると約束したものの、マメに返事を返せていたのは初めだけだった。未だに友人を作ることを親に許されないシャナルルが、暇つぶしも兼ねて生み出す膨大な量の手紙達一通一通に返事を送るのは、ある意味人間に隠れて暮らすことよりも困難だった。もともと文章を書く事が苦手だったパティナの返事の量は、日を重ねるごとに次第に減り、最終的に今に至る。

 今では四、五日に一度シャナルルから手紙が届く。もちろんシャナルルの知りえないことだが、届いた手紙に返事をするのは、早くても十日に一回とパティナはこっそり決めていた。手紙を書くのは疲れるし、何より手紙を書くと時間があっという間に過ぎてしまう。頭の体操には最適だが、他にやりたいことがある時や、頭の整理がついていない時にやることではない。

 とはいえ前回返事の手紙を書いてからは、既に十日以上時が経っている。さすがにそろそろ手紙を返してやらないと、拗ねてしまうだろう。今回の手紙の冒頭のグチグチした言葉から、不満が滲み出ているのは明らかだ。



「“意地っ張りを治せ”……ね」


 パティナはもう一度、軽く手紙を読み直しながら肩をすくめた。

 意地を張るな、手紙の中では何度も書かれてあるが、それは「返事を早く書け」という意味なのだろうか。


「返事を遅くしてるのは、別に意地張ってるわけじゃないんだけどな」


 かと言って言い訳しようにも「返事を書くのが大変なだけ」なんて言い訳がシャナルルに通じるとも思えない。パティナは手紙を折りたたんで、後ろポケットに入れた。

 帰って手紙を書こう、リサキに釣り針を頼むのを、どこかにメモしておくことも忘れてはならない――パティナは苔むした岩から立ち上がり、大きく背を伸ばした。河原の石が足の裏の皮膚に食い刺さって痛かった。




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