◆望まぬ来客
身体の痛みを抑え、螺旋階段をできる限りの速さで駆け上る。通路を小走りで駆け抜け、鍵を出して自室に入った。手と顔だけを軽く洗い流し、タオル片手にスプリングの緩んだ居心地の悪いベッドの上に寝転ぶと、腰の痛みで顔が歪んだ。ギュウギュウと軋むスプリングの上で目を閉じた。しばらく安静にしておいた方がよさそうだ。
痛めた腰で子ども一人を担ぎ、短いとは言え、それなりの距離を歩いた。そこからは無茶をしてここまで走ってきた。より酷くなった身体に走る痛みも、受けて当然と言えるだろう。
灰色の天井を眺めながら、その場でじっとしていると、次第に外で起こしてきた自分の行動がどれだけ危険で浅はかだったかの実感が、じわじわと湧き始めた。考えれば考えるほど、寒気がするような行動だ。
まず、人間の街の中で、一瞬とは言え、狼に変身してしまったこと。人間の街ですべきでない筆頭の行為だ。誰か一人でも、狼の姿を見られていたりでもすれば、せっかく築き上げてきたここでの安全な暮らしが崩れ去ってしまうのだ。子どもを守るための行動だったとは言え、湧き上がってくる後悔も恐怖も、強烈だ。
それから、気を失った少年を、せっせと彼の家の前まで運んでしまったこと。震える少年を背負っている姿など、目立って仕方がない。そして少年の家の者に見つかりでもすれば、なんと説明すればよいのだろう。
幸いにも道中、人とすれ違うことはなかった。それに少年は彼の家の前に置いてきただけで、少年の家族に見つかってはいないし、誰か他の人間からの視線を浴びた覚えもない。
今、自分にできることは、狼の姿に成った瞬間を、誰にも見られていないよう祈ることしかできない。後悔をしても、反省をしても、自責の底が見えなかった。
腰の痛みは、このままじっとしていれば引くはずだ。初めこそ心配だったが、人狼の治癒能力なら、この程度の痛みも少しの時間で自然治癒するだろう。
だが腰の痛みよりも、大きな不安が出来たことが胸中には存在する。この街での生活の中で、最も大きな不安の種が蒔かれてしまったことは、これからの生活を送る上で大きな障害になる。不安の種が芽を出さないことをどこにいるのかも分からない神様に祈る。このままでは夜中の仕事に支障をきたす、出勤までの時間に、せめて仮眠を取ることにした。
家に戻って二時間ほど。残念ながら仮眠のために目をつむっても、胸に残された種が心配で、目が冴えてしまい睡眠どころではなかった。この数時間のうち、ほんの一睡もできなかったのだから驚きだ。この二時間を思い返すと、軋むスプリングの上で、ずっと目を開け閉めすることしかしていない。
少年を受け止めた時に受けた痛みは、ほとんど引いていた。無理に動かそうとすると締め付けるような痛みがあるが、人狼の自然治癒能力にかかればこの通り、既に先ほどほどの痛みは無い。
ふと窓の外を見ると、なけなしの広さのベランダの外側へ組まれていた足場が、いつの間にか消え去っていることに今更気付いた。どうやら壁の修繕は、昨晩から朝のうちに済んでしまっていたらしい。本当に壁の修繕があったのか、疑いたくなるぐらい早い仕事だ。
どうでもいいことを考えながら、もう一度目を瞑る。
それからも眠れない中、何度かベッドから起き上がった。蛇口からコップ一杯分の水を飲み干したり、意味もなく部屋の中を歩き回ってみたりしたが、何からも睡眠を煽る効果は見えない。いっそこのまま一睡もせず、仕事へ向かおうかと考えて思いとどまる。
早くに寝て、早くに起きて、食事を摂って、適当に時間を潰し、それからようやく仕事に向かうのがロクトの習慣だ。毎日規則正しく生活していれば、何も問題は起きない。だがこうして眠れない時があると、調和の取れた予定が全て狂ってしまうのだ。その調和を乱したまま、一度も睡眠をとらずに仕事へ行ったことが、過去に一度だけあった。完全な徹夜状態のあの時は、まるで仕事が手につかず、もう少しで危うく仕事をクビになるところだった。それからは更に、予定にはきちんと則るようにしている。今こうして眠れずにいるのは、随分久しぶりのことだ。
「ダメだ……眠れない」
ロクトは息を吐きだして、額に手を当てた。
狼の姿になってしまったことの悔やみが、大き過ぎる。今まで一度もあんなヘマをしたことはなかったのに。とはいえ落ちてくる少年を、あのまま狼の姿に成らずに受け止められたかというと、答えはノーだろう。
一人の少年の大怪我――場合によってはもっと悲惨な事態が待ち構えていたかもしれない――を防げたのだから、それで良しとすべきだ。何度も言い聞かせるように自分の口の中で反芻する。
あの時狼になったことは、必要なことだった。それを言い聞かせると、今度は狼に変わる瞬間の目撃者がいたかもしれないという不安が襲いかかってくる。狼になったロクトを見ていた人間たちが、潜り込んだ人狼という危機を喚き結集し、数秒後にこの部屋の扉を勢いよく突き破ってくるかもしれない。人間たちは人狼への怒りに燃えていて、もしも彼らの手に捕らえられれば、思わず目を背けたくなるような、残酷残忍な殺され方をするのだ――。
とんとんと頭の中で恐ろしい映像が流れて、思わず身震いする。もしも本当にそうなってしまったら――ロクトは勢いよく起き上がった。急に動くと、腰に針でも刺されたような電撃が走り、「いっ」と声が出る。
いっそのこと、もうこの街を離れるべきだろうか、真剣にそんなことを考え始めていた。
そして、突然昨晩の言葉が蘇る。他のことで頭がいっぱいで、頭から抜け落ちていたあの女の人狼と、その口をついた言葉。
『人間の街に住むなんて異常だ』
進んで身を危険に晒した挙句、正体が明かされるかもしれないと、びくびく恐怖に怯えている今の自分の姿。それを彼女が見たら、なんと思うだろうか。人間の街は安全だと言い張ったロクトの姿を見れば、きっと彼女は鼻で笑うだろう。
ロクトはベッドから足をおろして、膝に手を置いて息を吐き出した。
そんな時。
コンコン、とアパートの部屋の扉を叩く音がした。
もしも自分の部屋に怒れる人々が突撃してきたら――そんな想像をしたばかりのことで、音を聞いた瞬間ロクトはその場で飛び上がった。
「……!」
緊張の面持ちで扉を見る。ワンルーム。ベッドから、扉までの距離は数歩分。
返事が無いからか、もう一度扉が叩かれた。コンコン。軽い音だ。怒れる群衆が叩く扉の音にしては、落ち着いていた。ひとまず息をつく。
だが、誰だ? 息をつくのと同時に、ロクトは自分を訪ねる人物の中に、このようなノックをする者はいないことに気付いた。管理人はもっと乱暴に扉を叩くし、時折家までやって来るあのブローカーはもっと奇怪なノックをする。
とにかく誰が訪ねてきたかは、ベッドの上から動かないことには分からない。ゆっくり、音を立てないように、ベッドから降りた。そっと足音を忍ばせて、不必要な物のない、色気のないワンルームを横断し、扉の前に体を貼り付ける。
ロクトの目の位置よりも、ほんの少し低い位置のドアスコープから、ドアの向こう側を覗いてみる。スコープを覗くと中腰になって、収まってきた腰の痛みに響いた。
「?」
しかし、ドアスコープの向こう側には、誰の姿もなかった。映しているのはアパートの通路の手すりと、その向こうに広がるよく晴れた青い空だけだ。
誰かのいたずらだったのか、と少し安心して扉から離れようとした瞬間、また扉が叩かれた。不意打ちのノック音に驚いてバランスを崩し、床に腰を打って大きな音を立ててしまう。
これで音が向こう側にばれてしまった。腰は痛いし、居留守はバレるし、散々だ。ロクトは歯を食いしばり、悔しそうに目をつむった。
「すみません」
扉の向こうから声が聞こえてきた。ドア越しで声はくぐもっているが、聞いたところ子どもの声だ。
嫌な予感を覚えた。このまま居留守でやり過ごすことを考え、すぐに却下する。この扉の前の来訪者が近所の誰かに相談でもしたら面倒だ。このまま何もしないわけにはいかなさそうだ。
ドアにチェーンをかけてから、フードをかぶって大きく深呼吸する。
外開きのドアを慎重にそっと押した。腕一本が通るぐらいの幅の隙間が開き、チェーンが伸びてドアを繋ぎ止める。
「あの」
声を受けて視線を下に落とすと、いた。
そこにいたのは赤いボンボン付きのニット帽のあの少年。少年は、バツの悪そうな複雑な笑顔を浮かべていた。
何をしに来たんだ? ロクトは急ごしらえで造った違和感増し増しの笑顔のテクスチャを、顔全体へ引き伸ばして貼り付けた。冷や汗が背中につぅと流れる。
「あ、ど、どうかした?」
できるだけ冷静に、何事もなかったかのように。自分は何事の当事者でもありません、といった澄まし顔で、自分を見上げる少年を見た。声が震えるが、仕方がない。
出来れば人違いだと、そう言ってくれ。切に願うも、もちろんその声は届かない。
「お兄さん、さっき僕を助けてくれた人ですよね?」
おどおどと、少年は言った。
終わった、心の中でつぶやいた。
笑顔のテクスチャが、凍りついて顔から剥がれなくなる。ロクトが固まったまま黙っていると、少年は返答を待たず、そのまま話を続けた。
「なにがどうなって、自分が無事でいられたのか分からないんですが……でも、お兄さんが僕を助けてくれたことだけは、わかっています。あなたのおかげで、僕はケガ一つしなかった。ありがとうございました」
少年はチェーンから見える通路で、丁寧に頭を下げた。見かけの年齢にそぐわない丁寧さだった。
ロクトは動揺しながらも、少年の目を見た。その目は敵意や疑いを抱いた、ネガティブなものではない。ひとまずこの後に、「でも」と続くことはなさそうだ。
「……あ、ああ……うん、無事でよかった」
なんとか頭の中から言葉を捻り出すが、緊張でうまく舌が回らない。下手なことを話すと、ボロが出るかもしれないが、かといって何も話さないわけにもいかない。頭をフルで回転させて、さらに口を開く。会話の主導権を相手に渡して、厄介な流れにもつれ込むと大変だ、ロクトは固まった笑顔のまま、言葉を頭中からかき集めた。
「あ、落ちたときのこと、何も覚えていないの?」
『なにがどうなって自分が無事でいられたかの分からない』、という言葉を受けて出した、探りを入れるような質問に、少年は一瞬の間を置いて、細い首で支えられた顔を横に振った。
「覚えてないです。怖くて、目をつむっていましたから」
少年は真っ直ぐに、ロクトを見て言い切った。
怖くて目をつむっていたから何も見ていない。それは嘘なのか本当なのか。この少年が嘘をついていないとは、言い切れない。だがもし、この少年が建物から落ちる最中、ロクトが変身するのを見ていたとすれば、危険を冒してまでここに来る必要があるのだろうか。人間の偏見で言えば、人狼は悪だ。取って食われるかもしれないというのに、ここに来る理由は?
分からない。分からないが、真意はともかく、少年の目に曇りがないことは間違いない。
それを認め、少しだけ心が楽になる。少なくとも、少年はロクトが人狼であることを断罪するために訪ねてきたのではないだろう。
「そうか、覚えてないのか……」
上ずった声を平にしようと努めてみせるが、なかなか上手くいかない。もちろんずっと動揺が続いているせいもあるだろうが、子ども一人と会話するだけでこのザマだ。今までよく人間の街で暮らせてきたものだ、と内心で自分を嘲った。
そういえば、何度かその姿を見かけたことはあっても、この少年をこうして真正面――わずかに開いた扉越しだが――に見るのは、初めてのことだった。
ダブルブレストのオリーブ色のコート、青いデニム。ロクトの中でこの少年の象徴とも言える、赤いボンボン付きのニット帽は彼の頭をすっぽり隠している。
きちんと見てみれば、綺麗な顔立ちだった。どちらかというと女っぽい顔で、髪を伸ばしていたら性別を間違われかねないような、そんな顔。コートを着ていても分かるぐらい細い体の線も相まって、ますます女の子っぽい。これぐらいの年の子どもはみんな中性的とも言えるのかもしれないが、それにしても、だ。
不可抗力の女っぽさが、この少年をより気弱そうに見せる。少しおどついた言葉は、さらにそれを助長させ、この少年が周りの子どもに虐められる要因になっているのかもしれない、とロクトは思った。そしてすぐに、自分の置かれた今の状況を棚に上げて、よく人間観察なんて悠長なことを考えられたものだと思い直す。
会話が途切れて沈黙が訪れる。すぐに違う話題を探して、この少年から引き出すべき、自分に必要なことを考えた。
「あ、今日のこと、誰かにちゃんと伝えた?」
三階から自分のことを受け止めた人がいます、なんてことをこの少年の身の回りの人が聞いたら、どう思うだろう? お礼に来られるのも、事情聴取めいたことをされるのもご免だ。できるならはっきり「僕のこと誰かに言ったりしてない?」と聞ければよかったが、流石に露骨なのでやめた。
何気ない質問のつもりだったが、ロクトの思惑と外れて、少年は顔からぎこちない笑みを消し去って、表情を固めてしまった。
返事が無くても、その表情から読み取れた。ロクトは少しだけ目を丸め、驚いた。命の危機に晒されたというのに、誰にも告げていない、ということは、果たして。他の子どもにいじめられていることを言い出せない環境にあるのだろうか。
少年には悪いが、安心した。これでこれ以上他の人間が、今日のことを知ることはない、はずだ。
少年はまだ答えずにもじもじしている。もう十分なので質問を変える。
「あ、そういえば、僕の部屋がよく分かった……よね」
この建物にロクトが住んでいることを、少年が知っていたのは頷ける。少年の家は、この建物のすぐ近くなのだから、ロクトが少年の姿を見かけていたように、向こうもこちらを見ていてもおかしくはない。
だが部屋番号までは流石に分からないはず。その理由は?
「お兄さんがここに住んでいるのを何度か見かけたから、ここに住んでいるのは知っていたんですけど」
「う、うん」
「部屋は、下にいた管理人さんに聞きました。背格好と雰囲気を伝えたら、すぐに教えてくれたので……」
緊張した面持ちの少年が教えてくれた答えを聞いて、ぞっとする。管理人が部外者へ、アパートの住民の部屋番号を教えてしまうなんて。教えたのは、相手が子どもだから? それにしても入居者の情報を漏らすのはどうなんだ、ロクトは笑いの本来の成分の抜けた、抜け殻のような苦笑を浮かべた。
「最初は、ここまで来なくていいかなって思ったんです。僕を家まで運んでくれたのに、急いで帰ったから。きっと人と話すのが嫌なんだなって」
少年はまっすぐな瞳でロクトに向かって言った。ぶつ切りになった言葉を選び、ぽつぽつ零すように、ドアの隙間の向こう側から声が聞こえる。
「でも、会いに行かなくちゃと思ったんです。あなたがどんな人だろうと、あなたがどんな反応をしようと、行かなくちゃって。もしも知らない振りをされても、迷惑な目で見られても、行かなきゃならない気がして。よくわかんないんだけど、あなたに絶対に会いに行けって、思ったんです。行かなきゃ絶対に後悔するって。……僕を助けてくれた命の恩人ですから、あなたを訪ねてお礼を言うのは当たり前なんですが……」
少年は複雑な笑みを浮かべて、頭をかいた。まっすぐな瞳がロクトから背けられ、ドアの隙間からでは、その目の奥の色が見えなくなってしまった。
行かなきゃならない。行かないと“後悔”する、そう思ったから少年はやってきた。彼は、独りでそう決断した。
「後悔……」
ロクトは誰の耳にも届かないような小さな声を漏らした。“後悔”その言葉が引っかかる。
「それと……これ、お礼です」
ロクトが顔をしかめたまま俯けていると、少年はもじもじしながら懐から何かを取り出した。
扉の隙間から押し込めるように、無理やりガサガサと大きな音を立てて入り込んできた紙袋を受け取った。紙袋が家の中に入った途端、香ばしい匂いがあたりに充満する。
麦色の紙が手の中でガサゴソと音を立てる。外から袋を触ってみると、中にあるのは何か硬いもののようだ。
少年の心配気な視線を感じながら、注意深くおもむろに中身を覗くと、紙袋の中に長太いパンがぼてんとふてぶてしく収まっていた。バケット、だろうか。
「うちのお母さんがパン屋をやっているんです……。これぐらいじゃ助けてもらった恩を返せないかもしれないけれど、美味しさは僕が保証します」
そう言ってまたぎこちない笑みを浮かべた少年は、照れるように右頬を指でかいた。
恩というのは三階から落ちた少年を受け止めたこと? その礼を言うために、顔しか知らない人の家をわざわざ探してきた、ということか。ロクトは頭にクエスチョンマークを浮かべた。
ロクトが転々と頭を回しているのをよそに、少年は扉の前でぺこっと頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
そして少年はそそくさと回れ右をし、ロクトの部屋の前の通路を駆け出した。
クエスチョンマークの回転から意識を取り戻したロクトが、お礼をもらったことへの感謝の言葉を伝えるよりも前に、少年の姿が離れていく。
何よりまだ。名前も聞いていない。
「あ、ちょっと!」
慌ててパンの入った袋を玄関に置き、ドアを閉じてチェーンを外して、それからもう一度ドアを押し開け通路に飛び出た。通路に少年の姿はもう見えなかった。鉄板の張られた床がカンカン音を鳴り響かせているのが聞こえた、少年はもう階段を降り始めている。少年が階段を一段飛ばしに降る足音と、ロクトが通路を走る足音が、建物の通路にこだまする。
通路をまっすぐ行けば、毎日上り下りしている螺旋状の非常階段がある。少年はもうかなり下まで降りているはずだ。急いでも追いつけるかは怪しい。
ロクトは何故自分が必死になって少年を追いかけているのかよく分かっていなかった。追いついて、どうなるのだろう。相手は人間だ、関わりは不必要なはずだ。
彼に敵意がないのなら、彼がロクトの変身を見ていないのなら、そこで終わりだ。問題は何もない、そのはず。
鉄板を叩く少年の足音が消える。少年はもう階段を降りきったらしい。このまま追いかけ続けるかどうか、悩みながら足を動かす。
「!」
しかし階段へ差し掛かるかどうかのところ。下りの階段へ足を伸ばそうとした時のこと。
目の前に現れた影に驚いて、ロクトは通路の手すりを何とか掴み、急ブレーキをかけてその場に止まった。
「危ないな、オイ」
飄々とした声が、手すりに体を預けて息をするロクトの耳に入る。少年と入れ違いに、階段を上ってきていた人物がいた。その人物は立ち止まって螺旋階段から階下を覗き、アパート前の通りを走っていく少年の姿を見、口をへの字に曲げた。
「……よう」
そして何事もなかったかのように視線を戻して顔を上げ、ロクトの顔を見た。
「何しに来たんだ」
困惑の混じった声が漏れる。既に追いかけるのを諦めたロクトは、手のひらを額に当てた。
逃げ去った少年の代わりに現れたのは、ロクトのよく見知る人物だった。生え際から後ろに髪を撫で付けたオールバック、ニヒルな笑みを湛えて、ロクトにこの住居と職場を斡旋した男。ブローカー。
彼は何故か、口に火のついていないタバコを咥えていた。
「何しに来たって、気まぐれさ」
俺は自由人なんだ、ロクトに向かって手をひらひらさせながら、追走劇の邪魔をしたことを悪びれもせずにそう言うと、ブローカーはそのままカツカツと階段を上ってきた。
今日も髪の色と同じ、ネイビーのスーツを着ていた。シアンブルーとブルーの細かい縞模様のシャツと、首下でギラギラ輝く悪趣味な銀色のネクタイは、この安アパートにはそぐわない見た目だ。
髪と同じ色の整えられた眉のすぐ下から覗く瞳は大胆不敵で、相手が人狼だと分かっていても全く臆す様子を見せない。左目のすぐ下の傷跡が、却って彼の威圧的な雰囲気を助長している。
彼は、ロクトがこの街に来てから、現在進行形で世話になっている“人間”だ。だがロクトはこの男のことが苦手で仕方がなかった。残念なことにこの男は、この街での生活で、最も関わりが深く、継続した付き合いのある唯一の人間でもある。一応の信頼は寄せているものの、もちろん友人関係ではない。
「どうした?なにか文句でもあるのか?」
困った顔をするロクトをすれ違いざまに冷ややかに見、ブローカーは口に咥えたタバコを指で挟んで手に取った。それを太陽の光に透かすような仕草をして、また口に咥えなおす。
何も答えないロクトを尻目に、ブローカーはロクトが走ってきた通路を逆走し、ロクトの部屋のドアを躊躇せずに勝手に開いた。断りなくそのまま中へ踏み込んでいく。
ロクトは今まで吐いた中で最大で最長のため息をつくと、やりにくそうな顔をしながら彼の後を追った。
時刻はちょうど昼過ぎで、太陽の位置はほぼ真上。通路から見える空は、突き抜けるような快晴だったが、ロクトの胸の中には様々な不安の雲が覆いかぶさっていた。
「昨日の満月、お前どう過ごしたんだ?」
勝手に部屋に上がり込んだブローカーは、咥えていたタバコに手持ちの金色のオイルライターで火をつけると、単刀直入に尋ねてきた。あっという間に部屋の中にタバコの白い煙が充満する。匂いも独特なキツさがあって、反射で咳が出る。
部屋に匂いがつくことなど、彼は考えもしない。あんたが仲介したアパートなんだぞ、と心の中で諌めてはみるものの、口には出さない。彼が聞く耳を持つはずがない。
「この建物、昨日の夜は工事してたんだろ?」
ぷかぷか煙を吐き出しながら答えを待つブローカーに向き直り、若干迷って口を開いた。
「街を出て人気のない場所で一晩明かしたよ。人間には見つかってない……」
嘘はついていないが、全て話すわけでもない。街の近くの森に住んでいた人狼と接触したことまで話す必要はないと判断した。いくら仲介人とは言え相手は人間だし、そこまで明かす必要はないだろう。
ブローカーは部屋の机の上にあった皿を灰皿代わりにしていた。白い皿に灰色の粉がとんとんと落とされる。迷惑極まりない行為にロクトは口を噤んだ。タバコの煙が漂って、直接顔にぶつかってくる。タバコの臭いは苦手だ。それと同じぐらい、目の前の男も苦手だ。
「それだけか?」
念を押すように、不敵な笑みを浮かべて尋ねてくるブローカーから思わず目を逸らした。
答えあぐねているとブローカーはため息をついて、火のついたタバコを皿の上に置いた。既に皿の上は灰色一色に染まっている。
「街の外に」
「……?」
「人狼がいた……ってとこか」
「……へ」
口から、間の抜けた声が漏れた。
この男は、何も知らないはずだ。それに何も、言っていない。
「なんで……?」
心でも、読まれたのか? ロクトが口をぱくぱくさせていると、ブローカーはニヤっと笑った。
街中でロクトの前に不意に現れるのは、まだ分かる。人狼相手にも臆さず平気で商売するのも、彼には金になるという理由があるから理解できた。謎の多い人物だとは思っていた。だが心まで読めるとは思いもしない。
まさか、と口を曲げる。心を読んだのではなく、きっと何か理由があるはずだ。無いなら当てずっぽうだろう。
ブローカーは自分の質問に答えられないロクトを見て、へらへら楽しんでいる。さらに続けて口を開いた。
「……その人狼と、トラブル?」
更に、驚いた。魔法か超能力でも使っているのか? 奇妙で不気味な感覚は、決して気持ちの良いものではない。どこかでロクトのことを見ていただけかもしれないと思ったものの、それならそれで、ずっと後をつけられていたことになる。さすがに後ろをつける人間の気配ぐらいは察知できる、とそれは却下した。
恐る恐るブローカーの顔を見ると、彼は「当たっただろ」と笑みを崩さず余裕たっぷりに言った。そして肩を竦めて、皿の上に落としたタバコを見遣り、胸元から新しいタバコを取り出した。
「まあ、人狼がどうだとか人間がどうだとか、そんなこと俺にとっちゃ、朝食のパンにバターを塗るかジャムを塗るかぐらいの違いしかない。どっちも旨いことに変わりはないからな」
ブローカーは咥えたタバコの煙と一緒に、言葉を吐き出した。そして「ま」と目を伏せて、タバコの先で光る赤い火に、視線を落とす。
「お仲間は大事にすることだ」
発せられた奇妙な意味の言葉に、ロクトは何も答えない。お仲間は、大事に?
「今のままじゃあ、“後悔”するぜ」
しかし付け足すように、ブローカーから出てきたその言葉に、ロクトは心を突き動かされた。
『行かなきゃ絶対に後悔するって』
“後悔”。先ほど聞いた、少年の言葉の中にも、その単語はあった。後悔、ロクトは顔を上げ、目を開く。
結局、あの人狼、パティナとは気まずい別れ方をした。絵に書いたような、嫌な別れ方。きちんとした会話を交わすことも叶わず、彼女には傷を負わせた。
『もう彼女と会う機会はない』
今朝、彼女と別れた後、独りで出した結論。彼女は既にロクトのことを、徹底して軽蔑してしまっている。あの様子では、彼女から下された自分の評価を覆すことは難しい。そしてそれを、「自分と彼女の違いだ」と、ロクトは諦めていた。変わりようのない根本的な部分の問題だと、考えてしまっていた。
しかし彼女は、同種の仲間だ。彼女がロクトを拒絶したのは、ロクトの伝え方の問題だった。会話のブランクが、それを邪魔したのだ。まだ、この失敗を取り返す機会、もとい彼女と向かい合う機会はある。あるはずだと、信じたかった。
落ち着いて、相手の言葉をよく聞いて、ゆっくりと話せば問題はないはず。時間がかかっても、なんとか、取り戻さなければ、後悔する。今のままでは絶対に、だ。それは自信を持って言えた。
彼女はこの街で生活を始めてから、初めて出逢った人狼だ。自分で選んだ独りの道は、辛く厳しいものだった。そんな道を歩んでいる最中、あの同種の存在を見つけた時、自分はどんな感情を抱いた? 簡単だ。ずっと感じることのなかった喜びを、感じることができた。
「……分かった」
返答には間が空いた。ブローカーは気にしていないようだった。相変わらず、気怠げにタバコの火を吐き出すと、瞳を歪ませて口角を吊り上げた。昨晩の人狼との出会いと、何があったかまでを読み取られたその術のタネは、結局教えてくれないだろう。彼はそう言う人間だ。ますます、苦手になる。
「ああ、あと何度も言うようだが、絶対、お前の正体を明かすようなことはするなよなよ。明かされるとしても俺に関係ない場所で、俺に迷惑がかからないように明かせ。オーケー?」
いつも通りの文句を、大真面目な顔でロクトに言って、ブローカーは笑った。瞳は弓なりに歪んでいても、目は笑っていなかった。