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◇郵便屋





 少し時を遡り、街からやってきた人狼、ロクトが去って十数分。力無い不寛容な見送りを終えて一人になったパティナは、森の奥深くに構えた住居の洞穴の前で、苛立ちを覚えながら時を過ごしていた。

 人間の街へ戻っていく際、あの人狼はパティナに哀しげな目を遣って、静かに森を出て行った。その後ろ姿を見ても、もう昨晩のような怒りは沸き上がらなかった。だが代わりに自分の中に浮かんだのは、呆れと軽蔑とが交差した複雑な感情。そしてその感情は、今も胸の中で靄ついている。

 苛立ちに耐え切れず、パティナは舌打ちをして前の右腕で固い地面を叩いた。バラバラと小石と砂が舞い上がる。ここ数日、雨は降っておらず、地面は乾いている。


「あの人狼は、間違っている……」


 狼の鼻根に重い皺を寄せ、吐き捨てるように呟いて、パティナはため息をついた。



 ロクト。あの人狼は今まで出会った、同種である人狼の中で、飛び抜けて異質な存在と言えるだろう。“大きな人間の街に住む”という選択肢は、普通に生きている人狼には到底考えられない突飛な発想だ。あの街、ライハークに住まう彼ら人間は、人狼を“種族として”憎んでいる。そんな人間たちが跋扈する世界へ、わざわざ自ら飛び込もうとする者など、当然いるはずがない。しかしあの男は自らそれを選んでいるという。挙句、人間の街に隠れ住むことを「安全」だとのたまう者がいることなど、パティナからしてみれば思いもよらなかった。

 彼は確かに、人間の回し者ではないかもしれない。だが人間に近い場所にいる人狼であることは、ライハークに住む以上揺ぎのない事実だ。誇りを捨てた選択を続けるあの人狼を正しいと思うことは、パティナには出来そうもなかった。

 誇りのない同種に、苛立ちが募る。もしかすると今もあの男は、人間の街で、人間の皮を被り、人間と会話をしているのかもしれない。人狼が被る不幸の諸悪の根源である人間と、面と向かい合っているのかもしれない。

 パティナが今までに味わった不幸には、全て人間が関わっている。自分の親しい人々が味わった不幸も同じくだ。これまで生きてきて様々な物事を見聞きした。それでも変わらず人間が敵だと、はっきりとそう言える。敵である人間の中で平気に過ごせる者と、対等に話をするなど、思うわけがなかった。

 しかしあの人狼よりも、人間よりも、他の何よりもパティナの腹を立たせたのは、そのような軽蔑すべき相手に敗北を味わわされた自分自身に対してだった。敗けを恥じる自尊心がじくじくと自分の内側を突き刺すのが分かる。押さえつけられて混乱する自分の姿が脳内に蘇り、パティナは思わず身をよじった。


「全部悪い夢だったんだ……」


 頭の中が、昨晩から今朝に起きた出来事でいっぱいで、今は何もする気が起きなかった。誇りを失った人狼にも、その人狼に負けたことも、その人狼に介抱されたことも。今思えばずっと嫌で悪い事だらけだ。

 だが、このまま何もせずにいるわけにはいかない。とにかく今の自分に必要なことは、他のことに集中することだ、パティナは口角の下がった不機嫌な顔のまま立ち上がり、洞穴の中へ入った。

 頭の中がごちゃ混ぜになった時、パティナにとって気分転換に最適なのは、釣りだ。家の近くを流れる川があり、そこが自分のお気に入りのポイントである。ウキや錘を含めた釣り道具一式を洞穴の奥まった空間から引っ張り出した。釣竿だけは大きいので、壁に立てかけてある。

 釣り具一式を引っさげて川へ行き、頭を空っぽにして水の流れる音を聞きながら、倒木にでも腰を落ち着けて――。流れに釣り糸を垂らし、流れに逆らうウキの動きを眺めていれば、頭に浮かぶごちゃごちゃを忘れられる、はずだ。パティナは悪いことは何も考えないようにしながら、準備の手を動かした。

 ちなみに釣りの準備は全て人の姿で行う。基本的に、何かを動かしたり作ったり組み立てたりするのなら、狼の姿より人の姿を取るほうが当然便利だ。両手で十本ある指でなら、細かい作業も容易に済ませることができる。 



 用意を終えて洞穴を出ようとしたその時、向こうの茂みで何かが動いた。パティナは咄嗟に持っていた釣り具を地面に投げ出した。警戒、何者かが、そこにいる。


「……!」


 “センサー”に反応はない。つまり、森の中には悪意も敵意も感じられなかった。となるとそこにいるのは森の生き物だろうか。

 それとも――と、パティナの脳内に嫌な光景が浮かんだ。もしや、自分を苛つかせるあの常識はずれのあの人狼が、この森に戻ってきたのではないだろうか。

 そうなれば今度は、どうやって追い払えばいい? 自問してみるが、答えは出ない。少なくとも力では敵わない。しかし、あれだけ言ったのに戻ってくるものだろうか。いや、あの常識はずれなら、普通の考えは通らないと思っておいたほうがいい――。

 警戒を緩めずに、遠くの茂みを睨んでいると、茂みの中からザッと音を立てて何かが飛び出してきた。

 パティナは、飛び出してきた相手を見、ため息をついて顔を歪ませた。


「……なんだ、あんたか」


 茂みの中から現れたのは、赤茶色の毛をした狼だった。パティナと比べれば随分小柄な体格だ。

狼は、もとは鮮やかな赤色だったであろう色の、使い込まれて色褪せたポシェットを、首からぶら下げている。

 赤茶の狼は舌を出しながら洞穴に向かってくる。そしてぴょんぴょんと跳ねるように走りながら、ゆっくりと体の形を、人の姿に変えた。線の細い、華奢な子どもの身体だ。

 狼の弾むような勢いを殺さず、半ばスキップでもするようなパタパタした動きで、その人物はパティナの前にやってきて、ピタッと彼女の目の前で静止した。両脇を締めて、パティナに向かってかぶっていたキャスケット帽を脱いで、勢いよく頭を下げる。


「パティナさん! おはようございまーす!」


 明るく大きな声で、赤茶の人狼は挨拶した。お手本のような元気な声に、パティナは体を引いて、鬱陶しそうに顔をしかめた。

 赤茶色の髪の子どもの人狼は、パティナよりもずっと身長が低く、顔立ちも幼い。はつらつとした子どもの高い声の通り、顔つきは明るく朗らかだ。丸い大きな目は犬のような人懐こい光を帯びて、きらきら光っている。口元にも身体中を迸る笑顔のエネルギーが溢れていて、ニコニコと絶えることなくずっと綻んでいた。

 七分袖の襟付きの白シャツは肘の部分まで折り返されていて、カーキの半パンからは細っこい子どもの脚が剥き出しで、この時期にその格好は寒そうだ。パンツを留めるベルトには、いくつものポーチがごろごろぶら下がっていて、まるで果実がなっているようだった。

 胸に抱いていた赤いキャスケット帽をもう一度頭にかぶり直し、人狼の子どもは目を細めてニコッと笑った。

 ずり落ちそうになりながら小さな肩にかけられた色褪せたポシェットが、風船のようにぷっくら膨れあがっているのを見るに、中身はぎゅうぎゅうに詰め込まれているようだ。


「なんだ? 配達は何も頼んでないはずだぞ」


 ニコニコ笑顔の相手とはまるで反した引きつった顔で、パティナは冷たい声で赤茶の人狼に言った。しかしそんなパティナの様子を気にもせず、人狼の子どもはとびきりの笑顔を浮かべ、ポシェットから取り出した長方形の紙を渡した。


「はい、お手紙ですー!」

「……はいはい、どうもありがとう」


 いつもの調子。いくら冷たくしても、この人狼は何事もなかったかのように、いつも平然とニコニコしている。パティナは諦めたように肩をすくめて手紙を受け取ると、パンツの後ろポケットに乱雑に突っ込んだ。

 この子どもの人狼の名前は、リサキという。リサキは“人狼専門”の郵便屋をやっていて、この辺り一帯、各地を歩き回り、コミュニティ間の郵便物を運ぶ仕事をしている。膨らんだポシェットと、キャスケット帽につけられた手紙を象ったピンバッジが郵便屋の証だ。

 彼は森の中にひとり住むパティナと、唯一直接的な関わりのある人物だった。言い換えれば、パティナの信頼のおける人物とも言えるだろう。


「どうですか、最近?」


 しかし信頼があるからといって、その相手と仲良くしたいかというと、それは違う。他人と持つ関わりは最低限でいいと考える今のパティナにとって、仲良し相手は不必要だ。この郵便屋のリサキとて、それは例外ではない。

 仏頂面のパティナに笑いかけ続けるリサキを見るに、どうやらリサキがパティナと同じように考えるかというと、話は別のようだが。


「随分涼しくなりましたねぇ」


 実質半袖半ズボンで、脚も腕もむき出しで、リサキは顔を手のひらでぱたぱたあおぎながら言った。その格好で言うな、言いかけた言葉を喉の奥に押さえ込み、パティナは黙っておいた。


「まだ釣りしたりしているんですか?」

「今から行くつもりだった」


 足元に投げ出した道具を顎でさす。落ちた釣竿の先がリサキの足元まで伸びている。郵便屋は「ああっ!」と仰々しい声を上げ、落ちていた釣竿に手を伸ばした。よくしなる竿を手に取り、物珍しげに眺めつつ、パティナにキラキラした目線を送る。


「釣り、やっぱりまだやっていらっしゃるんですね!」

「……」


 答えなくとも、リサキは爽やかな笑顔で言葉を続ける。


「でも、釣りって……パティナさんの雰囲気にはあんまり合ってないですよね」

「……」

「パティナさん顔怖いし!」


 きっと悪気はない。リサキの顔を見れば、この人狼に悪気があるようには見えない。ただ無意識に、毒を吐いてしまっているだけなのだ。

 一日や二日の付き合いではない。リサキの無意識の毒にも、パティナは一程の理解はあるつもりだ。表情一つ変えず話を聞き流し、腰に手を当てる。


「……なあ、先に済ませていいか」

「はい! いつでもどうぞ!」


 一度洞穴に戻って、両手に代金替わりの食材を抱えて、それをリサキへ手渡す。

 長い茶色い根の植物、ギザギザになった葉っぱ、自分の目よりも深い緑の草。一見すればただの草や根っこだが、すべて可食で栄養価の高いこの森で採れた山菜だ。これらは時折パティナが行う森の中の散策の際に、まとめて採って保管している。肉好きなパティナにしてみれば、体に良い山菜もたただの草だが、これでも郵便屋に渡せる代金になるのだ。

 郵便屋への報酬は、人間の使う“紙幣”や“硬貨”ではなく、食材などを渡すのが決まりだ。山菜以外にも、川で釣り上げた魚や、木になる果実でも代用は可能である。とにかくリサキが認めれば、どんなものでも代金として渡すことが出来る。

 ありがとうございます、と礼を言って、リサキは山菜を郵便物の入ったポシェットとは別の、腰周りにつけたポーチの一つへ、丁寧にしまいこんだ。



 リサキの様子を眺めながら、パティナは何の気なしに口を開いた。


「この辺りに、あんたが手紙を配達している人狼はどれぐらいいるんだ?」


 どうしてそんな質問をしたのだろう? 自分でも理解できず、言ってからすぐに口を結んだ。リサキはそんなパティナの表情の変化を見ながらも気に留めず、ぶんぶんと首を横に振った。


「ここ一帯、お客さんはパティナさん以外いないです。なにせこんなすぐ近くに人間の大きな街があるんですからねー。こんな危険地帯に住まう変わり者は、パティナさんぐらいしかいませんよぉ」


 危険地帯に住まう変わり者。それはあの人狼に自分が言ったのと、なんら変わらない言葉ではないか。まさかこのタイミングで突き刺さる言葉が飛んでくるとは思いも寄らなかった。パティナは面食らって目を瞬かせ、思わず言葉を失い、口を開閉する。

 危険地帯に住まう変わり者、もう一度その言葉を受け止め直し、ゆっくりと脳内で否定する。あの人狼と違って、自分は街の中にまで潜り込んだわけではない。ここに住むべき、そう思ったから、ここに住んでいるだけだ。あの人狼のように、人狼としての誇りまでを失ったわけではない――。

 気を取り直し、やり直す。この程度のリサキの毒で怯んでいては、この郵便屋と会話することは不可能だ。


「……ライハークの中に、人狼がいることを知っているか?」


 パティナの言葉に、リサキは「まさか」と言って軽く笑った。


「あの規模の人間の街に人狼なんて住めないでしょう。見つかったらリンチされちゃいますよう。ありえないですよう。……あ、パティナさん、もしかして、冗談ですか?」


 このこの~と、楽しそうに突っつこうとするリサキの肘を、最低限の動きで片手を出して受け止めた。

 冷静に自分のコミュニケーションアタックを受け止めたパティナの目を見、リサキの顔から蝋燭の火でも吹くように、ふつっと笑顔が消える。他のたくさんの人狼と付き合いがあって、様々な事情に精通するリサキでも、ライハークの中に住むあの人狼のことは、知らないらしい。


「え……ホントにいるんですか?」


 リサキは口の端を緩めて、恐る恐る、といった様子で笑った。ライハークほどの大都市に住まおうとする人狼などいるはずがない、と思うのは仕方のないことだ。

 私だってそう思っていたさ、とパティナは内心で毒づいた。しかし。

 興味津々で見上げてくるリサキから目を逸らす。受け止めていたリサキの肘を手から離し、首を横に振った。


「いや、冗談だ」


 悪くない冗談だろ、ニッと笑って付け足すと、リサキは「えぇ~」と残念そうに声をあげた。


「冗談に思えないですよお」


 パティナに向かってブーイングを続けるリサキの頭を適当にポンポン撫でで、無理やり話を切り上げさせた。

 あの人狼の存在をリサキが知らないのなら、これ以上質問するのは無意味だ。

 だがもし、リサキがあの人狼のことを知っていると答えたら、自分は何を尋ねていたのだろう。そんな考えがふと頭をよぎり、昨晩の記憶が次々に脳裏に浮かんだ。現れた男、炎の向こうの人狼、去っていく後ろ姿、そして最後に、敗北した自分の姿。

 フラッシュバックと同時に腹の底から湧いてきた、メラメラした何かは、マイナスな感情であることに間違いはない。そしてどうやら、その感情が顔に出たらしい。リサキは首をかしげ、パティナの顔を覗き込んだ。


「いつもより一層怖い顔してますよ」

「……」


 今日はもう帰れ、追い払おうとすると、リサキはまたもや「えぇ~」と声を上げ、心底嫌そうな顔をした。これ以上、相手の顔色を気にしないマイペースな者に付き合ってはいられない。それに何かを探られるのも嫌だった。


「じゃ、ほら、帰れ」


 手を払い、子どもの人狼を追い立てる。代金は支払ったし、郵便も受け取った。もう用はない。思えば気分転換の出鼻も、既に挫かれている。そうだ、もともと気分転換をするつもりだったのだ。


「私は釣りに行くから」


 足元の釣り道具を持ち上げ、パティナは首をすくめた。

 口を尖らせたリサキは「分かりました」と残念そうにポシェットを肩にかけ直し、手に持ったままだったパティナの釣竿を、パティナに手渡した。


「じゃあ、失礼します!」


 それから元気よくブンブン手を振って、自分が飛び出てきた茂みの方向へ向かってパタパタと走り出す。走る途中、前方に倒れながら狼の姿に変身し、茂みの中へ飛び込んだかと思うと、あっという間にザクザクという葉をかき分ける音と共に、森の中へ消えていってしまった。

 後ろ姿を見送ったあと、大きなため息が空へ放たれた。


「元気なやつ……」


 郵便屋リサキ。あんな風でも、とりあえずは信頼に足る人物だ。だが信頼の一方で、素直で正直なあの性格の持ち主との会話の後は、どっと疲れが溜まる。


「……行くか」


 その疲れを癒すため、そして未だにじくじくと心を蝕む苛立ちを抑えるため、今は一刻も早く心を落ち着けて、気分を切り替えるべきだ、パティナはしなった釣竿を肩にかけ、リサキが消えたのとは別の方向へ歩き始めた。





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