◆朝方の墜落
とんとんと続けていきます。
「よかった、目が覚めた……」
体をくねらせて、苦しそうな声を漏らし、ゆっくりと目を開けた彼女を見て息をついた。
突然彼女が意識を失って、結局彼女は夜が明けるまで目を覚まさなかった。どうしてここまで酷い気絶が起きたのかはすぐに理解出来なかったが、自分が彼女を追い詰めたことが原因だと、彼女が意識を失っている間にそう結論づけた。
襲い掛かってくる彼女を無力化しようと押さえ付けたことで、彼女の何かしらのストッパーを外してしまったのだ。その力は彼女の身体活動の許容量を越えてしまい、“オーバーヒート”した彼女は動けなくなってしまった、というところだろう。
彼女を動けなくさせたのは自分だ。目を覚ました彼女を見てほっとしたのも束の間、ロクトはすぐに厳しい顔をして、彼女から目を背け、椅子からゆっくりと立ち上がった。
ベッドの上に寝かされたパティナは、昨晩からずっと狼の姿のままだったが、ロクトは既に人の姿になっていた。外は明るく、朝露に濡れた木の上で、日の出を喜ぶ鳥の鳴き声がする。
「…………私は……」
状況を掴めないのか、パティナはゆっくりと首を回し、自分の状況を確認している。寝床、狼の自分の体にかけられたシーツ――それらを認めた狼の姿の彼女の顔から、サッと血の気が引いていく。
彼女はシーツを跳ね除けて、ベッドから身体を起こした。立ち去りかけたロクトは足を止め、振り返った。引きつった顔で、彼女は自分を睨んでいる。
自分が介抱されたことと、昨晩の出来事――敗北した恥と誇りの喪失、そして、自分を介抱したのが、自分を打ち負かした男であるということ。彼女はそれら全てを思い出し、今一度理解したようだった。証拠に、彼女の体がわなわなと震え始めた。
「じゃあ」
また昨日のような、争いになるのは避けたかった。これ以上ここにいることは、彼女の苦痛を増させるだけだろう。ロクトは踵を返し、洞穴の外へ出た。
洞穴の外へ出、朝日に目を細める。しかし背後から足音がして、千歳緑の狼が、自分の後ろにすぐに追いついてくるのが分かり、もう一度振り返る。
太陽の光が、洞穴の入り口から差し込んでいる。パティナから見ればちょうど逆光で、ロクトの姿は黒いシルエットになっていた。ロクトから見た彼女は、洞穴の出口に差しこんだ太陽の光をその身体全体で真っ向から浴びていた。
自分を見つめ睨む彼女は、何も言葉を発しなかった。
「……」
「傷つけるつもりはなかった」
「……」
「……すまない」
ロクトは表情を曇らせて言った。
「……また、人間の街へ帰るのか」
ロクトの言葉に、彼女は答えなかった。
答えの代わりに投げつけられた質問。一晩経ったところで、ロクトに向けた彼女の蔑みは、その深い緑の瞳から消えることはなかった。言葉の中に篭った意味を、ロクトは目をそらして受け止める。
「……僕は、君と同じ人狼だ。他の人狼を裏切ることなんてしない」
人間の街へ帰るのは、あくまで自分の安全のため。他の誰かを、危険に晒すつもりはない。
「…………」
彼女はもう、何も言わなかった。昨日のように襲いかかってくることもなかった。昨日よりもずっと冷静になった彼女は、諦めたような、どうしようもない非感情的な目で、ロクトを見ることしかしなかった。
ロクトももう、それ以上言葉を重ねずに、また黙って踵を返した。
侮蔑と軽蔑が複雑に入り混じった視線が、背中に刺さるのを感じた。純粋で残忍な意思が、深く、突き刺さる。昔、人間の村の子どもの投げた石が、この背中に当たったことを思い出した。
人の姿のまま森を出て、何も考えず黙々と街道を逆行すること数十分、太陽を戻したライハークへと帰ってくる。
こんな時間になれば、人の出入りはより多くなる。外の街道を歩いている途中でも、ライハークから道を辿ってくる荷馬車を引いた商隊とすれ違った。
日の昇る前から明け方にかけて、ライハークでは多くの商隊が荷物の運び込みを行っている。鮮魚などの生ものは、出来るだけ市場が開くギリギリの時間を狙って。生ものとは別の、街の中の工場などで使用される機械のパーツなどは、夜遅くに運び込まれる。ロクトが働いている職場は、街の東西南北の大門や、その他の小門に運び込まれるそういった物品を、門から街の中の必要な場所へ運搬することが主だった。
多分これぐらいの時間帯なら既に仕事は終わっているし、仕事仲間は各々の自宅に帰って深い眠りに就いている頃だろう。
仕事終わりの後、ロクトはいつも、公園でぼんやり過ごして、朝の時間を潰す。今日は公園に向かうにしてはいつもよりかなり遅めの時間だったが、パティナとのやりとりで心身ともに疲れていたので、公園で心を落ち着かせようと決めた。
公園のベンチ、中央の広場と噴水を視界に。いつもの場所。東の空から登った太陽が白み、空は引き伸ばしたかのような青色で染まる。まだ灯りを灯したままだった街灯の光が消された。
幸いにも今朝は人の姿が少なかった。まだ人が集まってくる時間帯よりは、早いのかもしれない。
かぶっていたフードをさらに深くかぶり、尖った耳を隠す。そうすると、目の前の視界も狭まって落ち着けた。
朝の公園は、自然と息が落ち着いた。噴水の音や、澄んだ空気が頭の中の考えをゆっくりと混ぜ合わせてくれて、じっくり考え事ができるのだ。
彼の頭の中に思い浮かぶのは、あの人狼、パティナのことだった。頭に浮かぶのは必然だし、避けようがない。昨晩から今朝にかけて起こったこの出来事の整理をつけるためにここに来たのだから、むしろこれでいいのだろう。
「……」
パティナという名前のあの人狼は、極度に人間と、人間に近い人狼を嫌っていた。きっとあの拒否の反応に値するような、耳にもしたくないような恐ろしい体験を、彼女は過去に味わっている。そしてその恐怖や怒りが、彼女の心に深く根付いてしまっている、のだろう。
あれだけ目の前で罵り、糾弾されても、ロクトは自分の選んだこの道が間違っているとは微塵も思わない。人間の街に紛れ込むことは間違っていない、と確信していた。現に今まで生きてきた中で最も安全とさえ言える生活なのだから、それは誰にも否定できない。そしてもちろん、彼女の言っていた「人間の街に住むことは人間に懐柔されたことと同一」ではないと、胸を張って言えた。
ロクトからしてみれば、彼女のことは悲しく思えた。たったひとり、誰の力も借りずに、人間が襲いかかってくる森の中で暮らしている。
彼女が同種である人狼を疑うのは、人狼の中にも悪人が存在することを知っているからだろう。ロクトは悪人らしい人狼にまだ出会ったことはなかったが、人間に擦り寄る人狼がいることは風の噂で聞いたことがある。
しかし、ただ“人間に近い人狼”というだけで、耳を塞いでロクトの全てを拒絶してしまった彼女は、ロクトから見れば人狼を嫌う人間と同類だった。敵意という牙をむき出しにして、言葉という刃でズタズタにしてしまう。対話も会話も存在しない、それでは埋められる溝も埋まらない。必要のない怒りを覚えることは、無駄だ。
昨日のことをもう一度思い返しながら、ロクトは口を尖らせて、羽織っていたパーカーのポケットに手を突っ込んだ。
もっと、考えてみよう。
彼女がロクトに対して怒ったのは、もしかすると「人間に近い人狼だから」だとか「人間の街に住む人狼だから」だとかとは違っていたのかもしれない。
『穢れた人間社会に浸かりきった奴に、自らを人狼と名乗る資格はない!』
彼女の放った言葉を思い出し、口を結んで思い直す。今思えば、昨晩の会話は二人の会話の論点が大きくズレていたような気がした。そもそも会話が噛み合ってなかったのではないだろうか。
ロクトはライハークに住む理由を必死に弁明していた。だが彼女はもっと根本的に違った答えを求めていたのかもしれない。彼女の求めていた答えと、自分の弁明していた答えは、ズレていた?
「あれ……」
顎に手を当てて、声を漏らした。背中に嫌な汗が流れる。
それでは昨日の会話や、昨日の傷の付け合いは、どうしようもなく無意味な出来事だったということになる。どうして昨日の自分は、相手の気持ちや考えを汲み取り、思考出来ない状態に陥ったのだろう。会話が噛み合っていないと、すぐに気付かなかったのだろう。
彼女がそれに気付かなかったのは、きっと怒りで頭を真っ白にしていたからだ。でも自分は彼女よりもずっと、冷静だったはず。
「あ……」
ふと会話が噛み合っていなかった理由が頭に浮かんで、ポンと泡になって弾けた。ベンチに沈んでいた身体を持ち上げて、きちんと座り直す。
「“久しぶり”だったんだ」
昨晩出逢った相手は、人狼だった。ロクトが最後に自分以外の人狼を見たのは、この街に住むよりもずっと前のこと。
つまり、同種である人狼と向かい合い、自分が人狼だと偽りなく話を出来る相手と会話したのは、驚く程久しぶりのことだった。
会話が噛み合わなかった理由、それはこの長い独りだけの生活で、“本来の会話の仕方を忘れていた”から――。自分でも笑ってしまうぐらい情けない理由だが、これなら納得出来る気がした。すれ違い、会話で交わすべき論点がズレた理由。これで幾分かスッキリする。
同時に、新しいモヤモヤが自分の中に溢れていた。彼女はこの街に来て初めて出会えた人狼だ。もう二度と会うことはないと思っていた人狼に、再び出会うことが出来たというのに、自分の“会話のブランク”で、相手を怒らせた挙句傷付けて、機会をみすみす逃してしまうなんて。
もう取り戻せないだろう。彼女には、軽蔑されている。一度逃した機会は二度と掴めない。
その後、しばらくどうしようもない、独りでは絶対に答えの見つからない問題を、くせっ毛のある黒い髪の生えた頭の中でぐるぐるこねくり回していたが、ふと公園に設置された時計を見て、「あ」と口からこぼす。
「……考えていてもしかたないか」
これ以上の思考はもう不要だった。ようやく踏ん切りをつけて独り言ち、いつものベンチに別れを告げる。もう一度時計を見て苦笑した。ぼんやりぐるぐる考えているだけで、一時間ほどここにいたことになる。
公園から出た後は、次第に活気付く人間たちの喧騒を避けて、ひたすら人気のない通りを選んで道を歩いた。自宅のあるアパートは、公園からそれほど遠くはないので時間はかからない。だが最短ルートで家へ向かおうとすると、人通りの多い混んだ道を行かねばならなくなってしまう。人狼であるその身だと、何かの弾みでミスを起こしてしまえば、それだけで正体に気付かれてしまう可能性がある。それ故、人間だらけの人ごみに紛れ込むのは安全とは言えず、人ごみを避けるとなれば、どうしても少し遠回りすることになってしまうのだった。安全のためには仕方がないだろう。
人気のない道を歩くと、辺りは音が静まっていた。静かな場所を無心で歩くと、考え事が始まる。そうするとまた、頭の中であの人狼のことが頭に浮かんでしまう。必死に他のことを考えても、「怒らせてしまった同種との関係の取り戻し方」が幾度も脳内議題に選出されて、ロクトはいよいよ困ってしまった。
すぐに解決出来ない悩みごとに頭を悩ませながら路地を歩いていると、ロクトから見て前方右手にあった三階建ての建物の上から声が聞こえた気がした。ふいと意識を向けてみると、確かに声が聞こえる。子どもの声だった。
この時間は学校の登校、あるいは登校を終えて授業が始まるぐらいの時間ではなかっただろうか。それとも今日は、街の子どもの学校は休みだとか、そういった可能性もある。
建物の上から聞こえるのは、なにかを言い争うような声だった。
子どもたちの学校が、休みかどうかなどは、ロクトの生活に関係のないことだ、知ったことではない。だから子どもたちが言い争う声が聞こえてきても――例えそれが、この変な時間帯に、変な場所から聞こえてきているのだとしても――彼には何の関係もなかった。
そう、その時までは。
「……」
ふと、見上げると視界、三階建てのレンガ造りの建物の屋上に立つ、誰かの姿。屋上に取り付けるにしては背の低い手すりが下から見えた。
貧相な手すりにもたれかかるようになった、ボンボンつきの赤いニット帽がちらりと見えた。それから意地悪そうな大きい声と、それを囃し立てる性根の悪そうな声が聞こえてくる。ニットの少年は、手すりのある場所まで追い詰められて、他の子どもたちに口々に責め立てられているようだった。
公園で休む時、しょっちゅう見かけるあのグループだろう。しかしいつもよりも不穏を感じさせる雰囲気だ。手すりに背中を押し付けるようにして追い詰められた少年が下から見える。今にも落ちてしまいそうだ。
だがロクトは、目線を下へ戻した。子どもの口から放たれた、口汚い言葉を頭から追いやって、自宅へ向けて歩く。
目立って、自分の正体を探られるような厄介な事態に追い込まれるのは、絶対に避けなければならない。だからいくら、あの少年を気の毒に思っても、それに下手に関わることは、危険だ。
周りには、誰も人がいない。道を歩く人も、窓から顔を覗かせる人も。もしかすると自分以外にも“傍観者”はいるのかもしれない。だが、誰もあのニット帽の子どもを助けようとはしない。自分も、そうだ。
屋上から声のする建物を行き過ぎて、数メートル。罪悪感がじわじわと体内を灼いていく。本当に、このままでいいのだろうか?
いじめられている少年を助けるために、注目を浴びてしまう危険を承知で、アクションを起こすこと。それと、自分の今後の平穏な生活が、ロクトの心の中で天秤に掛けられる。危険を冒すリスク、一瞬だけの正義感で街を出なければならない状況を思うと、それは流石に――。
逆に、人通りのない路地で、ひとっ子ひとりいない今なら、今すぐ目の前にある外付けの非常階段を駆け上り少年たちを静止して、ニット帽の少年を救うことも――。
ロクトは振り返った。階段は、すぐそこにある。登ろうか。
そして、顔を上げた。今の状況は?
光景を視界に収めた瞬間、全てが、スローモーションになる。
「ぁ」
ロクトが顔を上げたのは、それはちょうど少年が落ちる瞬間だった。
赤いニット帽の少年が、屋上の手すりの上に身を乗り上げて、ロクトの立つ路地に向かって背中から、落ちるところだった。突き落とされたのだ。ぐらりと体が反り返るように傾き、重力に従って、 固いアスファルトの地面へ、バランスを崩して、落ちる。
少年の体が建物の手すりを乗り越えて身体を逆さにする。その時、ロクトと少年の目が合った。ほんの数メートル離れた場所にいる、ロクトのことが、少年の視界に入ったようだった。
「!」
子どもだろうと、大人だろうと、三階分の高さから落ちればただではすまないだろう。しかも少年は、バランスを崩して落ちようとしている。着地なんて考えられるわけがない。
ロクトは走っていた。毎晩仕事で酷使する筋肉が薄くついた腕を振り、足を駆った。ほぼ瞬発的に、動いていた。後先考えず、ただ、動いていた。
だが、その足では間に合わない。いくら早く走ろうとしても、瞬間的な速さは人の姿で出すことは、できない。
落ちる。少年が、目の前で、落ちる。
「GuwWAW!」
そして、気付いたときには、ロクトは狼の姿になっていた。今まで守ってきた自分のルールを破って、人間の街で狼になった。理解はしていた。
だが後悔はしたくなかった。今ここであの少年を助けなければ。少年を助ける努力をしなければならないと直感が告げていた。
走る。少年がゆっくりと落ちていく、動きは緩やかだ。ロクトは走っていた。間に合う。この速さなら、間に合う。滑り込むように、少年の下敷きになる場所へ。そして人の姿に戻りながら、両手を広げて強い衝撃を、全身で受け止めた。
ちょっとした重さのものであろうと、三階から落とされたものが直撃すれば、それはかなりの衝撃だ。それが子ども一人分ともなれば、まるで巨大な重りでも上から落とされたかのような勢いがある。それを両手でキャッチすることなど、走って滑り込んだだけのあの体勢からでは不可能だ。
ロクトは三階から落ちてきた少年を、受け止めた。自分の体を犠牲にして。
「うぅ……」
ニット帽の少年が、ロクトの上に乗っかって呻き声をあげた。見たところ、少年は無事のようだが、怪我を負っているかもしれない。仰向けに寝転ぶ形になったロクトの体の上に覆いかぶさるように、倒れ込んでガタガタ震えている。
ロクトとは言うと、腰を強かにアスファルトに打ち付けたらしかった。動こうとすれば骨盤の辺りに、ぐりぐりと滲むような鈍痛が走った。それでも動けないことはないが、体を動かした分の痛みは、はっきりと自分に跳ね返ってくる。
呻き声をあげるだけで目を開こうとしない少年を、体の痛みを堪えながらなんとか自分の上からどけて地面に寝かせ、ゆっくりと立ち上がる。腰の骨がじんじん痛む。ロクトは顔を歪め、少年が落ちてきた建物の屋上を見上げた。
見上げるのと同時に、手すりから頭が四つ、順番に顔が出てきて並び、階下を見下ろした。子どもたちの顔は焦りに満ちていて、まさに「やってしまった」という顔である。顔を見るに少年を落とすつもりがあったわけではなさそうだったが、これは拭いようのない大きな罪だ。下手をすればニット帽の少年は、アスファルトに頭を叩きつけられて死んでいたかもしれない。
殺人未遂の子どもたちは、路地の上に横向きに寝かせられたニット帽の少年がどうやら死んでいないらしいことを確かめた。そしてその隣でロクトが顔を上げて自分たちを見ていることに気付くと、慌ててその顔を引っ込めた。屋上の上から走り去っていく、いくつもの足音が路地に響く。
「こらっ……!」
声を上げて呼び止めようとしたものの、痛みが酷くて追いかけるどころではない。それにもし彼らを捕まえたところで、それからどうすれば良いかも判断できないだろう。
いじめっ子たちの足音を無視して、倒れている少年を振り返る。いつの間にか少年は起き上がっていたが、恐怖からかまだ体を震わせていた。それも無理はないだろう。何せ三階から真っ逆さまに落ちたのだ。少年は膝を抱えて、地面に座り込んでいる。
起き上がれるぐらいだから、そこまで重い傷は受けていないだろう、とひとまず安心する。
「……大丈夫かい?」
傍へ寄って膝を折り、声をかける。ロクトの声は少しだけ震えていた。ここに住んで一年以上、人間との会話はできる限り避けてきた。アパートの管理人やブローカーと話す機会は多少あったので、彼らとは何となく会話を交わすことが出来ても、新しい相手となると、なかなか上手くいかない。
「はぁ……はぁっ……」
少年は小さな肩で息をして、一向に落ち着く様子を見せない。どうやら彼の耳にロクトの声は届いていないようだった。高いところから落ちて心神喪失に陥り、それどころではないのだ。
ロクトはすっかり困ってしまった。話しかけても反応がこれだと、手のつけようがない。少年が落ち着くまで、もう少し待ってみる。
腰に手を当てて立ち上がる。やはり痛みがひどい。
このニット帽の少年の家は、多分見たことがあった。住んでいるアパートの近所の家だったはずだ。アパートから出がけに、少年が彼の家を出て行くところを見かけることが何度かあった。つまり、少年を彼の自宅へ連れて行くこともできなくはない。幸いここからなら、帰路の途中に少年の家がある。
怪我を負った少年を自宅まで送って行くのは、嫌でも周りの人間に目立つ行為だろう。だがこのまま震える少年をここに置いていく訳にもいかない。
「ちょっと我慢してて……くれ……」
危険だとか、これからのことだとか、そういったものを天秤にかけて考えるのはもうやめにして、ロクトはもう一度フードをきつくかぶり、肩で息をする少年をゆっくりとその背に背負った。
腰を刺す痛みが貫くようにロクトの体を固めるが、なんとか歯を食いしばって歩き出す。人狼の頑強な身体でなければ、子どもを背負うどころか、立ち上がって歩くことも難しかっただろう。それほどの痛みも、人狼であるから、受け止められる。
誰にも今の姿を見られていないことを祈りながら、背中で震える少年を運ぶ。幸いなことにその道中、誰かと出会うことはなかった。
つづきますv