◇月夜の邂逅
「今夜は満月か」
わずかに首をもたげて空を見上げたパティナは、ぽつりと呟いた。
空は夕暮れ。わずかながら混じり合う水色と橙が刻一刻と迫り来る日没を告げる。東の空に浮かび上がろうとする月の姿が見えた。まだ色味は薄いが、夕焼けが濃くなればなるほどその光は強い輝きを持ち始める。それからしばらくの時をかけて、鮮やかな橙がより強くより鮮烈に、まるで最期の輝きを見せる命のように紅い紅い赤で西の空を染め上げ始めた。
気付いた時には体の中に、違和感がある。パティナは今既に狼の姿だったが、満月が姿を現した後は、陽が登るまで人の姿に戻ることは出来ない。体の中の違和感は、もうしばらく人に成れないことを伝えるように疼いている。
普段から人の姿と狼の姿とを自由に行き来しているパティナにとってみれば、満月の夜とは、人の姿で両手を器用に扱えない少し不便な時間だというだけだ。朝が来て太陽が月を隠すまで待てば、それでいつも通りに戻る。もしも人の手を使いたいようなことがあっても、時が過ぎるのを待つだけでいい。
だからその日も、いつもと同じように自分の住処である洞穴の前で、狼の姿のままくつろいでいた。狼の姿を隠す必要もないのだから、姿を見られるかもしれないという恐怖も注意も存在しないのだ。狼の姿に固定される前に焚いておいた焚き火が、パチパチと洞穴の前で音を立てる。薄い灰色の 煙が、赤い空へと登っていく。
夜が更けてからかなり時間が経った。月はこちらに迫ってきそうなぐらいに大きい。その巨大な黄色い光を放つ球体が真っ黒の中にぽっかりと浮かぶさまは、どこか不思議で不安定な気持ちを覚えさせる。
光源であり暖を取れる火を絶やさないように薪をくべ続け、洞穴の前で時間を潰す。何かをしようと思っても、いざ始めようと思えば人の姿の方が便利なことが多く、満月の夜はこうして何もしないことの方が多かった。
少ししてから洞穴の中に入った。風の出入りがあるのは出入り口の方向のみのため、外と比べるとどうしても、洞穴の中の空気は少し重たくなってしまうが、空気は暖かい。洞穴の我が家を眺めて息をつく。それほど広い場所ではないが、ひとりで暮らすには十分だ。
物を置く棚も、用途のあるテーブルも、食材を洗うための洗い場もあるし、人の姿の時に着る服の詰まったクローゼットもある。
部屋の一番奥に置かれたシーツを敷いた藁のベッドは、特にパティナのお気に入りだった。上に飛び乗って、大きく伸びをする。
睡魔がゆっくりと手を伸ばしてきていた。油断したらこのまま眠りについてしまいそうだ。瞼が重くなってくる。洞穴の中に灯された蝋燭の明かりがゆらゆらと動き、眺めているだけでっどんどん眠気が増していく。この時間が心地良かった。
「……」
彼女のテリトリー、つまりこの森の中へ誰かが入り込んだ際、侵入者の存在に気付ける“センサー”の効力が有効になるのは、侵入者が悪意や敵意などといった、邪な感情を抱いている場合のみだ。敵意や悪意で身に迫る危機を察知出来る、ということを言い換えれば、邪な考えのない者がテリトリーへ侵入しても、それに気付くことは出来ない、ということ。この森に狩り以外の目的で侵入してくる人間の数はゼロに等しいし、もしも入ってきても、パティナの住む奥深くまで入ってくることなど有り得ないから、危険はないと判断していた。
だから黒い狼が、突然自分の住処にである洞穴に――正しくはその入口に――現れた時は驚きを隠せなかった。
気配を感じてゆっくり立ち上がり、ベッドを降りた。動揺を表へ出さないようにして、洞穴の入口付近に立つ狼を静かに睨む。黒い毛並みの狼だった。夜の闇と同化して、溶け込むような深い黒の狼だ。瞳の色は深い深い灰色。この森に野生の狼はいないことは確認済みだ。となると、やはり。
「……人狼か?」
狼はパティナに気付くと、動揺したようにじりじり後退りしたが、パティナが静かに尋ねると、ほっとしたように息をついた。黒い大きな尻尾を左右に振っている。
「人狼だ」
男の人狼の険しい表情が緩む。声は若く、自分とそう変わらない年だろうことが分かる。 男の人狼は、ゆっくりと歩いてパティナの側、火の近くまで寄ってきた。
「こんなところにも人狼がいたんだ」
表情の緩んだ相手の人狼とは反して、パティナは未だに警戒を解こうとはしなかった。まだ、相手が何者か、分からない。
目の前に現れた彼は、確かに人狼だ。だが、彼が善人であるとは限らない。人狼の世界にも個々の人格に善し悪しがある。人狼だから味方だ、というわけでは決してない。中には人間に迎合して、他の人狼を騙し、自分だけが助かろうとする輩も存在するのだ。
森に入り込んだ邪な考えを察知できる力があるとはいえ、今こうして正体不明の存在が目の前に現れると、急にその察知能力の効力が信頼できなくなる。“センサー”に反応がないということは、彼に邪な考えがないということのはず、だが――「かもしれない」と、そう疑うことはこの残酷な世界で生き残る基本だ。
彼は、自分に害をなす“敵”かもしれないのだ。
「名前は」
静かに、問いかける。いつ襲いかかられても、反撃できるつもりで。
「ロクト。……君は?」
「……パティナだ」
「パティナか。よろしく」
「…………」
その相手――ロクトも、パティナがまだ警戒していることに気付いたのだろう。彼は困った顔をして顔を俯け、動いていた尾の動きを止めた。灰色の目は気まずそうに泳いでいる。
気高い狼というより、躾けられた犬のようだとパティナは思った。だがすぐに、その油断した比喩を頭から追い払う。
「驚かすつもりは無かったんだ。すぐに出てくよ」
「いや、待て」
入り込みかけた洞穴を出ていこうとする四足の後ろ姿に声をかけ、引き止める。パティナのかけたその声はよく研いだ刃物のように鋭かった。突然突き刺された声の刃物に、ロクトは動きを止める。
「どこから来たのか知らないが、暖を取れるここにいればいい。どうせ満月だ。行く宛もないだろう」
目を細め、男の人狼を見る。
ロクトはほんの少し目の色を変えて、言葉の裏にある疑念を感じ取ったようだ、表情が固まる。パティナの言うそれが“提案”なのではなく“強制”であることに気付いたのだろう。
このまま誘いを断ることが危険なのは、彼にだって明白なはずだ。だが危険なことは分かっていても、同じ人狼に何故ここまで疑われるのか、彼は分かっていないだろう。困惑の表情は、こびりついたように彼の顔から消えようとしない。
知的で冷淡なパティナの瞳は、容赦なく同種の人狼を捉えている。
「……分かった。ありがとう。厚意に甘えさせてもらうよ」
訪問者はパティナに対し、恐れを抱いている。だがしかし、訪問者の目の奥の一端に、僅かな輝きがあるのをパティナは捉えた。同種である人狼と出会えたことが嬉しいのかもしれない。詳しくは知らないが、こんな森の奥深くまで迷い込んできた変わり種の人狼だ。仲間に会えて嬉しい、きっとそんなところだろう。
「出す茶も菓子もないが、寛いでいくといい。同じ人狼だ、遠慮はいらん」
適当な言葉をかけ、洞穴の中に戻る。
会ったことも見たこともない人狼に会うのは、パティナにとっても久しいことだった。ここは人間の街のすぐ近く。そんな危険地帯の周辺に住む人狼などどこにもいるはずがないので、出会いが無いのは当たり前だろう。
久々の同種との出会いに、小さな喜びがあることは否定しない。だが相手に向ける疑念の方がずっと大きい。
彼女が来訪者、ロクトを引き止めたのは、何者かも分からない見ず知らずの訪問者を、このまま帰さないためだった。大きな疑念、大きな困惑。そして小さな喜び。その色が、彼とのファースト・コンタクト。
来訪者は、家主であるパティナに信頼されることが大事だと思ったらしい。それは自分を睨むパティナの疑念に満ちた瞳を見てのことだろう。少なくとも、睨まれたままで友情は成立しない。
洞穴の中の一部に敷かれた無地のラグマットの上に座ったパティナに、来訪者は質問を投げかけてきた。信頼を得るにはまず会話から、というわけだ。
「君は前からこの森に?」
質問に対し、ベッドのすぐ側に置かれた四角いテーブルの上でちらつく蝋燭の火を眺めながらぶっきらぼうに答える。
「一年半前から」
「長いなぁ」ロクトはパティナからそう遠くない位置、ラグマットも何もない地べた直接に座った。位置的には、洞穴の入口近く、顔の向きはパティナの顔が見えるように。
「でもこんなに街が近いと人間に見つかりそうじゃないか? 外で焚き火なんか焚いていたら、森の外からも見えそうだ」
僕も森の中に入って見えた焚き火の光を辿ってここまで来たんだけど、と何ら面白くないことを、ロクトは笑いながら言う。
彼の言うとおり、洞穴の外で焚き火から登っている煙は、満月に照らされた黒い空へと昇っている。だが煙が登っているのは森の奥深くで、森の側を通る比較的近い街道から、煙が見えるかどうかは怪しい。それに。
「今更焚き火の煙如きで、何も変わらん。この森に住んでいる私の存在など、とっくにあの街の人間どもは知っているさ」
意識せずとも、刺のある言葉が口をつく。彼への疑いが言葉にも表れる。
「え、もう知られているのか?」
「……しょっちゅう街の人間がこの森へ入り込んでくる。私を狩ろうとな」
適当な作り笑いを浮かべ、面倒そうに答えるが、来訪者は興味深そうに話を聞こうとしてくる。
「いつどれだけの数で人間たちがやってくるかも分からないし、こんな街の近くに住むのは危ないんじゃないか?」
人間の街が近いこと。そして人間たちには既に気付かれていること。それは彼の言う通り、間違いなく危険なことだ。しかしここに住んでいるうち、そんなことは何百何千回と自問してきた。そして答えはいつも同じだ。
「危なかろうか何だろうが、ここに住みたいと思ったから、私はここにいる」
くどいぐらい、自問自答したやり取り。やり飽きたやり取りを、見ず知らずの怪しい相手と交わしても、何も産まず、何かが響くことなどあるはずがない。パティナの顔から作り物の笑みがすぅと消えて、素っ気ないものになる。
それに、とパティナはじっとロクトを見た。
「ここにいなかったら、こうやってあんたとも出会えていなかっただろう」
中身のない上っ面だけの言葉とは、正反対の意味を持った目が、獲物でも狙い定めるようにロクトに向けられる。
この状態で下手に動けば、牙が体を穿ち、穴を開ける。冗談抜きにそんなことを思わせるような乱暴な野性がパティナにはある。それを理解してか、パティナの視界の中からロクトは動こうとしなかった。彼の努力は空しく、来訪者はまた顔を俯けた。
「……あんたはどこから来たんだ?」
今度はパティナが尋ねる番だった。ロクトが狼の顔を少しだけ歪める。三角形の耳がぴくりと動いた。
「……どこから……って」
「この森に住んでいました、という訳じゃないんだろ?」
パティナは森の中を端から端まで見回っている。今でも数週間に一度は、森の中をぐるっと見回るようにしているので、新しい住民がやってきたことも気付かないはずがない。
「しかも満月の夜に。なんでこの森に来た」
「…………」
もともとこの世界に人狼として生まれた時点で、真っ当な生き方ができる者はいない。人狼である以上、人間から隠れなければならない前提がある。どんな者であれ、何かを背負っている。
「まさか、どこから来たかも言えないのか?」
言いにくそうに顔を背け、来訪者は言葉を詰まらせる。ピリピリしていた空気がさらに強く張り詰め、ずしんと重くなる。パティナは追求の瞳をさらに強く光らせた。
口を噤んだ狼男、沈黙が訪れる。パティナも黙って答えを待つが、その瞳を他へやることはしない。答えあぐねる狼男がガツガツした岩の地面を見下げて、首を傾げるように捻り、しばらく何かを考えてから、ようやく口を開いた。今まで見た、どの口よりも重い話の切り口。
「……ライハーク……から来たんだ」
答えが彼の口から出た。彼はパティナの顔を見ようとしなかった。言うことを迷ったようだった。それは、それが「後ろめたいことだ」と自分で気付いていることに他ならない。
ライハーク、それは人間の街。
唸り声がする。敵意が沸き立つ、睨む目つきはより鋭く。何も口にできないような緊張感が迸る。
折っていた足を伸ばして立ち上がり、前足を踏み出す。唸り声の出処は、自分だった。気付かないうちに喉の奥から唸り声が上がっていた。詰め寄ろうと、また一歩、足を出す。ロクトは慌ててその場から退いた。ゆっくり、パティナをその目の真ん中に見据えながら、後ろ向きに下がり始める。
パティナは牙を剥き出しにして、キツイ口調で問いかける。
「ライハークから来ただと?」
「……そうだ」
じりじりとロクトの身体が洞穴の外へ。それを同じか、少し上回るぐらいの速度でじわじわと追いかけた。
「人間だらけの大都市じゃないか。すぐそこの、あの街だろう」
「……そうだ」
肯定、肯定。パティナの抱いた疑念が、より確実なものに変貌しようとしている。
回りくどい聞き方は、もう必要なかった。
「あんた、人間の、協力者か?」
先ほど彼は「街の近くに住むのは危ないのではないか」とパティナに聞いた。それなのに、彼は人間の街の中に住んでいると言う。他人に人間の危険を諭しながら、自分は人間の街からやって来た? ひどい矛盾だ。
パティナはぐるぐると自分の中で、ドス黒い感情が渦巻いていくのを感じた。
「違う」
今度の問いかけには即答だった。
そんなわけない、疑わしき訪問者は首を左右に振り、必死に弁明しようとする。
「もし僕が人間の協力者なら、満月の夜でも街で過ごせるはずだ。僕は人間に見つからないように、この森へ逃げ込んできたんだ」
「……」
パティナはくぐもった目で来訪者を睨んだ。信頼出来そうなことなど、誰にだって言える。逃げてきたフリをして、パティナが油断したところで首を取るつもりかもしれない。可能性は無限にある。
何度でも言おう。同じ人狼だからといって、仲間というわけではないのだ。狡猾な奴はいくらでもいる。パティナにもその心当たりがあった。どんな存在であれ、信用するのは難しい。むしろ信用など、不可能に等しいのだ。だから疑わしきは、疑わしきのまま。潔癖は、存在しない。
「僕が街に暮らしているのは、隠れるためであって、決して人間に取り入るためでも、協力するためでもない」
必死に言葉を並べても、今のパティナには焼け石の水だった。
敵意は尚も剥き出しのまま。耳を立てているが、それはただ純真に彼の言葉に耳を傾けているのではなく、彼の返答次第ではその喉元に飛びかかるつもりだからだった。むしろ彼が間違った答えを選ぶことを待っているような。彼が間違えば、容赦なく制裁を喰らわすことが出来る。
「ある人間に言われたんだ。人間から見えない場所に半端に隠れるから、少しの解れでも居場所を探し出されてしまうんだって。人間の多い場所になら、人狼が紛れ込んでも気付かれない。あの街に潜り込んでみて、実際にその通りだった。人間たちは僕が人狼だということに気付かない。あそこなら人間から逃げなくていい、むしろ安全な場所なんだ」
だから僕はライハークにいる、男の人狼は、自分の身の潔白を証明するために必死に言葉を紡ぐ。だがパティナは聞く耳を持っていない。首を左右に振り、ロクトの言葉を遮った。
「……たとえあんたが人間の協力者じゃないとしても、人狼がライハークなんて場所に住むなんてことが異常だ。あそこは人間どもの巣窟だぞ? 人間が私たち人狼に何をしたのか分かっているだろ?私たちを貶めて、吊り上げて、満足を覚えるような汚らわしい種が蔓延る世界の中で、どうやって息をする? 誇りを捨ててまで人間の街に住めるなんて、絶対におかしい。それが自衛のための行為だというなら尚更だ。人間に関わらなくても、生きられる道があるのに、“隠れる”ためだけに、わざわざ人狼の誇りを傷付けるなんて……何にせよそんな奴がまともな奴なわけがない……そんな異常なこと……」
相手に反論の隙を与えずに、追い詰めるように、間髪いれず、言葉をぶつけ続けた。パティナが抱いていた感情は、怒りや憎しみをとうに通り越していた。いま感じているのは心の底からの侮蔑と軽蔑。存在を否定する声。その深い緑の瞳は、下賤な存在を眺める冷ややかな光を浮かべ、来訪者を睨んでいる。
二人はじりじりと移動していた。パティナの体が洞穴の外に出た。より強く、夜の風が吹き付けてくる。
ロクトは、焚き火のすぐ側まで後退していた。焚き火から立ち上った煙は、今も空に薄っぽい灰色を掲げている。
パチパチ音を立てる焚き火、炎の先。パティナの心は、それと同じように燃え盛っている。軽蔑すべき相手を目の前にして、苛立ちは募るばかり。なぜこの男が目の前にいるのか、理由が分からなくなっていた。語気が強まる。目の前の男は人間の近くに住むことを良しとする、奇特な人狼だ。危険な人狼だ。人間と、手を結ぶことのできる危険な人狼……。
苛立ちの炎の勢いは、益々強まっていく。侮蔑と軽蔑が油になって、勢いを増させているような、そんな感覚があった。
「薄汚い人間の街で暮らせるなんて、そんな奴、人狼じゃない……。周りにいるすべてが人狼の敵だぞ? そんな酷い場所を選べるなんて正気じゃない……異常だ……!」
あんたは異常だ、パティナは繰り返した。
昏々。苛立ちが昇華して、もう一度強い憎しみが湧き上がってくる。彼は悪人ではない。ただ軽蔑すべき相手だというだけだ。なのになぜ、これほど憎く感じるのか。
「それでもあそこは安全なんだ。上手く紛れ込めれば、逃げも隠れもしなくていい安全がある。
僕ら人狼にとって安全なんて言葉、どこにもなかった。僕はそれを……人間の街に見つけただけだ」
彼が語るあいだも、炎を映した冷たい瞳は彼を捉えて離さない。彼の言葉は途切れ途切れにしか聞こえなかった。
人間に近い人狼。人間の近くにいられる人狼――。感情が揺れ動く。たったそれだけで。
突如パティナの頭の中に凄惨な光景が一瞬蘇り――『アイシテルンダ』――あの時聞いた音声が、どこかで録音されていたあの言葉が、そのまま耳の奥で繰り返された。パティナは激しく頭を振った。
「『僕ら人狼』だと? 穢れた人間社会に浸かりきった奴に、自らを人狼と名乗る資格はない!」
振り切った頭を、のうんと持ち上げて、目の前の軽蔑すべき人狼へ、意を向ける。それは明確な殺意。
パティナの目の前にあったのは炎の光の色ではなかった。真っ白に染まっていた。怒りが、光る。
肉をよく食いちぎることのできる牙が剥き出しになる。
「人狼に産まれた幸運を、ドブに浸けて無茶苦茶に汚したあんたの肉体を、私が浄化してやる……」
Galll……――。
大地を揺るがすような声が、自身の喉元から聞こえてくる。
パティナはもう、理性を手放そうとしていた。これ以上湧き上がる憎しみを押さえつけるのは不可能だった。軽蔑すべき人狼は、未だ彼女の目の前で、困った風に彼女のことを見つめている。
炎の向こう側、深い傷跡が瞳にちらついた。その傷の底は、計り知れないほど深い。
「くたばれ、汚れた奴め」
闇の中で一人呟くように、寂しい声でパティナは言った。瞳の奥にちらついた傷跡はもう見えない。あるのは人狼を映した虚ろな瞳。空っぽな瞳。
「……やめよう」
ロクトの言葉。何とかなると信じて疑わない声。目尻を下げて口をつぐみ、困った顔をして、彼女を見つめる。その程度の言葉では、彼女の足は止まらない。最早彼女の耳に、言葉は届かなかった。
距離が詰まる。
GALLLLLLL……――。
低い声、野生の声、喰らう者の声。じりじり、じりじり。一歩ずつ確実に、距離は詰まっていく。赤い口内、牙がギラギラと光る。鼻口部に寄った皺、突き抜けるような視線。千歳緑の美しい全身を震わせて、馨甲を隆起させる。ドッ、ドッと重々しい音を立てて、黒い爪の生えた足を踏み出す。
その姿を見ても、ロクトは動かなかった。いや、動じなかった。立ち上がりもせず、そこに座していた。恐怖は顔に張り付いたままだったが、それは無闇矢鱈に怯えるだけの、無抵抗な恐怖ではなかった。濃ゆいグレーの瞳に、パティナの千歳緑の姿が映る。怒れるパティナの前に立つロクトの姿は、幾分か冷静に見えた。
だがパティナの頭の中は既に真っ白で、そんなことには気付けない。ジリジリと距離を詰めるあいだ、彼はもう一歩も動かなかった。
ギリギリまで近付いて、射程範囲。殺意が捉える、対象の喉元まで、ほんの数メートル。
「RugawoO!」
鋭い叫び、後ろ足のバネを思い切り伸ばし、大地を蹴って飛びかかる。どんなものでも喰らえる口を大きく開き、相手に向かって牙を突き刺さんとする。
パティナの身体はロクトの上に乗っかかるようになり、そしてそのまま相手の身体を呆気なく押し倒した。そのまま喉元を抑えるような体勢に持ち込もうとする。
首をくねらせて、喉を狙うが、もちろんロクトも抵抗するのでそう上手くはいかない。体格は相手の方が大きい。ばたばたと暴れる相手を抑え込もうと、さらに全身の必要な筋肉へ力を込めた。吠え、叫び、喉を喰いちぎろうと顎をさらに開き、牙を向ける。爪で引っ掻いて獣の声を荒げた。
ロクトは攻撃から逃れようと、狂ったように暴れた。黒い体毛と緑の体毛が艶やかに入り混じり、夜の中で風に靡いて擦り付けあった。
体格差は男であるロクトの方が上だが、勢いはパティナの方が上だ。明確な殺意の攻撃と、殺意からの自衛。二人はごちゃごちゃにもつれあいながら、洞穴の前の焚き火のすぐ側をごろごろと転がり、そのまま草むらの上を絡み合うようにしてのたうちまわった。
パチパチ、焚火の燃える音。それに二人が暴れる音と、夜露に濡れて少しだけ湿った土に体が打ち付けられる音。草がざわざわざわと鳴き、二人共GulGulと呻くような苦しげな獣の吠え声を上げて、辺りを所狭しと動き回った。
上下が入れ替わったかと思えば、すぐに逆転する。一瞬でも気を抜けば、その隙をついて相手を押さえつけようと立場がひっくり返る。パティナは常にロクトの喉元を正確に狙っていた。
だがロクトは、命を狙われているにも関わらず、その攻撃をしのぐだけで、反撃の意思を一切見せようとしなかった。パティナのように牙を剥くことも爪を剥き出しにすることもせず、ただパティナの 身体を押さえ付け、鎮めようとするだけだ。
そのことがさらにパティナの誇りに傷を付け、彼女の目の前をより白くさせた。全力で殺そうとしているのに、全力で刃向かわないばかりか、まだ血のない道を探そうとしているロクトが無性に憎かった。自分の全力を凌ぎ、その上生温い終わりを求めている。
この男には誇りが無いのか。
誇りのないこの“薄汚れた人間に近付いた人狼”が、憎くて憎くて仕方がなかった。戦うべき誇りを捨てて、まだ戦おうとしないロクトが、憎くてたまらなかった。
殺してやる、殺してやる。それに類似した言葉が、次々と頭の中に乱雑に並べられていく。真っ白な 視界が、殺意で満たされていく。
次の瞬間、自分の牙が、対象の喉元に突き刺さる明確なビジョンが見えた。殺せる。そう確信して、見えたビジョンの通りに、ロクトの喉へ喰らいついた。
「!」
だが憎しみの対象に、自分の牙が突き刺さることは無かった。
消えた。相手が消えた。すぐさま着地して、ぐるりと体をひねって対象を探す。理解が、追いつかない。
「な」
自分が噛み殺そうとした標的らしきものが彼女の視界の隅に入った時、痛みがあった。重たい衝撃音、痛みが走ったと思った瞬間、既に自分の体ががっちりと押さえつけられていることに気付く。暴れようと動かした脚が、樹木の幹に掠るがその脚も押さえられた。木で休息をとっていた鳥たちが、 騒ぎに叩き起こされて、満月の空へ向かって慌てて飛び去っていった。
強かに地面に打ち付けられて、身体がじんじん痺れる。自分の上に、人狼がいた。
「どけよッ!」
力いっぱい叫ぶが、身体は動かせない。首をひねり、自分の上にのしかかる人狼を見た。
黒い、人狼。
自分の目が、泳ぐのがわかった。心臓の動悸がする。ばくばくと、バクバクと、叩いている、叩かれている。自分の内側から、その光景を見た自分が、黒い人狼を視界に認めた自分が、相手を恐れている。
「う、うわぁぁぁッ!」
混乱、混乱だった。こんな場所に、いるはずがなかった。
パティナは叫んだ。黒い狼が、こんな場所にいるはずがない。
自分の上にのしかかり、そして自分を――食おうとしている。前腕と踵に力を込めた。死ぬ気で、 力を込めた。なんとか逃れないと、逃れないと、食われる。食い殺される。
しかしぐいと、さらに強く、今まで抑えていたよりもずっと強い力が込められた。本当に、もう身動きが取れなくなる。
「すまない」
頭の上から、声が聞こえてくる。誰の声か、分からない。頭は混乱していた。ぐるぐると、混乱していた。
「やめろ! やめろッ!」
こんな場所で、死んでたまるか。
「ああああああッ!」
叫び、暴れる。頭の中の血管が、破裂するような感覚。筋繊維がちぎれるような感覚。立ち上がろうと、上にのしかかる仇を退けようと、全身に――。
だが、もう力は入らなかった。気が抜けて、意識が揺れる。
体がふいに、楽になった。
相手が自分の上から、退いたようだった。何故退いたのかは分からない。しかし身体はだるく、四肢を動かそうに動かせない。
首だけは動いた。ゆっくりと動かし、仇を睨もうと首を回す。そしてようやく、自分の上に跨っていた相手の顔を、もう一度見た。見た。それで、我に返る。黒い狼が、自分を見ていた。だが、思っていた黒い狼と、今の相手とは違う。これは、来訪者だ。混乱が解けて、真っ白だった視界が、少しだけマシになる。
来訪者が、心配そうに自分を見下していた。人間の街に住む、汚らわしい人狼……。その相手が、自分を、押さえつけていた。そう、相手は違う。だが、結果に変わりはない。抵抗も意味なく、完全に押さえ込まれてしまったのだ。パティナは喉の奥から湧いてくる何かを強く噛みしめた。敗北。浮かんだ二文字を頭から追い払う。たった一撃を受けたぐらいで、終わってたまるものか。
「まだ……」
まだやれる、そう呟いた。だが視界は何故かぼやけ、揺らいでいる。視界をはっきりさせるために頭を振ると、余計に世界がぐらりと歪んだ。頭の中に小さな棘がたくさん入り込んで暴れるみたいな衝撃がした。体に力が入らない。これ以上力を入れることは、出来そうにない。
自分の誇りに、大きなヒビが入るのを実感する。今まで生きて、自分の無力さを知ったことは何度もあったが、自分が弱いと思ったことはなかった。武器を持った凄腕の狩人であろうと、訳ありで戦うことになった手練の人狼であろうと、対面した戦闘で負けを覚えたことは一度としてなかった。
しかしこの黒い人狼との戦いは、違う。彼はパティナの攻撃を流し、そして隙を見て完璧に押さえつけた。防戦ではなく、ただ受け流していただけ。一人で必死に戦っていただけ。それを思うと、あまりに屈辱的だった。
「おい、ちょっと、大丈夫……」
ロクトが、身を伏せたまま動けなくなったパティナの側に寄る。
「……よ……寄るな……ッ!」
負けたことを認めたくないせめてもの意地。吠えて、牙を見せて威嚇するが、彼の歩みは止まらない。やはり体に力は入らず、それどころか意識は朦朧としている。先ほど、押さえつけられた時に、頭の中で何かが切れた音がしたのが、原因なのかもしれない。自分の限界のストッパーを、無理に壊してしまったのだろう。きっと、そんなところだ。そしてストッパーを外しても、自分は身動き一つ取れなかった。
彼は最初からずっと、手を抜いて自分の相手をしていた。まるで子どもの相手でもするように、パティナの攻撃をいなし続けていたのだ。
そしてようやく呑み込む。ああ、私はこの男に負けたんだ。
そう認めた瞬間、パティナの中にあった何かが、圧倒的な何かが、ポキリと音を立てて折れた。あまりにも簡単に、折れてしまった。
耐えていた意識が限界に達し、歪み、そして沈んでいく。冷たい大地の感触が今になって、胸に、腹部に、顎に、突き刺さるようにして染みこんでくる。
私は負けたんだ。
「パティナ!」
お前のような者が、私の名前を呼ぶな。頭の中に浮かぶ言葉。しかし、虚勢だけの空しい言葉を浮かべた頭も、これ以上活動することを明に拒否していた。
気を失う、というのはこういうことなんだな。ふと冷静に歪んでいく世界を見ながら、そんなふうに思った。
視界がじわじわと、見たこともない色に染まりあがっていく。