◆僕の過去・前
これは僕が、ライハークを住処にする前の話。
僕も昔は、パティナ、君と同じように、人狼の集落で暮らしていたんだ。でも僕が十一歳になるぐらいかな。その集落が人間に見つかってしまって、そこを離れざるを得なくなってしまった。
それからしばらくは流浪の難民生活だった。行き着く場所を求め、各地を渡り歩いた。自分たちを受け入れてくれる人狼の集落を探してね。
「ロクト、はぐれないように手をつないでいてね」
「さぁ、行くぞ」
アテのない旅は、集落に住んでいた頃に、隣に住んでいた家族も同行していた。
僕と両親と、まだ赤ん坊の弟と、隣の家のお父さんとお母さん、その夫婦の娘の女の子。その子は、僕と同い年だった。僕らは七人で助け合いながら、人間に見つからないように、静かに歩き続けた。
そのお隣の女の子――小さい頃から一緒だったから、幼馴染だね――は難病を患っていた。
“レッショウ”っていう名前の病気、聞いたことないかな?
レッショウは体のいたるところに、ナイフで裂いたような傷が次々と現れる病気だ。出来た傷からは、赤い血が流れ出てきて、薬を塗って包帯で巻いておかないと、傷口が広がって大変なことになる。
レッショウで一番怖いのが、傷を治しても治しても、新しい傷がどんどん出来てしまうことだ。だからレッショウを患った彼女は、いつも体のどこかを包帯でぐるぐるに巻かれていた。ひどい時は全身を包帯で巻かれて、ミイラみたいになっていることもあったよ。
「フィーシオ、傷は痛む?」
「うん……すごく痛い」
彼女――名前は、フィーシオと言うんだけど――は僕よりも細い指で、僕の手を掴んだ。痛みは大したことないよって伝えるように、彼女はいつも健気に笑ってみせた。
「でもロクトも、みんなもいてくれるから、私大丈夫」
彼女は思いやりのある優しい子だった。浅い灰色の毛をしていて、瞳は緑色。僕よりも身長がずっと低くて、ちょっと引っ込み思案だったかな。
彼女は小さい頃からその病気に罹っていてさ。その流浪の旅は、フィーシオのレッショウの治療法を探す旅でもあったんだ。うちの両親もフィーシオを我が娘のように可愛がっていたから、治療法を探すのに喜んで協力していた。もちろん、僕もね。
それでも病人と、まだ一人で歩くこともままならないような年の僕の弟を連れての旅は、すごく大変だった。フィーシオの病気は治らない。大量にあった包帯や薬は、みるみるうちに減っていく。このままだとフィーシオが苦しいだけだ。
それに子どもを三人も抱えているとなると、どうしても移動が遅くなる。
両親はよく、僕に言っていたよ。
『もし私たち大人が人間に見つかって捕まってしまったとしても、あなたは構わずに逃げるのよ』
『ひとりでも生き残れたら、種は存続するんだ』
種は存続する。「もしも」の話が出るたび、父の口から繰り出されるその言葉は、いつからか父の口癖になっていた。考えたくもないようなことだったから、その話になると僕はいつも話を切り上げようと誤魔化していたけど、「ひとりでも生き残れたら」という父の教えは、多分、子どもだった僕に、染み付いていた。
さて、僕らはしばらくして、幸運にも人狼の集落を発見することに成功した。本当にラッキーだった。僕らが旅に疲れて洞窟で休息をとっているところを、偶然近くの集落の人狼が通り掛かったんだ。
「ありがとうございます……」
父が泣きながら集落の代表者の人狼と握手していた。母も泣いていた。皆が泣いていたから、僕もつられて泣いた。
僕らは肩を抱き合って喜んだ。その集落にはお医者さんもいて、フィーシオの傷に塗る薬をたくさん恵んでくれたよ。
でも運命っていうのは、すごく残酷な存在だった。
せっかく住み着くことができた集落が、たどり着いてからたった二週間も経たないうちに、人間に見つかってしまったんだ。
人間たちが集落に襲来したその時、僕とフィーシオは一緒にいてさ。彼女がお花を摘みたいって言ったから、一緒に集落の外れまで来ていたんだ。
人間たちが集落を襲うのを、遠くから見た。どうしようか迷ったけど、両親の言葉が蘇った。「ひとりでも生き残れば、種は存続する」。「あなたは構わずに逃げなさい」。僕が集落に戻っても、何も出来ないことは明白だった。それなら、生きるべきだと思った。
僕はそのまま、小さな声で泣くフィーシオを連れて逃げた。人間に捕らえられたらどうなるかは分からない。僕らは親たちの教えに従って、全力で逃げた。悲しいことに、親の教えを守る機会が訪れてしまったんだ。
両親と離ればなれ。もちろんフィーシオも、両親と離れてひとりぼっちだ。
家族を探すことは、諦めるしかなかった。人間がうろついているかもしれない集落の跡に戻るなんて、僕には怖くて、とても出来なかった。
「ロクト、怖いよ」
包帯を巻いた彼女の手が、僕の手首を強く掴んだのを覚えている。彼女の手の傷口から滲んだ血が、布越しにじわりと僕に伝わってきた。
家族と離れた子ども二人、僕らは森の中の洞窟だとか茂みだとかを、隠れながら移動した。花を摘みに出かけた時に持っていた、フィーシオの手持ちの塗り薬と包帯は、あっという間に無くなってしまった。持ってきていたおやつを二人で分け合いながら、ほそぼそと飢えをしのいだ。
あの数日間に覚えた不安は、これからも忘れられないだろう。
幸運だったのは、その誰に追われているかも分からない逃避行の途中に、集落に住んでいた医者のお爺さんと出会えたことだった。
お医者さんも、人間の襲撃から逃れることの出来た幸運な人狼の一人だった。彼は森の中にある、誰にも使われていない空き家に隠れていた。
彼はふらふらになった僕らを森の中で見つけると、当然のように保護してくれた。食事も出してくれたし、フィーシオのレッショウの手当もしてくれた。お爺さんも、いろんなものを失ったはずだったのに、涙を浮かべながら僕らを救ってくれた。
それから一年か二年その小屋で、三人一緒に暮らした。僕らの家族が、いつか僕らを探しに尋ねてくる日を願いながら。
「ロクトくん、君がフィーシオちゃんを守るんだよ」
そう言ってお医者さんは、僕にフィーシオの傷の手当のやり方を教えてくれた。包帯はどうやって巻くのかとか、応急手当の仕方とかね。
料理のいろはも教えてくれたし、釣りを教えてくれたのも彼だ。三人で川辺に行って釣りをしたことがあった。よく、褒めてもらったよ。センスがある、ってね。でもフィーシオは釣りふぁ上手く出来なくて、いつも悔しがっていたっけ。
「ロクトはいなくならないでね」
ある日の晩、向かいのベッドの中から、彼女がそう言った。僕は「いなくならないよ」と答えた。彼女が泣き出したので、僕はベッドを出て、彼女の頬に手を添えて、ゆっくりと撫でてあげた。それでも彼女は、ぐずって泣き止まなかった。
お医者さんはもう眠りについていて、彼の寝息が僕らの寝室にまで聞こえてきていた。
でもある日、突然お医者さんが、いなくなってしまった。僕らに黙って、姿を消した。
僕らは、彼の帰りをずっと待っていたけれど、彼が帰ってくることはなかった。今思えば、彼は人間に見つかってしまったのかもしれない。
十三歳の子ども二人だけで、食料を確保したり、たくさんの薪を割ったりするのは無理だった。
僕らはそれでも、生活の限界が訪れるギリギリまで、お医者さんの帰りを待った。でもいよいよその空き家を発たなければならなくなった。もう食べるものがなかったんだ。それ以上は、無理だった。
カバンの中に、必要なものを詰め込んだ。家の中にあったいろんなものを、端から端まで持ち出した。フィーシオの薬と包帯は、全部持っていった。
家族と離れ離れになった頃よりも、多少は逞しくなった僕らは、なんとか生き残りながら各地を歩き回った。
必要なものを採って、獲って、飢えをしのいだ。両親とお医者さんを探しながら。
人狼の集落は一つとして見つからなかったけれど、人間の集落ならいくつもあった。フードをかぶって小さな人間の町に紛れ込み、物乞いをしたこともある。包帯だらけのフィーシオと、泥だらけの僕を見て、食べ物を恵んでくれる優しい人間もたくさんいた。
「あの、食べ物を恵んでくださいませんか」
「少しだけでいいんです」
空腹で朦朧としている時にもらったパンのかけらの味は、今でも忘れない。
そうやって人間の町から町へ、移動を繰り返していた。自分たちが人狼だとばれないようにする術は、知らず知らずのうちに身につけていた。
でもただ一度だけ、人間の二人組に、狼の姿から人の姿に変わる瞬間を見られたことがあったんだ。
僕らは、その人間たちに姿を見られたことに驚いて、一歩たりとも動けなくなってしまった。捕まえられて、殺されると思った。反抗なんて、考えられなかった。ただ怯えて、自分たちを見つめるその二人組を見上げていた。
「怖がらないで」僕を見た人間の女性が、尻餅をついて震える僕に、優しく言った。
彼らは、僕らを見て驚きはしたようだったけど、恐れも怒りもしなかった。それどころか笑顔を浮かべ、僕らに食べ物まで分けてくれた。
「くだらない迷信のせいで生き辛いでしょう」
「人狼というだけで、君たちに罪はないんだ。さぁ、これを食べるといい」
ハムと野菜の挟まれたマヨネーズサンドを渡して、彼らは僕とフィーシオの頭を撫でた。たとえ相手が人狼であろうと、優しく接してくれる人間も、少ないながらに確かに存在することを、僕はそのとき、初めて知った。
一年以上、僕らはそうやって人間の集落を渡っていた。
でもそろそろ限界が来た。フィーシオも僕も、もう疲れていた。ずっと探してきた両親やお医者さんは、もうこの世のどこにもいない、そのことを認めなければならなかった。フィーシオの病気のことだってあった。そろそろどこかに、根を下ろさないといけなかった。
僕らは、森の中――パティナの住んでいるこの森ほど豊かではないけど――近くに川が流れているような場所に立つ、一軒の空き家に住み着いた。
……森のすぐ近くには小さな人間の村もあった。
なぜそんな場所を選んだか、は言わなくても分かるだろう。今まで続けてきた旅の中で、人間の暮らしているところが近くにあると便利だと、僕らは知っていたからね。市場では物々交換をしてくれるし、その村には医者もいたから、フィーシオの包帯と薬を貰うことだって出来た。人狼だとばれなければ、問題はないってことだ。
「見て、大物が釣れた!」
「私も美味しそうなものが採れたよ」
ようやく定住が出来る場所を見つけられて、僕らは大いに喜んだ。釣りをして、山菜を採って、家にあった庭には、小さいけど畑も作った。静かに暮らした。出来るだけ自分たちだけで、全部を賄えるようにしようと決めた。
どうしても必要なものがある時だけ、人間の村に赴いて、庭の畑で採れたものや釣った魚と必要なものを、交換してもらった。
今までずっと人間の町を行き来してきたからだろうね。思いのほか、いろんなことが上手く回った。村の人間たちは、外れに住んでいる僕らが人狼だなんて、思いもしなかっただろう。それぐらい僕らは、人狼であることを偽ることに慣れていた。
僕ら子どもでも出来たんだ。そうやって生きている人狼も、少なくないかもしれないね。
ようやく落ち着いた生活と相反して、フィーシオのレッショウの症状は、悪くなる一方だった。
皮膚を裂く傷の数は増えていたし、彼女はいつも傷に苦しんでいた。薬の消費が早まって、医者に薬を貰いに行くことも多くなった。
そこへ居ついて最初の頃は、二人で村へ行っていたけど、彼女の症状が悪くなる頃には、人間の村へ行くのは僕一人の役目になった。彼女は庭の畑の手入れするのも精一杯で、外へ出てもせいぜい山菜を採ることぐらいしか出来なくなっていた。外気に当たると、風が吹くだけで、皮膚が裂けるように痛むと彼女は言っていた。
「ロクト、ごめんね」
迷惑かけちゃって、彼女は温かいマグを大事そうに胸の前で抱えていた。
「大丈夫だよ」
僕が「迷惑なんかじゃないよ」と言っても、彼女は謝ることを止めなかった。
彼女はひきこもりがちになった。それも全部レッショウという病気のせいだから、仕方のない事なんだけれど。
一年間、二人でその家で暮らすことが出来た。心配事は多かったけど、大きな事件もなく、今までに比べれば、平和に暮らせていたと思う。
でも、ある時のことだ。村へ薬をもらいに出かけたら、周りの視線がいつもと違うようだった。いつもなら挨拶するような間柄の人も、僕と目を合わせないようになっていた。
いつの間にか、村の人間たちは、僕らのことを疑い始めていたらしい。狼の姿になるのは控えていたし、ましてや人前で狼になるなんてことは絶対に無かったから、きっと誰かが勝手な噂を流したんだろう。
「もう来ないでくれるか」
屋内を照らすカンテラの油を売っている男が、ある日突然僕にそう言った。あの時のあの男の目と言ったら! あれは、同じ生き物を見る目じゃなかったなぁ。
そうやって少しずつ僕らは、村の人から疎外されるようになっていた。挨拶されないぐらいじゃ何とも思わなかったけど、必要なものを売ってくれなくなるのには困らされた。
「お前は人狼なのか」と直接問いかけてくる人間はいないのに、村の人間の目は疑念から断定へと変化し始めていた。彼らは僕らのことを、人狼だと断定し始めていた。
でも証拠が無いからか、物理的な被害を受けることまではなかった。
で、また一年経った。僕らは十八歳になった。
昔に比べて体も大きくなったし、力もついた。気付けば、子どもから大人になっていた。
フィーシオも僕と同じように大人になった。背も伸びたし、困り顔の多かった顔から、子どもっぽさも影を潜めた。けれど、レッショウは治る気配を全く見せないままだった。
さて、僕の体が大きくなると、村の人間たちは、余計に僕のことを恐れるようになった。その頃になると、僕とまともに目を合わせることが出来る人間は一人もいなかった。目が合っても、睨むか目をそらすかのどちらかで、友好なんて言葉はどこにもない。
ある時、集落を出ようとした僕の背中に、何かが当たった。小石だった。振り向くと、小さな人間の少年が僕のことを睨んでいた。どうやら、彼が石を投げたようだった。
「……」
来るなら来い、彼は挑むような目で僕を見ていた。僕は黙って彼を見返した。
周りには村の人間がいた。みんな、僕を見ていた。誰も子どもを叱らなかった。
僕は黙って、村を出た。後ろから、村の人々が少年に賛辞の拍手を送るのが、聞こえる気がした。
そんなことがあったから、僕らはもう村へは近付かないことにした。必要なものは手に入らなくなったけど、我慢するしかない。これ以上人間たちを刺激するわけにはいかない、という判断だ。
薬や包帯はたくさん買い込んではいたけれど、それでもそれがいつ無くなるかまでは分からない。彼女に痛みを我慢してもらうのは酷だ。だから家を出て土地を離れ、そことは違う新しい家を探すことも考えた。もっと静養の出来る場所がいい。或いは、数少ない人狼の集落を探す長い旅へ出る、ということも出来たかもしれない。
でも残念なことに、彼女の病気がそれを阻んだ。前よりもずっと悪化が進んでいて、彼女を長時間外へ連れて行くことの方が、危険に思えた。
病状の変化には波があったから、せめてもう少し病気が落ち着く時期になってから出発しよう、と二人で決めた。
「無理してない?」
「……してないよ」
ロクトのおかげ、彼女はつぶやいた。
どんなことがあっても、僕は彼女を守るつもりでいた。両親と過ごすのと同じか、もしかしたらそれ以上の時間を、僕は彼女と過ごしていた。
血は繋がっていなかったけれど、僕にとって彼女は、家族だった。
次話ロクト編「僕の過去・後」は明日公開です!




