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◇暗い洞穴の中で





――ここは?


 何かの音がした。ぴちょん、何かが滴り落ちる音だった。

 体を揺らすと、凄まじい激痛が電気信号のように体中を駆け巡った。覚えた痛みを脊髄が反射して、体中が萎縮したようにぴたりと動きを止める。

 ゆっくり、自らの体を動かさないようにして、目だけを開いた。自分は、狼の姿だった。


「……」


 周りを見る。明かりは、向こうから差し込む月の光だけで、中はかなり暗い。目を凝らしてようやく、ここが自分の家だと分かった。

 自分が今横になっているのは、いつも寝ているベッド。頭の向きがいつもと逆さだったために、ここがどこか分からなかったのだろう。

 起き上がりたかったが、体がそれを許さなかった。

 眠りについていた痛覚が、パティナが目を覚ましたことで戻ってきたのか、動かなくても体は痛みを訴えるようになってきた。

 体から赤が流れた。もしかしたら今も、傷口から外へ溢れているかもしれない。


「……ッ」


 傷が疼く。パティナは徐々に自分の身に何があったのかを、思い出し始めた。

 森に多数の侵入者があることに気付いて、そこへ向かった。

 森に入り込んだ人間の姿を認めたのも束の間、あっという間に囲まれて、抵抗する間もなく次々と矢で射られた。それからの記憶はおぼろげで、曖昧だ。

 でも、誰かが自分の元へやってきたような。自分を襲う無数の攻撃の手が止んでから、それから――。

 夢ではない。肩で息をする、それだけで刺すような激痛が体を走った。この痛みは間違いなく現実のものだ。

 ではなぜ、自分の住処で横になっているのか。傷の痛みに悶えて、倒れているのか。

 私は、人間に殺されたのではなかったのか?



 ぴちょん、と何かが滴り落ちる音がした。

 パティナは目を見開いた。そうだ、先ほどからずっと、この音が聞こえていた。

 雨漏りでもしているのか、いや、今までそんなことは無かった。洗ったものから水が滴っているのか、それも違うはずだ。何かを洗った覚えはない。


「……」


 部屋を見回すために、少しだけ無理をして、顔をあげた。引き裂くような痛苦に顔が歪む、視界が眩む。

 そして、パティナは、それを見つけた。


「ロク……ト……ッ」


 大きなテーブル。共に食事を摂ったあのテーブルに、彼は頭から突っ伏していた。人の姿、まるで疲れてそのまま眠りに落ちてしまったかのような格好。

 だが、その光景は常軌を逸していた。

彼の体は、暗闇の中でも分かるぐらいに、真っ赤だった。染物でもしたかのように深紅に染まっていた。本当に、身体中が赤色に染まっているのだ。


「おい……!」


 それからは無我夢中だった。体に鞭を打って、なんとか起き上がった。ロクトが倒れている。体の痛みなど気にしてはいられなかった。ベッドから下ろした狼の足の先から人に姿を変え、近くにあった椅子を支えにして立ち上がる。

 体中が痛い。肩、背中、脇腹――少し体を動かすだけで、痛みの信号がけたたましく発せられる。その度に――つまりずっと――パティナは歯を食いしばり、顔を歪めた。痛みは引かずとも、そうせずにはいられない。


「あっ……」


 足の裏、ふくらはぎの部分が、めりめり軋むような悲鳴を上げた。恐る恐る視線を落として見てみると、自分のふくらはぎに、何か布のようなものが巻かれていることに気が付いた。よく見れば、痛みの中心になっている部位全てに、同じように布が巻かれている。それにどの布も、しっとりと湿っていた。

 これもロクトがやってくれたことなのだろう。パティナは壁を伝いながら、身体を支えにして、なんとか洞穴の中を移動し、彼のもとへたどり着いた。

 彼は一言と語らず、机の上で突っ伏しているままだ。

 ぴちょん、とまたあの音がした。座ったロクトの後ろに立ち、目を凝らし、音の出処を見つける。

 音の正体は、彼が腰掛けた椅子から滴り落ちる、赤い液体だった。ロクトの衣服から滲み出た赤い液体が、冷たい洞穴の地面を打っていたのだ。地面には、赤い小さな水たまりが出来上がっていた。

音は今も暗い洞穴の中に響いている。


「ロクト……」


 彼の着るカバーオールの裾は、腰元まであったはずだが、今は脇腹の辺りまで無残に破かれている。だがそれは、パティナ自身の傷口に包帯代わりに巻くために破ったせいだと理解する。

 パティナは恐る恐る、ロクトの肩に手を置いてみた。

 体は、わずかに上下していた。息はある。死んでいるわけではない。


「…………」


 パティナは息を吐いた。また、彼が助けてくれたのか。彼の身体は、真っ赤だが、どうやら彼も無事のようだ。

 パティナはもう一度、ロクトの肩を軽く叩いた。


「う……」


 呻き声をあげ、ロクトが机から顔を起こした。そしてガタン、と大きな音をたてて、勢いよく椅子から立ち上がった。


「わっ」


 突然立ち上がったロクトに驚いて、後ろに体を仰け反らせた。ふくらはぎに激痛が走り、後ろ向けにバランスを崩しそうになる。ふらふらと二、三歩後ずさりしたところで、手が伸びてきて体を掴まれた。


「大丈夫?」


 ゆっくり、体を引き起こされて、顔を覗き込まれた。パティナは目をそらさずに、彼の顔を見た。

 暗い洞穴の中、わずかな月光。目が慣れても、よく見えない世界。それでも彼の目に映った感情を捉えることは、難しくなかった。



 あまりにも洞穴の中が暗かったので、燭台に火を灯してもらった。ようやく洞穴の中が火の灯ったいつもの明るさに戻る。

 体の痛みには随分慣れてきたが、少しでも体を動かすと激痛が走ることに変わりはない。


「体の傷の手当は、あらかた済ませておいたよ」


 ベッドに腰掛けるパティナに、ロクトは薄く笑って言った。


「……ありがとう」


 礼を言ったものの、釈然としない。彼が無事だと分かれば、それが逆に疑問に思えてくる。


 あの大勢の人間たちは、どこに行った?


 囲まれて体中を射抜かれて、動けなくなった。自分はあのまま生け捕りにされて、どこかに売られていたかもしれない。世の中には人狼の肉を喰らう悪趣味な人間の金持ちが存在すると聞く。

 或いはそのまま殺されていた可能性だって、十分あっただろう。何にせよ、あの人間たちがあの状態のパティナを置いて帰る、なんてことは絶対に有り得ない。

 だからロクトが、パティナを救ってくれたはずなのだ。つまりロクトは、あの人間たちと、あの場で、かち合っているはず。

 見たところ彼は元気で、体に異常はないように見える。本当は大怪我をしていて、パティナの前では気丈に振舞っているだけ――というのは、目立った傷を負っていないことからして、どうも考えられない。

 彼自身に怪我はない。だが、燭台に灯された灯りの下で見るロクトの服は、黒い赤に染まっていた。顔の一部、頬にもこびりつくような赤がある。

 何が起こったのか、パティナにはそれを尋ねる勇気がなかった。


「…………」


 パティナは、黙った。

 怖かった。

 彼は、自分を騙したあの人狼とは違う。そうは分かっていても、ドス黒い赤まみれの彼の姿を見ると、あの人狼を思い出さずには、いられない。


――ロクトもあいつと同じように、人間を食い殺したのだろうか。


 体の一部を噛みちぎり、ムシャムシャと動かなくなった肉の塊を食べる、顔の見えない黒い毛の人狼のビジョンが、自然に浮かぶ。人間の悲鳴、狼の唸り声、飛び散った赤色――。


「パティ……パティナ? どうしたの?」


 ロクトの声を聞いて、我に返る。

 暗い声をした彼の顔を見て「しまった」と思った。彼のことを、おかしなものを見る目で見ていたかもしれない。パティナは居心地悪そうに頭をかいた。痛みが走って、顔をしかめる。

 ゆっくり顔を持ち上げると、テーブルの側の椅子に座ったロクトの目が、今度ははっきり見えた。

 傷を負った目。

 やはり、おかしな目で、彼のことを見ていてしまったらしい。パティナは慌てて、「なんでもない」と答えようとしたが、その前にロクトは、目を伏せ苦笑しながら言葉をこぼした。


「やっぱり、ダメだな」


 肩の傷が疼いた。ズキズキ、ジクジク、傷が、再生を始めている。

 なにが、尋ねようとしたとき、ロクトが突然立ち上がった。呆気にとられて固まっていると、ロクトはそのまま洞穴から飛び出していってしまった。


「お、おい!」


 あまりにも突然のことに頭が混乱する。大きな声を出すと、傷がガタガタ震えて痛かった。

 一体どこへ行ったんだ? ひとりぽつりと洞穴に残されたパティナが、月明かりの差し込む入口を見ていると、五分もしないうちにロクトが戻ってきた。

 しかし、彼の身体は全身を大雨に打たれたかのようにずぶ濡れで、びちゃびちゃだった。もともと真っ黒な髪が、さらに深い水気を含み、さらに濃い黒色になっている。全身から滴った水は、彼の足元に小さな水たまりをいくつも作った。


「な、何してるんだ」


 驚きが支配した脳は、上手く言葉を選べない。パティナは言葉通り口をあんぐり開けて、今もなお水を滴らせる狼男を、唖然として眺めていた。


「全部流してきた」


 ロクトは手を広げて、不器用に笑ってみせた。

 見れば、彼の顔や髪についていた、べったりとした赤は、全て、洗い落とされていた。服についた黒い赤は、完全に染みきってしまって落ちていないが、身体が濡れているせいで、それが水なのか、赤なのかは見分けがつかなくなっている。

 近くの川に、飛び込んできたらしい。

 ロクトは「へくしゅっ」とくしゃみをして、ぶるぶると震え始めた。空気の入れ替わり始めるこの季節だ、そんな時期に川に飛び込めば、寒いに決まっている。パティナは呆れて、タオルと着替えのある場所を教えた。



 パティナの服を着て、髪の水気を拭ったタオルを首に巻き、ロクトは大きく息を吐きだした。洞穴の中、灯された火が揺れる。

 彼は先ほどと同じ椅子に腰掛けて、話を切り出した。


「パティナは、前に話をしてくれたよね」


 どうして人間を憎み、恐れるようになったのか。どうして人間に近付く人狼を嫌うようになったのか。それを全て、ロクトに伝えたのはつい最近の話だ。

 パティナはゆっくりと頷いた。


「僕も……君に伝えておきたい話があるんだ」

「……話?」

「うん、僕の、これまでの話」


 ロクトは水の入ったマグカップに口をつけて、目を伏せて言った。

 パティナはそれに、「話してくれ」と間髪入れずに答えた。

 ロクトは笑った。少し、困ったような笑い顔だった。


「……ありがとう。でもこれは、決して楽しい話じゃない。それでも大丈夫?」


 黙って頷くと、彼は手に持っていたマグカップを、テーブルの上に置いた。中身はもう空になっていた。




 ロクトは話を始めた。頭の中にある言葉を、慎重に選びながら。




とりあえず、二人とも無事だったみたいです。よかったよかった。

次話ロクト編「僕の過去・前」は、明日公開です。見てね。

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