◆今宵は満月
「今夜は満月、十分に気をつけろ」
すれ違いざま、ニヒルな笑みを浮かべた口元。ネイビーの髪を撫でつけるようにしたオールバックの男が静かに言った。今日もいつもと同じように、髪の色と同じ派手な色のスーツを着ていた。
ロクトはその男の顔を見ずに頷くと、止めていた足を動かし始めた。
彼はこのライハークにロクトのための住処を用意した仲介人だ。昔初めて出会ったときに名前を名乗らなかったので、ロクトは彼の事をその仕事名の通り、“ブローカー”と呼んでいた。彼もそれでいいと言った。
ブローカー、彼は人間だ。
『面倒事を起こされちゃ面倒だから、最低限の面倒は見てやる』
そう言って、ブローカーは住処だけでなく仕事も紹介してくれた。
ブローカーは人間でありながら、人狼であるロクトと取引をした。ブローカーにその理由を言わせれば『種族に貴賤はナイ』から。彼は商売が出来るなら、老いも若いも人も狼も選ばなかった。その商魂の逞しさは、見境のない拝金主義でありながら、ある意味何よりも平等だった。
今まで見てきた人間たちは人狼を嫌っていた。だが人間の中にも、極まれに彼のような例外は存在する。ロクトはそのことを知っている。
彼は時折ロクトの前に現れては、正体がばれないように細心の注意を払えと忠告した。それは彼の優しさではなく、人狼を人間の街に斡旋したことが紹介先にばれてしまった際、自身の沽券に関わるから。暗に「俺に迷惑はかけるなよ」という事だ。会う度言い回しを変え、それは口酸っぱく言われてきた。
ふらりと現れて、向かい合うこともなく、忠告される。気を抜いていたら隣に立っていたり、後ろに立っていたり。神出鬼没で、幽霊のようにどこにでも現れるブローカーが現れる度、驚きのあまり心臓が破裂しそうなぐらい跳ねる。今も既に去った彼が残した緊張感のある空気がそこに残留しているようで、息が詰まって苦しかった。
「やっぱり……」
苦手だな。ロクトは息をついて落ち着いた。飄々とした彼の性格も相まって、ロクトはブローカーのことがどうも得意にはなれそうになかった。
「はぁ……」
公園のベンチに腰掛けて、石造りの噴水から吹き出す水が、つらつらと石の上を流れているのを眺める。
早朝、人気の少ない肌の寒い時間帯。日が昇るよりも前、仕事終わりの朝早く。この公園のベンチに腰掛けてぼんやりするのは、人間だらけの街で暮らす彼にとって数少ない外で落ち着ける至福の時間だった。
時が過ぎると、公園の中は待ち合わせのカップルや走り回る子ども達で賑やかになってくる。この公園は街の中心に位置している。最も整備が行き届いた公園であり、待ち合わせ場所や遊ぶ場所としてたくさんの人が集まってくる場所だった。人間が来て人間で溢れ返る前の時間が今、ということだ。そしていつも、人が増えるよりも前に公園から退散することにしていた。
しかし今日はいつもよりも長く寛いでしまったらしかった。日が昇って、冷たい空気の中にいるロクトに向けて、温かい太陽の熱が燦々と降りかかってくる。そしてまだ朝も早いというのに、子どもたちが公園に集まり始めていた。学校に行くぐらいの時間なのかもしれない。今は近所の子どもたちで集合する時間なのだろう。
ロクトの目に入った子どもたちは五、六人のグループだ。よくこの辺りで遊んでいるのを見かける。そのうちの何人かは、ロクトの住む建物の近所に住んでいるのも知っていた。
しかしボンボンの付いた赤いニット帽をかぶった一人の少年が、今にも泣き出しそうな顔で小突かれているのを見るに、ただの仲良しグループというわけではなさそうだ。子どもの間にも、様々な問題があるということだろう。だがそれは、ロクトには関係のない話。このままここにいて厄介事に巻き込まれてはたまらない。この街で不用意に目立つことはなるべく避けるべきだ。注目を浴びることが、いつ正体が明かされることに繋がるかは分からない。
今宵は満月だ。仕事は休みを取っておいたので、心配することはない。子どもたちがやいやい言っているのを尻目に、さっさと家に帰ることにする。
満月の夜は外に出てはいけないというのは、人間の近くに住む人狼にとって常識のこと。人間の街の中に住む人狼にとっても、もちろんそれは同じことだ。
人狼は満月の夜に、自分の意志に関係なく狼の姿になってしまう。強制的な変化だ。これはどの人狼であっても、絶対に避けられない特性だった。
満月の夜の変化の原因は未だに分かっていない。月が完全な球形に成った時に、月が放つエネルギーによって体中の細胞が刺激されて狼の姿になってしまう云々と、昔から言われていた。
満月が出ている間――正しくは、太陽が沈み、満月だけが空に浮かんでいる状態――その状態は永続し、夜が明ければ人の姿に成ることが出来た。
そのため人の近くに住む人狼にとって満月の夜は、家の中にじっと息を潜めて隠れていることしかできない時間だった。絶対に人にその姿を見られるわけにはいかない悪夢の時間だ。下手をすれば、今まで築き上げたものすべてが崩れ去ってしまう。ばれてしまえば全部おしまいだ。ロクトが過去に住んでいた場所を追われることになったのも、満月の夜のことだった。
この街に来てからは既に十数回満月を迎えている。今までに比べれば、ライハークでの満月の夜の過ごし方は簡単だ。何故なら何も考えずに家の中に閉じこもていれば、それだけでいいのだ。他人が家を訪ねてくることは滅多にないし、たとえ誰かが来ても居留守を使うのも皆同じなので不審に思われることもない。ましてやロクトの家があるのは建物の四階で、窓から覗かれることもない。
この街に来て、ずっとそうやって満月を迎えてきた。基本的に他人に無関心なこの街なら、一人や二人――いや、もっとたくさんの人が一晩中家に篭っていたところで、誰も気にも留めない。
今日も家の中に篭るつもりだった。早朝の散歩を終え、自分の住む四階建てのアパートの前に戻るまでは。
アパートに帰ると、自宅の扉の前に管理人がいた。部屋の扉につけられたポストに、ちょうど紙を突っ込もうとしているところだった。
「君か、ちょうどよかった」
管理人はぼさっと突っ立ったままのロクトに、手に持っていた紙を渡した。紙に目を落とすと、そこには長々と黒い文字が並んでいる。内容を読むよりも前に、管理人が口を開いた。
「急で悪いけど、今日の夕方からうちのアパートの壁面の修理をしてもらうことになってね。前からボロボロだったから、そろそろどうにかしようと思っていて……」
管理人は痩せっぽっちで、まるで棒切れのような体つきだ。だが外気は冷たいのに随分暑そうに、あせあせと自分の額の汗をぬぐっている。彼は人と話をすると汗をかいてしまう体質らしい。見たところ五十代そこそこの管理人の苦労が、おろおろと左右に揺れる目から見て取れた。
「修理?」
「そうなんだ。今朝の夢に神様が出てきて『アパートの壁を修理しなさい』ってお告げがあってね。早速それに従うことにしたんだよ。だから今日の夕方から夜にかけて、ちょっと窓の外が騒がしくなるかもしれない」
彼が一体どこの神様を信奉しているのかは知ったことではないが、それは熱心なことだ――と感心しかけてはたと止まる。黙って話を聞いていたものの、このアパートの壁面の修理ということは、窓の側に修理士の人間が近付くということだ。それから何かの弾みに窓を覗かれれば、満月で狼になった自分の姿を見られてしまうかもしれない――ロクトは顔を真っ青にした。今夜は狼の姿でしかいられない。カーテンを閉めていても、それが必ずしも安全ということにはならないのだ。ほんの少し狼の姿を見られてしまうだけで、ここでの生活全てが泡に消える。汗っかきの管理人は、ロクトが人狼であるということをブローカーからもちろん知らされていない。
とにかく、今夜自宅に篭るのは、危険だ。
「いやぁ、急で悪いね」
「……分かりました」
へらへらしながら言う管理人にまさか文句など言えるはずもなく、ロクトは笑って頷いて部屋に入った。
そして扉に背をつけて、ぐるぐると頭を回転させる。今晩をどうしのぐか、それを考えなければいけない。月が出る前に答えを出さなければ、全てがおじゃんだ。
猫の額ほどの広さのベランダに通じる一番大きな窓を見ると、既にそこには工事用の足場が組まれていた。どこか近くでカンカンと何かを叩く音がして、どうやらもう工事は始まっているらしかった。