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◆救行






 ライハーク西部の門をくぐり、街の外へ。

 西門のすぐ近くでは、まだお祭り騒ぎが続いていた。最早騒ぎは本来の目的から掛け離れ、野次馬と目立ちたがりが集まった、ただの騒動と化している。“人狼討伐”を掲げて発つ者たちを見送る宴だと知っているのは、あの場にいる何人なのだろう。

 浴びるように酒を飲む浮かれた男たちを横目に眺め、ロクトは鼻で笑った。



 討伐隊が出発したのはかなり前のことのようだ。夜の道を往く彼らが灯しているはずの灯りも、森へ通ずる緩やかな坂の上には見えない。

 だが人間の匂いは、そこにはっきりと残っていた。大勢の人間の匂い。匂いをたどると、それは確実に、森へ向き進んでいる。


「……!」


 焦りは、形となる。肌寒いのに、汗が流れた。

 ロクトは、駆けた。街道の途中からはもう、人の姿ではなく、狼の姿になって。拳銃が放つ弾丸のような勢いで、がむしゃらに走っていた。

 いつもなら、誰かに見られることを恐れて人の姿で歩いていた時間のかかる道も、狼の姿で全力疾走すれば、半分より短い時間で済んだ。

 その道すがらに、人間たちへ追いつくことも無かった。彼らは既に森の中へ入り込んでいる。生えた木々の間に踏み込んで見れば、草木が乱暴に刃物で切られた跡が残っていて、匂いもその先へと続いている。

 迷いなく、ロクトも拓かれた木々の世界へ入り込んだ。

 いつもならこの森は「パティナのいる場所」だったのに、今日は雰囲気がまるで違って見えた。欠け始めた月が照らすだけの暗い森は、来るものを寄せ付けない空気を醸し出している。生えている植物も月の明かりを受けるだけで、生気のない青白い光を帯びており、薄暗くて気味が悪い。

 ここから先は、いつ人間と出くわしてもおかしくない場所だ。

ロクトは息を飲み込むと、切り開かれた人間の通った道を辿って、大きな音を立てないよう気配を殺し、走る。



 人間の気配に気付いたのは、泥っぽい池の近くまで来た時だった。

 今夜の泥っぽい池は、特に気味が悪かった。この近辺はたまに霧がかることこそあれ、今日ほど濃い霧がかかっているのを見たことはない。視界を塞ぐ霧は真っ白で、見通しが悪い。むしろほとんど見えないと言っても過言ではない。

 ミルク色の霧の中で足元に気をつけながら進んでいると、足元にどろりとした水面があった。風でわずかに波打っている。危うく水に踏みこむところだった。

 視界を覆う真っ白の少し先にあるものは、どんなものであれずんぐりとした黒いシルエットになり、さらにそれより先のものは視認することさえ難しい。踏みかけた水辺から離れ、足の踏み場を探すように、一歩ずつ歩く。

 池の畔に転がった岩の黒い影を避けながら、池を迂回するように進んでいくと、霧の向こうから誰かの話し声が聞こえた。

 人間だ。


「人狼が……らしい……」


 その声が聞こえると、ロクトはすぐに木陰へ隠れ、息を止めて人の姿に成った。ここから先は、確実に人間と出くわすことになる。さすがにこれ以上、狼の姿でいるわけにはいかないだろう。手先から黒い爪が引っ込んだのを確認すると、立ち上がってゆっくりと歩き出す。

 深い白い霧の中、声の方向へ進むと、人間の抱える松明の灯りが見えた。松明は夜の白霧の中でぼんやりと光っている。さらに近付くと、黒い人影が見えた、それも二人組だ。


「俺たちも行くか」

「ああ」


 この距離まで近付くと、声もはっきり聞き取ることが出来た。男が二人、笑い合っている。すぐ近くに立つロクトの存在には気付かずに、二人組はのそのそ歩き出した。

 どうやらこの二人組は、討伐隊の最後方にいるらしい。今から討伐隊の本隊がいる方向へ向かうようだ。

 気付かれないのなら、それが最善だろう。このまま彼らの後ろについていけば、討伐隊のもとまで辿り着ける。ロクトは二人組の少し後ろを、黙ってついていくことにした。討伐隊に追いついてから後のことは、何も考えていなかった。



 森の中にも、池の周辺にかかっていた霧が広がっていた。あの泥っぽい池に霧が立ち込めることに遭遇した経験はあっても、森の木々の中にまで霧がかるなんてことは、初めてだった。

 霧が立ち込めれば、周りに何があるのか、はっきりと把握できなくなってしまう。頼りになるのは嗅覚だけだ。



 十分もかからないうちに、人間たちの匂いが急激に強くなった。どうやらもう討伐隊のもとまでやってきたようだった。

 少し歩いた先、ロクトは息を飲んだ。

 霧が薄まってきた。ミルクのような濃い白の霧が、ほんのり晴れて視界が比較的マシになる。

 そうなると、周りの光景もよく見えた。

 木々に囲まれながらも開いた場所。

ぞわっと肌が逆立った。たっぷりとした殺意が、森の一角に、充満している。ロクトは辺りをゆっくりと見回した。

 霧の中に、人間が、いる。思っていたよりもずっと数が多い。彼らは皆、ロクトに背を向けるように立っていた。隣にいる相手に話しかける者もいれば、自分の持った武器をいじる者もいた。

 一、二、三――その場から見える背中をざっと数えるだけで、およそ二十かそれ以上。だが匂いは、もっと濃い。まだ見えていない数も合わせたら、もっと多くの人間がいるはずだ。

 人間の数にも驚いたが、何よりもぞっとしたのは、彼らが皆「“人狼”を狩るために集い、ここまでやって来た」ということだった。ここにいる人間は、ブローカーのように人狼に無関心な人間でもなく、フェックのように人狼を恐れない人間でもない。彼らは皆、人狼を憎んでいる。群れてでも叩きのめすことを考えてしまうぐらいに、憎んでいる。

 自分を含む、人狼という種族が憎くて集まった群衆。ロクトは彼らと同じ姿で、その群衆の中に紛れ込んだ。自分も、彼らの憎しみの対象だ――。そう思うと、体がこわばった。

 普段街で暮らすのとそう変わりないと、自分に言い聞かせる。それでも満ち溢れたギラギラした殺意に足は竦む。自分に向けられたわけでもない、殺意に。



 彼らは皆、一様に一つの方向を見ていた。


「あんちゃん、今頃来たのかい?」


 目を光らせる群衆の中にいた、ひとりの男が話しかけてきた。いつの間にか、後ろに回りこまれていたようだ。

 振り向こうとしたが、男はぬるりとした動きでロクトの前に回り込み、ロクトの顔を見て、にへらぁと顔を歪めた。皮のめくれた唇、口角が吊り上がると、そのままはちきれそうに見える。どうやら、男は笑っているつもりらしかった。

 言いようのない不気味さを抱かせる顔つきの男は、見るに耐えないみすぼらしい格好をしていた。擦り切れた衣服はゴミ箱から拾ってきたように汚れていたし、髪も体も長い間洗っていないのだろう。近くにいるだけで、思わず顔を背けたくなるような酷い匂いがした。

 だがその貧相な格好とは裏腹に、彼の持つ武器は、随分と立派なものだった。持ち手に白いテーピングのされている以外、一切装飾のない大きな弓。手に取って見たわけではないが、その貧相な格好にはそぐわない一級品に見えた。


「人狼をやっつけたんだ」


 オイラがこの弓で、あいつの土手っ腹に矢を撃ち込んだんだぜ、男は得意気に言った。口の端を歪ませて、そう言った。


「これでまた、汚らわしい人狼が減ったぜ」


 ロクトは気付いたら、男を突き飛ばしていた。視界に焦りを滲ませて、扇状に立っている人々を押しのけながら、彼らの視線の先へ向かった。


「なんだよあんちゃん!」


 背中に、先の男の罵声が投げつけられる。だがそんな言葉はもう、耳に入らなかった。目は真っ直ぐ前を見つめていた。でも、なぜか、不思議と笑えてきて、頬が緩む。


「おい」「なんだよ」


 自分の前に立つ人間を押しのける。多くの人間の舌打ちや野次が聞こえるが、構わない。突き進み、割り込んで、人間たちの前に出た。自分の背中に、人間たちの視線が突き刺さるのを感じる。

 ロクトは人間たちが今まで見ていた、視線の先にあるものを見つけた。扇状に取り囲むようになった、その中央――。

 

 そんな。

 

 ロクトは、声に出さず、口を動かした。


「なんだね、君は」


 すぐ隣から、鼻持ちならない声がかけられた。

 高級そうな服を着た、まるまる太った壮年の男が、男よりも体格のあるボディーガードの男二人をぴっちり両脇に固め、進み出てくる。ボディーガードの二人の顔には、厳つい傷が残っていた。頭は丸刈りだった。

 太った男は、まるで値踏みでもするような目で、そこに立ち尽くすロクトを下から上へ舐め上げた。鼻の下にはちょび髭が蓄えられていて、その下には腫れぼったい唇が分厚く構えている。


「何か言いたまえよ、君」


 肉付きのいいハムのような手で、肩を掴まれる。ロクトの方がずっと背が高かったので、太った男は自分の頭よりも高い位置へ手を上げなければならなかった。

 ロクトが反応を示さないのを見て、太った男の眉根が歪んだ。「おい、無視をするな」と男がさらに強く、ロクトの肩を掴む。

「……何が、どうなったんだ」ロクトは、男に向かって、吐き出すように問いかけた。


「何って、狩ったのさ。人間様の街の近くに住み着いた愚かな人狼を、我々“ライハーク反人狼団体”がね。良い名前の団体だろう? 実直で、素直なネーミングだ」


 太った男の脂ぎった笑い声が渇いた森の空気に響いた。周りの人間たちも、一緒になってへらへらおかしそうに笑う。ボディーガードの二人も、先ほどの不気味な笑みの弓矢の男も、みんなみんな笑っていた。

 いつの間にか、森に漂っていた霧はすっかり晴れていた。視界は良好、今や遮るものは何もない。

ここにいる全ての人間が、ロクトのことを見ている。だがロクトは、人間のことなんて目にはなかった。


 パティナ、千歳緑の美しい狼。

 彼女は、そこに倒れていた。まるで眠っているみたいに、ピクリとも動かない。

 横たわった体には、白い羽が生えた細い棒が、いくつも突き刺さっていた。

 矢だ。刺さっているのは、矢だった。

 倒れ伏した彼女は、たくさんの矢を体に受けていて、傷の穴からはとくとくと優しく血が流れ出ている。彼女の流した血の飛沫がそこら中に散っており、千歳緑の体毛と、真っ赤な鮮血が混じり合ったこの光景は、まるで完成された一枚の絵画のようだった。

 傷だらけのパティナ。血まみれのパティナ。矢を受けたパティナ。死んだように眠っているのか、眠るように死んでいるのか。彼女は動かない。パティナは、動かない。

 ロクトの頭の中には、パティナの姿があった。人の姿の彼女も、狼の姿の彼女も。怒っていたり、笑っていたり、苦しんでいたり、真面目な顔をしたり、思いつめる顔をしたり。この短い期間でロクトは彼女のいろんな姿を見てきた。

 彼女は動かない――。

 近付けば、分かるかもしれない。彼女に近付けば、息があるかどうか、分かるかもしれない。

 許せなかった。ロクトは許せなかった。



 肩にかけられた太った男の手を、振り払った。太った男の前にボディーガードがずいと飛び出してきて、彼を守るように腕を広げる。

 ロクトは枯れ葉の落ちた地面に膝をついた。森の地面に広がる湿った土の感触が、布越しに伝わってくる。しっとりと、じっとりと。

 自分の中にある感情は、今、一つ。



「……GuLLLLLL」



 唸る、唸る、唸る。


 黒く伸びた爪は、肉を引き裂くためのもの。

口から伸びた鋭い牙は、肉を喰いちぎるためのもの。

 腹の底から、少し手を伸ばしたぐらいでは届かないような深い場所から、ぞっとするような真っ黒なものが、次々に浮かび上がってくるのを感じる。

 それは、嘔吐感にも似ていた。吐瀉しなければ、ならなかった。


「何事だ?」


 二人組のボディーガードが、男に後ろへ下がるように指示を出すよりも前に、太った男は地を震わす唸り声に怯えた顔をして、ズリズリと後退りした。周りの人間たちも皆、膝をついたロクトの後ろ姿を眺めていた。



「GuuuuuL……」


 憎む、憎む、憎む。


 上向きに尖っていく耳は、獲物の息遣いを聞き取るためのもの。

 伸びていく鼻面は、獲物の居場所を嗅ぎとるためのもの。

 腹の底から湧き上がった真っ黒なものは、五指に形を成して、ロクトの左胸にある心臓を鷲掴みにした。ドクンドクンと跳ねる鼓動が、真っ黒な五本の指に反発するように強くなる。

 心臓が。鷲掴みにされた心臓が、跳ねていた。真っ黒な憎悪が跳躍し、躍動する。

 それは、高揚感にも似ていた。



 ロクトは今、誰よりも深く人間を憎んでいた。


「ああ……」


 扇状に取り囲むように立っていた人間のうちの一人が、絞るような悲鳴をあげた。



「Gggoogogguw」


 笑う、笑う、笑う。


 全身から伸びていく黒い毛は、暗闇に紛れるためのもの。

 黒く輝く筋肉を纏った体躯は、獲物を恐れさせるためのもの。

 そしてなにより、獲物を狩るためのもの。

 一瞬だった。人の姿から、狼の姿へ。今まで、隠してきたことを全部曝け出すような、その瞬間まで、数秒もかからない。

 ロクトは笑っていた。



「人狼だ!」



 群衆の中の一人の人間が、ようやく叫んだ。その声を聞いてか聞かずか、ロクトを見物していた人間たちは一斉に武器を構えた。


「WWwooOoW」


 夜の空に向かって、吠えた。

 もう全て真っ白で、何も見えなかった。

 何も、考えられなかった。

 人間たちが、武器をこちらに向けて、取り囲むように立っている。

 唸り、憎み、笑う。

 爪が疼き、牙が滴る。耳は閉ざして、鼻は歪んだ。黒い毛がなびく、森の中に。体躯が翻る、森の中に。

 締め付けるような感覚があって、そして頭の中で、感覚は弾けた。錘が外れたような、鎖がちぎれたような感覚になった。

 そうして体が軽くなった。

 そこから先のことはロクトにはもう、なにも――。









次回、パティナ編「暗い洞穴の中で」は、明日公開です。

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