◇誇り高き狼
ほんの少しだけ端の欠けた月、沈んでいく時間。
パティナは森の中を散歩していた。迫ってくる夜を待ちながら、虫の声と木々の囁きだけを聞いて。
人の姿よりもずっと身動きがとりやすいから、動く時は決まって狼の姿だった。この狼の姿なら、音や色を過敏に感じ取れる。この美しい世界をより鮮明に聞き分け、そしてその肌で触れることが出来る。
パティナは、ロクトのことを考えていた。
独りを選んだのに他人と関わってよいのか、その相手が人間に近い人狼でよいのか――今まで抱いていたそんな迷いはもうどこにもなかった。
頭の中にあるのは――。
「まさか」
パティナは笑った。夜の闇の中で、月明かりの下で。
ふと、パティナは顔をあげた。
「……!」
もともと、今存在していたのは、所詮、仮初の平穏だった。
狩人たちが街の人間を騙したおかげで、しばらく平和でいられた。だが一時の嘘のメッキは、時を経れば、いずれ剥がれてしまう。
人間の街の近くに住む以上、これは逃れられないこと。ここに住むと決めた時に、知っていたこと。
本当のことを思う。
なぜ人間の街の近くに住んだのかと問われれば、本当は「自分を消して欲しかったから」と答えるつもりでいたのかもしれない。「すべてを誰かに終わらせて欲しかったから」、と。
この森に運命めいたものを感じたのは本当だ。でもここに住むことを選んだとき、既にパティナは、疲れていた。人狼であることの誇りと、生きることの辛さが、自身の中で拮抗していた。
そして長く短い人生の中で徹底的に打ちのめされた精神は、あの故郷の家族や友人たちのように、その身を無惨に引き裂かれることを、無意識に望み始めていたのかもしれない。
ただでは死なないと、侵入してきた人間と争って抵抗して。いつか自分を殺してくれる相手が現れることを祈りながら、一年の時が経った。
そんな時に、彼と、ロクトと、出会った。
今はもう、死を望んではいなかった。生きたい、そう強く願っていた。
だからもうそろそろ、ケリを付ける頃なのだ。
パティナは笑った。
今、この森に人間が、入り込んだ。
それも、大量に。今までの侵入者たちのようにばらばらではなく、まとまってやって来たらしい。
蠢いて、揺れて、確かに、ゆっくりと、確実に、こちらへ近付いている。
狩人たちの嘘は、とっくの昔に効力を失っていたのだろう。人間たちは、力を蓄えていたのだ。結託して、襲いかかってくる。
パティナは笑った。渇いた笑みだった。
危険はすぐそばまで迫っている。
身の毛のよだつ危険だ。もしかすると、これまでで一番の危険かもしれない。
押し寄せてくる悪意、敵意、殺意。
身震いした。
死ぬつもりはなかった。でも、逃げるつもりもなかった。
パティナは、走り出した。
誇り高い、狼の姿で。
短め。あとは、物語が転がるだけなのでした。
次回ロクト編「救行」は、明日公開です。




