◆転調
しかし。
物語が調を転じるのは、いつだって突然のことだ。転じる方向が良いか悪いかは、誰にも予測できはしない。
早朝、いつものように仕事を終えて、ロクトは家に帰ってきた。もちろん公園で過ごすぼんやりの時間――朝の静謐に身を委ね、気分を落ち着けるいつも通りの時間――も過ごして来た。
それから家のベッドに潜って、深い眠りについた。そして、今に至る。
何かを叩く、激しい音がする。
篭ったような鈍く低い音。とても、優しい音とは言えそうにない。
今にも破られそうな勢いで叩かれているのは、外の通路に繋がる、玄関の扉だった。
その音で、目が覚まされた。
「なんだ……?」
貴重な睡眠の邪魔をされて、多少なりとも不機嫌になりながら、ベッドから起き上がって時刻を確認する。仕事に行く時間までまだ余裕はあるし、いつも起きる時間よりも一時間と三十分ほど早い。
シャワーを浴びてから、ろくに頭を乾かさずにベッドに入ってしまったせいで、くせっ毛の頭には、いつもより二倍増しで弾けた寝癖がついている。目がとろんとしていて、視界の四十パーセントは自分のまぶたで占有されていた。こんな時間に誰だ? 頭が回らない。
ふらふらと玄関の前に立ち、ドアスコープから寝ぼけ眼で通路を覗き込んだ。姿は見えない。すると「ロクトさん!」とドアの向こうから、くぐもった声が聞こえた。前にもこんなことがあったな。ドアスコープから客人の姿が見えない訳だ。
またドンドンとドアが叩かれ始めた。
一体何事だ? 只事でないことを、眠っていた頭がようやく理解し始めた。慌ててチェーンを外し、ドアを開けた。
「どうした?」
ドアが開いた途端、今まで拳を叩きつけ続けていたフェックは、ロクトに勢いよく詰め寄りながら、もう一度大きな声を上げた。
「ロクトさん!」
どこかから全力で走ってきたのだろうか、少年の息は上がっていた。ロクトが心配そうに自分を見ているのに気付いて、フェックは一度大きく深呼吸してから、口を開いた。
「人狼狩りです……!」
「え?」少年が声を殺して放った言葉を聞いて、ロクトは自分の胸が、刺々しい氷に覆われて、凍てついていくのを感じた。
人狼狩り、とは、どういうことだ? それは一体なんだ? と尋ねるよりも前に、少年は自分の息を落ち着かせるように、言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「今、西門で、人が騒いでいて……。そこにいた人に聞いたら、『人狼狩りへ行った奴らを見送った』って……」
「…………」
ようやく落ち着いてきた少年は、それ以上口を開かず、ロクトの言葉を待っている。
一方のロクトは、少年とは反対に、少しずつ焦りを感じ始めていた。人狼狩り、人狼狩り、人狼狩り――ロクトは口の中でつぶやいた。人狼を、狩る? 頭がこんがらがって、よく分からなくなってきた。なんだ、それは?
だが、それよりも前に。思ったことがあった。気付いたことがあった。
「待って、君……」
フェックは、彼は何故、ここへ来た? 何故、人狼狩りの話を聞いて、ここへ飛んできた? 何故自分に人狼狩りとやらのことを、伝えに来た?
人狼、人狼――。
冷やっとした、嫌な汗。言いにくそうに目を伏せる少年の姿を見て、心がざわつく。
「気付いてたのか?」口をついた言葉は、我ながら間の抜けた声だった。
「はい」と、フェックは頷いた。「僕が突き落とされたのをロクトさんが助けてくれたとき、見ました」
貴方が、狼に変わる姿を。少年の真っ直ぐな双眸が、ロクトを突き刺した。
驚きのあまり目を瞬く。額を手で抑えて、目を閉じた。表情が歪む。
少年は、最初から全てに気付いていた。自分を助けたのが人狼だということに。その人狼が人狼の身でありながら、この人間の街に住んでいるということに。そして、その人狼が人狼でありながら、人間の少年と会話をしていることに。ロクトは、顔から血の気が引いていくのを感じていた。
「驚きましたか?」
「あ、ああ……驚いたよ」
「大丈夫です。誰にも言ってません」
堅く結ばれた口。声が発せないロクトを置いて、少年はさらに続ける。少年がここへ来たのは、ロクトが人狼であることを、責めに来たのではない。
「それより、この街から人狼狩りの部隊が出て行くってことは、街の近くに人狼が住んでいるってことですよね? もしかしたら、その人狼が、ロクトさんの知り合いなんじゃないかと思って」
ロクトが混乱しているのを気にも留めず、少年は言った。そして自分を覗く彼の素の目を見て、徐々に混乱が収まる。
人間に正体を知られた。それは由々しき事態だろう。しっかり姿を見られていた自分の間抜け加減に、これ以上ないまでに辟易する。
ロクトは、焦りに満ちた目で少年を見た。信頼、出来るのか? 今更な疑問が頭を支配する。
相手は子どもであろうが、人間だ。だがこの少年は、ロクトに人狼の危機を伝えるためだけに、ここまで走ってきた。そして彼は、今までロクトの正体に気付きながら尚、自ら進んで言葉を交わしていたのだ。今はそれだけで十分、彼が自分の敵ではないことの証明になる。なるはずだ。詳しい話を聞くのも、考えるのも、後でいい。今はとにかく――。
「ああ、知り合いだ……間違いなく……」
ロクトの固い表情を見て、少年は下唇を噛み締めた。
街の人間が、西門から出た。それも大勢だ。その大勢は武器を携え、殺気立ててぞろぞろと連れ立っていった。毛が逆立つ。冷や汗が流れる。人間たちは、パティナを殺すために、結集しようとしいている。
だが、はっきりしていることがある。
履き慣れたスニーカーを履いて、扉を開け切った。前に立っていたフェックの脇に出る。
「どれぐらいの数か分かる?」
「正確な数は……」少年が首を左右に振った。「でも、たくさんだと思います。あんな見送りをしているのなんて初めて見ましたから」
人間よりも身体能力が優れるとは言え、圧倒的な数で叩かれれば、例え人狼であろうとも、数の力には敵わない。
囲まれて、動けなくなっている彼女の姿が、ありありと脳裏に浮かぶ。ぞわぞわ、嫌な予感がした。どくどく、脈打つのが聞こえてくる。
急がないと。何をすればいいのかは、よく分かっている。
「ありがとう」
ロクトは振り返らずに、通路を走り、階段をくだった。フェックが後ろで何かを言うのが聞こえる。
しかし、今は一刻の猶予もない。街の外に向けて走り出したロクトの瞳には、様々な情念が苦悶の表情を浮かべながら渦巻いている。
「パティ……」
急がないと。
不穏だ。
次回パティナ編「誇り高き狼」は、続けて公開中です。




