◇持たざる者だった者
以前の自分が、今の自分を見たら何と言うだろう。特に、あの血みどろの故郷を去ったばかりの頃の自分が見れば。
平穏の中で幸せを感じると同時に、そんなことを思ってしまうことがある。
パティナは彼に、自分の過去を話した。
そうしてようやく彼と友人になることができた。
ここに来て新しい友人ができたことは、幸せなことだと思えた。相手のことを知れば知るほど、共に時を過ごせば過ごすほど、いろいろなことが積み重なっていく。
しかし、その積み重なった幸せを、きっと過去の自分は否定することだろう。今の状況を見れば、失望さえするかもしれない。
『パティナ、お前は絆されるような人狼じゃなかったはずだ』
腕を組み、険しい表情で言う、人の姿の自分。牙を剥いて、唸り声をあげる狼の姿の自分。だがそれらは、今のパティナにとってみれば、もはやただの過去のものだった。
あの独りになったばかりの自分の考えが、間違っていたとは思わない。独りで生きれば、与えられた苦しみや悲しみも、全て独りで背負いきれば、それだけで済んでしまう。独り分なのだから当たり前だ。大切な誰かを失って、辛い思いをすることも無くなるだろう。
だがそれは、夢物語に過ぎず、ただの理想論だ。間違ってはいなくても、正しくもない。たった独りで生きることなど、誰にも出来やしない。
独りは楽だ。自分さえ見えていれば、他の何も見なくていい。誰かの面倒を見る必要もない。誰かのため、なんてことは考えなくていい。自分の失敗が、誰かの悲しみに繋がることはない。楽だ。だが独りでは、幸せや喜びを感じることもなくなってしまった。
パティナは、既に気が付いていた。
少なくとも自分は、独りでは生きられない生き物だ。
誰かと向き合い、深く関わることで生じる喜びに、勝るものは何もない。他人との繋りは、必要不可欠なのだ。
証拠に今、パティナは幸せだった。長らく他人との深い関わりを絶っていたせいで、“元に戻る”のには苦労したが、その先にあった幸せは、その苦労の苦味すらかき消した。
そう、繋がりとは、幸福そのもの。一人の時には絶対に得られなかった感情――。
「これでいいんだ」
森の中、今日は一人、一日を過ごすことになる。荘厳を感じさせる世界の中。清浄な大気に浮かぶ朝焼け空は、今日も見事なまでに美しい。
自分の体の表面、瞳の色、髪の色。全てが朝焼けの色に染まっているのを感じていた。洞穴の外壁も、生い茂る木々も、足元に広がる肥沃な大地も。みんな朝焼けの、切なくて、振り絞られるような儚いながらも、どこかかつ力強い色に、染まっている。
「…………」
これでようやく、前に進めたような気がした。今まで、ずっと立ち止まっていたのだ。この停止は、いつから始まっていたのだろう?
そういえば、とふと思い出した。
人間。頭の中に人間の姿が思い浮かぶ。普遍的な、成人した人間の姿。あの街、ライハークに住まう人間の姿だ。
ここしばらく、彼らを見ていない。それはあの狩人たちが、自分たちの依頼者へ行なったであろう虚偽報告が、今も生きている証拠だろう。
『森に住む狼一頭を、無事に討伐した』
あの狩人三人が攻め込んできた日から、既に一ヶ月の時が経っている。狩人たちの証言は、随分長い期間、効力を発揮しているようだった。
人間が来なくなった。気付いてみれば、それも大きな進歩だ。
今までの長い間、ずっと見続けていた人間という悪夢から目が覚めたことは、大変に喜ばしいことだ。人間を見なくて済むのなら、それに越したことはないのだから。
確実に、平和は近付いている。パティナは、そう確信した。
なにもかも気持ちの整理がついたみたいですね。
次話、ロクト編「転調」は明日公開です。
意図せず連続更新になってしまったけど、このまま毎日更新にしちゃいます。へへへ。




