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◆二度目の満月の日







 満月の夜がやってきた。

 洞穴、見知らぬ人狼、敵意、殺意――。あの満月の日、パティナと出会ってから、既にひと月もの時が経った。

 たった一ヶ月。流れた時間はあっという間のことだったし、反面濃密で、とても長い時間だったようにも感じられる。

 ひっついて離れ、突き放され、また受け入れられ、狩人が現れ、彼女が倒れたこともあった。そして彼女の過去を聞き、二人の人狼は友人となった。

 彼女とは関係ないことでは、フェックという人間の子どもとの出会いがあった。恩人であるブローカーとの遭遇も、何度もあった。彼に斡旋された仕事は、相変わらず忙しかった。

 たった一ヶ月とは思えないほど濃密なこの一ヶ月間を、ロクトは今一度、噛み締めるように思い返していた。



 満月の夜の仕事は、休みを取っている。

 今回の満月の夜は、家の外壁の補修工事も無く、過ごそうと思えば自室で閉じこもることも出来た。だが今宵どこで過ごすかは、既に決まっている。

 日が暮れて月が輝き出すよりもずっと前、まだ太陽がキラキラ光る間に街を出て、弾む足を落ち着けて、ロクトは森へ向かっていた。

 ひとつ、物をその肩に携えて。



「ああ、来たか」


 狼の姿のまま、お腹を地面にぴったりつけて寛いでいたパティナが、いつもと同じ道なき道からやってくるロクトに気付いて顔を上げた。

 そしてすぐにロクトの肩に担がれた“それ”に目を向ける。


「それなんだ?」

「釣竿だよ」


 ロクトが用意してきたのは、釣竿と釣りの道具一式。自室の押入れの一番奥へしまいこんでいた釣竿を引っ張り出してきたのだ。ライハークへ来てから購入したはいいが、人間の街で釣り道具を使う日が来るはずもなく、押し入れの奥に突っ込んだままだった。


「へ? 釣り?」


 今宵は満月。満月の夜、人狼は強制的に狼の姿になってしまう。狼の姿になると、人の姿でないと出来ない器用な動作は封じられてしまう。そんな状態で釣りをしようというのか、と彼女の顔には書かれていた。

 不思議な顔をしている彼女に向かい、ロクトは洞穴の前、青い空を指差した。


「まだ日は沈んでないし」


 時間はたっぷりあるよ、とロクトは笑った。

 日が沈む前に。狼に姿を変える前に。同じ時間を過ごすなら、それまで一緒に楽しく時間を潰しましょう、というわけだ。


「よし、分かった」


 意味が分かると、パティナはすぐに立ち上がり、軽快な足取りで洞穴の中へ。そして獲物を入れる木製のバケツを片手に、釣竿を担ぎ、人の姿で洞穴から出てきた。


「やろう」



 お気に入りの釣りポイントがある、そう言って彼女に連れてこられたのは、パティナの住む洞穴にたどり着くまでに通る川を、さらに遡った上流。到着するのに十数分かかる距離にある、少し離れた場所だ。

 川の流れは大した速さではないが、水深は決して浅くはない。目測でもロクトの胸ぐらいまでの深さがありそうだ。嬉しいことに、岩の上から覗くだけでも、群れをなす魚影が見える。魚影がちらちらと泳ぐたびに透明な水の色がうねり、ぐらぐらと歪んだ。

 空気の澄んだ綺麗な森に染み入る川のせせらぎは、森の持つ美しさをさらに強く引き立たせた。きめの細かい水音の囁きが、森の静寂の表面を洗い流し、浄化する。

 遠くから聞こえるのは滝の音だろうか? 木々に囲まれた緑の川が、この森のずっと上から続き、下流に向かって注がれているのだろう。

 川の上面を覆うような木の枝と、その葉の隙間から透り抜ける太陽の容赦ない微笑が、水面をキラキラに眩しくさせ、ロクトは思わず目を細めた。

 上流もこんなに綺麗だったんだ、感嘆の息を漏らすロクトを尻目に、パティナは苔むした大きな石に腰を下ろした。

 手馴れた手つきで道具の準備を始めたが、ロクトが立ち尽くしているのに気付いて、パティナが顔をあげた。


「そこに座るといい」


 彼女が指差したのは、彼女の座る石のとなり。こちらも苔むしているが、彼女の座っているものよりもずっと大きい岩だ。一回り、いや二回りほどの大きさで、足をかけるのにも一苦労する。

 なんとか上に乗り、自分も道具の用意をする。膝の上に釣り道具一式の入った容器を開いて、せっせと手を動かした。

 パティナは、釣り針に瓶の中から素手で取り出したニョロニョロした虫を引っ掛けて、竿を振って水の中へそれを投げ込んだ。ポチャンと音がして、水面に波紋が広がる。するとウキ――ロクトが渡したものだった――がぷかりと浮かび上がり、棘のように突出した部位を空へ向けた。あのウキを使ってくれていることを知り、自然と顔がほころぶ。ロクトもすぐに同じ手つきで準備して、釣竿を振った。

 二つのウキが澄み切った川の流れの中に逆らうように浮いている。二人は並んで竿に動きが訪れるのを待った。



「……平和だね」

「……」


 それから数十分間、一切アタリがなかった。ここから見るだけでも、たくさんの魚影が見えるというのに、一切アタリがないとは思いもしない。

 パティナも普段と勝手が違うのか、不思議そうにしていた。石の上であぐらをかいたまま「おかしいな」と呟いては、竿を軽く左右に振ってみたり、竿を置いて水の中を覗き込んだりしてみるが、様子は一向に変わらない。

 それどころか、水中を泳ぐ魚の動きは、「お前らなんぞに釣られるものか」とでも嘲笑うかのように、活き活きしている。

 しばらく経って、ロクトは岩の上から水面に向かって足を投げ出していた。あまりにもアタリが来ず、少し退屈になってきた。久しぶりに釣りをしたが、ここまで退屈なものだっただろうか。

 そう思いかけて首を振るう。釣りとは、耐えるものだ。ロクトは自分に言い聞かせ、心を無にしてアタリが来るのを待つことにした。



 暇を紛らわすための会話。


「そういえば」


 ロクトは思い立って口を開いた。


「どうしてパティナは人間が森に入ったことが分かるんだ?」


 前から気になっていたことだ。前に狩人が森へ侵入したとき、彼女はいち早くその存在を察知した。ロクトは一切狩人の存在に気付かなかったし、あれだけ離れた場所の存在に気付くのは普通ではないだろう。あれには何か仕組みがあるのだろうか。

 しかしパティナの答えは、ロクトの思っていたものとは違った。


「この森に来てから、なんとなく分かるんだ。森が教えてくれているのかもしれない、と私は考えているが」

「この森が?」


 生来持っていた能力ではない、ということか。ロクトは、頭上に覆い被さる緑の幕を見上げた。

少なくともこの森は、ロクトには狩人の存在を教えなかった。つまりその察知能力は、この森が彼女にだけ与えた力。

 パティナはアタリが来ない暇を紛らわせるように、ぼんやりと言った。


「これは私の考えだが――この能力は、私がこの森へ住み着くように森から贈られた、祝いの品だったんだろう」

「…………」

「まぁ、おかげでこうして、呑気に釣りなんてことをしていられる訳だ」


 アタリは来ないがな、パティナは水面を眺めながら呟いた。



 それからしばらくしても、釣竿に反応はなかった。そうこうしているうちに、どんどん日が傾いていく。真上から直接差し込んでいた陽光は斜になり、空の色合いも黄味が強まってくる。このまま何の結果も訪れず、時間だけが過ぎていくような気がした。

 それも悪くないか、とロクトが目を細めてあくびをしそうになったその時。


「あのさ」


 釣竿の先から伸びる釣り糸、その先の水面の水の動き。それを見つめながら物思いに耽っていると、突然パティナが声をあげたせいで、あくびが引っ込んでしまった。顔を向けると、彼女も水面を眺めている。声をかけてきたのに、顔はこちらを向いていない。


「どうしたの」


 ロクトは視線を前に戻し、再び川の水面を見た。あくびは完全に収まってしまった。


「“パティ”」

「え?」


 聞き返すように、思わず顔を彼女に向ける。


「……私のこと、“パティ”って呼んでも……いいけど」


 前に視線を注ぎながら、少し語気を強めて言った彼女の表情に、目に見える深い変化はない。だがロクトが彼女の顔を驚きの表情で眺めていると、千歳緑の映える彼女の健康的な肌が、急激に赤く染まっていくのが見えた。少し尖った耳の先は、まるで火に炙られでもしたように真っ赤になっている。

 ロクトは堪えきれず、笑ってしまった。


「おい、なに笑ってるんだよ」


 勢いよく振り返る彼女は、怒っていた。


「冗談じゃないんだぞ!」

「分かった、分かったから」


 あぐらを解いて立ち上がり、憤然と肩を起こし、眉根を寄せるパティナを見ると、それがまた可笑しくて、もっと笑えてしまう。

 抑えようと口に出した言葉にも笑いがこもり、上手く相手に届かない。ロクトの笑い混じりの言葉は、パティナの怒りをさらに膨らませる。竿をその場に置いて、食ってかかるようにロクトに詰め寄る。

 ロクトの乗っていた大きな岩の上に、パティナも乗り上がってきた。


「あ!」


 その時、ロクトの手元にあった釣り竿に、ぴくぴくという目に見えて明らかな動きがあった。アタリだ。

 水面、釣り糸の先を見る。そうすると、今まで見えていた魚影よりもずっと大きな魚が、釣り針に勢いよく食いついているのが見えた。水面が揺らいで正確な大きさは目算で測れないが、少なくとも他に泳いでいる魚の数倍は大きい。


「ヒット! ヒットしてる!」

「なに!?」


 ロクトが叫ぶと、パティナは今まで抱いていた怒りをどこかへすっ飛ばし、ロクトを押しのけるように岩の上から身を乗り出した。

 竿を引く力は強い。ロクトは川に向かって下ろしていた足を引き上げて、なんとか岩の上に足をつけた。すぐ隣では、パティナが水中を覗き込んでいる。

 引っ張られていることに気付いたのか、獲物が強く、竿を引く。


「うわっ」


 悲鳴をあげ、バランスを崩しそうになる。なんとか踏ん張って立つが、このままだと竿もろとも水中に引きずり込まれそうだ。

 必死に引っ張って反抗するが、獲物が糸を引く力は、自分のものよりも大きい。久々の釣りで、更に久々のアタリ。そして相手は、かなりの大物だ。手に汗が滲んできた、逃がしたくない。

 夕焼けの空に照らされた水面は、橙に染まっている。橙の水の中を、大きな魚影がすごい速さでところ狭しと泳ぎ回る。


「しっかりしろ!」


 このままでは逃してしまう、とパティナも立ち上がりロクトの隣に並んだ。いくら大きな岩といっても、人が二人も乗っかるとさすがに狭いが、そうは言っていられない。パティナはロクトの横にひっついて、彼が握っている部分よりもさらに上部を、両手でひっしと掴んだ。


「重い!」


 手に、腕に力がこもる。ロクトの腕はプルプルと震えていた。二人で岩の上に踏みとどまり、なんとか必死に釣り竿を引っ張る――が、川の巨大魚が引く力はさらに増し、二人分の力を合わせても、留まることを知りそうにない。

 せーの、と息を合わせ、更に強い力で引っ張っても、引っ張っても、相手の力がそれを上回る。次第に二人の体は、じりじりと少しずつ川の方向、乗っていた岩の端へと引き寄せられていっていた。


「死んでも離すなよ!」

「今日の夕飯だもんね……!」


 二人は叫ぶように声を張り上げた。

 だが、その時。

「あっ」と、二人の声が重なった。

 二人の乗っていたのは岩だ。岩には、苔がむしていた。苔は植物で、植物は一程度の水分を有しており、特にその中でも苔は、たっぷりの水分を含んでいる。つまり、上に乗ると、大変滑りやすい。

 二人の体は足元から、ツルリとひっくり返るように岩の上を滑り、そして次の瞬間には勢いよく水面に叩きつけられていた。

 弾けるような小さな水柱が二つ、水深のある川に昇る。衝撃で飛び散った水しぶきは雨のように辺りに細かく降り注いだ。


「ぶはっ」


 水面から顔を出すロクト、一拍遅れてパティナも顔を出した。水底についた足。立ってみると、やはり水の高さはちょうど胸元に達するぐらいだ。

 呆けて立っていると、二人の手から離れた釣竿が、凄い勢いで川上へと昇っていくのが見えた。巨大魚が釣り針を咥えたまま、釣竿を引っ掛けて、手の届かない場所へ逃げていく。

 しばらく水面を走り去っていく釣竿の様子を眺め、そしてびしょ濡れになったお互いの姿を見て、思わず二人は吹き出した。


「びしょびしょだ!」


 ロクトは思わず、笑いながら悲鳴をあげた。

 パティナの千歳緑の髪が、水に濡れてより濃い深緑になる。ロクトの黒髪は水を浴びてキラキラ光っていた。



 笑っている最中、水の中にいた二人の体は、突然に形を変え始めた。鼻先が伸びて、耳がさらに尖り、爪は鋭く。手は前脚に、足は後ろ脚に。体中からぞわぞわと毛が生え始め、毛の中に服の繊維が飲み込まれていく。


「あ……」


 思い出したように空を見上げると、橙に染まった空が深い青と混じり、それに包まれた世界が暗くなっていくところだった。空を覆い隠す緑の天蓋の隙間からでも、丸い月が浮かんでいるのがよく見えた。







 平和だ!!


 次話パティナ編「持たざるものだった者」は、続けて公開中です。短いよ。

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