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◇持たざる者





 森の中を駆ける、狼の姿。牙を剥いて舌を出し、口で呼吸しながら、ひた走る。

 どっ、どっ、どっ。筋肉質な足が、土を蹴る重たい音を立てながら、湿った土の上を往く。大きな樹木の脇を駆け抜けて、行く手を阻むように伸びる太い幹を飛び越えた。最短距離を突けるように、行く先々のルートを見極めながら、駆る。

 数頭のデアディーアの群れが、軽やかな足取りでパティナの前を跳ねていた。デアディーアたちは捕食者に捕らわれまいと、懸命に足を動かし、力強く走っている。

 デアディーアは恐ろしく脚が早い。その速度は、最高時速六十キロにも達すると言われている。

 そんな超脚力の生き物を、パティナは今、必死で追いかけていた。



 パティナがそうであるように、森の中のあれやこれを把握しているのは、野生動物であるデアディーアも同じようだ。

 四、五、六――数えたのは、前を走るデアディーアの数。先ほどまでもう少し数がいたが、いつの間にか数頭減っている。

 何頭かが目立つように逃げ回りながら、足の遅いものや、スタミナの尽きそうなものを、逃走と追走の間から少しずつ離脱させ、最後に残った一番活きのいい一頭が、追跡者を一気に突き放すといった寸法、なのだろう。

 彼ら野生動物が考えて行動しているのか、本能で勝手に動いているのかは不明だが、その可能性は高そうだ。


「くっ」


 流れの浅い川にさしかかる。飛び石の橋の上を軽やかにぴょんぴょん跳ね、獲物たちは向こう岸へと渡ってしまった。

 慌てて彼らと同じように飛び石に飛び乗って、ひとつふたつと飛び移る。

 石の上は滑るが、ゆっくり渡っている暇はない。姿勢を崩さないようになんとか渡りきって、すぐに森の奥へ消えようとする後ろ姿を追う。



「そろそろ……」

 パティナの体力も限界が近かった。かれこれもう十分近く、全力疾走している。

 久々の本格的な狩りだったし、いつもは不意打ちで仕留めてしまうので、これほど走り回るのはいつぶりのことかも思い出せない。

 デアディーアたちに近付けそうな険しい道を選びながら、懸命に後ろ姿を追いかける。

 こちらへ逃げ込ませれば、もうすぐ、ぬかるんだ沼に差し掛かるはずだ。事前に決めたルート通りに追い詰められているので、このまま進めば、あの沼にぶち当たることになる。いくら足が早くても、沼に入れば足を取られて進めないだろう。そうすれば――。

 走っていると、ピューという甲高い笛の音が聞こえた。リサキと交換した物品の一つ、銀色のホイッスルの音色だ。

 これが合図だった。


「よし……」


 狼の口を歪ませて、パティナは体を震わせた。

 前方のデアディーアたちとの距離は、時間をかけるほどにじりじりと離されて、随分と距離が空いている。だがもうすぐ、沼にぶつかる頃合のはずだ。

 パティナは勢いを緩めず、予定していた目標地点である沼へ向かった。走る最中、顔に当たった真緑の植物に、ぞりっと頬の皮膚を持っていかれるような感覚がした。流血まではしていないが、頬が痛い。

 パティナがようやく沼にたどり着いた頃、デアディーアたちは、確かにどろどろした沼に足を踏み入れていた。だが、彼ら野生動物の力は想像の上を行く。既に先頭を走っていたデアディーアが、沼の向こう岸へ登ろうとしているところだった。

 この沼は、一見水が張っただけの浅い池のように見えるが、実は人間の脛がどっぷり浸かるぐらいの深さまで、どろどろした泥が積もる深い沼になっている。

 デアディーアの数は五頭。あれからまた一頭減っている。このままこの沼から逃してしまえば、またみるみるうちに数を減らしてしまうだろう。

 パティナが沼の前で立ち往生していると、沼のぬかるみにはまっていた先頭のデアディーアが、ついに沼の岸へと前足を乗せた。


 逃がしてしまう、そう思ったその時、先頭のそのデアディーアの動きがピタリと止まった。

 野生動物の危機察知能力は、人間や人狼のものよりも遥かに高い。


「追い詰めた」


 沼を渡りきった前方、木の陰から現れた真っ黒な狼が、落ち着いた声で言った。ロクトは沼の彼岸にいるパティナに目配せした。成功だ。

 先頭のデアディーアが、ロクトを見て、まるで観念したように、沼を上がりきる前に、その場で足を折って留まった。



 二人は、沼に嵌った五頭のうち一頭だけを、仕留めることにした。

「狩りは森から命を貰うのと同義」「だから無益な殺生はダメだ」、というパティナの思う狩りの心構え二点は、ロクトにも事前に伝えてある。

 無事に沼から抜け出して、ぴょんぴょん跳ねて逃げていくデアディーアたちの背中を、二人は並んで見送った。



 獲れたデアディーアの肉は、もちろん食べる。他の部位、皮は防寒用具の素材に回し、骨も生活で使用する物に転用できるように保存した。

 狩りが終わった頃にはすっかり日が暮れかかっていて、森の中から見える空にはパステルカラーの夕焼けが広がっている。もう少ししたら、辺りはきらりと黄色い光を残した後、惜しむように暗くなり始めるのだろう。

 病気などの事情が重なって、なかなか行えなかった狩りを成功させて上機嫌だったパティナは、目の前で燃え盛る火を眺めながら、胃に消えた肉の味を思い出していた。


「“パティ”っていうのは、愛称か何かなの?」


 だから、正直気を抜いていた。鳩尾でも突かれたかのような動揺がパティナを襲う。突然の意図せぬ質問に、思いがけず「はっ」と変な声が出た。それから切り返すための言葉は、考えなくても口をつく。


「どこでそれを?」

「いや、この前……」


 パティナの不在時に訪ねてきた際、リサキが押し付けていった手紙の裏に書かれていた、ということ。じっとりした目で恨みっぽく睨むパティナを見て、ロクトは釈明するように、しどろもどろに説明した。


「そ、そうか……」


 焚かれた火の前、肥沃なこの森で育った瑞々しい肉の味が舌の上から消えぬうち、思いがけぬ問いかけに、心臓が跳ねる。


「やっぱり愛称なの?」


 面白そうに尋ねてくるロクトの顔から目をそらし、口を結ぶ。

 “パティ”というのが愛称であることに、間違いはない。その愛称をシャナルル“も”使っていることも、間違いではない。

 だが――。


「…………」


 パティ。元は、パティナの両親が、パティナを呼ぶときに使っていた愛称だった。


『パティ、今日はどこへ行っていたんだ?』

『パティ! 驚かずに聞いてね……パティにきょうだいができたの』

『パティは、私の自慢の娘だよ』

『パティはいい子ね……本当に、良い子……』


 パティナという名前である以上、つけられる愛称の種類など限られていることなど、よく理解していた。だがその名で呼ばれることには、まだ慣れられそうにない。シャナルルが仲良くなりたいからと「パティ」と自分のことを呼び出した時も、慣れるまでにかなりの時間がかかったことを覚えていた。

 そもそもこの一年と少しの間、他人との関わりを出来る限り絶っていたのだ。話のできる相手はたまにやってくるリサキだけで、リサキがパティナを呼ぶときは決まって“パティナさん”だった。リサキから“パティ”と呼ばれることは、これからもないだろう。

 つまるところ、愛称で呼ばれることに、耐性がない。そして思い入れのある名前だから、大切にしたい。だから、「パティ」という愛称には慣れられないし、慣れるつもりも毛頭なかった。


「あ、聞かない方が良かった?」


 悪気なく言ったことを、申し訳なさそうに謝るロクトにも「まあ」と適当にお茶を濁す以外、何も言おうとはしなかった。

 愛称への愛着なんて、説明する方はともかく、ましてや聞く方はきっと面倒だろう。

それに、ロクトに愛称を呼ばれて特別悪い気がしなかったことなど、言える訳がなかったし、それはまだ認めたくないような気がしていた。




 パチパチと薪を燃やし盛る火の中に、真っ黒な髪のロクトの姿を浮かべながら、パティナは一人でじっとしていた。

 森の中はとっぷりと夜に沈み、夜空に広がる灰色の雲の隙間から、ほとんど丸に近付いた月が、冷笑を浮かべている。あともう少しで満月だ。

 あの満月の出会いから、もう少しで一ヶ月。

 新しい薪を火にくべ、静かに微笑む。


「…………」


 人間の街で人間のように暮らす彼とは、ほとんどの時間別々に生きていた。だが過ごす時間は、着実に増えた。

 人狼の友人ができるというのはとても喜ばしいことで、ありがたいことだった。デアディーアを追い詰めて狩るなんて、独りでは絶対に出来ないことだったし、話を対等な立場で聞いてくれる相手がいるのも、前とは違う。



 でも、彼が近くにいることは、ある種不安でもあった。

 彼は善人だ。グレヴェ。あの裏切り者と彼は違う。彼のことを信頼しているし、彼もパティナに信頼されていることを理解しながら、それを受け止めてくれている。

 だから不安の種は、彼ではなく、パティナ自身にあった。

 他人との繋がりは本当に必要なのか? 不要ではないのか? そんな疑問があった。

 この森にやってきたのは、もとは独りで生きるためだ。実際に独りで生きてきた。それなのに、今のように密接に他者と関わっていては、ここに来た意味がないのではないか、と自分の中でわんわんと警鐘が鳴らされている気がした。

 故郷のあの惨劇が、パティナの根底にある。自分が好奇心さえ抑制できていれば、あの裏切り者の人狼に出逢うことはなかったわけで。彼に出会ってしまったから、自分の家族や友人たちを失ってしまったわけで。

 あの惨劇を引き起こしてしまった自らの罪を背負う。いつだって罪の意識は頭の中にある。反省や後悔だけでは、償いきれない過去。あの時点で、失ったものが多すぎた。大きすぎた。

 自分なりに罪を受け止めて、腕の中に抱え、胸の中に押し込めてきた。

 罪を数え、反芻するうち、気付くことがあった。行き着いた結論――。


『失う悲しみは、持たざる者には訪れない』


 持っていなければ、失くすことはない。一見当たり前のことだが、絶対に狂うことも、ズレることもない真理。

 もとから独りでいれば、誰も傷付かないし、傷付けることも、傷付けられることもない。そう思って行動した。森の中で、独りになれた。そのはずなのに、訪れた結果は今、また他人へ、自分ではない、誰かへ――。



 パティナは火を棒っきれでつつきながら、皮肉っぽい笑みを浮かべた。人にはとても見せられないような、空虚で自嘲的な微笑み。

 罪を受け入れたような気持ちになっても、そうは行かない。

 自分の犯した罪に、誰かが赦しや罰を与えてくれることはない。


「弱い……」


 私は。


 自分に言い聞かせるように呟く。

 弱いのだ。誰かに寄りかかり、頼ってしまう。自分は弱い。過去を吐き出し、それを受け入れてもらって、心は安らいだ。だが、罰を与えることも、赦しを与えることも――。


「いや……違う」


 彼に求めているのは、赦しでも罰でもないと、パティナは思った。

 なんだろう、口の中で磨り潰すように漏らし、自嘲的な笑みを消し去った。

 もとより、罰も赦しも、彼には求めていなかった。ただ望むのは、彼が傍にいてくれたら、ということ。

 犯した罪は、消えない。自分は弱い、それは変わらない。

 だが罰や赦しを自分に与えられるのは、弱い自分だけだ。彼には、その罪を背負う自分の傍に居て欲しいと思った。途方もない我が儘で、笑ってしまうぐらいの自分勝手。

 突っぱねていた存在。疑って、疑って、貶めて、傷付けて、侮辱して、蔑んで――それを最後に受け入れて、しかも傍に居て欲しいなんて。

 自分勝手だ、パティナはもう一度、その答えを溶かした。溶いて混ぜて、燻った。目の前でパチパチ音を立てる火の中に、その答えを投げ込みたい衝動に駆られる。



 炎が立つ。薄く白い煙が浄化されて、夜の空へ昇っていく。まるで天国にでも昇るみたいに。でも夜の空はあまりにも暗すぎて、そこが天国の入り口だとは、どうしても見えなかった。





 次話ロクト編「二度目の満月の日」は明日公開です。

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