◇オオカミオンナ、パティナ
水辺に立った女がいた。
女の名前は、パティナ。彼女もまた、人狼である。
澄んだ森の池の水面を、よく彼女は覗き込んだ。半ば呆然と、何も考えることなく、頭の中から何もかもを放っぽり去って、ぼんやりと水に映る人狼の姿を眺め、息を抜く。人の姿のまま、パティナは今もそうしていた。
肩まで伸びた、深くくすんだ千歳緑の髪が、サラサラと艶やかに水面の鏡の中で美しく揺れる。
パティナは自分の顔を見て、いっと歯を食いしばった。つんとして筋の通った高い鼻梁の下に構える薄く赤い唇から、惜しげなく、鋭い犬歯が覗いた。
こちらが覗き込むと、向こうからも強い眼差しがこちらを見つめ返してくる。丸いながらも、どこか鋭い目つき。目と目が合うと、その目の奥にある色味、深緑がはっきりと見えた。澄んだ水のせいで、いつもより透明だった。
じっとその目を覗いていると、次第に気分が悪くなってくる。嫌気が差して乱雑に右手で水の鏡を掻き回すと、水面の人狼は掻き消えた。
人間とは、人狼に敵対する忌むべき種族だ。
パティナにとってその考えが揺らぐことはない。いつどこでどんな人間に出会っても、彼らは口を揃えて人狼を罵った。石を投げて、殴りつけて、殺そうとすることも多くあった。襲われた時に受けた傷は、今も消えることなく衣服の下に確かに残っている。
パティナは人間に対して強い怒りを抱いていた。そしてそれと同時に、確かな恐怖もあった。
人間さえいなければと何度思ったことだろう。人間さえいなければ、人狼たちはどれだけ幸せになれたのか、どれだけの涙を呑むことなく、どれだけの血を流さずに済んだのか。考えるだけで、体中の血液が沸き立った。その誇り高い血液は、ぐつぐつと懸命に怒りを訴えた。
人間と人狼とは、同等の数だったと両親に聞いたことがある。しかしいつしか、人間は数を増やし、人狼を狩り始めた。その際に古い人狼たちは、「人間とは違う」と人を殺そうとはしなかった。自身らの誇り高さ故に、殺しを好まなかった。おかげで人狼は迫害を受け続けることになる。だがしかし、彼ら先祖の考えは、今の人狼達にも、頭の中に刷り込まれ受け継がれていることを、パティナは理解していた。
その証拠に、パティナ自身も強く人間を憎んでいるものの、彼らをひとり残らず殺してやりたいとまで思った事はなかった。殺してやりたいとは、思わなかった。先祖の考えたように、好まぬ者を殺戮しようとする人間と、同じにはなりたくないと心の底から思っていた。長く生きてきて多くの人間と出会ったが、実際に人間を殺したことはなかった。
ただ、人間が人狼に対して抱くのと同じぐらいの嫌悪感を、彼らに対して抱くだけ。殺したくはなくとも、人間が唾棄すべき存在であることに変わりはない。パティナがこれまでに出会った人間の数だけ、悪い出来ごとが結びついていると言っても、決して過言ではなかった。
人間達の“狩り”の脅威はいつもすぐそばにある。この静かな森にも“狩り”の影が入り込むことが多々ある。
この森は、人間の街からそう遠くない。街まで徒歩で一時間もかからない距離だ、むしろ近いと言えるだろう。街からもこの森が見えるし、高い場所なら森からも街の全貌を視界に入れることが出来た。
あの街の名は、ライハーク。この辺りの地域なら一番の大都市で、人の往来の激しい商業街だ。押し合いするほどの多量の人間が、あの中に詰め込まれている、そう考えるだけで寒気がする、汚れた街だ。
さて、パティナはこの森のことなら、どんなことでも知っている。
どこにどんな花が咲いていて、どこから川が流れているか。自然の洞窟がある場所や、星が綺麗に見える場所、自分と同じようにこの森に住んでいる動物と、その生態。川で釣れる魚の種類、森中で見かける複数のキノコの種類――。
だから何かが起こっても、知っていれば対処ができる。暑い時にどこへ逃げればいいか、怪我をしたときに有効な薬草はどれか。
それは人間の街から人間がやって来た時も同じだ。この森に住んでいると、ライハークの人間たちが、パティナを狩ろうと武器を携えやってくる時がある。
ライハークほど人間の多い街であれば、人狼撲滅を掲げ、それを実行しようとする人間の数も少なくない。膨大な数の人間があの街に詰め込まれているのだ。パティナの存在に気付いている人間は数多くいた。この森が人間の寄り付かない場所であるとは言え、人狼憎しでパティナを狩ろうとやって来る人間達は一定数存在する。
だが街で商売をしているだけの人間たちは基本的に“狩り”の素人だ。街からやって来るのは、狩りを生業とする狩人ではない。
地理的な有利や、人狼としての基礎能力の高さがあれば、狩りの素人を相手することなど造作もない。既に数えるのを止めてしまったぐらい、あの街からやってきた人間たちを撃退している。退け方を知っている、パティナは人間にも対処出来た。
何故そんな危険な場所、人狼を殺そうとする人間の街の近くに住み着いたのか。もしそう問われれば、パティナは迷わず答えるだろう。
「初めてここに来たとき“そうすべき”と思ったから」
ここに住みたいと思ったから住み着いた。つまるところ“危険”や“人間の脅威”を度外視した、そうすべき、という“直観”である。世界中どこへ逃げても隠れても、人間たちは人狼の匂いを嗅ぎつけて、武器と正義を携えて、怒り狂いやって来る。
人間に見つからないように恐れて隠れながら生きて、それでも結果が同じだというのなら、いっそのこと自分が住みたい場所にいよう。
そしてこの森に入った時、運命めいたものを感じた。紛うことない“直観”に従って決意した。この名前もない美しい森に住むことを。
「……はぁ」
俯いていた顔を上げ、ため息をつく。クリーム色のインナーからむき出しになった肩を隠す、袖口がボロボロになったアウターを軽く羽織りなおし、色あせた青色のデニムパンツの後ろポケットに手を突っ込んだ。住処である洞穴へ戻りながら、ふと、動きを止める。
覚えたのは違和感。異質な存在が森の中を、パティナの住む森に入り込んでいる。どうやらまたあの街から、人間たちが“狩り”のために入り込んできたのだ。これで人間が森に来たのは今月四回目、パティナは呆れて笑った。今日は自分が食料調達のための狩りをしようと思っていたのに。
パティナは忌々しげに顔をしかめると、自分を“狩り”に来た人間の位置の補足に努めた。
この森へ来てから不思議なことに、パティナは、“「悪意」や「敵意」の放たれる場所を、ぼんやりと特定すること”ができるようになっていた。生まれつき持っていた能力ではない。森に入ってから身につけた能力ということを考えると、“この森”がパティナに与えた力のようだった。一人で生きるパティナに与えられた、力。パティナはこの力を“センサー”と呼んでいた。
悪意や敵意を感じ取ることが出来る。範囲はおおよそ森全体が入り切るかどうか、といったところだろう。そしてその“センサー”が反応するということは、人間がやって来たということに他ならない。森へわざわざ入りこむ人間が抱く感情は決まって、悪意や敵意だ。
ついでに言えば、パティナの“センサー”が悪意や敵意の源の位置を特定する精度は、悪意や敵意の強弱で変化する。つまり侵入者が強く悪意や敵意を抱くほど、その存在を特定しやすい。
森が与えた力にせよ、自分で得た力にせよ、能力の発現の要因や理由は定かでないが、“センサー”が便利であることに違いはない。この“センサー”のおかげで、この森で遭いかけた危機を幾度も免れることが出来た。対人間用の能力としてはピカイチだと言えた。
呆れた笑いを冷たい深緑の瞳の奥へ引っ込めて、パティナはゆっくりと立ち上がった。手の骨をポキポキ鳴らし、ぷらぷらと手を振るう。
そして、息を吐いて。力を抜いた。森の中にある悪意と敵意が、感じられる。意識すればより強く、入り込んでくる。それを感じ、全身の毛が逆立った。
「Wowwwoo……!」
低い唸り声。地響きのような、重い音が轟く。
体中の細胞が、喚く、喚く。そして、姿を変えろと叫ぶ、叫ぶ。
ぶるりと身震いした。
変わる。
体を倒して、地面へ膝をつき、両手をついた。四つん這いで、体を持ち上げた。
すると両手両腕がぐにゃりと形を変える。皮膚の内側から毛が伸び、爪が変色し黒く伸び、両手は獣の前脚に成った。大地についていた膝と両足は、獣の後脚へと姿を変えて、足の指先から黒く鋭い 爪がにょきりと伸びた。
同じように顔も変化する。鼻っ面がぐんと前方へ伸びて、目つきの鋭さはそのままに、より高潔に、より気高く。耳がじりじりと立ち上がって上を向き、犬歯の覗いた薄い唇は牙が生え並ぶ口になった。
そして千歳緑の髪の毛が強い風に吹かれたようになびいたかと思うと、ぶわっと広がって体を覆い、腹部や顎の下から生えてきた白い毛と衝突して、体を包む二色の体毛へと変化する。
着ていた衣服はその毛の波に飲み込まれて見えなくなっていた。人の姿から一匹の狼へ、パティナは一瞬のうちに姿を変えてみせた。
狼の姿は美しかった。見るだけで、総毛立つような美しさ。気高さとその誇りが、際限なく溢れ出し、ビリビリとした気がその場に満ちる。
「……Ha……ha……」
リズムを取るように息を漏らしながら、美しい四肢を這わせ、軽やかに大地を駆る。
緑と黒の混じり合う森の中を巡り、太い木の幹を避け、うねる木の根を飛び越え、倒れ伏した大木をよじ登る。緑香る草木の隙間を、細々とした陽の木漏れ日の下を、荘厳な樹木の織り成す閑静な木陰を、縦横無尽に行き交い、次から次へと目まぐるしく変わる景色を走った。大きな緑の物体が森の中を凄まじい速さで走り抜けていく。
彼女がこの緑豊かな森の肥えた自然の中へ、溶け込むようだった。いや、むしろ彼女は既に自然と一体と成っていた。彼女はもはや自然の一部だった。
標的の居場所が、伝わってくる感覚。明確な悪意。パティナは森に入り込んだその悪意の根源に向けてひた走った。
標的は、すぐそこに。“センサー”がそう伝える。この入り組んだ森を延々と移動することは、人間の脚で考えれば相当な苦を要するが、獣の脚ならばそう難いことではない。単純に言って、人間の足で数時間かかる道も、獣の脚ならば一時間もかからずに移動することが出来る。
感覚に従って走っていると、人の声が聞こえた。足音もだ。匂いもした。パティナはあっという間に、自分を狩りにやって来た愚かな人間たちの居場所をはっきりと補足した。人数は三人。進み方も遅く、のろのろしていて、狩りのプロとは思えない。また街から来た素人だろう。
大きな白い岩の上に足をかけ、そして彼らの前にパティナは慄然と姿を現した。見下すように光の薄い深緑の目で睨む。
「う、うわ! 出たっ!」
何度も何度も人間を撃退しているが、人間たちは学ばない。一週間前に追い返した人間が、そのまた一週間後にやって来ることもある。しかしいくら人間たちが人狼を狩ろうと躍起になって森へ来ても、返り討ちに遭ってヒィヒィ敗走するのが関の山だ。最近になってようやく、人間の数は多少減ったが、一切来なくなったというわけではない。
それでもやってくる人間は、街の人間に雇われたよほど凄腕の狩人か、人狼を狩れば与えられるらしい報酬金目当ての困窮者だ。見たところ、今日の侵入者はどちらでもなさそうだった。せいぜい度胸試しにでも来た愚か者、といったところだろうか。
「WooOOOoo……」
深い緑の目をぎらつかせ、立ち竦んで動けなくなった人間を睨んだ。吟味するように、並んだ侵入者を順々に見比べる。
三人のうち一人は、金持ちの着る立派な格好だ。カラーのついた襟つきのシャツや、高級そうなジャケットを羽織っていて、髪の毛もきっちり頭に撫でつけるようになっている。靴は革靴で、どう見ても森に入り狩りをする格好ではない。荘厳な森の中で、立派な格好だけ浮いていた。
脇についた二人は、その真ん中の背の低い男よりも身長は随分高かったが、情けないぐらいにひょろひょろの痩身だ。パティナが狼の体でぶつかるだけで折れてしまいそうに見える。服装も背の低い男に比べると、着ているのは平凡なチェックのネルシャツで、顔つきもどこか貧相だ。それぞれ銃身の太い旧式の猟銃や、木製の槍のようなものを抱えているものの、パティナを見ながらへっぴり腰で怯えているのでちっとも恐くない。
パティナは人間たちの姿を見て呆れ返った。
――私を殺しに来ておいて、私の姿を見て怯える、か。
彼らが自分を見る瞳は、まるで異形の怪物でも見たようだった。この姿がそれほど恐ろしいのかと、問いかけてやりたかった。
闘う意味さえ見当たらない。ここまで走ってやってきたのもバカバカしかった。
「Gwuawu!」
「う、うわあっ!?」
低い声で三人組に向かってひと吠えし、飛びかかる動作を見せる。すると彼らは身を守るためのはずの武器を放り出して、一目散に森の外に逃げ出した。
手を汚すまでもない。パティナは人間たちが温かい人間の街へ必死で逃げていく後ろ姿を一瞥し鼻で笑うと、また森の奥へと足を戻した。
平穏が訪れる。だがこの平穏は今だけのものだ。すぐにまた人間がこの森へやってくるだろう。だがこれがこれが自分の選んだ道だった。
この森に住むよりずっと前、パティナは人狼が寄り集まった集落に暮らしていたことがあった。人数の多い集落ではなく、皆争いを好まなかったから、人里離れた場所で慎ましく静かに暮らしていた。他の何者にも迷惑をかけず、手と手を取り合い、助け合いながら生きていた。
パティナの両親や兄弟もそこにいた。パティナはそこで産まれ育った。産まれの故郷であり、育ちの故郷だ。
だが人間は、たとえ自分たちに害を及ぼしておらずとも、怒ることが出来た。
「人狼の集落がある」と、そう聞きつけた人間たちは、パティナたち人狼の住まう居場所をすぐに見つけた。彼らは武器を手に取り、やってきた。それから、パティナの故郷を、家族を、友人を、大切な人々を、そして――――。
燃え盛る故郷を見ながら、生き残ることができたパティナは、呆然とその様子を眺めていた。そしてその時、人間のように汚れた獣にはならないと心に誓った。
故郷を奪った人間が憎かった。恨めしくて仕方なかった。出来ることなら体中を鋭い爪で引き裂いて、その尖った牙で噛みちぎってやりたいと思った。自分の大切なものをすべて、半ば半狂乱でおもしろがるように、易々と奪取していった人間を。
でもパティナは安易に復讐の道には進まなかった。そして代わりに、「人間のように易々と命を奪わない」という自身の了解を作った。どれだけ相手が賤しくても、どれだけ相手が憎くても、「憎んで殺せば人間と同じ」だと思った。彼女は“人間のようになること”を何より嫌った。
故郷を失ったあと、様々な場所を渡り歩いた。しかしその行く先々で人間は彼女を傷つけようとした。血を流すことを喜び、「恐いから」と命を奪おうとさえした。
紆余曲折の末にたどり着いたのがこの森だ。今までは誰かの側に、若しくは誰かが側にいたことが多かった。人狼とは得てしてそういうものだ。少数で群れて暮らして、助け合う生き物だ。
が、パティナはそうはしなかった。文字通り“一匹狼”で暮らすことにした。そうすれば、気が楽だった。故郷や家族のように、何かを失うことを恐れる必要はなかった。
たった一人の孤独で単調な生活。しばしば訪れる危機危険、人間の魔手。毎日の充足した安眠など出来るはずもない。ひとたび深い眠りに落ちさえしてしまえば、忍び込んだ人間の汚い手によって、無残に殺されるかもしれない。募る苛立ちと、沸々とした人間への怒りは常に彼女の内側をちらちらと焼いて焦がした。
そこまでしてこの森に住む理由はただ、「住むべきだ」と強く直感したから。もうこれ以上、自分の進む道を何かに阻まれるのはご免だった。彼女は自分の意志に従った。
彼女は自分が人狼であることに誇りを持っていた。この種に産まれて幸せだと、胸を張って言えた。その血が流れていることを何よりの幸福だと思った。
これでも、以前の生活よりは気が楽だった。“一匹狼”というのは、誰かを守る必要も失う必要もない生活だ。もしも侵入者があった時でも、この森が与えてくれた力が味方をしてくれるし、熟知したこの森でなら一人でも十分戦える。
そう、この森なら一人でも生きていける。“センサー”の力が危機を伝えてくれる。誰の支えも必要とせずに、黙々と生きられる。一人だけで生きられる、彼女にとってそれは今まで生きてきた中で初めての事で、他人の支えが不必要なことを彼女は喜んでいた。