◆ダメ押し
「シケた面だな」
神出鬼没のブローカーは、ベンチに腰掛けて呆けるロクトの顔を見るなり、躊躇も遠慮もなく、あけすけにそう言った。
放っといてくれ、投げやりに答えたロクトの顔は、残念ながらブローカーの指摘通り“シケている”と表現するのが最も適切だった。
フェックを見送った後、すぐに休眠を取って、なんとか仕事へ向かった。それでも睡眠不足は変わらず、昨晩の仕事は、今までの中で最も辛い労働となった。
酷い疲れを抱えた仕事明け、いつものように外の空気が吸いたくて、早朝の公園で体と心を休めているところに、ブローカーはニヤつきながら現れた。
ベンチに座って呆けていると、突然「シケた面」呼ばわりだ。驚いたは驚いたが、反応はほとんどないに等しかった。シケた面はあながち間違いでもない。
結局、パティナのあの怯えた瞳を忘れられたのは、フェックと話をしていた間だけ。そのあと家に戻って死ぬように眠ったあと、目覚めて、仕事をこなし、仕事を終えた一休み中の今もずっと、気を抜けばあの目が蘇った。全ての物があの瞳を思い出させるようで、さすがにうんざりする。
未だになぜ彼女があんな目をしたのか、分からなかった。その理由を探しても、答えどころかヒントさえ見つからない。何が悪かったのか、何が引き金になったのか、さっぱり分からなった。だから、もやもやする。
夜明け間近の公園は、震えるような寒さだ。仕事中は常に体を動かしていて、あまり厚着をするとすぐに汗ばんでしまうために厚着は控えている。だが普段は、しっかり着込んでおかなければ、身動きがとれなくなるほど寒い。今も足元から首周りまで、しっかり防寒をしている。
公園の様子は、毎日の光景となんら変わりなく、随分平和なものだった。さすがにここまでの寒さになると、朝っぱらから外に出る人間は少ないが。
寒さを忘れさせて、幸福を感じさせるのは、一人の時間だ。それも、暗い自分の部屋ではなく、こういった開放的な場所で、一人になることは、本当に心地がいい。澄み切った空気を吸い込めば、ほんの少しだけ気持ちが楽になる気がする。
そう思って、人気のない公園で、休んでいた。人影が少ないのもよかった。それだというのに、とんだ邪魔者が現れた。
ロクトの座っていた木製のベンチに、ブローカーがどかっと腰を下ろす。大きく足を開き、背もたれに腕を回したブローカーに押し出されて、ロクトの体がベンチからはみ出た。ネイビーのスーツに染み付いた、タバコの煙の匂いがする。
「……」
「……」
自分からやって来ておいて、ブローカーは何も言おうとしなかった。
わざと嫌な顔をするが、口には出さない。例え何か言ったところで、くだらない言葉が返ってくるだけなのは分かっている。頃合を見て、適当に逃げ出そうと決めた。
今は、あんたの相手をしている場合じゃないんだ、ロクトは心の中でため息をついた。
あの瞳が、恐怖を写した彼女の瞳が、ロクトの思考を肥大化させ、複雑に絡めていく。柔軟な思考も、前向きな料簡も、全部が錆びて固まって、身動きが取れなくなっていくのを感じても、廻り続ける負の思考の螺旋に、歯止めが利くことはない。
ネイビーのスーツの内ポケットに手を突っ込み、おもむろに取り出したタバコを口にくわえ、ブローカーが「はぁ」と息をつく。ゆったりした無駄のない動作で、次に取り出した金色のライターを指先で弾いてから、タバコに火をつけた。
咽るような匂いが鼻を突き、白い煙が公園に漂い始める。ますます、爽やかな朝が台無しだ。ロクトはブローカーのタバコから顔を背け、呆れを堪えて口を結んだ。
ロクトが不機嫌そうに煙から逃げるのを見ながら、ブローカーの口だけが笑う。
「例の人狼と、また揉めたか」
この男は、回りくどい質問はしない。そして、頭の中を覗ける疑いがあるほど、やけに鋭い。彼の言葉には無駄がなく、彼が言葉を発すれば、どれだけ滞留した会話であろうと滑り出す。舌から潤滑油でも分泌しているんだろうというのがロクトの予想だ。
顔をしかめたロクトを見、ブローカーは「はっ」と笑って、わざとらしく肩を竦めた。
「わかりやすいんだよ、お前が」
「それにしても、よくそこまで正確に……」
「ああ、やっぱり当たってるのか」
そういうやり口か、とロクトが顔をしかめて毒づくと、ブローカーはそれを鼻で笑って、くわえていたタバコを右手で持った。煙の流れが変わる。
「何を悩んでいるのかは知らんが、仕事でヘマをするのはやめてくれよ」
俺の信用に関わるからな、いつものように平然と言い切った彼は笑顔だが、その目は真剣そのものだった。いまの荷運びの仕事は、ブローカーに斡旋してもらったもので、ロクトがしくじった時は、苦情の全てがブローカーに届くらしい。知ったことかと言いたいところだが、ミスをしないに越したことはないので、黙っておく。
鼻をつまみながら、ロクトはブローカーを見た。彼は今も、不敵な笑みを浮かべている。
彼が仕事相手を選ばない男だということは、彼に関わる人間の間でも周知の事実だろう。だが人狼と商売をしていることを周りに知られれば、ブローカーはどうなってしまうのだろう。仲介の仕事が減るだけでなく、彼にも人狼憎しの矛先が向かうかもしれない。
彼に迷惑をかけるつもりは毛頭なかった。与えてもらった仕事を無碍にすることは絶対にしない。パティナの問題と、仕事のやる気。それとこれとは別だ――ロクトは「問題ない」と頷いた。
「それならいいんだ」
お前に仕事のやる気があるなら心配はない、彼が言いたいのはそういうことだった。
それを伝えるために、わざわざ朝の公園までやってきたのだろう。彼はただの仲介者であって、人生の相談相手でもなく、心を通わせた友人でもない。知っていることなのに、彼がちょうどいい言葉をかけてくれることを待っていた自分がいることに、ため息が出る。
ブローカーはタバコをもう一度くわえ直して、長い息を吐き出しながら腰を上げた。
「あんまり外に出てると、風邪ひくぞ」
名前も年齢も、何もかもが不詳の男の、意地の悪そうな笑顔。実際に彼は意地が悪い。ロクトは「もう帰る」と、力を抜いて返事した。
これでまた、ひとりの時間を手にすることができる。
「じゃあな」
精進しろよ、とブローカーは背中を向けて歩き出した。
でも、まだそれが最後ではなかった。
ああそうだ、と付け足すと、ブローカーは足を止めた。首を回し、ベンチに座るロクトを見て、ニヤっと笑う。
「俺なら、もう一回会いに行くかな」
ブローカーが歩き出した。怠そうな足取り。日昇から逃れるように、ブローカーが公園の階段を降りていく。
「……もう一回?」
もう一回の意味。仕事の話か、彼の信用に関するお話か、そんなことだろう、と思った。だから彼が放った言葉を噛み砕くのに、時間を要した。
そしてその言葉の意味に気付いた時、既に彼の姿は跡形もない。
『もう一回会いに行くかな』
そういえば。
何日か前にも、同じようなことがあった。パティナのことで悩んでいたロクトに、ブローカーは、蹴り落とすような言葉をかけた。
ああ、だから彼の言葉に期待していたんだ。同じように、ヒントをくれることを待っていたんだ。
ロクトはいっぱいになっていた頭からガスを抜くように、ふうと息を吐いた。彼の言葉は、どうやら今回も間違ってはいない。
もう一度、会いに行く。
彼女が突然自分を拒絶したことには、なにか理由があるはずだ。
あの目は怖い。だが、あの目を向けられた理由は分からない。彼女は“彼女”とは違う。きちんと彼女から理由を聞く機会が必要だ。
それでもダメだったなら、もうやめよう。あの瞳の色がまだ彼女に残っているのなら、その時はその時だ。
今はただ“後悔”するような選択をするべきでないと思った。
ロクトは、覚悟を決めた。
ブローカーはトリックスターですね。
書いてるときは、特別何かを考えてなかったけど、ある種この物語を修正する運命役なのかも。
次話パティナ編「私と人狼の話」は明後日公開です。