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◇正直な格言




 高熱の中で見たブルーの世界から目を覚まして、一日が経過した。

 弱りきった体が、思い通りに動かなかったのは最初だけで、リハビリでストレッチでもしていると、すぐにいつもの感覚を取り戻せた。ずっとガンガン頭に鳴り響いていた頭痛も、今朝にはすぐに収まって、疼痛が醜い記憶を掘り返すことはなくなった。

 腰掛けたベッドから立ち上がり、無心で洞穴の部屋の片付けを始める。

 戸棚に置かれた、リサキに貰った動物の置物を手に取った。目が飛び出た変な図体の生き物と睨めっこして、それをどこに置くべきか悩む――フリをした。



「あー……」


 いくら自分を誤魔化そうとしても、自分の頭の中は、昨日のことでいっぱいだった。寝ても覚めても、何をしていても、常に思考の真ん中に、昨日の出来ごとが鎮座していて、絶対にそこから離れない。


『帰ってくれ』


 望まず、口をついた言葉。

 思い出すだけで、頭が痛くなる。この頭痛は今までさんざ自分を苦しめたメア・シックの症状ではなく、“ただの”頭痛だ。パティナは大きなため息を吐き出した。そしてすぐに「ため息をつきたいのは私ではないだろう」と、更に頭痛を悪化させる自責が始まる。

 傷付いたのは自分ではなく、ロクトだ。彼が自分を介抱してくれたことを理解していながら、言葉で彼を突き刺した、自分が彼を傷付けた。

 彼は悪人ではないのに、彼が悪人であると疑わない心が、まだ確かに存在している。人間に近い、人狼。ただ、それだけで、自分の中の何かは拒絶反応を起こす。これまではずっと、その何かと同じ考えだった。だが、ロクトと出会って、いつの間にかその何かと、考えが変わっていた。

 自分の中の何か、それはつまり、自分の奥底に根付く、手のつけようのないぐらいに古びた自分自身――。

 ぎゅっと力を込めて、目の側、鼻梁の根元をつまむように抑える。こんなことをしても、頭のモヤモヤが晴れることはない。

 まず彼に謝りたい、そして今度こそ、感謝を。彼は命の恩人だ。一度ならず、二度までも。


「馬鹿だな、私は」


 混じりっ気のない、自嘲百パーセントの乾いた笑いが、ぐつぐつとこみ上げてくる。

 『帰ってくれ』と言った時、彼が見せた反応。深い濃いグレーの慈愛に満ちた瞳が目に見えて揺れたことが、目に焼きついて離れないのだ。きっとこれは、永遠に忘れられない。パティナは口を抑えた。



 机の上の、空になった鍋をどけた。すると、その下から、白い封筒が顔を覗かせた。


「ん?」


 それは手紙だった。

 宛名は『パティ』。送り主は書かれていないが、いつも通り、シャナルルからのもので間違いない。

 鍋の下にあったので、手紙の存在に全く気が付かなかったのだ。パティナは黙って封筒の端をビリビリ破いて、その中身を取り出した。

 きっと、「返事が遅い」と書かれているのだろう。「私は気にしないけど」と、取ってつけたように不満を隠す言葉も添えられているはずだ。だがそこに書かれているのが、たとえお小言でも、お叱りの言葉でも、なんでもよかった。今はどんなものでも、気を紛らわせてくれるのなら、手放しに歓迎出来る。

 折りたたまれた手紙を開くと、整った小奇麗な文字が、四隅にオレンジ色の花の絵があしらわれた便箋を埋め尽くすようにびっしりと並んでいる。便箋の数は、五枚。

 封筒を洞穴の中へ投げ捨てて、ベッドに座って目を落とした。手紙に、目を通す。



《 親愛なる心の姉、パティへ


 お返事ありがとう。とっても嬉しかったわ。ずっと待ちわびた甲斐があったというものね。いつもより返事が遅いから、私とっても心配したのよ?

 さて、でも私、あなたへのお説教よりも、あなたの手紙を読んでから、真っ先に聞きたかったことがあるの。この手紙も、あなたの手紙を読んでから、すぐに書き始めています。だから今はリサキに待ってもらって、急いでペンを走らせているの。

 早速聞いてしまおうと思います。頂いたお手紙の最後に書かれていた、人間の街に住む変わり種の人狼の男性とは、まだ交流があるのかしら? 私が今こうして急いであなたに手紙を書いているのは、その相手のお方のことが気になって気になって仕方がないからなのよ?

 ねえ、パティはその人のことをどう思っているの?

いいえ、聞かなくても分かるわ。あなたのくれた手紙の文字を見たら、あなたがその男性の人狼に、強い関心を抱いていることぐらい、私にも分かる!

 どんな人なのか、早く教えて欲しいの。今度は急いで手紙を送ってね。この手紙も、リサキに速達で届けてもらうように頼んであるんだから。

 パティが認めるような人なら、私もいつか会ってみたいなぁ。

 頼りになるお方なのなら、意地を張らずにきちんと頼りにするのよ。

 私もリサキもパティを助けられるなら、いくらでも頑張るけれど、リサキはお仕事であちこちを走っていて、いつもあなたの側にはいられないし、私もこの通りお屋敷から出られないし……。悔しいけど、私たちはいつでもあなたの側にいられるわけじゃないわ。あなたの傍にいてくれるナイトがいるのなら、私もリサキも安心できるわ。

 その方には、あなたのことをきちんとお話したの? 言いにくいこともあるかもしれないけれど、隠していてはダメよ。

 私は、あなたが私に自分のことを話してくれて、本当に嬉しかった。だって、言いたくないことでしょうに、そういうことを告げてもらえたら、どんな人でも嬉しいはず。その人もきっと喜ぶはずよ。それにあなたも、あなたを知る人がいれば安心できるわ。

 正直な人には正直に。真摯な人には、真摯にしないとね。これはお父様の受け売りだけれど、いい言葉でしょう?

 ……さて、まだ書きたいことがあるから、その男性の話はここで打ち止めにします。返事は早めにお願いね!

 

 で、つい最近、我が家に新しいお医者様がやってきたの。お医者様というのは、お父様の病気を見るお医者様のことね。で、そのお医者様がすごく変わった人で、お医者様だというのにやけに赤い衣をまとっていて―― 》



 つらつら、つらつら。そのあとも、シャナルルからの手紙は延々と続いている。

 シーツで包まれた藁のベッドに腰を落とし、手紙の二枚目にさしかかるところまで文字を追った。一度中断して持ち上げた、パティナの顔に浮かぶ表情は厳しい。

 普段の自分ならば、シャナルルの手紙を読んでも、大きな感情は抱かなかっただろう。でも今は違う。この手紙の冒頭の内容は、パティナの心へと直接響いた。

 シャナルルの手紙にあるように、確かに前回の手紙の最後に、ロクトのことを少しだけ書いた。手紙の最後、つまり追記として。

 一度書き終えていたが、書かずにいられなくなってそれを書き足したのは、狩人三人組を追い払った後のことだ。

 だが追記に記したのは、ただその日に起こったことを書いただけだ。特別なことは何も書いた覚えはないが、シャナルルはそこから何かを見出したらしい。

 何にせよ、シャナルルが手紙の中で言っていることは、決して見当違いな言葉ではなく、まるで今のパティナを、どこかから見ているかのような的確な言葉だった。


「むぅー……」


 手紙を置いて、背中から倒れこむようにしてベッドに体を預ける。カサカサと藁が擦り合う音がして、全身が沈み込んでいく。

 考えものだった。

 まさか、年下の妹のような存在に、しかも箱入りのわがまま娘に、こんな諭され方をするとは思ってもいなかった。

 しかも《正直な人には正直に。真摯な人には、真摯に》なんて格言めいた言葉を引用し、それに閉口してしまう日が来るとは。

 相手の年齢如何は関係なく、彼女の言葉に歪んだ部分は一切ない。言葉はむしろ澄んでいて、心地よいぐらい真っ直ぐだ。


「そうか……」


 パティナはしばらくのあいだ、藁に体を任せて岩肌の冷たい天井を眺めていたが、手紙の冒頭の内容を反芻するうち、徐々に考えがまとまってくるのを感じていた。噛み砕いて飲み干して、心を決めることができた。

 自分の中の何か。凝り固まった疑い深い自分との折り合いを、つけた。つけられた。もう自分の中の誰かには、舵を切らせはしない。

 すべてを、彼に話そうと決めた。自分の過去を知ってもらおうと思った。そうすれば何かが前へ進むはずだ。



 ただ問題は、彼がここをもう一度訪ねてきてくれるのか、ということだ。

 メア・シックで倒れた自分を救うため、彼は奔走してくれた。側について、目が覚めるまで看病を続けてくれた。それなのに自分は、礼の一言も言わず、酷い追い払い方をした。

 都合がいい、そう言われても、仕方がないだろう。でも今度は、《意地を張らず》、素直になるべきなのだ。

 彼は、“彼”とは違う――。

 突然じっとしていられなくなって、パティナは立ち上がった。





手紙が後押しする、パティナの心変わり

でも彼女に出来るのは、「待つこと」だけ……


次話ロクト編「ダメ押し」は、続けて公開しています。

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