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◆『信頼できる大人』




 彼女の側にいて、この二日間、まともな睡眠をとらなかった。

 眠らないことを選んだのは自分だ。

 自分の行いの何が間違いで、何が正しかったのか、それを理解しようとすることで、頭は一杯だった。気持ちを切り替えようと思っても、彼女の、あの目が、頭に焼きついて離れない。


『帰ってくれ』


 震える声で伝えた、涙の浮かぶ、あの怯える目。

 あの目を見たとき、思わず足が竦んだ。息が詰まって、血の気が引いた。

 彼女のあんな目を見るのは、初めてだった。初めて会ったあの夜、敵愾心をむき出しにして、自分に向かって吠えた時も、気を失いかけながらも立ち上がろうとする時も、森に侵入した狩人に襲われた時も、初めて感謝を述べた時も、どんな時も、あんな目はしなかった。

 まるで、ぶたれるのを恐れる小さな子どものような、か弱い瞳。無抵抗で、非可逆な瞳。

 ロクトは、怯えていた。あの目を、酷く恐れていた。

 過去に、あの目を見たことがあった。あの目を向けられたことがあった。

 “彼女”の瞳。パティナとは違う“彼女”の瞳。今までずっと、忘れようとしてきた。

 そしてようやく“彼女”のあの瞳を、意識しなくてもいいようになっていた。


『……』


 目を背けて、“彼女”を頭から取り払った。


「もう、終わったんだ」


 考えてはいけない、思い出してはいけない。言い聞かせるように、息を整えて、道を歩いた。




 昨日は休みだったが、今晩は仕事がある。空を見上げると、太陽は斜めに傾き始めていて、日没はすぐそこまで迫っている。今から家に帰れば、どれぐらい眠ることが出来るだろう。さすがに二日もマトモに眠っていないのは、仕事に支障をきたすという次元の問題ではない。

 家に帰る前に、何か買い物をして帰ろうか、なにか買っておくものはあったか、仕事前に食事は必要だろうか――。

 あの目を忘れるために、必死に他の事を考えても、頭からパティナの瞳が離れない。



 ぼんやりと街の中を歩いていると、人の多い通りに入り込んでしまった。抜け出そうにも、既に人の流れに捉えられてしまって、急な方向転換は出来そうにない。無理に逆らう気にもならず、流れに従った。

 人ごみの中でいつもより深くかぶったフードは、もしかすると不自然に見えるかもしれない。

ふと、前から来た人間とすれ違う際、一瞬合ったその人間が、自分を怪訝な目で見ているように思えた。それは、気のせいだと分かる。相手はすぐに目をそらした、何事も起こらない。

 人間に追い抜かれ、人間を追い抜かし、通り過ぎて過ぎられて、緩やかな波に揺られる。ゆっくりと周囲を見渡してみても、道行くほとんどの人間は前を見ることに必死で、ロクトの存在を気にも留めないでいる。だが、その波を形作る人間の瞳がどれも、自分を見ているような気がしてならなかった。

 なんとか脇道を見つけ、顔を俯けてそちらへ逃げ込んだ。人影が少なくなって、体が軽くなる。自分を捉えていた、まとわりつくような人間たちの目線はもう、感じない。

 どこにも寄り道はせず、自宅まで帰ることにした。人間の少ない道を慎重に選んで、気を張って進む。



「?」


 カツンカツンと鉄を打つ響きが、静かな路地に響いた。重たい足取りで螺旋階段を昇りきり、通路に差し込んだ眩しい西日を右手で遮りながら通路を歩いていく。そうすると、誰かが自分の家の扉の前で、扉に背をつけて地べたに座り込んでいるのが見えた。

 誰だ? 一瞬、心臓が冷たくなるのを感じたが、すぐにその正体に気付いた。足のあいだに埋めていた頭がかぶっているのは、赤いニット帽だった。

 思わず止めてしまった足をもう一度動かし、恐る恐る近付くと、少年は通路を歩いてくるロクトに気付いて顔を上げた。地面に手をついて立ち上がり、座り込んだお尻についた汚れを、ぽんぽんと手で払う。


「こ、こんばんは……」


 フェックは少し恥ずかしそうに笑って、ロクトは「ああ」と声を上げた。


「どうかした?」


 また、あのグループに虐められたのだろうか。それなら何故ここに? 翳った考えが顔に浮かんだのかもしれない、フェックはロクトの顔を見て、不器用な笑みを浮かべた。この少年特有の、取り繕ったような不自然さが残る、偽物っぽい表情。

 パティナの洞穴を出るとき、自分もこんな顔をしていたのかもしれないな、ロクトは静かにそう思った。


「えーと」


 言いにくそうに頬をかく少年が話し出すのを、急かさないように、ロクトは通路の欄干に体を寄せ、路地を見下ろせる手すりに肘を乗せた。ロクトは目を細めた。西の地平へ引っ張られるように、陽が落ちていく。日没まで、あとどれぐらいの時間があるだろう。


「……前に、『困ったことがあったら、信頼できる大人に相談しろ』ってロクトさん……」


 言っていましたよね、と、フェックは言葉を区切った。まるで喉で何かがつっかえているように、言いにくそうに。

 ロクトは頷いた。


「……公園で会ったときに、言ったけど」


 ロクトが、フェックにたかる、いじめっ子たちを追い払った時、確かにそれらしいことを言った。

困ったことがあったら信頼できる大人に――だが、その発言を持ち出して、どうしたというのだろう。点々と黙ったまま待ち続けても、目を伏せた少年は、口をぴっちり閉じていて、彼から言葉が続くことはなさそうだ。


「…………」


 少年が抱いているだろう考えがひとつ思い浮かび、まさか、と思わず口をひきつらせる。無意識に、笑ってしまっていた。もちろん、可笑しくて笑っているのではない。


「僕が、『信頼できる大人』だ……って言うんじゃないだろうね」


 少年は答えずに、黙ってロクトの目を見て返事した。


「…………」


 すぅっと、静かに息を吐く。少年の声なき答えは、とても冗談には思えない。感じた困惑を顔に出してはいけない気がして、なんとか平静を装うが、動揺までは隠せない。なんで、僕なんだ。

 視線をまた下に落とし、少年は口を開いた。


「どうしたらいいか、僕に教えてくれませんか? ラスターたちに、何しても逆効果な気がして、僕、何も出来ないんです。親や学校の先生には話したくないし、仕返しするなんてもってのほかだし……。

 でもまた高いところから突き落とされる、みたいなことが、あったら怖いです。あいつら、僕になら何をしてもいいって思ってるんだ……」


 彼の言う、ラスター、というのはきっとあのリーダーらしき少年のことだろう。あの吊り目の、恐れを知らない小生意気な子どもだ。

 切々と続く言葉を発する俯いた顔に、いつものぎこちない笑みはない。彼なりの言葉選びは低速であるものの、眼差しは真剣だ。少年は自分の足元を、悲しく睨んだ。

 フェックが高所から突き落とされたあの事件は、笑い事で済まされるような出来ごとではない。例えあれが故意ではなく、あのいじめっ子たちの起こした偶然の事故だったとしても、人の生き死にが 関わったあの出来ごとの後も、執拗に虐めを続けられるのは、異常だ。


「どうしたらいいんでしょうか?」


 言葉を吐き終えて、すがるような目で言葉を求めた少年の姿は目を背けたくなるほど弱々しい。

 ロクトはため息をついた。自分が何故『信頼できる大人』なのかは理解出来ないままだが、これはきっと乗りかかった船なのだ。ここまで来て、投げ出すことは許されないのだろう。



 助けを求められた以上、無責任な言葉を返せない。自分を信頼してくれた相手に、間違った言葉を返せば、少年は今以上に大変な目に遭うことになる。だが、正しい言葉を与えることが、自分に出来るのか? 自問してももちろん、答えは分からない。

 とにかくまずは、彼がどうしたいのか。


「フェックは、奴らにどうして欲しい?」

「僕に関わらないで欲しい」


 思いのほか、返答は早かった。もっと「仕返しがしたい」だとか、穏やかでない答えが返ってくることを予想していただけに、拍子抜けする。彼に復讐心はないらしい。関わらないで欲しいというのは、簡潔で、明瞭な答えだ。

 あといくつか質問を繰り出して、答えを絞る。


「あいつらに仕返ししたことは?」

「まさか」


 怖くて出来ません、少年はぶんぶん首を振った。


「何か言われて、言い返したりしたことは? この前も……酷いこと言われていたよね」


 グループのリーダーが、フェックに向かって『女男』と言っていたのを思い出した。立派な罵声だ。自分が同じことを言われれば、少なからず怒るし、何か言い返すことだろう。


「言い返そうと思うんですけど……何も言えなくて」


 フェックは眉をひそめて力無く言った。


「見返してやりたいとか思わない?」

「ないです」


 きっぱり、少年の真っ直ぐな眼差しに嘘はない。

 ロクトは改めて感心した。フェックは生粋の“良い子”だ。年齢の割に丁寧な言葉遣いが出来ていて、年齢の割に大人しい。きっと大人には嫌われないタイプ。むしろ、大人しすぎて服従的とも言えるかもしれない。

 フェックのことを「出来た子どもだ」と思ったのは、初めて彼が自宅にやってきた時もだったが、ある程度時間が経っても、その評価が覆ることはなかった。



 で、さて。少年は、あのいじめっ子たちに、一切仕返しをしていない。つまり同じ土俵に立っていない、ということだ。本来ならば「同じ土俵に立っていない」ことは、あまりよろしいこととは言えない。だがそれは、スポーツであれ、ゲームであれ、「勝負」の場合に限る。

 少年は、「勝負」をしたいわけではない。ただ、勝手に巻き込まれたゲームから降りたいだけなのだ。となると、今まで少年が、あのいじめっ子たちと同じ土俵に上がらなかったことは、むしろ良いことなのかもしれない。


「そうか、じゃあ……」


 ロクトはフェックに耳を貸すように促した。ロクトを見上げる少年は、緊張と期待を抱いた目をしていた。



 フェックのことを真剣に考えている間は、自然とパティナの瞳を忘れることができた。短い間だったが、その間中頭の中にあるもやもやしたものを、さっぱり消せていたことに変わりはない。ぱたぱたと通路を走っていく赤いニット帽を眺めながら、ロクトはそっと、彼に感謝した。









信頼出来る大人……に選ばれたロクトさん。

心中穏やかでない人狼のアドバイスの内容は如何に。


物語は折り返し、残り半分となりました。

次話パティナ編「正直な格言」は明後日公開です。短いのでその次もまとめて投稿!

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