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◆やらなきゃ





 料理を彼女に振舞ったのは、もう二日前のことになる。

 あの晩食事を終えた後、ロクトはすぐに彼女に別れを告げ、森を後にした。

 すぐに帰った理由は簡単、彼女の顔色だ。

 顔色と言っても、機嫌を損ねたわけではない。食事の後しばらくして、何も喋らずに黙ったままでいる彼女の顔をふと見やると、火に照らされた彼女は、随分気分の悪そうな顔をしていたのだ。

 最初は、無理をして自分の料理を食べたせいかもしれないと疑ったが、それは違うと思った。料理を食べる時の、あの美味しそうな顔は、演技で出来るものではなかったからだ。むしろあれが演技であったとしても、彼女がロクトを傷付けないためにそこまでする理由はない。

 そうなると、気分が悪そうにしているのは、本当に気分が悪いからだろう。そう考えて幾つか質問を投げかけたものの、返ってくる言葉はどれも適当で、意味を成さない。きっと自分の前で、強がっているのだろうと思った。それならもう彼女を無理させてはいけないと、慌てて森を出てきた、というわけだ。

 それでも彼女の体調を気遣って、嫌がられてもきちんと面倒を見ておくべきだったかもしれない。街へ戻った後になってから悔いたが、その日から二日連続で仕事が詰まっていて、合間を縫う時間さえ見つけられず、森へ様子を見に行くことすら出来なかったのだ。

 二日間の仕事を終え、ようやく森へ行ける余裕が生まれた。次の日の休みを貰ったロクトは、またあの森へ向かっていた。普段から真面目に働いていたお陰で、休みを取っても職場の責任者から「休み取ることもあるんだ」と、軽い嫌味を言われるだけで済んだのは良かった。



 今日は荷物も無いので、狼の姿で素早く移動出来る。滞りなく森を抜けて、洞穴へ辿りついたが、そこに彼女の姿はなかった。二日前も訪ねて来た時にはいなかったし、いくら自宅とは言え、彼女も四六時中洞穴にいるわけではないだろう。

 ぐるりと辺りを見回すと、いつも自分が通ってくる方向とは真逆の草むらに、動物が根を踏み倒して通った跡があった。かき分けられた幅は、ちょうど自分よりも狭いぐらい。きっとパティナがここを通って、どこかへ行ったに違いない。それも、狼の姿で、だ。

 狼の姿で移動した、ということは、釣りではないのだろう。狼の姿では、釣竿や釣り用具を持ち運べない。


 それでは、どこへ?


「……」


 鼻を地に近付けて、匂いを嗅ぐ。嗅いだことのある匂い、これはパティナのものだろう。

 不思議な感覚だった。嫌な、予感がした。予感の理由は、定かではない。だが、これは嫌な予感だ。

 嫌な予感というのは、大抵が杞憂に終わる。だが、この前の狩人のことがある。前回はパティナが「狩人が来た」と一人で向かったのを、彼女の身を案じて追いかけた。実際に彼女は、危機に陥っていた。

 だが今回はどうだろう? なんのヒントもなく、ただ分かることは、「ここにいないこと」と「釣りをしていない」ことだけ。

 このまま洞穴の前で待ち続けることも出来る。この嫌な予感は、ただの考え過ぎかもれない。彼女はただ散歩に出かけているだけかもしれないし、どこかで昼寝でもしているのかもしれない。

だが、もし。もしもまたパティナが、危機に陥っていたなら? 人間に囲まれて、命の危機に瀕していたら?

 過剰な心配だとしても、思い過ごしだとしても、見逃して、“後悔”するよりずっといい。

そう、心配なのならば、確かめに行けばいい。もし彼女が散歩しているだけだったのなら、「よかった」で済む話だ。

 ロクトは、覚えた嫌な予感が杞憂に終わることを祈りながら、パティナの通った跡と、そこに残った匂いを辿り、進み始めた。



 ロクトがいつも通っている洞穴までの道とは正反対の方向へ進むわけなので、初めて通る、全く慣れないルートを通ることになる。不慣れな道なき道を歩くのは、初めてここに来て、手探りで森を探索した時と似ていた。

 だが、ただ闇雲に満月の夜の森を独りで歩いたあの時と違うのは、パティナの進んだ跡という辿るべき標があることだ。

 変雑に折れ曲がり伸びる樹木の脇を通り抜けて、一度顔を上げる。森の中は静かだ。匂いを嗅ぎ取って、時折止まっては進み、進んでは止まって、パティナの走った跡を追いかける。



 深い青色の池と、その岸辺に倒れている千歳緑を発見するまで、時間はかからなかった。

岸辺に倒れたのが狼だと、パティナだと理解して、ロクトの頭は真っ白になった。只事でない状況に、震え上がる。


「パティナ!」


 大声を上げて駆け寄った。

 背中から前へ回り込み、顔を覗く。顔はやつれていて、まるで悪夢にうなされているかのような苦しい表情。身体は死んだように動かないが、時折ビクンと震えて、痙攣する。いつも立っている耳は、頭に沿うように力なく寝そべっていた。

 鼻先でつついても、「パティナ」と呼びかけても、反応はない。完全に気を失っているようだ。体は僅に上下し、呼吸はしているものの、その息も耳を近付けねば聞こえないほど弱々しい。

 人の姿になって、素の手で直接パティナの額に触れた。すると、手のひらにぐっしょりと濡れた汗がつき、恐ろしい高熱が伝わってきた。自分の額と触れ比べてみても、パティナの持つ熱は、まるで熱した鉄板のような熱さだ。


「すごい熱……」


 一見、水浴びをした後かと勘違いするほど湿って萎びた千歳緑の体毛は、高熱を帯びた彼女の流した汗によるもののようだ。そして今もなお、彼女は汗をかき続けている。

 ロクトは、何を、どこから、どのように、対処すべきか、頭を回転させた。

 高熱、多量の汗。とにかくまずは。


「水を飲ませないと……。ここの水は……綺麗な水だろうか……?」


 傍にある池は、この森の空気を顕すかの如く清く澄んでいて、上から覗けば水の底が見えるほどだ。少なくとも、いつも森に入った時に見かける泥沼のような汚さはない。

 一見綺麗に見えるといっても、危険な物質が混じっていないとも限らない。一瞬迷って辺りを見回すと、池の畔に動物の足跡が多数残っているのが見えた。狼の肉球の跡ではないが、その足跡はそろって池に向かっている。つまり森に住む野生の動物が、水飲み場として利用している、ということだろう。

 念のため、試しにひとすくい、手でよそって水を飲む。冷たいが、妙な味はしない。それならば、迷う暇はない。

 池の側に座り、自分の膝にパティナの頭を乗せ、同じ要領でもう一度、池からすくった水を彼女の口元へ運ぶ。顎を引っ張って口を開かせ、彼女が噎せないように気を付けながら、少しずつ、少しずつ、水を流し込んだ。


「よし……」


 ある程度水を飲ませたが、息をついている暇はない。

 何が理由で、彼女がこの症状に苦しんでいるのかはさっぱり分からない。だが意識を失うほどの高熱が出る病であることは確かだ。それも、水を飲ませて治るような軽微なものではない。

 時は一刻を争う。早く熱が引かなければ、一体どうなってしまうのだろう。



 人の姿で狼の姿のパティナを持ち上げることは難しくなかった。気を失った無抵抗の生き物を運ぶことにはもちろん苦労したが、抱え上げて動けないことはない。普段から重いものを運んでいる所為もあったが、彼女の体は思っていたよりもずっと軽かった。

 森の中を抜け、慎重かつ素早く、パティナを洞穴まで運んだ。大きな衝撃を与えないようにしつつ、不安定な姿勢で抱えている状態なので、時間をかけるのもいけない。

 道中、見たことのない生き物を、遠くに見かけた。華奢な体躯の茶色い生き物だ。数頭が遠くから、パティナを抱えるロクトのことをじっと眺めていた。さっきの池の畔の足跡の主かもしれない。ロクトが見ていることに気付くと、その数頭の動物は、わっと散って逃げて行った。



 もと来た道を辿り、洞穴まで無事に戻ることは出来た。

だが問題はここからだ。


「お邪魔するよ」


 緊急事態に躊躇いは無用、彼女が知れば怒るかもしれないが、無断で洞穴の奥まで入り込む。彼女が使っているであろう藁のベッドを見つけ、そこへ彼女を横にして寝かせると、千歳緑の狼の体が、ゆっくりとシーツに沈んだ。これで、湿った土の上でも、運ばれる不安定な体勢でもない。反応はないが、多少は楽になったはずだ。

 彼女を抱えていた自分の腕は、服に染み込んだ彼女の汗で、生地が黒ずんでいた。


「大丈夫だから、頑張って」


 苦悶の表情を浮かべたまま動かない顔を覗き込んで、声をかける。 汗にまみれた袖をまくり、自分の頬を叩いて気合を入れ直した。


「やらなきゃ」


 自分がやらないと。このままでは、彼女がどうなるか。苦しむ彼女を見れば、最悪の結末が見えてくる。人狼の友人を、失うわけにはいかない。

 まずは、看病をするための道具を家の中から集めることにした。





頑張って欲しい。


次話、パティナ編「ブルーブルー」は同時投稿です。同じく短め。続きます。

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