◆オオカミオトコ、ロクト
暗い部屋の中、鏡の前に立った男。
男の名前はロクト。彼は、人狼だ。
背後の狭いキッチンから、匂いが漂ってくる。作ったばかりの、簡単に炒めた肉と野菜と香辛料の匂いだ。フライパンに被せた蓋の隙間から漏れてきているのだろう。
部屋の中が薄暗いのは、カーテンが閉ざされているせいだ。今はちょうど冬期へと移りかける季節で、密閉されているにも関わらず、この部屋の空気は纏わりつくようなひやりとした肌寒さがある。部屋の中ががらんとしているのも、肌寒さを助長しているのかもしれない。部屋の中には、衣服の入った小さな棚や白いスーツが無造作にかけられた古いベッドといった、生活を送る上で必要最低限以外に物は何一つない。客人を招ける部屋であるとは到底言えなかった。
ロクトは右下端が少し欠けた古ぼけた鏡の前で、呆然と鏡に写り込む自身の像と向かい合っていた。衣服をまとった体は一見ほっそりして見えるが、しなやかな筋肉の鎧を備え、よく引き締まっている。ロクトは手を伸ばして蛇口を捻り、手で椀を作って、そこに透明な水を溜めた。冷たすぎる水で寝ぼけた顔を洗い、閉じようとする瞼を引き上げる。黒い少しくせっ毛の髪から、付着した水滴が垂れ落ちて、高い鼻の頭を掠めた。
数秒。鏡の向こうの人狼と目が合った。下がり眉なせいでやけに気弱に見える、目に隈を湛えた、ひとりの人狼と。
口の端にそっと人差し指を引っ掛けて、鏡に向かって歯を見せると、肉を食い破る鋭い犬歯が覗いた。顔を少し右に逸らすと、少しだけ尖った自分の左耳がある。右耳も同じだ。ロクトは目を瞑り、男にしては長いまつ毛を伏せて、物憂げに息を吐き出した。
鋭い犬歯と尖った耳は“人の姿を取る人狼の証”だった。削ぐことも削ることも叶わない、自分の身体の一部が、自分が人狼であることを証明してしまうのだ。だがそうは言っても、人間にも犬歯の鋭い者がいるように、歯を見ただけで人狼だと判断されることは今まで一度も無い。尖った耳はフードをかぶって隠せば、大した問題でもなかった。
流していた水を止めると、蛇口がキュッと音を立てた。濡れた顔をざらついたタオルで半ば乱暴に拭って、滴り落ちる水を吸わせる。肌が擦るザラザラした感触が心地よい。ひとしきり顔を拭って水分を取り除き、タオルを元の位置に戻して長い息をついた。
「……よし」
もう一度見つめ直した鏡に写る自分の顔をパチンと両手で叩き、とろんと下がりつつあった目を覚ます。
顔を洗う前よりも、少しはマシになっただろうか。
フードのついたグレーのパーカーを羽織って、重たい鉄扉を押し開けた。冷たい外気が一気に体を撫で付けて、思わずぶるりと体が震える。
ひとつ息を吐きだして、フードをかぶり、ゆっくりと外の世界へ踏み出した。
冷たい外の世界は、いろんな音がした。音というより、正しくはたくさんの声だろうか。細々とした声が重なったざわつきは、耳障りな大きな音ではないものの、ここ、建物の三階の高さまで確かに届いている。
寒さに首をすくめ、通路の端まで進んだ。カンカンと鉄の音を鳴らしながら建物の西部に拡張されるように取り付けられた螺旋階段を、一歩ずつ踏みしめて降りていく。西からわずかに聞こえる喧騒。普通の人間には聞こえないものでも、人狼なら小さな音でも聞き取ることができた。意識すれば、声の一つを聞き取ることもできるかもしれない。
階段を降り、空を映す水たまりの出来た大小様々な建物の並ぶ路地から、光差す表通りへ。先へ向かう度、音はどんどん大きくなっていく。
そして光の中へ。一歩通りへ踏み出せば、そこはもう雑踏だった。人、人、人、人、人の波。人間。人間だ。人間の波。人狼とは違う生き物、人間だ。
皆がそれぞれ違う場所を見つめ、一心不乱に前へ前へと歩いていく、人間の波。なるべく平静を装い、その通りの中へ何とも誰とも目を合わせないように遠くを見ながら、ロクトは人々の流れに乗って歩き出した。
ロクトが住んでいるここは“人間の”街だ。街の名前はライハーク、人口は数多く、人間たちの活気に満ち溢れた巨大な都市だ。大きな街道の半ばに立地するために商業が栄え、街に出入りする人間の数は数え切れないほど多い。円状の街全体は、登ることも困難な高い塀に囲まれていて、賊の類から守られている。塀をくぐるには、街の東西南北に伸びる大きな街道に続く四つの大門と、その他十数箇所に位置する小門を抜ける必要がある。
日中は街中の至るところで市場が開かれ、人々は競い合うように消費を重ねる。日が没すればまた違った店々が明りをつけて、人々はまた湯水のように金を使い、経済を回した。
人間の街。人間の世界。商売と金、儲けと消費、明るい活気に包まれた、賑やかな人間の世界。
そんな街の中で、人狼でありながら、ロクトは生きていた。人狼を害する傲慢な生き物たちの世界に、ひっそりと生きていた。
身の毛のよだつ恐ろしい人間が飽和し溢れ返る敵だらけの世界へ、ひとり身を投げた人狼は、きっとこの広い世界で彼だけだろう。この世界で人狼が、人間だらけの巨大都市に住み着くなんてことは、人狼にも人間にも、誰にも考えられないことだった。
この街に来る前、ロクトははずれにある小さな家に住んでいた。
自宅の近くにあるのは人も物もそう多くない、人間の村。小さな村なので、外れに住む変わり者の噂はすぐに広まった。しかし人間の集落の近くに住むことは、必要なものをいつでも手に入れられるということでもある。人間に正体がバレるリスクと、必要な物が手に入るリターン、ロクトは後者を選び、そこに住むことを選んだ。
もちろん正体が人狼であることは隠していた。しかし正体を明かされることがなくとも、村外れに住む変わり者というだけで、村の人間たちからは好奇や嫌悪の目を向けられる。投げつけられる視線が、その身に深々と刺さる。
時が経ち、いずれ「あれは人狼だ」と、真実かどうかも定かでない噂が、まるで確定したことのように段々と伝播する。そしてある時、ロクトは石を投げられた。背中に当たったのは小さな石だったが、受けた痛みは鈍器で殴られるよりもずっと酷い痛みだった。村の人間たちは、逃げるロクトの背中を指さして笑った。
敵意が身を焼き焦がす。突き刺さる悪意は心臓にまで迫る。
それからまた時が経ち、その村から、村の人々から、遂に逃げ出さなければならない時が来た。人狼が村の近くにいるという噂が真実であると気付いたらしい村人たちに火がついたのだ。村の人間たちは結集し、ロクトを殺そうと大挙したのだ。
ロクトは、逃げた。襲い来る罵声と暴力から全力で逃げた。逃げて逃げて、逃げ続けると、村人たちが追いかけてくることはなくなったが、ロクトの心には傷だけが残った。
しばらくの放浪の末、身体的な限界に達したロクトが辿りついたのは小さな人間の町だった。フードを深くかぶり、口を固く噤み、意を決し潜入する。
そこは延々と雨が降る、薄暗い町だった。雨から逃れて入ったパブで、ロクトはとある女と出会った。カウンターに座った女は片肘をつきながら、ショットグラスに注がれたアルコールをへらへら笑って眺めている。その女は、既に人間であることを――いや、生物であることを諦めたように、酒に溺れて酩酊していた。
「あんた、見かけない顔だね? どっかから逃げてきらの? 訳あり?」
呂律の回らない口で、声をかけられる。答えあぐねていると、酒に溺れた女はショットグラスに注がれた、匂いの強いアルコール飲料をぐいと一気に飲み干した。喉が鳴り、酒が体へ流れ込む。
「逃げて、逃げて、逃げて来たんだろ……。ニンゲンの怖さは、あたし、よーく分かるよ」
けっけっけっ、女は魔女のように笑って、さらにグラスをあおる。グラスにはもう酒が入っていない。女は「あれ」と言って、また笑った。
ロクトは、酒に溺れた女の言葉を黙って聞いた。目の前にいたのは救いようのない酔っぱらいだった。だが女の言葉には、不思議な力があった。話を聞くべきだと、直感が告げていた。
「逃げるなら隠れなきゃ、だからねぇ……。ねぇ、あんた、病気になった木を隠さなきゃぁーいけないなら……あんた、どこに隠すよ?」
そう言った女の目を見た時、ロクトは思わず息を止めた。妙にギラギラした、愚直な瞳。乱れた化粧、二筋の紅色から放たれる、真に迫る力を持った不思議な言葉。病気になった木。欠けていたパズルのピースが、見つかった気がした。はっとした。息を呑むとはそのことだった。これでパズルが解けた気がした。
女は何か言いたげに、むにゃむにゃ何かを漏らすと、そのままカウンターテーブルに突っ伏して、深い夢の世界へ舟を漕ぎ出していった。
「放っときな」
まだ話を聞きたい、彼女の傍へ行こうと立ち上がったロクトに、レジの前で店の金を丁寧に数えていたパブの店主の声がかかる。店主はむっつり顔で、ぎょろりとした白目の多い目をロクトに向けた。
「あんたがその女のツケ、払ってくれんのかい」
ドスの効いた声を発した店主を一瞥し、ロクトはその店を立ち去った。後ろから舌打ちが聞こえる気がした。
病気になった木――酔っ払い女の言うそれは、人狼のことだ。
木を隠すなら、広い広い森の中。病気になった木も、どこかに隠すのなら森の中なら気付かれにくい。森から離れた場所が安全なのだと思っていた。だがそれは違った。森ではない、見えやすい場所へ、わざわざ病気の木を置いておくのが間違っていたのだ。気付かれない場所がいいのなら、いっそのこと森の中へ隠せばいい。
あの酩酊女が自分の正体に気付いていたのかどうかは、定かではない。だが、そんなことはどうでもよかった。
人間の多い世界へ紛れることが出来たなら、自分の素性を知ろうとする者は少なくなる。数多くの人間の中に、一見すれば人間と大差ない人狼が一人混じったところで、気付かれることはない、灯台の下は暗いのだ。
確信したロクトは、早速人間の街へ暮らす手はずを整え始めた。雨の降り続けるその街程度の規模では駄目だった。もっと、もっと人間の多い大きな街なら、人間がたくさんいる街になら、人間の中へ埋もれ、隠れることが出来るはず。
人間は恐ろしい。彼らは人狼を忌み嫌い、殺すことも厭わない、その事は自分がよく知っている。それでも人間の世界へ身を投じようと思えたのは、それが安全だという、不思議なまでに強い確信があったからだ。
そして人間を恐れる一方で、人狼には考えられない壮大な技術力と発想力を持った人間に、興味があったのかもしれない。或いは人狼よりも優れる種の広げ方に、密かに尊敬に似たものを抱いていたのかもしれない。決意できた真相は自分でも分からないが、ただ頭ごなしに人間を「悪」だと決め付けることは、ロクトには出来なかった。全員が悪だとは、思えなかった。人狼が持つ考えにしては、奇特の中の奇特だろう。奇特だからこそ、人間の街へ紛れるという普通の人狼では到底思いつけない策を見つけられた、ロクトはそう思っていた。
人間の街へ住まう術を見つけるために続けた東奔西走の末、とある人間のブローカーのもとへたどり着いた。そのブローカーは商売相手を選ばないともっぱらの評判で、種族の壁を越えて商売相手を探しているという。あまりにも自分にぴったりな噂だった。
用意した金を渡すと、彼はふたつ返事でロクトの頼みを承った。ブローカーは相当な変わり者で、初めて対する人狼――しかも客人として来訪した――に舞い上がり、すぐさまロクトに住処や仕事を与えてくれた。人間の街へ人狼を潜り込ませるために、ブローカーが様々な偽造工作を行ったことは言うまでもない。
そうしてロクトはこの人間の街、ライハークに住まい始めた。
ロクトの目論見通り、人間たちは生活の中に、自分たちが忌み嫌う人狼が紛れ込んだことに気付きもしなかった。人間という生き物は寄り集まって強くなったが、数が多くなればなるほど、自分たちの内側に目を向けられなくなっていた。人狼も人間を避けるのだから、それが内側に住み着くなんて考えもしない。あの酔っぱらい女の言った通り、木を隠すなら森の中。望んでいた通りの結果になった。
想像通りであったと同時に、ロクトは呆気なく手に入った安楽に、驚きもしていた。下手に目立つ場所に住まうより、危険な生き物と同じ街の中で暮らす方がずっと安全だったことを、その身で味わったのだから。
灯台下暗しとは言え、危険だと思った場面はいくつもある。
「ずいぶん鋭い八重歯だねぇ」
街に入って初めの頃、マルシェで食材を物色している時、みずみずしい果実を売る店の番をしていた皺だらけの老人と話をしたら、何の気なしに老人にそう言われた。
何も騒ぎには繋がらず、老人もロクトが人狼だとは思ってもいないようだった。だがすぐさまその場を離れ、ロクトは自分の気持ちを改めた。口を開いて話すことは、人狼であることを人間へバラしてしまう可能性がある。ほんのはずみに鋭い犬歯が、口の中から見えてしまうからだ。それからは外で言葉を発する時は、出来るだけ口を開かずぼそぼそ話すようになった。
尖った耳を見られるのも危険かもしれないと気付いたのも、同じぐらいの時期だった。外へ出る時は必ずフードを深くかぶった。
ボソボソ喋り、フードをかぶる。鋭い犬歯も尖った耳も、いざ疑われても「生まれつきで」と笑顔で答えれば、自分たちのことで忙しいこの街の人間は「そうか」で済ませてしまうことだろう。
気を付けるのはそれだけでよかった。それだけで、ロクトは久々の平穏と安全を手に入れた。
この街を紹介したブローカーが、知り合いを介して与えてくれた職は単純な力仕事だった。
日が沈んでから街に入ってきた荷物運びをする仕事だ。昼夜逆転の生活や重労働の力仕事も、自分の身の安全のためなら安いものだと言い聞かせた。
たくさんの店が並ぶこの街は、他の場所よりもずっと雇用の機会が多い。そんな街でわざわざこの仕事を選ぶような仕事仲間は皆驚くほど淡白な変わり者で、他人との付き合いを嫌う者ばかりだった。本来の自分なら付き合いが無いことを残念に思っただろうが、今のロクトにとって仕事仲間が無関心であることは、自分の正体を隠しやすいことでもあるので、むしろ歓迎だった。
しかし重労働の末に与えられる給料は安く、異常なまでに長い労働時間はどっとした疲れを身体中に蓄積させた。しかしそのことに対して文句をつける権利は、ロクトには生憎存在しない。
そんな仕事をしているのも全て、この街で暮らすという安全のため。そう言い聞かせるだけでいっぱいだった。
人狼であることを知る者はブローカーだけで、正体がバレることを恐れるあまり、普通の話し相手も作れない。自由の利かない生活は、精神と身体をじわじわと蝕んでいく。長時間労働の疲労感と、いつ人狼だと気付かれるかは分からない恐怖に、押し潰されそうになることもあった。
ロクトはできるだけ静かに、毎日を過ごしていた。今までの生活とは違う緊張感。今までよりも遥かに安全ではあるものの、それでも問題は限りなく存在する。
自分が人狼でさえなければ、と思った日はいくつあっただろう? 自分がただの人間だったなら、もっと普通に、もっと幸せに、毎日を過ごせたはずなのに。もし人間に産まれられてさえいれば、苦しみながら隠れる必要なんてどこにもなかっただろう。
そう思うと、やり切れなくなって、何もかもが嫌になる。今更自分の出生を恨んだってどうしようもないことぐらい、よく分かっていたはずなのに、全てが嫌だった。
これでも前の生活よりは何倍も安全で、平和で、幸せな暮らしだった。ビクビク怯えながら暮らしていても、その正体に気付かれない限り、気付かれないようにしている限り、命の危険はなかった。 問題なく生きられるのならそれでいい。ロクトは自分に、何度もそう言い聞かせていた。
街に紛れた人狼は、たった独りで生きていた。