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◆正義感




 釣り道具をパティナに渡すために森へ行ったのは、既に数日前のことになっていた。

 あの日の前日――パティナと嫌な別れ方をして、街に戻り落ちる少年を救い、家を訪ねてきた少年とブローカーと話し、再度パティナと出会ってから、森へ入り込んだ狩人を退けた、あのいっぱいいっぱいの一日――に、一切の睡眠を取らなかったことが起因して、あの日から生活のバランスが一気に崩れてしまった。いつもの睡眠の感覚がズレてしまって、寝不足のまま仕事へ行くことも増えた。さらにこの時期の西門は、街中への荷の運び込みが非常に多く忙しい。

 運び込みが忙しくなる原因は“セカドール”なる魚の輸入量が増加するためだ。大量に街へ運ばれてくるその魚は、庶民から金持ちまで、古くからこの街の人間の舌に広く親しまれている。空気が冷え始めたこの時期は、セカドールの漁獲量が跳ね上がるため、その分魚がたくさん運ばれてくる。これをロクトの仕事場の人間たちは「セカドールラッシュ」と呼んでいる。

 セカドールはライハークの西方の港町、パゲポテで水揚げされる。夜更けに漁が終わるのを見越してパゲポテに出向いた商人たちは、揚がったばかりの大量のセカドールを競り落とし、荷車へ積み込む。列をなしたいくつもの荷車は陸路を辿り、一時間程度の道のりの末に、市場が開く直前の夜明け 前のライハークにやってくる。

 商人たちは荷入れを終えると、商品の鮮度管理を集配所(つまりロクトの勤め先)に一任しているため、生モノが街へ辿り着いたあとは、配達員と時間との戦いになる。

 大量に積まれたセカドールを、街の西部の数箇所にある市場と、西門近くの集配所とを、延々と行ったり来たり運搬し続けるのは、想像を絶する苦行だ。時間がないのでミスは許されず、現場は常にピリピリしていて最悪である。

 去年の今頃にも一度「セカドールラッシュ」を体験していたので、身体的にも精神的にも摩耗して、私生活のゆとりが一切なくなってしまうことはよく学んでいたが、過去に学んだところで、対策の講じようはない。あえてひとつ対策するなら、仕事のない時間は無理をせず、ただ家でじっとしているに限る、ということだ。

 つまるところ、忙しさと疲れのせいで、ロクトはあの日から自宅と仕事場を行き来する以外何もしていないし、出来ていなかった。疲れた体を引きずって、森へ行くなんて、一切考えられなかった。人間の街で、人狼である自分に与えられた仕事は、これだけだ。辞めるわけにも、辞めさせられるわけにもいかない。



 せっかく彼女に料理を振舞うことを認めてもらったのだから、早く実行しないと約束を破ることになってしまう。仕事で疲れて倒れるように眠りながらも、ロクトは長い間焦っていた。

 彼女はたったひとりの人狼の知り合いだ。ブローカーの『大切にしろよ』という言葉が全てではないが、適当に扱いたくはない。

 まだ友人と呼べる間柄とは言えないし、彼女も自分を友人だとは微塵も思っていないだろう。だが自分は、彼女と友人になりたいと思っている。友人になるには関わっていることが必要だ。そのためには、この仕事地獄から一刻も早く抜け出して、彼女のもとを訪ねるべきだろう。

 セカドールがたっぷりに詰めこまれた箱をせっせと運びながら考えていたら、ズレた蓋の中から、砕かれた氷のマットレスの上で寝そべる一匹のセカドールと目が合った。

 死んでいる魚と目が合ったところで、感じることは何もない。だがこの数日のうち、この魚たちとは何度目が合ったことだろう。箱が揺れる度こちらを一心に見つめてくる、この空っぽで無機質な目玉を見るのは、もう嫌になってきた。



 今日の分のノルマをこなし、肩を叩いて休憩していると、追加で二箱運ばされることになった。押し付けられた仕事をなんとか終えたのは、既にいつもの終業よりも遅い時間で、今度こそ仕事を切り上げる。

 配達区画は街の四分の一だけとは言え、その中を休むことなく、徒歩でせっせと横断し続けるのだから、疲れて仕方がない。

 ちなみに、セカドールの取引がこの時期に多いとはいっても、仕事すべてがセカドール運びになるわけではない。普段通り運び込まれる荷や、魚類以外の野菜や果物などの運搬だってある。「セカドールラッシュ」は普段の仕事量は据え置きで、さらに仕事を上乗せされるから大変なのだ。


「おつかれさまぁ」


 集配所で座りながら指示するだけの責任者が、やる気のない言葉で本日の業務の終了を告げた。

 仕事を終えたほとんどの者は目の下に隈を浮かべている。「おつかれさまです」と力のない労いの言葉をかけ合ってから、労働を終えた者たちは、広い街の中に散り散りになっていく。きっと全員が、今日の疲れを取るために自宅へ直帰して、ベッドへ潜るのだろう。涼やかな夜明け前の澄んだ空気と対照的に、仕事を終えた労働者たちの顔は、今にも雨が降りだしそうな曇り空のようにどんよりしていた。

 ロクトもその限りではなかったが、他の労働者と違い彼は人狼だ。並の人間よりも基礎的な身体能力は高い。疲れは溜まっていたが、他の者たちよりはマシだという自覚があった。

 仕事終わりの息苦しさを忘れるには。ふと気付けば、いつもの場所へ足が向いていた。その足取りはまるで亀が歩くように遅々としていて――。



「はっ……!」


 目を覚ますというよりも、目を覚まさせられた。原因は、寒さ。とにかく、凍えるぐらい寒い。眼が見開く。体に刺さってくる外気、視界を白ませる光――ここは、外だ。

 人狼は並の人間よりも身体能力が高い。他の労働者と比べれば、いくら疲れが溜まっていようと、彼らよりはマシだ――そう自負していたのも、数時間前までの話。考えてみれば、他の労働者より動ける分働かされていたので、彼らと同じように疲れが溜まっていることに違いはなかった。

 先程まで東の地平線に隠れていた太陽は、既にその輪郭の全貌が見える高さまで移動させている。喉が乾燥して、声が出なかった。フードの中で、尖った耳がじんじんしている。冷え切った手で触っても、耳が冷たい。

 ロクトは慌てて、腕に巻いた安物の時計を確認した。公園のいつものベンチに来て座ったのは四時間前。ここへ来て最初の頃の記憶はあるが、その後のことはまるで覚えていない。疲れと眠気に負けて、外であるにも関わらずぐっすり眠ってしまったらしい。

 外で動くことが主の仕事上、夜の寒気に耐えられるように服を着込んではいるが、底から冷え込むこの季節に外で眠るなんて、正気の沙汰じゃない。我ながら馬鹿だ、とロクトは寒さに震えながら、冷や汗を流した。



 公園には楽しそうに遊ぶ子どもたちの姿や、散歩をする人間の姿が見える。

 ロクトは目を覚ますとすぐに立ち上がった。明け方の公園のベンチで寝ている怪しい奴など目立つに決まっている、このままここにいてはいけない。子どもを助けるためとは言え、街中で狼の姿になってしまったことといい、気が緩んでいるとしか思えない。自分を戒める。

 早く安全な家に帰ってしまおうと早足に歩いていると、すぐに公園の出口が見えてくる。出入り口に至るまでの道には、丁寧に整えられた低木が両脇を挟んで続いており、色味を変え始めた葉をつけた樹木は低木のさらに外側に定間隔で生えている。



「この女男! おとなしく言う事聞け!」


 声変わりもしていない子どもの高い声と、声がなぞる不穏な言葉、そして聞くだけで伝わる剣呑な雰囲気。続けて無邪気で残酷な笑い声が起きる。

 公園の入り口から入ってきた集団を見て、ロクトは目を丸め、口を引きつらせた。

 赤いニット帽の少年が、自分よりも背の高い数人の子どもに囲まれて、引っ張られたり押されたりしながら、公園の入り口の道を歩かされていた。少年が突き飛ばされてふらふら歩くたびに、周りから笑いが起きる。

 少年を囲んでいるのは、この前あのニット帽の少年を、三階の建物の屋上から突き落とした子どもたちと一緒だろう。先ほどの声にも聞き覚えがあった。また、だ。

 少年は悔しそうに唇を噛むだけで、何も言い返さず、やり返さずに、地面を睨んだまま固まっている。そうしているうちにまたもや突き飛ばされてバランスを失い、今度は舗装された石のレンガの道に手をついて倒れた。

 少年の顔は、ロクトの家を訪ねてきた賢い子どもの顔とは別物だった。彼は今、ただいわれなき暴力に耐える、気の毒な子どもになっていた。

 一瞬止めかけた足を動かし、そのまま進んでいた方向へ歩き続ける。


「なんとか言えよ」


 転んだ少年は、服の後ろ襟を掴まれて、無理やりその場に立たされた。

 少年と少年を囲む集団も、ロクトの方へ歩いてくる。彼らが、前方から接近するロクトの存在に気付いているかどうかは定かでない。

 正直に言うと、人間のいざこざなんぞに関わりたくはない。例え顔見知りがトラブルの渦中にあろうとも、いざこざに首を突っ込んで、こちらまで厄介事に巻き込まれるのはご免だった。どんなことがきっかけで、自分が人狼であることが露呈するかは定かではないのだ。

 だからあの赤いニット帽の少年だって、少し言葉を交わしただけの、ただの顔見知りに過ぎない――。


 だが。話したこともない人の家を突き止めて礼を伝えに来るような、年齢からは考えられないほど真面目なあの少年が、囲まれて虐げられているのを黙って見ていられるほど、冷徹にはなれなかった。

 これだからいけないのだ。何も学んではいないではないか。そんなことは分かっている。自制する心を振り切って、ロクトは覚悟を決めた。



 やいやい言いながら歩いてくる集団の行く手を塞ぐように立って、出来るだけ冷静に、かつ気さくに声をかける。


「やあ」


 いじめっ子たちの動きが止まる。全員が、少年を乱暴に扱っていた手を止め、ロクトを見上げた。彼らはロクトが前方から歩いてきても、少年を小突く手を止めたり、隠したりする素振りは、一切見せなかった。


「なに?」


 ニット帽の少年はもちろん、集団の他の子どもよりも頭一つ背の高い、目の吊り上がった一人の子どもが、不機嫌そうな声を上げながら、前に進み出てくる。生意気な目を爛々と意地悪に光らせて、ロクトを睨む。

 後ろめたいことをしていることを自覚しているはずなのに、大人に話しかけられても一切動揺を見せない不遜な態度を見るに、この子どもが周りを悪事に引っ張るリーダーなのだろう。現に周りの子どもたちも、そのリーダーを便りにするような目で見ている。ニット帽の少年は、集団の後ろで小さくなっていた。


「僕らは遊んでるだけだけど」


 なあ? とリーダーが周りの取り巻きの子どもたちに尋ねる。取り巻きたちは待っていましたとばかりに「そうだ、そうだ」と口々に喚いた。

 どう見ても、ただ遊んでいる様子ではなかった。三階から人を突き落とすという、死人が出ていたっておかしくないことをしたというのに、それでも尚こんなことを続けられるのは、人間社会に特別関心のないロクトから見ても、異常なことだ。

 きっと今までもずっと、この子どもたちは、大人たちの視線からすり抜けてきたのだろう。そうでなければ、周りの大人たちが見て見ぬ振りをしてきたか、だ。理由が後者の可能性は大いにある。

特にこのリーダーの少年は、反省とは無縁そうな、偉そうな顔をしていた。甘やかされて育ってきたんだろう、ロクトは彼の顔を見ながらぼんやりと思った。 



 取り巻きたちは、リーダーに対する信頼感はそのままに、様子を見る警戒した顔で、固唾を飲んでロクトとリーダーのやり取りを睨んでいた。


「『不審者だ!』って僕らが叫んだら、お兄さん、街の自警団に捕まっちゃうんだよ?」


 リーダーの少年は勝ち誇った顔で、ニヤニヤ笑いながら言った。確かに、自警団がかけつけていろいろ話を聞かれでもしたら、大変困ったことになるのは事実だろう。


「それともパパにお兄さんのこと言いつけようか? そうしたらパパは人狼を殺したのと同じ銃を持ってきて――」


 ロクトはぺらぺらと話し続けるリーダーの少年の目の前へ大きく踏み込んで、ぐいっと距離を詰めた。突然の行動にリーダーが驚いて、後ろへ退こうとするのを、片手を伸ばし、その肩を掴み、逃げられないようにそこへ固定した。目線を合わせるために腰をかがめて、さらに顔を近付け、優しい声で問いかける。


「その子を、殺しかけたのに?」


 空いた手で、後ろで小さくなる少年を指した。ニット帽の少年は顔を俯けた。

 言葉を受けたリーダーの少年がたじろぐ。あの時突き落とした少年を受け止めた通行人が、ロクトだとはどうやら気付いていなかったらしい。


「なんのことだよ」


 動揺を見せても、知らぬ存ぜぬで押し通すことに決めたのだろう。リーダーの少年は眉間に皺を寄せて、ロクトを睨んだ。

 珍しく自分が腹を立てていることに、ロクトは気付いていた。このいじめっ子のリーダー相手になら、容赦はしなくても良い。頭の中のどこかが、そう判断したようだった。考える間もなく、ロクトの頭に浮かぶ感情が言葉へと変換されて、ほとんど勝手に口が動く。


「あの時、僕がいなかったら、その子はどうなっていただろうな?」

「……なにが……」

「キミ」


 肩にかかった手に力を込めて、リーダーの目を覗き込む。据わっていた目は、忙しなくバシャバシャ水音を立てて泳ぎ回っている。リーダーの少年は、ロクトと目を合わせようとはしなかった。


「今頃、人殺しになっていたんだよ?」


 きっと、あの突き落とし事件を起こしてからこのリーダーの少年は、気が気でなかったはずだ。少年を黙らせることは、いつもの要領でやれば難しくない。だがあの時の通行人が登場して、あの事件の証言をすれば、自分の手に負えない恐ろしい事態に発展してしまう。そのことは、理解していたし、恐れていただろう。

 だがあの事件が起こった後、誰も自分を咎めようとしなかった。そしてまた少し時間が経って、誰も事件について話していないことに気付き、ようやく安心して、また少年を虐め始めた。まぁ、そんなところだったはずだ。

 しかし、そうしていたら、ロクトが現れた。

 リーダーの青い眼は、眼窩でところ狭しと泳ぎまわっている。リーダーの少年は、手先をいじりながら、顔をしかめ、目を伏せた。何も、言い返せないようだった。

 大人気ない気もしたが、この子どもは、子どもであって、もう子どもではない。罪を犯した後も、反省せずに罪を重ねられる者は、年齢も性別も種族も何も関係なく、悪人だ。


「僕は見ていたぞ」


 君たちがこの子を突き落とすところを。

 ロクトは表情筋の一つすら動かさず、まるで人間でないものでも見るような冷たい目で、トドメを刺した。

 リーダーの少年は言葉を発することもなく、悔しそうに涙の浮かんだ瞳でロクトを睨むと、肩にかかったロクトの手を振り払って、早足でロクトの側を歩き抜けていった。唖然として反応が遅れた取り巻きたちは、慌ててリーダーの後を追いかけて、ばたばたと足音を立てながら、公園の奥へと走っていく。



 場に残されたのは、ニット帽の少年と、半ばしゃがむような姿勢のまま固まったロクトの二人だけ。先程まで小さくなっていた少年は、眉根を寄せた困った顔でロクトの顔を見上げていた。顔には聡明さが戻ったものの、少し複雑そうだった。

 そして少年のその顔を見た途端、火照っていた自分の思考回路が、急速に外の空気のように冷え上がってきた。

 しまった、と口に手を当てる。ついやってしまったが、白昼堂々子どもに大人気なく口撃するなんて、とても自分の正体を隠す者の行動とは思えない。冷静でなかった、と行動を悔いる。それに、恥ずかしい。


「あの……」


 思い詰めて目の色を暗くするロクトに、少年が心配そうな顔で声をかけてきた。

 今日もいつもと同じ、赤いニット帽だ。きっと相当なお気に入りなのだろう。


「ありがとうございました。また……助けてもらっちゃって」

 

 居心地悪そうに顔を俯けた少年は、ため息混じりに言った。


「不審者呼ばわりされて、気分悪くされていませんか……?」

「……僕は大丈夫だけど、そういう君は大丈夫?」


 少年の膝には、地面を擦った黒い跡がついている。公園に来るまでも、ずっと突き飛ばされ続けていたはずだ。よく見れば体中に、同じような塵がついていた。

「僕は全然」と、前回見たのと同じようにぎこちなく笑って、少年は首を横に振ったが、とても大丈夫には見えない。


「あ、そういえば先日は押しかけちゃってごめんなさい。お名前、ロクトさんでいいんですよね」

「え、そうだけど……」


 どこで名前をと尋ねる前に、少年が慌てて付けくわえた。


「この前お尋ねした時に、管理人さんが教えてくれたんです」


 汗かきなアパートの管理人の笑顔が頭に浮び、それをすぐに頭から追い払う。部外者に住民の部屋番号を教えるあの管理人なら、名前のひとつやふたつも教えるだろうと、ロクトは苦い笑みを浮かべた。

 少年はまた顔を俯けて、恥ずかしそうに固い笑みを見せる。


「また助けてもらうことになるなんて、恥ずかしいです……本当に……」


 まさかまた助けることになると思っていなかったのは、こちらも同じだ。いつものベンチで寝過ごすことがなかったら、きっとこんなことにはならなかっただろう。口にはしないが、今でも心臓はバクバクしている。

 目の前で虐められる少年を見かねて口を挟み、厄介事に自ら身を投じてしまった。人間と深い関わりを持つべきではないのだから、そもそもこの行動も間違いなのだろう。

 それに、「知り合いだから」と愛着を持つのも、人間の街でやっていくには、やってはいけないことだ。愛着を捨てるのは、今からでも十分遅くない。早くこの場を離れるべきだと、ロクトは口を開いた。


「えっと……それじゃ……」


 曖昧な笑顔で、別れを告げるための右手をあげようとすると、少年が思い出したように「そうだ」と言った。


「僕の名前、まだ言ってなかったですよね」


 逃げ出すタイミングを失った。曖昧な笑顔のまま、曖昧に頷いて、行き場の無くした右手を下ろす。


「フェックって言います」


 頭を下げる少年フェックを見ながら、ロクトは顔を曇らせた。人間と関わるなという警告が、どこかからともなく聞こえてくる。

 でも、とロクトは唇を噛んだ。頭に聞こえる警告が伝える通り、ロクトもこれ以上人間の少年と仲良しになるつもりは一切無い。だがかといって、少年を突き放すつもりもなかった。

少年が自分の口から弱音を吐かなくとも、彼が今の状況に苦しんでいることは目に見えている。少年の浮かべるぎこちない笑みは、揺るぎない証拠と言えた。


「じゃ……えーと、フェックくん」


 咳払いをひとつして、『困ったことがあったら周りの大人にちゃんと相談するんだよ』、と言いかけ、思いとどまる。さっきのいじめっ子たちの傍若無人な虐め方の様子を見るに、やはり周りの大人たちが、イジメの見て見ぬ振りをし続けたのが、あの集団と少年の関係がこじれた原因なのではないか。もしそうなら、『周りの大人に相談しなさい』なんてことを言えば、それは少年を突き放すことと同義だ。

 少し迷って、口を開く。


「君が強くなる必要はないけど、何か困ったことがあったら、君が信頼できる大人に相談するんだ。皆が皆、君の味方をしないなんてことは、絶対にないよ」


 急ごしらえで最もらしいことを組み立てて、笑いかける。上手く作ったつもりの笑顔が、フェックの作った笑顔と同じぐらいぎこちないことを、自分で察して苦笑する。

 彼の置かれた状況を、見事に好転させるような言葉は、残念だがかけてやれない。かけられるのは、気休めの綺麗事だ。それでも無いよりマシだろう、心の内の偽善が納得する。

 そんなロクトの言葉を聞いていたフェックは真っ直ぐに、かつ重々しく、頷いた。


「それじゃ」


 そそくさと逃げるように片手を挙げ、公園を後にする。背中に少年の視線を感じたが、ロクトは一度も振り向かなかった。



 公園から少し離れて、ようやく一息つける距離まで来た。胸の鼓動が、いつもより早く打つのを感じる。まだ、緊張していた。人間と関わることは、やはり心臓に悪く、何度回数を重ねても、慣れることはなさそうだ。


「……気を付けないと」


 気を抜いて公園で寝てしまったこと。これはまだ、うっかりだ。

 そしてつい熱くなって、少年を助けてしまったこと。こっちは、自分の正体を隠さなければならないことを失念した、完全なお節介である。

 もう一度自戒する。ミスを繰り返せば、いずれ自分の正体が、人間社会の白日の下へ晒されることになるだろう。そうなればきっと、街の中の大勢の人間は怒り、叫び、人狼でありながら人間の街へと潜り込んだロクトを、一斉に取り囲むこととなるだろう。


『人間の街に紛れて、一体何をしようとしていたんだ』

『こんな危険な獣が、我々のすぐ近くにいたなんて……信じられん……!』

『今すぐ殺せ! 殺してしまえ!』

『殺せ!』『殺せ!』『殺せ!』


 自分にぶつけられる、恐ろしい言葉が脳裏に浮かび、ぞっとする。

 大勢の人間が住む街に人狼が紛れ込むことは、人間からすれば、それは灯台下暗しだ。人間と同じ姿をした人狼を、人間たちが見抜ける可能性は、ごく低い。だが一歩道を踏み違えれば、今まですり抜けていた人間たちの目が、一斉に自分に突き刺さることになる。

 危険性と安全性、自由と不自由、その均衡に、一度でも慣れてしまえば、どうということはないはずだった。現にこのライハークで一年とそれ以上の時間を過ごしても、大きな危機に直面したことなど、一度もなかった。人間に追われることなく安全に過ごせた時間は、人狼として生きてきた中で最も長かった。

 だからここ最近の自分が、たるんでいることが、よく分かる。

 この一年と数ヶ月の間に一度もしたことのないようなミスを犯したり、思いもしない行動を起こしてしまったり、こんなことを続けていては、固めた地盤はそう遠くないうちに、あっという間に崩れ去ってしまうだろう。

 ロクトは自分の頬をパチパチ叩き、再び自分を戒めた。


 僕はこの街で、生きていくんだ。既に、そう覚悟している。





少年の名前が出たことで、これによりこの物語に登場する基本のキャラクターは一通り揃った形になります。

どのキャラクターにどういった変化があるのかを見ていっていただけると嬉しい、です。


次話パティナ編「郵便屋再び」は、明後日投稿です。続きます!

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