表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/51

◆取引と、そのポリシー





 大人二人と子ども一人。

 短髪と金髪、そして少年。三人の狩人が、川側の木の下に並んで座っている。短髪の狩人は、パティナのタックルで受けた強い衝撃で意識を飛ばし伸びきっていたが、揺すれば起き上がった。

 ロクトは用心して狼の姿のまま黙って、パティナは話が円滑に進むように――狼のまま人間の言葉を話すと、狩人たちが落ち着かなかったので――人の姿に成って話をした。

 パティナは彼らを痛めつけることはせず、縄で動きを縛ることもしなかった。彼らの持つ武器――弩、バトルナイフ、それから拳銃――をただ奪っただけで、それ以上は何も施さないでいた。



 狩人達は座ったまま。パティナはその前に仁王立ちしていた。


「街の人間に依頼されて、私を殺しに来た、ということだな?」

「……そうだ」


 短髪の狩人が、パティナに目を合わせず、短く答えた。敗北が原因なのだろう、短髪の狩人は見るからに不機嫌だ。


「お前たちは、ライハークとはなんら関係のない遠い町からやってきた、と」

「……そうだ」


 いくつか重ねた質問にも、すべてこの調子で返答された。返ってくる答えはどれも「違う」と「そうだ」のみ。問答、というよりも、その受け答えは最早「○×クイズ」だ。

 パティナには、彼らから聞き出すことはもう無いようだった。相手がどこからどんな目的でやってきたのかを確認できれば、それだけで良かったようだ。そして彼女の想像通り、彼ら狩人は雇われただけの存在だった。

 平和的かつ一方的な会話の様子を見ながら、ロクトは先程からずっとパティナに対し、ひとつの疑問を抱いていた。

 なぜ、この狩人たちを殺さないのだろう。

 嫌悪していた人間が、刃や銃口を向けて自分を殺そうとしたというのに、彼らから奪うのは武器だけだ。縛りもせず、命も奪わず、自衛になっているようには思えない。

 ロクトが少年を殺しかけたとき、パティナは『やめろ』と叫んでロクトを制した。この少年は、確かに子どもだ。だが、一端の狩人でもある。油断や手抜きがあれば、それだけでこちらの命を獲られかねない。もしかすると彼女には、もとより人間を殺すつもりがないのだろうか。

 ロクトがそんなことを考えているあいだにも、話は進んでいく。



「……ひとつ、やってもらうことがある」


 パティナは腕を組んだまま、座っている狩人を見下ろした。


「…………なんだ」


 短髪の狩人が忌々しげに尋ねる。


「街の人間に私のことを殺したと言え」

「……!」


 ロクトはパティナと狩人達が会話を交わすのを黙って聞いていたが、その言葉を聞いて思わず「なるほど」と口を開きかけた。

 確かに手練の狩人達が「人狼を殺した」と言えば、街の人間たちはそれを信じる。すると、人間たちがこの森へ人狼狩りに侵入してくることは無くなるはずだ。



「断るなら、そのガキをここで殺す」

「……」


 少年は俯いて、怯えたように下唇を噛んだ。少年を挟むようにして座っていた二人、短髪の狩人は憎々しげに歯を食いしばってパティナを睨み、金髪の狩人は目を伏せて思考を回転させている。だが金髪の狩人のその顔は何故か明るい。

 ロクトにはパティナの言った脅し、「少年を殺す」が嘘だと、瞬時に理解できた。ロクトから見えた彼女の目には、何かを殺める覚悟の光なんて一切見えなかった。その脅しは、本気で言っているのではない。



「分かった」


 金髪の狩人がその場に座ったまま、両手を上げて明るい声で答えた。

 短髪の狩人が顔を向けて睨むのを、金髪の狩人は「ライハークにはもう来なきゃいいだろ」と飄々と笑って気にしない。


「今回の仕事は俺らからすれば『小遣い稼ぎ』のつもりだったんよ。依頼内容も“狼”を殺せ、としか聞いていなかったし。

 ……まさかただの狼じゃなくて、人間になる狼だとは思ってもみなかったし。小遣い稼ぎつつ、こいつにも経験を積ませてやることも出来ちゃうわけで、一石二鳥だなって」


 金髪の狩人がこいつと言いながら手を伸ばし、隣に座っている少年の頭を鷲掴みにした。少年は不満げに眉を寄せ、膝の上に手を乗せる。短髪の狩人は呆れ顔でため息をついた。

 パティナは腕を組んで、口を出すことなく金髪の狩人の話を聞いていた。覗き込むように男の目を見、じっと耳を傾けている。

 隣に座っているロクトから見た彼女のその横顔は、とても理知的なものだった。自分と話をした時の彼女とは、まるで別人だった。

 それに、黙って人間の話を聞くパティナは、どう見ても人間嫌いの人狼には見えなかった。


「あんたらみたいな人狼? っていうの? 前からそういう種族がいるってのは聞いたことがあったけど、こうやって面つき合わすと、普通の人間と遜色ないんだなぁ。初めて見たよ」


 感心した、とでも言うように、自分の言葉にうんうん頷きながら、金髪の狩人が言葉を並べる。


「俺たちの街の狩人は“人間狩り”は専門外でさ。亜人……って言うと人狼サンには失礼なのかもしんねーけど……とにかく人間に似た生き物は俺たちの“人間狩り禁止”のルールに抵触しちゃうから殺さないんだわ。つまり俺達、人殺しじゃないってことね。

 今回の仕事は“狼”を殺す任務だったから受けたんだけど、結果はコレな。人殺しはしない、って断っといたのに、実質騙されたってワケ」


 金髪の狩人は、驚く程よく喋る男だった。まるで立て板だ、ロクトは驚いて、目を丸くして話を聞いていた。


「なーんか嫌な気分だし、俺たちも仕返しに、あの街の雇い主サンたちを騙すことぐらい、許されちゃうんじゃねーかなぁ」


 つまり、パティナの提案に、乗るということ、だろう。

 金髪の男はけらけら笑いながら、「なぁ?」と同行者二人に意見を求めた。

「勝手にしろ」と短く答えた短髪の狩人は、もう何かを諦めたように遠い方向を眺めている。少年も、異論は無いようだった。



「……おい、どう思う?」


 話を聞き終えて、パティナが尋ねた。

 パティナの尋ねた相手が自分だとは思わず、一瞬時間を要した。意見を求められるなんて、なんてことを答える前に、求められた答えを導くために頭を回転させる。

 金髪の狩人が嘘をついていないことは、彼の声色や表情で判断することができた。つまり彼ら狩人は、ライハークにいる彼らを雇った人間に、「仕事は果たした」と嘘をつくつもりでいるだろう、ということだ。

 正直、一度パティナの命を狙って侵入したのなら、この人間たちを“返さなくても”いいと思っていたが、向こうに誤解があったのなら話は別だ。彼らが人狼のような種族に敵対心を持っていないのなら、人狼を憎む多くの人間とは違う、ということ。それは喜ばしいことだろう。

 それにこの取引が成功すれば、ライハークで「街の近くに住み着いた人狼は死んだ」ことになり、“狩り”目当てにやって来る人間はいなくなるはず。

 考えて出した結果、言葉は発さず、パティナを仰ぎ見、頷いた。どうやら彼女も、辿り着いた意見は同じらしい。


「……よし」


「お」男が目を輝かせた。


「だが武器は返さん」

「……ま、それは仕方ないか」


 金髪の狩人が皮肉っぽく笑って肩を竦めると「命があるだけマシだ」とどこかに未練が残る自分を納得させるように、ぼそっと呟いた。

 短髪の狩人は面倒そうに大きなため息をついた。少年はいまだに居心地悪そうに顔を俯けて黙ったままだった。

 話を振られたことに未だに動揺しているロクトは、とにかくこの場の話が落ち着いたらしいことに、一旦胸を撫で下ろした。

 人間――しかも狩人――の侵入を察知したらしいパティナが侵入者退治に出向いていくのを見、心配になって後を追いかけて来たのはよかっただろう。自分が辿りついた時、彼女は銃口を向けられていて、絶体絶命だった。

 そこまではよかった。だがもう少しで彼女を救えるという最後の最後で、大きなミスをしてしまった。あの矢を踏み抜く失態から、最悪の結末を迎えていたかもしれない。

 犯したミスに意気消沈していたところに、話を振られたのには驚いたし、嬉しかった。



 敵愾心を喪失した狩人たちは、パティナに解放されると、なんの後腐れなく素直に森から出て行った。彼らは侵入の際と何ら変わらない速度で、帰り道を悠々と辿っていった。

 パティナは彼らに、雇い主へ「“狼”を“一頭”きっちり殺した」と伝えるように指示し、狩人たち――正しくは金髪の狩人一人――もそれを二つ返事で了承した。

 “人間に似た生き物は殺さない”という彼ら独自のポリシーは守りつつ、狩りの対象を「“人”ではなく“狼”」と伝えることで彼らを騙した、彼らの雇い主への仕返しは忘れない。そしてもちろん、働いた分の報酬はきっちり受け取る、というつもりらしい。

 金髪の狩人はパティナに対し、「生かしてくれて、ありがとな」と言った。少年はまだ恐怖心を抱いていたようだったが、彼らからはもう敵意や悪意を感じることは無かった。特に金髪の狩人は、去り際に振り向いて、大きく手を振ったほどだった。




 人気のなくなった森。場所は変わって、パティナの住まう洞穴の前。

 狩人たちが去ってから、パティナが家へ戻る時。自宅へと戻るパティナの後に、流れでついてきてしまったために、帰るタイミングを見失っていた。

 ロクトは今、人の姿で、洞穴外部の岩壁にもたれかかっていた。岩肌は複雑に凸凹していて、それに背を預けると、背中を押されているみたいな感触がした。

 パティナはロクトがいることを忘れてしまったかのように、平然と夕食の準備を始めた。去ったばかりの人間のことを考えながら、パティナの横顔に向けて、ロクトはふいに尋ねた。


「殺さないんだな」


 すでに日はとっぷりと暮れていて、森は平穏の夜に包まれていた。静寂の中、どこかから梟がホロホロ鳴く声が聞こえた。今晩の空は、完全な暗闇ではなく、どこか青の残った夜だった。


「……殺したら、奴らと一緒だ」


 真っ黒な口を広げる円柱状の鍋ぶら下げた、少々貧相な三脚の組み木。その下に備えた薪に、ロクトがこれまで見たことのない小さな装置で火をつけながら、パティナは呟いた。


「同じにはなりたくない」


 彼女の言った「奴ら」とは、人間のことなのだろう。人間は、人狼を憎み、人狼を殺す。同じように人狼が人間を憎み殺すのは、見方を変えれば、人間と一緒だ。下賤な人間と同じになりたくないから、彼女は人間を殺さない。

 どれだけ憎くとも、手にはかけない。それはきっと、幾重もの思考の末にたどり着いた、彼女の答えなのだろう。

 パティナの手に握られた、小さな着火装置は、ボタンを押し込むことで火が出る仕組みのようだった。あっという間に、種火が出来る。


「……なりたくない、か」


 今のロクトには、表面だけの深みのない言葉しか返すことはできなかった。彼女の答えを理解することはできた。だが、「僕もそうだ」とは言えなかった。人の姿、ロクトは濃い灰色の目を伏せた。何かもっと、正しい言葉を返さなければ、そう思ってももしかすると、こねた返答をしようと努力することも、薄っぺらなのかもしれない。

 着火装置の活躍で着火した種火から、火は薪へと移っていく。パティナの目に赤い火が映る。昨晩と違うのは、彼女が人の姿をとっていることだった。

 千歳緑の髪の毛が、焚き火のオレンジに照らされている。憂いを帯びた深緑の瞳、筋の通った鼻、噤まれた口元――。

 彼女は、綺麗だった。



 薪に火をつけ終え、洞穴の中へ戻っていくパティナの後ろ姿を、火の光が照らす。

 ロクトはまだ洞穴の入口の側で、ぼんやりと突っ立っていた。勝手に座ると彼女の機嫌を損ねそうな気がするのでこのまま。ロクトは居心地悪そうに、片足にかけていた重心を、右から左へ移して、立ち方を少し変えた。

 火にかけられた鍋には、透明な水が張られている。洞穴の中から、生の肉と申し訳程度の緑を手にしたパティナが戻ってきた。生肉を保管しておける貯蔵庫のようなものが中にあるのかもしれない。

 戻ってきたので、また話しかけてみる。


「ここに来る人間は、みんなさっきの狩人みたいに、納得して帰っていくものなのか?」


 彼らは思いのほかあっさりと森を出て行った。言い方は悪いが、聞き分けのいい人間だった。


「……アレは狩人だから、他の人間とは少し違う」


 焚き火の側に、パティナはドサっと音を立てながら、あぐらをかいて座った。持ってきた食材をその膝の上に置く。


「狩人だから?」


パティナは燃え盛る火を眺めている。ロクトは彼女の姿を、彼女から少しだけ離れたところで見ていた。


「狩人は、普段の生活のうちから、生物と密接に関わる。自分が弓を引くだけで、矢先の生物の生死を左右させられる。……狩人っていうのは、生物の尊さ……ってやつを知っている数少ない人間ってことだ」


 どうでもよさそうに、彼女は言葉を続ける。


「今回来た奴らが聞き分けよく帰ってくれたのは、“人狼が”狩りの対象じゃなかったってだけだ。

 どの人間がどんなポリシーを抱くのかなんて知りようがないし、ここへ来る人間が、ここを出て行く理由はそれぞれだよ。まぁ、ほとんどは“私が強いから”出て行くんだけどな。納得はしてないんじゃないか」


 知らないけど、とパティナは涼しげに付け加えた。



 鍋の中の水が沸き立ち始めた。泡がぶくぶくと鍋の底から吹き出て、水面まで上ってパチンと爆ぜる。これは、熱湯地獄だ。その地獄に向かって、次々と肉が放り込まれていくのを、ロクトはゴツゴツした岩肌の壁にもたれたまま、黙ってじっと見つめていた。

 具材が放り込まれ少しだけ静かになった鍋が、鍋底から具材たちを押し上げるぐつぐつが、夜の中に浸透する。


「あんた、何でまたここに来たんだ?」


 パティナは真っ黒な鍋が熱されグラグラしているのを眺めながら、ポツリと言った。


「あれだけ私が拒絶したのに、あんたは馬鹿なのか?」

「僕は馬鹿だよ」


 岩肌にもたれかかりながら、声を微笑ませながら答える。

 彼女は呆れた風なため息をつくと、額にかかった髪をかきあげるように、右の手で顔を抑えた。


「あんた、さっき、『疲れた』って言ったよな。……それが私にも理解できるんじゃないかって」


 彼女がそう言ったのを聞いて、ロクトは、はたと目を瞬き、ゆっくりと口の中の肉を噛んだ。

炎を映した彼女の瞳が見える。瞳で燃える炎は、彼女に宿る考えだ。


「…………」


『疲れた』というロクトの発言が、私にも理解できるんじゃないか、と彼女はそう言った。

ロクトは黙った。何かが回る、頭の中で。

 彼女は言った、『理解できる』と。ロクトが『疲れた』と言ったことに。彼女がわざわざ危険な場所を選んだ理由が、ゆっくりと理解出来るようになる。彼女は昨晩、この森に住むことを『この森へ住みたいと思ったから住んでいるだけ』と答えた。だが、本当は――。


「『ただこのまま生きることに疲れた』……だから、君も僕も、今の場所にいる」


 違うかな、ロクトは彼女に向けて問いかけた。

 人狼は、複数で結束し生活する種族で、人だけで生きる者はほとんどいない。人狼がひとりで生きているとなると、それにはそれなりの理由がある。

 彼女も、自分も、ひとりだ。ひとりで生きている理由は、もちろんそれぞれ違っているだろう。だが、彼女がライハークのすぐ近くの森に住み、自分がライハークそのものに住み着いていること。二人とも、自ら進んで危険な場所へ住み着いている。そうなればその理由の答えは、おのずと見えてくる。

 夜の中、光源は火だけ。パチパチと薪の燃える音がする。

 熱された鍋が、中の液体と具材を少しずつ茹であげ、食材の色を変え、その形を変えていく。何かの香辛料も入ったのだろうか、香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。

 彼女はロクトの言葉に答えずに、しばらく黙っていたが、ふいに大きく息をついて、ようやくその口を開いた。


「……分からない」


 彼女がしかめた眉は、前向きな感情の表れではない。だが昨晩そこにびっしりとこびりついていた敵意は、見当たらなかった。彼女は真剣に、悩み考えているようだった。



「今日のこと」


 沈黙の後、パティナが突然、舌に留めていたのであろう言葉をぽつりと離した。だがその言葉の後に続くものはない。

 ロクトは彼女が黙したのを見ると、沈黙を割く様に言葉を返した。


「助けに行くつもりが、ミスっちゃったけどね」


 半分笑って答えたが、パティナはニコリとも笑わず、真面目な顔で燃え盛る火をじっと眺めている。

 気を利かして喋ったつもりが、またもや空回りしてしまったらしい。彼女が笑わなかったのを見て、ロクトの顔からも静かに笑みが消えていく。

 だがパティナは、笑わない代わりに、途切れていた言葉を続けた。


「……あんたが来なかったら、今頃私はどうなっていたか分からない。撃たれて死んでいたかもしれないし、捕らえられて人間に引き渡されていたかもしれない」


 彼女が見せた表情は、簡単には紐解けないぐらい複雑で、少なくとも手放しで喜んではいない。

 気の利いたことが、何か言えないものだろうか。頭の引き出しをひっくり返し、埋もれている言葉を探すが、彼女にかけられる言葉は、簡単には見つからない。だがそこで、開きかけた口を閉じた。彼女は、まだ言葉を探している。


 ロクトが背中に触れる岩肌に手を触れて俯いていると、彼女はようやく口を開いた。


「人間の街に住むなんて、頭おかしいことやってるあんたのことを理解したわけじゃないし、この森へ懲りずにやって来たことだって、普通に腹が立つ。……でも、あんたは命の恩人なんだろうし、感謝は……してる」


 感謝、彼女が述べた言葉に驚き、ロクトはまた目を瞬いた。しかしすぐにそれを受け止めると、「……大したことはしてないよ」と首を振った。彼女のことを救ったかというと、あの失敗のせいでそれは怪しかったし、そもそも彼女ならな、自分がいなくとも、なんとか生き残っていただろう。


「謙遜、をするな。感謝……すると、言っているんだ、私が」


 ぶつぶつ途切れながらも、最後まで言葉を言い切ると、彼女は鍋の側にあった不細工な木製のボウルとおたまを手にし、鍋の中身――とろとろになった具材と桑色になったスープ――を、自分の動揺を誤魔化すように乱暴に注いだ。その動作の最中も彼女は眉をひそめたままで、何かを必死に考えているようだった。

 それからパティナは火の脇からすっくと立ち上がり、岩壁に寄りかかるロクトに歩み寄って、スープの入ったボウルをロクトの胸に押し付けるように、ぐいと突き出した。反動で、ボウルの中身がこぼれそうになる。

 彼女が縁を掴んだボウルの中から、真っ白な湯気がもわもわと立ち上がり、ロクトの顔目掛けて広がっていく。


「……受け取れ」


 勢いよくこぼれそうになるスープを受け取って、両手で抱えた。中を見ると、そこに突っ込まれたほとんどが肉で、少しだけ投入された野菜は熱湯でしなびて見る影もない。スープはさらさらで、食欲を誘う桑色になっている。香辛料がよく利いていて、スパイシーな匂いがした。

 顔を上げてみると、彼女の顔はしかめ面から、大真面目な顔に戻っていた。相変わらずそこに笑顔はなかった。

 彼女はロクトに感謝の印を渡すと、鍋の側に戻り、熱々の桑色スープを自分のボウルに注いだ。そしてロクトのことなどもう忘れたかのように、手掴みでスープに浸った肉を食べ始めた。


「……ありがとう」


 その横顔に、少しだけ笑って礼を言い、ロクトは岩壁にもたれた体をずり落とし、そこに腰を下ろした。それから彼女の真似をして、手掴みでボウルに手を突っ込んで、肉を食べ始めた。

 具材はほとんど肉しかなくて単調だし、香辛料と肉の味もそこまで合っておらず、味付けはお世辞にもお上手とは言えない。だが決して、不味くはなかった。むしろ美味しいと胸を張って言うことが出来た。

 彼女の真似をして食べると、手が肉の脂でベトベトになった。ピリピリした辛味が舌の上で踊る。

それ以降、夜の森に会話が生まれることはなかった。ロクトがすぅと息を吐くと、熱々の口内から白色が一緒に吐き出され、それが空気中に霧散する。

 食事の時間は静かに過ぎていく。

 これで、大きな後悔を抱くことはなくなるだろうか。ロクトは空を見上げて、ひとり考えた。



 日はとっぷり暮れていて、ほんのり明るかった夜の空は、いつしか完全な黒に染まっていた。

 木々の隙間から覗く狭い空のキャンバスでは、一部が欠けた月が黄金に輝くべく煌々と光っていたが、灰色の雲が蓋をするようにかかっていて、その光を遮っていた。その夜は、普段よりも一層暗い夜だった。

 火の燃える色だけが、黒の森の中に鮮やかに色を落としていた。赤く暖かい炎に照らされて、取り囲む樹木たちが誰にも聞こえないように息をしている。





ひとまず決着、会話が出来てよかった。

次の話はかなり短いので、二話まとめて投稿です。続きます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ