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言ノ葉協会事件簿帳  作者: 色彩和
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第三件 ハラスメント問題

第三件 ハラスメント問題



 佳露との任務が終わって帰宅した蒼月と紅日は、少しは休める時間があるかと考えていたが、今回は違った。わずか三日で休息が終わり、四日目の朝には屋城からの呼び出しを受けた。朝食を二人で取っていると、仲間が「屋城から伝言を預かった」と、告げに来てくれたのだ。

 二人は朝食をさっさと食べ終え、現在は屋城の部屋へ向かう途中である。長い廊下を歩いている間、紅日は何回もため息をついている。呆れた蒼月は前方で重たそうな足を運んでいる相棒の名を呼んだ。

「紅日」

「だってよー、この間一か月も休めたんだぜ? てっきり一週間は休めるかと思っていたんだもん」

「かわいくないぞ。……仕方がないだろ。常に人手不足に悩まされるんだからな。この間はたまたま仲間が仕事を次々と片付けてくれていたんだ、俺たちも甘えられない。それに、休めていないのは俺もだ。……今は、特に人が少ないから、問題が次々と発生している時期なんだろうな」

 蒼月はそう言って、肩をすくめた。紅日は思い返してみる。

 確かに、帰宅した時から、やけに人が少なかった。広い建物の中、いつも広すぎる空間が、余計に広く見えてしまう。それを見た佳露が、やけに悲しそうにしていたのを覚えていた。それはたぶん、蒼月も同じである。

 佳露が前回の任務でだいぶ打ち解けたので、協会の皆と打ち解けるようになるだろうと考えていたのだが、運が悪かった。

 紅日は記憶を振り返ってあることを思い出した。人がいないことを確認してから、それを蒼月へ確認する。名前を呼ぶと、蒼月は眉をひそめた。

「……蒼月、あの話だけどさ」

「……ああ」

本当(ほんと)に屋城さんって、何者なんだろうな──」

「──分からない。だが、只者(ただもの)ではないはずだ」

「だよなあ……」

 佳露との任務の時、蒼月が打ち明けた疑問を、紅日も一緒に謎を解こうとしていた。佳露が眠った後に、こっそり話し合ったり、情報がないか探しあったりしていたのだった。

 実は、情報があった。蒼月が一つ一つメモをしていた協会の皆のこともだが、二人は仕事の共有フォルダから秘密のフォルダを探し当てたのだ。試行錯誤しながら、パスワードを解き、情報をすべてUSBへとコピーした。それからは、ゆっくりと情報を洗い出した。

 ──そして、共通点を見つけた。

 一つは、皆、誰しもが何かわけを持っていた。前回の任務で蒼月や佳露が隠していた闇と同様なものを、皆密かに持っていた。その中身は詳しく見なかったが、それでもその情報が一つずつフォルダの中で作成されていたことを確認した。

 そして、もう一つ。それは、誰もが(・・・)屋城(・・)()連れてこられた(・・・・・・・)人間だ(・・・)ということだった。どれもこれも最後だけ確認したが、屋城が現れて、この協会への勧誘で声をかけられている。しかも、必ずその人間が困った、悩んだと壁にぶつかったタイミングで現れている。

 あまりにもできすぎた話だ。

「だが、屋城さんが教えてくれるとは思わない。時機が来たら、教えてくれるかもしれないが──。その可能性は極めて低いだろうな。協会にいる中で、一番長くいるお前に話をしてくれていないなら、誰にも話す予定がないんじゃないか」

「だよ、なあ……」

 蒼月の言葉に頷くしかなかった。ため息がまた勝手に出てしまう。

 実は、紅日が協会に入った最初の人間だった。その時も屋城が困っている紅日を連れてきてくれたのだ。その時は、屋城もまだ「協会を作ろうと思うんだ」と誘っていた。蒼月の頃にはもう、「協会に来ないか?」と誘うようになっていたようだが。

 屋城がどうして協会を作ると言い出したのか、それを聞いたことは一度もなかった。自分を救ってくれただけで、それだけで良かったからだ。それ以外に紅日はいらなかった。

 だが、今蒼月に言われるようになって、それが疑問だった。あの頃とは違う。屋城がどうしたいのか、聞きたかった。今まで仕事で屋城に力を貸していたが、屋城がそれ以外に相談してきたことなどない。屋城が何を思っているのかも、考えているのかも知らない。紅日はそれが少しだけ悲しくて、寂しくも感じていた。

 たぶん、屋城さんは俺以外にも話していないんだろうな。全部抱え込んでいる気がする……。なあ、屋城さん、協会の皆を、俺を、信用していないわけじゃないんだよな──?

 だんだんと大きくなる不安が心を支配していくようだった。紅日は不安を払い落とすように、頭を横に振った。

 その様子を蒼月は黙ってみていた。紅日が不安になっているのは、察していた。だが、蒼月も実際いろいろと思うところがあるのだった。

 正直、二人ともが気にしていて任務どころではなかった。早く知りたい部分を知ることができない。それがどうしても歯痒く感じてしまうのだ。かといって、これ以上勝手に調べることも気が引けてしまう──。どうしたらいいのか分からなかった。

 なんだかんだ歩いていると、屋城の部屋の前に着いた。二人とも口を噤む(つぐむ)。今までの話は誰にも聞かれてはいけない、むしろ屋城には絶対聞かれたくない話だ。とりあえず周囲を確認すれば、誰もいない。二人は気を引き締めた。聞かれていないとは思うが、ぼろが出ないようにはしておかないと──。

 それでも重い気持ちは拭えず、蒼月は浮かない顔をしながら部屋の扉を開けた。

「……失礼します」

「蒼くーんっ!」

 突然、部屋に足を運びかけた蒼月に抱きついてきた人物がいた。蒼月は驚きを隠せずにいたが、勢いで後ろに倒れそうになるのだけは必死に堪えた(こらえた)。倒れなかったことに安堵し、息を吐き出す。それから自分の身体に抱きついている人物を見下ろした。中学生ぐらいの少女だった。蒼月はどうしたらいいのか分からず、そのまま手を身体の真横に下ろす。知らずにため息をついていた。そんな中、紅日が蒼月の背後からヒョコッと顔を出して、驚きの声を上げる。

「あれ、星羅(せいら)じゃんか」

「……何よ、鷹林。呼んでないわよ」

「まった、そんな風に露骨に嫌がる」

 少女の言葉に紅日は、がくっと肩を落とした。毎度のことながら、蒼月に対してと自分に対しての対応の差が激しい。相変わらずのこととはいえ、やはり傷つくものは傷つくのである。

 紅日が内心落ち込んでいる中、蒼月は静かに口を開いた。

「……星羅、頼むから、いきなり抱きついてくるのはやめてくれ」

「もう、蒼くんたら、相変わらず冷静ね。でも、そこが好き」

「これでも今は、驚いているんだがな」

 蒼月はため息をついた。長い黒髪をポニーテールにして、それをゆらゆらと揺らせば、近くにいる蒼月には当たるわけで。だんだんと鬱陶しく(うっとうしく)感じた蒼月は、星羅の肩を掴んで引き離す。星羅は残念そうだったが、離されることを受け入れた。紅日もその間に、だいぶ落ち込んでいたのを持ち直すことができた。

 蒼月は疑問に思ったことを少女に聞いてみた。

「……ところで、星羅はなぜここに?」

「君たち、そろそろ話をしてもいいかな?」

 部屋の奥にある執務机に両肘をついたまま、優雅に手を組んで、座っている屋城がにっこりと笑っていた。蒼月たちは入り口で騒いでいたことに今更ながらに気がつき、慌てて部屋の中へと入る。執務机を挟んで屋城の目の前に、三人は横に並んだ。蒼月が代表で話し始める。

「すみません、屋城さん。お待たせしました。今回の呼び出しは?」

「まあ、たぶん察しがついているとは思うんだけどね、今回は星羅と一緒に任務に行ってもらうよ」

 屋城はにっこりと笑って言った。蒼月と紅日は、その笑顔を見て、少し怖く思った。

 絶対、あの笑顔には何かある……!

 二人同時にごくりと息をのんだ。心の中で同時に呟いた言葉も、話し合っていなくても一致していることを感じ取る。ここのところ、屋城のことを調べ始めたこともあり、屋城の言動一つ一つが気になって仕方がなかった。

 二人はその思いを密かに押し殺して、隣にいる少女のことをちらりと確認した。

 兎姫(とき)星羅。協会でごく少数しかいない女性の中の一人。現在は、十三歳。協会の中で実力は中々あり、一人で任務に出ることもしばしばある。先程の様子で分かるかもしれないが、彼女は蒼月のことが好きだ。そして、紅日のことは嫌っている。蒼月を好きになった経緯はいろいろとあるのだが、紅日を嫌っている理由は単純であった。それは、「蒼月の相棒を務め、共に任務に就き、行動しているから」。とにかく気に入らないというわけだ。

 蒼月は、顎に手を添えて考え始める。

 星羅が今回は一緒……。この間は佳露が一緒で、子ども関係の仕事だった……、ということは女性関係の仕事があるということか。だが、星羅だけを行かせないところをみると、それだけではないことは明確──。男性も女性も関係がある……。夫婦関係か、職場関係かというところか?

「……ふむ。屋城さん、今回は職場関係、もしくは、夫婦関係、というところですか?」

「蒼ー、さすがすぎて、俺怖い……」

「? 何を言っているんだ、紅日。二つの選択肢で終わったところを考えれば、今回は全然だろ」

「怖い……」

 紅日は呟いて大げさに自分の身体を抱きしめてみせた。「キャー」と棒読みで叫んでいる紅日を、放っておくことにする。

 屋城は頷いた。

「さすがだね、蒼月。その通り、今回は職場での事件のようだ。政府に一度話が通っているんだよ、内容も相当だったからね。まあ、それは車内で確認してくれるかな。女性からの声もあるからね、今回は星羅と一緒に行ってもらうよ」

 屋城は淡々と話し、依頼書を蒼月へ渡した。それから星羅をちらっと確認した。その視線に気がついた星羅は、力強く頷いた。右の掌を拳にする。

「……まだ、経験は少ないけど、力になれるように頑張るから。見ていて、屋城さん」

「期待しているよ、星羅」

 目を伏せた屋城は、安心したらしく、声が落ち着いていた。佳露に対してもそうだろうが、星羅に対しても親のように接している部分があるのだろう。

 そんな時、紅日が静かに右手を挙げた。皆の視線が一斉に紅日に集まる。

「……あのー、この三人で行くんですよね? メンバー的に大丈夫ですか?」

 珍しく、紅日が恐る恐る声をかけてくる。何かあるとは思ったが、蒼月は黙った。すぐに言葉を返すと、誤解を招くような言い方になりそうだったからだ。考えを即行でまとめ、すぐに返答する。

「……大丈夫だろ。何か、気になるのか?」

「い、や……。悪い、なんでもない」

 紅日は俯いた。歯切れが悪い答え方だった。珍しいと思う。気になった蒼月は、ある考えに辿り着いた。

 もしや、紅日は──。

「とりあえず、今日中に移動してね。準備ができ次第、出発ということでよろしくね」

 屋城の言葉にハッと我に返った蒼月は、その言葉を聞いて、紅日や星羅とともに頷いた。それから、集合時間を決めて、星羅とは一旦別れる。蒼月は、紅日に屋城の部屋の前で待っているように頼んだ。紅日は不思議そうに思いながらも、何も言わずにそのまま頷いた。

 紅日が部屋から出ると、残ってた蒼月は静かに屋城に話し出した。

「……屋城さん、今回の組み合わせって、どういう経緯なんですか?」

「あまり深くは考えていなかったけどね、紅日と星羅が仲良くなってくれればいいな、と考えていたぐらいだね。まあ、一番の理由は星羅に仕事が入っていなかったということなんだけれど」

「……たぶん、それですね」

 蒼月は屋城の言葉に深く頷いた。紅日が不安に思ったことが、その中で一つだけ該当しそうだと思った。屋城は首を傾げた。「どうかしたのかい?」と聞かれる。蒼月は思ったことを言ってみることにした。

「たぶんですが、紅日は星羅との関係のことを不安に思ったのでしょう。本当は、あの態度をされて傷ついているようですから。まあ、傷つかない人はいないでしょうけどね」

「うーん、確かにね。ただ、星羅の心情を考えれば仕方ないとも思うんだけどね。『恋は盲目』とも言うしね」

「……はあ、星羅は恋をしているのですか?」

 あらら、と屋城は呆れて呟いた。その声は蒼月には聞こえず、当の本人は首を傾げている。屋城は苦笑いした。

 あれだけあからさまなのに、この子は気がつかないんだね……。星羅がかわいそうだ。

 蒼月は頭が良く、冷静にいろんなことを分析できるが、恋愛に関しては鈍感だった。それに関しては、紅日ももちろん知っていて、彼もよく悩まされていると言う。今、ここにいない蒼月の相棒に同情した。

「……まあ、そこは本人次第だしね」

「……はあ」

 蒼月は意味が分からないままに返事をした。屋城は頭を抱えた。

 先が長そうだね、頑張れ、星羅……。

 心の中でそう呟いた後、蒼月に向き直った。

「とりあえず、今回の仕事をきっかけに仲良くしてほしいと思うよ。蒼月も協力してほしい」

「分かりました。……けど、紅日があまりに辛そうだったら、途中で星羅を帰還させるかもしれません。そこはご理解していただきたいんですが──」

「……分かった。その場合は、そうしてほしい」

「ありがとうございます」

 屋城と会話が終わると、すぐに踵を返して、屋城の部屋を後にした。扉のすぐ横には紅日が壁に背を預けて、腕を組んで突っ立っていた。扉が閉まると、紅日が歩み寄ってくる。

「終わったのか」

「ああ、待たせたな。すまない」

「いや、いいんだけどよ、何の話してたんだ?」

 屋城の部屋の扉は結構分厚くて、中の会話が聞こえない。噂では、屋城の部屋だけ防音になっていると聞いたことがあるが、そこは本当かが分からない。それでも、紅日には聞こえていないことには変わりない。そのことに蒼月は安堵する。まあ、それが分かっていたから部屋の前で待っていてもらったのだが。とりあえずは黙っておくことにした。二人同時に自分の部屋に向かって歩き出す。

「いや、たいしたことはない。大丈夫だ」

「……? そうか」

「それよりも、紅日が不安に思っていたことはなんだったんだ?」

 蒼月は念のために相棒に確認した。屋城に話したことはただ単に推測だった。できれば、任務に行く前に知っておきたい。それが蒼月の思いだった。

 紅日が話したくないなら、それでもかまわない。だが、もし力になれるなら、それを知っておきたい。自分でもわがままだと思う。先程屋城との会話は教えていないのに、自分は相棒のことを知っておきたいと言っている。こういうところは子どもだな、と自分でも呆れてしまう。

 紅日は、しばらく「あー」だの、「うー」だの言っていた。蒼月は、つい口を挟んだ。

「言いたくないなら、それでいい」

「いや、そうじゃないんだけどよ……。その、星羅とのことさ──。俺、普通に話しぐらいはしたいんだけど、あっちがあんな感じだろ? だから、今回の任務ってうまく行くのかなーって……」

 やっぱりか。

 蒼月はこっそり、そう思った。

 紅日は人付き合いがいいから、基本的にそういう態度を取られたことはない。協会にいるほかの女性とはうまくやれているので、本来なら問題はないのだろう。だが、星羅だけは冷たい態度を取るので、紅日には堪えるのだろう。

 蒼月は先程の屋城との話には触れずに、相棒を安心させようと声をかける。

「大丈夫だ。俺もフォローするし、星羅だって仕事なら割り切るだろう」

「……お前、そろそろ星羅の気持ちに気がついてやったらどうなんだ」

「……何の話だ?」

 紅日が恨めしくこちらを見ながら、呟いた言葉を蒼月は聞き逃さなかった。一応、聞き返す。だが、紅日が返答しようと口を開いたその時。

「蒼兄、紅兄」

 二人のストレートパンツの裾をくいっと引っ張りながら、名前を呼ぶ人物がいた。その声と聞きなれた呼び方に、二人は同時に視線を下に落とした。二人の後ろで裾を持ったまま、見上げてくるのは、この前まで一緒に任務に行っていた少年、佳露であった。

「おお、佳露」

 紅日の呼びかけに裾を放した少年の頭を、紅日はわしゃわしゃと何回も撫で回す。少年は文句を一切言わず、されるがままにされていた。無表情だが、嬉しそうなことが雰囲気で分かる。

 佳露は、前回の任務、「幼児虐待事件」で蒼月たち二人と共に、事件解決に向かった。二人と行動していく中で、佳露が今まであまりできなかった、「大人に甘えるということ」を知ったり、また自分の意思を相手に伝えることができるようになったりと、成長できる部分がたくさんあった。任務以降、よく二人に懐いている。兄のような存在で、任務によってより頼りやすくなったのだろう。

 紅日の撫でる手を止め、蒼月は佳露に「どうかしたのか」と尋ねる。佳露はじっと二人を見つめた後、静かに答えた。

「蒼兄と、紅兄の姿が見えたから。……どこか、任務に行くの?」

 首を傾げた少年は、不思議そうに二人を見つめた。屋城の部屋の前で話していたからだろうか、何か疑問に思った部分があるのかもしれない。少年に尋ねられたので、蒼月は続けて言った。

「ああ、今ちょうど任務を言い渡されてな。準備をしに行こうとしていたところだったんだ」

「……そっか」

 蒼月の言葉を聞いた瞬間、一瞬だったが少年の顔が曇ったのが分かった。今、本部に残っている人間が少ない。任務に駆り出されていることが分かっていても、寂しい気持ちは拭えないのだろう。特に、佳露はまだほかの仲間とは、蒼月や紅日のように話せてはいない。前回の任務でどう人と付き合えばいいのか、コミュニケーションの取り方を掴んだとは思うが、実際に人と話せていない。まだ多少の恐怖はあるだろうし、話しやすい人間がいなくなるのは、佳露にとっては余計に不安にさせられるものだと思う。それは、蒼月も紅日も理解していた。

 それを見ていた紅日は、佳露の目線に合わせるように、しゃがんだ。それからいつものように頭に手を伸ばす。

「なるべく早く帰ってくるからな。仲間の言うことをちゃんと聞いて、待ってるんだぞ!」

 紅日はにかっと笑ってぽんぽんと少年の頭の上で、手を跳ねさせた。いつもと違う撫で方に佳露は少し驚いた表情を浮かべた。しかし、すぐにいつもの無表情に戻って、それでも嬉しそうな空気で辺りが包まれる。佳露はされるがままの状態で、頷いた。

 それから、また質問してくる。

「ねえ、今度はどんな任務なの?」

「ハラスメント問題、だってよー。最近、減ったとは言うけど、完全にはなくならないよなー」

「今回は、星羅が一緒だ」

「……蒼兄」

 何気なく同行者の名前を口にした蒼月に向かって、佳露は小さく彼の名前を呼んだ。いつもよりも声が低い気がした。顔も俯かせてしまった。しかし、そこからなかなか次の言葉が出てこない。

 二人は顔を見合わせた。不思議に思って、どちらもが首を傾げる。結局、少年が何を言いたいのか分からない二人は、また視線を少年へと戻した。紅日はなんとなく察して、撫でる手を止め、少年の頭からどけていた。黙り込んでしまったので、心配になった蒼月は、「どうした?」と問いかけた。少年はやっと決意したらしく、顔を上げて言った。

「……蒼兄、女の子には気を付けて」

「は?」

「女の子は、難しいから」

 二人が間の抜けた声で聞き返したが、深刻そうな顔で少年は呟いた。深刻に見えたが、どちらかといえば、真剣なのかもしれない。もう一度二人が顔を見合わせ、疑問が次々と出てくる中、佳露は顎に手を当てて、さらに考え出す始末。それから、無言で何度か頷きを繰り返した。二人は、ますますわけが分からず、困ってしまう。

 紅日はあまりにも意味が分からず、思い切って少年に声をかけた。なぜか声が震えていたが、それには蒼月も触れなかった。

「……佳露、お前……、何があったの?」

「……麻穂ちゃんのこと、覚えているよね?」

「ああ、この間の──」

 麻穂ちゃんと呼ばれている、ここにはいない第三者の少女は、先日までの任務、「幼児虐待事件」の被害者の子であった。まだ五歳である。その子の母親が虐待を行っていたわけだが、とりあえず関係は修復できたようで、麻穂がときどきだが母親に会いに行っているようだ。その際は、現在お世話になっている狼と一緒に会いに行くようにしているらしい。狼の親バカっぷりに、紅日も蒼月さえも引いていたというのは、余談である。

「その子がどうかしたのか?」

 蒼月は不思議に思ったようで、首を傾げている。麻穂は佳露と現在、一応、恋人関係であるわけで、仲はいいはずだった。だからこそ、不思議でしょうがない。

 佳露はこくりと頷いて、少し顔を俯かせたまま小声で話し始めた。

「……実は、二日間少し連絡をしてなかったんだ。任務から帰ってきて、片付けしたりだとか、読書したりだとかしてたから、忘れてたんだ。それは、僕も悪かったと思うんだ。けど、携帯電話を持ったことがなかったから、そんなに見てもいなかったんだよ」

「うん、まあ、それはしょうがないんじゃないか。こっちの事情もあるからな」

「うん……。けど、連絡先は携帯電話を買ってもらって、すぐに教えてたから、ちょっと気になって。いざ二日ぶりに見たら、着信履歴がすごくて、メールもたくさんきてて──。慌てて最後のメールを確認してみたら、『かろくんのばか! だいきらい!』って──。さっき、謝罪して、一応誤解は解けたんだけど──」

 はあ、と深いため息をつく佳露に、紅日は「おいおい」と呟いた。

「お前ら、本当に小学生と保育園児? そんな悩み持っている子どもなんて、そうそういねえよ」

「そうか、あの時屋城さんがすぐに携帯電話を買ってくれてたからな、メールも普通に送れるんだな。メールアドレスも聞いていたしな。だが、なぜ最後のメールにそんなことが──」

 ふむ、と蒼月は頷いて考え始めてしまった。蒼月はあまり女の子とはかかわったことがないので、よく分からないと思っている。麻穂が佳露のことを好きになったというのは、この間の任務終了間際の会話でよく分かっている。だが、そこまで好きなら、そんな文章を送ってくるだろうか──。

 佳露は困ったように、二人を見上げた。それから、また小さな声で話す。

「……それが、どうも僕がほかの女の子と遊んでいると思ったみたいで──」

怖い(こわっ)!? 今の子ども、怖い!」

「ちなみに、狼さんまで出てきた」

「ひいい、余計に怖い!」

 紅日が大げさに肩を抱いて怖がった。それには佳露も同意のようで、小さく何度も頷いて見せる。佳露は特にあまりほかの子どもとかかわっていない。ここに来る前は、多少幼稚園でかかわっていたが、それでも極端に少ないから女の子とのかかわり方も分かっていないのだろう。それに関しては、蒼月にも言えることだが。

 しかし、どうやら五歳の女の子にしては、あまりにも想像力が豊かというか、妄想が激しいというか……。少し困った子のようである。蒼月は、密かに「女の子には要注意」と頭に刻んだのであった。

 佳露は小さな肩をがっくりと落としていた。もう一度盛大にため息をつく。

「僕、朝から疲れちゃって……」

「だな。それは」

「冷静に言うことじゃねえだろ、蒼。というか、思い込み激しいな、激しすぎるな。それにしても、佳露が働いている(・・・・・・・・)のは(・・)知っている(・・・・・)はずなのに(・・・・・)、変な話だなー」

 紅日が頭の後ろで両の手を組んで空を仰ぐ。その言葉に、蒼月はハッとした。もしや、と考える。

 もしや、佳露と話はできているが、麻穂という少女の中にはこの間の事件(・・・・・・)のことが(・・・・)忘れられている(・・・・・・・)可能性もある(・・・・・・)のか。だとすれば、今までかかわってきた人間の中にもそういうことがあるのか──? もし、本当に佳露が働いている事実を忘れているとすれば、その可能性は高い。そこまでは確認していなかった。なぜ、思い至らなかったんだ! だったら、今まで俺たちの話が(おおやけ)にならなかったのも、頷ける。後で、紅日と話し合わないと──。

 蒼月はすぐに考えを終わらせ、二人の会話に集中することにした。とりあえず、佳露には悟られたくない。

 ちなみに、麻穂は佳露とは恋人関係にあたるわけだが、将来妻になるとまで宣言した女の子であった。佳露はその時そういう対象でその子を見ていなかったし、女の子とそんな風に会話をしたことがなかったので、大変驚いていたわけだが、自分に好意を持ってくれていたことは素直に嬉しく、お試しで了承したのだった。そのことは十分麻穂も同意している。実は、佳露が了承した理由の中に、少女の勢いに押された、というのもあったわけだが、誰も知ることはなかった。

「だから、蒼兄、気を付けて」

「? ああ」

 急に話を振られたこともあるが、蒼月はなぜ佳露にそういわれるのか意味が分かっていなかった。首を傾げつつも、とりあえず頷いておく。その様子を見て、耐えかねたのは紅日である。

「佳露、お前言ってることが中年のおじさん(おっさん)くさいぞ。やめとけ、まだ子どもだろ。あと蒼、お前はそろそろいい加減に気づけ!」

「? 何がだ」

「……お前、絶対気がついてないだろ、星羅の気持ち」

「……星羅? なぜ星羅がここで出てくるんだ?」

「あっちゃー、やっぱり」

 紅日は右の掌を額に当てた。蒼月が星羅の気持ちに気がついていないことを再確認して、ため息をつく。

 実は、蒼月は星羅が自分に好意を持ってくれていることをまったく理解していなかった。そう、超がつくほどの鈍感である。あからさまに行動で理解できそうなのに、全然気がついていない。ほかのことに関しては、頭がよく働くのに、恋愛に関してはまったくダメであった。ちなみに、今まで任務でかかわってきた一般の女性が一目惚れして、怖がりながらもアタックしていたが、蒼月はことごとくに気がついていなかった。自分がモテるということを理解していない。イケメンだということにも気がついていないので、紅日は若干腹が立つ。

 紅日はなんとなく確認したくなった。

「……なあ、ちょっとした質問なんだけど、もし星羅に嫌われたら、蒼はどう思う?」

「それは……、嫌だな」

「理由は?」

「仲間に嫌われたら、やはり傷つくだろう」

 ほら、きた。やっぱり「仲間」って言った。

 今度は紅日が肩を落とす番であった。これは先が長そうだ、と頭を抱える。そして、絶対に佳露が言っている言葉の意味も理解していない。これを見てしまうと、星羅が不憫に思えてしまう。

 星羅、頑張れ……。

 紅日が心の中で応援した時、星羅は自分の部屋でくしゃみをしていた。

 紅日は星羅を応援したいが、蒼月が彼女の気持ちに気がついていないことは胸に秘めておこう、と心に誓った。

 今回の任務、疲れそうだな……。

 紅日は、ハハハと乾いた笑いを零した。もうすでに胃が痛い気がした。

「紅兄、お疲れ……。頑張って」

「何の話だ」

 少年の労いと応援の言葉の後に、相棒の意味が理解できていない言葉が聞こえた気がした。


 佳露と別れた二人は、すぐに準備をし、部屋を出た。同時に部屋を出て、ばったり会ったため、そのまま玄関へと向かう。もうすでに屋城が車を用意してくれていることだろう。

 また、任務が始まる──。

「ハラスメント問題かー、結構大変そうだな。気が引けるぜ……」

「そう言うな。だが、確かに面倒くさくないことを願うがな」

 玄関の扉を開け、日差しが照り付ける外に出れば、すぐに停車している一台の車が目に入る。やはり、もう着いていたようだ。そんなに荷物もないのだが、やることもないので、車に荷物を積んで両手が空くようにする。蒼月の隣で、うーんと伸びをする紅日。あとは、星羅を待つだけとなった。紅日は両手を下ろしてから、首を傾げる。

「そういえば、星羅は? 佳露と話してた分、俺たちのが遅いと思っていたけど、全然来ないぞ」

「……昔、屋城さんに、『女性は準備に時間がかかるものだから、待ってあげなきゃダメだよ』って言われたことがあるな」

「……それ、いつの頃だよ」

「たぶんだが、来てすぐのことだな。なぜ、そんな話になったかはよく覚えていないが──」

「相変わらず、記憶力すごいな。というか、すごすぎだろ」

 紅日はぐでー、としそうな気の抜けた態勢で言った。褒めているのか、呆れているのか、よく分からない言い方だ。蒼月は苦笑した。

 蒼月は記憶力が良すぎると言ってもおかしくはない。ここまでの記憶力を持っている人間はそうそういないだろう。紅日が何度も記憶力を分けてほしいとこっそり思っていたことなど、彼は知らないだろう。だが、蒼月が紅日の演技力を見て、同じようなことを思っていたことを逆に紅日は知らない。お互いにお互いのいいところがほしいと思っているのに、それを態度に出さないところがまた似ていた。

 蒼月はまだ星羅が来ていないことを確認し、紅日にこっそり耳打ちした。

「紅日、気になることができた」

「……どういうことだよ?」

 紅日は怪訝そうな顔で蒼月を見た。じっと見つめて、蒼月の意図を読み取ろうとしている。だが、今言うつもりがない蒼月は、静かに首を横に振った。

「今はまだ──。だが、後で必ず話す。聞いてほしい。何か、謎が解けるかもしれない」

「……あれ(・・)のことだよな」

 紅日が小さく低い声で確認するのに、今度は静かに首を縦に振った。紅日は頷き返して、「了解」と呟いた。蒼月も「ありがとう」と呟く。あれとは、前回の任務の時から少しずつ調べている、屋城のことである。

 その時、星羅が小走りで駆け寄ってきた。キャリーバッグを持っているからか、大荷物に見える。

「蒼くん、鷹林! ごめんなさい、遅くなっちゃった!」

「俺だけ、名字呼び……」

「いや、大丈夫だ。それより、荷物多くないか?」

 蒼月は隣で肩を落としている紅日を、ちらりと確認してから、星羅に話しかける。星羅はキャリーバッグとは別に小さなバッグを肩にかけていた。鞄が二つあるのは蒼月たちも同じだが、キャリーバッグを持っているのを見て、荷物の量が全然違うことを実感する。蒼月も紅日も、エナメルバッグに荷物を詰めて、余裕でスペースができる。

 女の子はそんなに必要なものがあるのか。

 蒼月は出発しなければいけないというのに、そのまま考え始める。

 女性は化粧を使うし、おしゃれもしたいと考えるだろうからか。男性は変な格好でなければいと考える人が多いだろうからな、荷物が少ないが。だから、準備に時間がかかるのか。

 ふむ、と一人で頷いて考えを終了した蒼月は、意識を星羅へと戻す。星羅は、「あはは」、と笑って言う。

「仕事場に行くだろうから、っていろいろ考えて荷物まとめてたら、すごい荷物になっちゃった。会社で働く人の格好って、どんな感じかなとか、おかしくないかな、とか考えて──。年齢が全然足りないから、ごまかすなら服装と化粧しかないと思ったし」

「なるほどなー、俺たちは高校卒業って言っても、なんとなく通じるところもあるだろうからな!」

「うるさいわよ、鷹林」

「えー……」

 傷口に塩を塗られているらしく、だいぶ紅日はダメージを負っていた。さすがに不憫に思う。そして、不思議にも思う。

 どちらかといえば、紅日のほうが俺よりも人懐っこいし、優しいから嫌われることが少ない。むしろ、俺は敵を作るタイプだ。なぜ、星羅はそこまで紅日を嫌うのか……。紅日はいい奴なんだがな。

 蒼月はそう思って、ため息をついた。星羅の気持ちにはまったく気がついていない。星羅も不憫であった。

 とりあえず、三人は星羅の荷物を積み込んでから、車に乗り込んだ。助手席に紅日、後部座席に蒼月と星羅が座る。蒼月は屋城から預かっていた依頼書を取り出し、内容を確認する。

「今回の事件は、ハラスメント問題。その中でも、セクシャルハラスメント及びパワーハラスメントの問題のようだな。依頼者は匿名だから分からないが、一応情報ではこの会社の社員のようだ」

 紅日と星羅にも分かるように、内容を読み上げる。

 依頼書の内容はこうであった。

 もともと以前からあまりよくない会社であり、ブラック企業で有名なところだったらしい。都内からはだいぶ遠い人の少ない市にあるという。だから、今まで大事にはなっていなかったようだ。だが、年々人を採用するが、結局すぐに辞めていく人間が多いという。その原因が──。

「セクハラ、パワハラってことか」

「ああ、どうやら上の人間が変わらないから、一向になくならないようだな。被害者はセクハラでは女性、パワハラでは男性が多いようだ。まあ、普通と言ってしまえばそうなんだが、セクハラで男性、パワハラで女性の被害もあるようだ」

「へ? セクハラって女性だけじゃないのか?」

 紅日が間の抜けたような声で質問する。それに対して、星羅が呆れたように返答した。

「分かっていないわね、今じゃ男性が受けるセクハラも結構多いのよ。パワハラは以前からあったけど、セクハラも女性だけじゃなくて、男性の被害も多いから最近じゃ重要視されているそうよ」

「ああ、何がセクハラで、何が違うのか──。パワハラもだが、違いが分かっていない人間が多いからな。自分が嫌だと思って訴えたら、セクハラじゃない、パワハラじゃないという場合もあるんだ。ホワイト企業の上の人間は、結構ハラスメント問題で訴えられないか、とびくびくしていると聞いたことがある」

 星羅の後に、蒼月も続いてそう話す。「へー」と紅日は相槌を打った。そんな話を聞いたことがなかったので、驚いている。

 そういうもんなんだな。初めて、ハラスメント問題の任務に行くけど、認識が違っていたんだな。ちょっと夜にでも調べてみるか──。

 紅日は頭の中で考え、うん、と静かに頷く。紅日は案外気楽になんでもやっていそうに見えて、努力家である。気になることはすぐに調べるし、知識が足りないと思えば任務の空き時間に自分の時間を削ってまで補おうとする。自分が蒼月よりもまだまだ力が足りてないと感じているから、いろいろと吸収しようと頑張っているのだ。ただ、「言ノ葉の裁き」だけは感覚で覚えてしまったので、どうしようもないが。

 蒼月はまた依頼書を読もうとした。読む前に内容を確認する。その瞬間、蒼月の動きが止まった。依頼書を握る手に無意識のうちに力が加わる。紅日も星羅も同時に彼を見つめた。蒼月は長いため息をついて、「すまない」と謝った。紅日と星羅は首を傾げた。

「どうかしたのか? 蒼」

「……これ以上、内容を読むことができない。声にすることを躊躇って(ためらって)しまう。……一つ言うなら、今回の任務は被害者を救い、ブラック企業からホワイト企業へ切り替えるようにすることだ。なかなか大変そうだ。それ以外は、言うことができない」

「蒼くん、どういうこと?」

 蒼月は二人に聞かれて、何も言わずに依頼書を差し出した。星羅が受け取り、内容を確認する。その瞬間、大きな声を上げる。顔が真っ赤だ。蒼月は彼女の手から依頼書を取り、そのまま紅日へと回す。紅日は首を傾げて、それを受け取る。文章に目を走らせると、驚きでどんどん目が見開かれていくのが分かった。最後まで読んで、一言。

「……なあ、これ、手強いんじゃねえか?」

「ああ、俺もそう思う。屋城さんも相当だと言っていたが、まさかこれ程とはな」

「もう、私許せない……!」

 すでにぐったりしている二人とは違い、星羅は怒りで拳を握りしめている。燃えているようにも見えた。今回の依頼は相当手強そうだ。自分たちは言葉の問題を解決するのに、駆り出される仕事のはず。なのに、今回は言葉だけでなく、身体への攻撃に関しても調査しろとのこと。簡単にまとめるとそうだが、内容はもっと酷かった。

 パワハラ問題としては、殴る蹴るの行為が当たり前、暴言など毎日のように飛び交い、一般社員はびくびくしながら過ごす毎日だ。休日に私的な用事をさせることも多々ある。だいぶ一般社員は疲れがたまっていることだろう。

 セクハラ問題としては、ボディタッチが多く、女性はだいたい一日一回は触られるとのこと。反抗すれば、仕事を回されなくなったり、意味もなく給料を下げられたりした社員がいるらしく、それによって抵抗できないでいるらしい。星羅が怒るのも納得がいく。

 本当にどんな職場なのかと頭を抱えたくなる。

「おいおい、今どきこんなブラック企業あるのかよ……」

「まあ、公にされないように隠れて行われていることだけは知っていたが、まさかこれ程とはな……。あまりにも衝撃的過ぎて言葉が出ない。実際、協会の仲間はそんな人間は一人もいなかったし、今までの任務でもこんなものがなかったしな」

 紅日の呆れる声に続いて、蒼月の冷静に分析してはいるが、行く前から疲労感たっぷりの声が車内に響く。

「これを見る限り、この企業の上の人間は、『男尊女卑』の考え方が根付いているんだろう。それをどうにかしないと、この企業は一生ブラックのままだ」

 蒼月の言葉に、紅日と星羅は頷いた。方針は決まった。とにかく、今回の仕事は「パワハラとセクハラをなくし、ブラックからホワイトへ切り替えること」。被害者を救わなければいけない。

 今、長い戦いの火蓋が切られた──。


 しばらく自分たちが使用するアパートに着き、今日はとりあえず明日からの任務のために、休むことにする。もうすでに午後三時を回っている。

 今回の任務も前回や前々回のときのように、潜入するのだが、屋城は「すでに就職試験も終わっているから」、と軽く告げていた。本人が就職試験に行っていないのに、どうやって採用させたのか──。恐るべし、屋城柱……!

 さすがに今回は星羅とは別の部屋だ。女性と同じ部屋は二人は落ち着かないし、星羅もゆっくりできないだろう。隣同士にはなっているので、任務の話はすぐにできそうだ。これから期間限定だが、職場で働くのであれば、仕事の相談もしやすい。いい部屋を用意してくれたものだと思う。

 蒼月と紅日は、星羅と別れて自分たちの部屋に入り、荷物を片付ける。粗方自分の寝室となった一室を片付けると、二人はリビングに集合した。今回の部屋は3LDKでまた前回同様だいぶ大きく、二人では余り過ぎている。最近になって知ったが、屋城が用意してくれる部屋は、どこも高級住宅街の一つらしい。場所によっては、違う場合もあるとのことではあったが。

 リビングに備え付けてあった一つのソファに二人は腰かけた。二人で腰かけても、余裕があるそれに、慣れたように両端を開けて座る。しばらく雑談をしていた二人だったが、ついに紅日がそれを破った。

「……で、蒼。向かう前に言ってた、気になることってなんだよ? 今なら星羅もいないし、ここなら気にせずに普通に話せるだろ」

 紅日の言葉に、蒼月は深刻そうな顔をして頷いた。そのまま、蒼月は顔を俯かせてしまう。その状態のまま、話し始めた。

「ああ。……気になったのは、佳露との会話だったんだ。紅日、お前が言った『佳露が働いているのは知っているはず』、この言葉がヒントになった」

「どういうことだ? あの時、俺は何も考えずにそう言ったけど──」

「……これは、あくまで俺の推測だ。だから、絶対に合っているとは思わない。だが、もし──。もし、俺の考えていることが本当なら、今までの思い至ることが納得できるんだ。不可能なことだと思われるだろうが、な」

 そこまで言った蒼月は口を閉ざした。その言葉に紅日は反応した。冷や汗が出てくる。

「おい、蒼……。何が、言いたいんだ……?」

 紅日の口から出た声は、震えていた。その声を聞いた蒼月も、いつも以上に真剣な表情になる。蒼月は、ゆっくりと、自分が考えたことを話し出した。

「……今まで、俺たちが解決してきた問題に、かかわってきた人はたくさんいる。だが、もし、その人たちの中から、起こっていた問題の記憶がすべて消えているとしたら──」

 蒼月の言葉に、紅日が息をのんだのが分かった。空気が凍ったような気がした。二人の間でこんな空気が流れたことがあっただろうか。

「佳露の仕事のことは、別れる前に麻穂に話していたはずだ。だが、先程の佳露の話からするに、麻穂の中からその事実が忘れられているのだろう。そして、俺たちはそこに関しては一切触れずにいろいろと探していた。過去にかかわってきた人を、一度調べてみる可能性もあると、思う……」

「おい、待てよっ。そんなことがあるのかよ! それに、もしそうだとしたら、麻穂ちゃんのことだって、おかしいじゃねえか。佳露のことは覚えてるんだぞ!?」

 紅日は明らかに動揺していた。無理もないと、蒼月は思う。本当は自分も相当動揺しているのだから。そして、この考えを否定してほしい、とも思っていた。そうであってほしくないと思ったのだ。もし、これが本当なら、傷つくのは確実に自分たちだけじゃすまない──。

「ああ、だがそれが一番しっくりくるんだ。もしかしたら、忘れるように仕向ける者がいるのかもしれない──」

 蒼月は俯かせていた顔を上げ、紅日へ向けた。視界に入ってきた相棒の顔は、ひどく傷ついているそれだった。何も言ってこない相棒から察するに、自分もひどい顔をしているようだ。どうやら、知りたくない真実に近づいてしまったようだ。

「すまない、紅日……。俺は──」

「蒼、お前のせいじゃないから。俺はお前を責めたりしない。けど、受け入れるのに時間がかかっただけだ……」

 紅日は苦しそうに告げた。前髪をクシャリと右手で握りつぶしている。彼の横顔をじっと見つめた。蒼月はまた俯く。

「……けど、蒼が言うことは信じられるから。別に、疑っちゃいねえよ」

 その言葉に、蒼月は勢いよく顔を上げる。彼が見た相棒の顔は、苦笑していた。けど、先程のひどい顔から一変している。蒼月は信じられないという顔でじっと紅日を見つめている。紅日はその顔を見て、ブハッと吹き出した。笑いがなかなか抑えられないまま、クックッと言いながら言葉を続ける。

「なんだよ、その顔! 今まで俺が蒼のことを疑ったことあるのかよ? そりゃあ、最初は驚いたけど、前回の任務の時に話聞いても、ちゃんと受け入れただろ?」

「だが──」

「お前が自分のせいだと責めているなら、それは間違いだ。……あのさ、蒼、そろそろその顔やめてくんねえか?」

 紅日は静かにそう言った。蒼月はそう言われながらも、まだその顔をやめない。というか、やめられない。いまだに不安に駆られている。紅日はだんだん冷静になってきた。落ち着きを取り戻したところで、話を進める。

「何年相棒務めてきたと思ってんだよ。もう慣れっこだ。……で、さっきの話ってそれで全部か? 話せたのか、蒼の考えを」

「い、や……、考えを全部話せたかと言われると、話したとは言えない」

「じゃ、もう一回話してくれよ。それから、結論づけようぜ!」

 いつものように、ニッと笑って言った紅日に、やっと蒼月は安心する。顔が元のポーカーフェイスに戻る。逆に、微笑が浮かべられるぐらいになっている。ほっと一息をはけた二人は、もう一度振り出しに戻った。雰囲気が柔らかくなったところで、静かに蒼月は最初から話し出した。

 佳露との任務の仕事で、麻穂は佳露が仕事をしているのを知っているはずなのに、メールをそんなにしてきていること。そこから考えたのは、麻穂の中ではその問題で佳露と知り合ったことを忘れているのではないかということ。それ以前に、麻穂の中で事件そのものがなかったということになっているのではないかということ。そうなれば、今までかかわってきた人全員の中で事件そのものがなくなって、俺たちのことまでも忘れているのではないかということ。だから、今まで俺たちのことが公にならなかったことに対して納得がいったということ──。

 先程話したことに補足を入れながら、全部話す。静かに話している蒼月の横で、会話を遮ることもなく静かに聞いた紅日。

 すべて話し終わった蒼月。しばらく沈黙がリビングを包んだが、数分後紅日は話し出した。

「ってことは、この間かかわった麻穂ちゃんも、その前にかかわったあずさ先輩も、俺たちのことを忘れていて、事件があったことも忘れている可能性があるってことか?」

「ああ、本当に推測だから何とも言えないが……。俺たちが今まで調べてきたことは、協会の中でのことしか調べていない。しかも、屋城さんにかかわることばかりだ。そこに至らなかったのは、俺のミスだ。だが、もしそれを調べてみたら、新たな情報が得られるんじゃないかと──」

 そう締めくくった蒼月。まだ少し不安そうだ。紅日は頭をかく。「あー」と声にならない声を出しながら、考えをまとめているようだ。紅日は、「うーん」とずっと唸っていたが、「おし」と膝を叩いて、それから蒼月に向き直る。蒼月の視界に入ってきた彼の顔は、今度は覚悟を決めたという顔だった。清々しい顔をしているようにも見えた。そこからニッと笑ったその顔が、蒼月を安心させてくれる。

「お前のミスじゃねえだろ。……よし、とりあえず、その可能性を考えて、調べてみようぜ。けど、そういうことを調べるというなら、狼さん(かみさん)に任せてみるのも手かねえ。そこから新たに屋城さんに関する情報も得られるんじゃないか」

「ああ、そうだな。……本当に、すまない」

「頭上げてくれよ、蒼。蒼のせいだとは、俺は思っていないぜ。それに、協力するって決めたのは俺だってば。嫌なら嫌だって俺は、はっきり言うぞ。そんなことはお前が一番知ってるだろ?」

 頭を下げて謝罪する蒼月に、紅日は慌てて言葉をかける。さっきの暗い顔とは違って、ニシシと笑って軽快に言う。紅日はこういうときに俺を支えてくれている、と蒼月は思う。蒼月はクスリと笑って、後悔や不安の思いを振り切ることにした。紅日がここまで言うなら、これ以上謝罪をすればブチ切れられる気がするし、こんな会話を繰り返すのも無駄な気がした。

 紅日はソファに深く座り込んで、会話を続ける。

「で、狼さんに任せてみるか? それとも、自分たちだけで調べてみるか? 狼さんに任せてみれば、早い気がするけど、狼さんを巻き込むのもなー……」

「それなんだが、鴉夜さん(からすよさん)に任せてみようと思う。狼さんも大丈夫だとは思うが、鴉夜さんのが適切だと思う」

「鴉夜さん? なんで? 狼さんと変わらないんじゃねえか?」

「鴉夜さんは、偵察とかうまいんだ。狼さんは事務的な調べ物は早いんだが、人に接する調べ物は苦手なんだ。見てれば分かるだろう?」

「あー……、納得」

 蒼月の言葉に、紅日は妙に納得した。しみじみと頷くものだから、蒼月はなんとなく笑えて来てしまう。さすがに、それは堪えた。たぶん、ここに狼がいれば、すごい剣幕で怒鳴ってきたことだろうが。そして、犠牲者となるのは紅日であるだろうが、そこは何も言わない。

「鴉夜さんは警察の仕事でも、偵察とか調査の仕事が多い。若干、スパイにも思えるがな。噂では、二つ名があって、それが『闇夜の鴉』、だったか……。鴉みたいに狙った獲物を逃さない、闇に紛れるように隅から隅まで探すってことからついた二つ名らしい」

「……めっちゃ、ぴったり当てはまる」

 またもや頷きまくる紅日に、蒼月は今回は笑わずに、自分も頷く。本当につけた人には、二つ名をつける才能があるようだ。

 とりあえず、二人でも探すことにはして、鴉夜に話をすることにした。狼に話を回すと面倒くさそうなので、鴉夜本人に電話を繋いでもらわなくては、いけない。ちなみに、蒼月曰く、狼は落ち着いて観察などできないし、人に近づけばすぐに怖がられるので、話を通しても意味がないらしい。だから、今回は話は通さなくていいと言う。

 紅日がこっそり、蒼って本当にたまにひどいことを言うよな、と思ったことは内緒だ。

 それから、すぐに鴉夜に電話をすれば、ちょうど鴉夜本人が出てくれた。携帯電話の番号を教えてもらえればいいのだが、一応協会のことは内密になっているので、プライベートにはかかわらないようにしている。

「すみません、鴉夜さん。急に電話して」

『いや、いいよ。この間の仕事ぶりだね、元気かい? それにしても、僕に電話なんて珍しいね』

「こっちは相変わらずです、鴉夜さんも元気そうで何よりです。実は、お願いがありまして──」

 鴉夜と世間話を少しして、本題に入った。蒼月が話すのを隣で紅日が聞き耳を立てている。鴉夜はときどき相槌を打ちながら、横槍を入れずに話を最後まで聞く。蒼月の話が終わると、「なるほどねえ」と鴉夜はのほほんと呟いた。電話口でにこやかに微笑んでいる様子が、目に浮かぶ。

『分かったよ、狼には内緒で接触してみるね。たぶん、君たちが事件でかかわってきた人間のリストは警察にあるはずだから、分かると思うよ』

「お願いします。とりあえず、ここ一年ぐらいの事件にかかわってきた人に接触して、確認してください。俺たち以外の人間がかかわった事件に対しても、調べてほしいので」

『分かった、すぐには調べられないけど、早くに調べるようにはするね。確認が取れ次第、連絡するから』

「はい、くれぐれも狼さんにはばれないように……」

 鴉夜は「はいはい」と言いながら、クスクス笑って電話を切った。鴉夜は、たぶんだが狼に隠し事をするのがなかなかないので、楽しんでいるのだろう。基本、事件でかかわる場合は狼を通してが多いので、蒼月たちが頼ってくれていることを、実は嬉しんでいる。それを鴉夜は言葉にも態度にも出さないので、二人は一切気がついていない。完全に鴉夜も親目線で見ていた。

 話の区切りがついた二人は、これからすぐに調べるつもりでいたが、星羅に呼ばれ、夕飯にすることにしたのだった。夕飯は、外食にしてしまった。蒼月が作ってもよかったのだが、星羅が知ればすごいことになりそうだったので、黙っておくことにした。

 食べに行って、帰宅した後、星羅とはそのまま別れた。即行風呂の支度をし、蒼月と紅日で交互に入り、休息をとる。だらだらとしている紅日を横目に、蒼月は明日の支度にとりかかる。さすがに大丈夫か、と心配になった蒼月は、紅日に声をかけた。

「紅日、明日は早いぞ。そろそろ支度をして、寝たほうが──」

「なあ、蒼。パワハラとかセクハラって、奥が深いんだなー」

 紅日の口から聞こえてきたのは、驚くことにハラスメントに関してだった。目を見開いた蒼月は、何かあったのかと逆に心配になった。先程から紅日がスマートフォンを触っていることは分かっていたが、てっきりただ単にゲームでもして、遊んでいたのだと思ったのだ。首を傾げて、そのまま疑問を相棒にぶつける。

「紅日、どうしたんだ? 急にハラスメントのことを調べるなんて」

「いや、今日蒼と星羅の話を聞いて、ハラスメントのこと全然知らなかったなー、と思って。ちょっと調べてみようと思ってさー、そんでハラスメントで調べたらけっこういろんなハラスメントがあるんだなー、と思った」

「なるほどな。確かに、モラルハラスメント、略してモラハラ、とかもあるからな。まあ、それは企業の中で発生することは少ないだろうから、今回の事件にも入っていなかったんだろうがな」

「うん、俺たちの生活の中ではそんなことないだろ? 協会の中は皆そういうの味わっているからないし、今回の仕事みたいなのを俺たちが担当したこともないからってのもあるけどな。たぶん、そこは今まで屋城さんが気を遣っていたのもあるんだろうけどなー」

 仰向けになって、ずっとスマートフォンを操作している紅日は、何かを考えながら返答しているようで、先程から棒読みのように聞こえる。紅日も熱中するときはすごい集中力だから、そういうときは話しかけると大抵こんな感じになる。普段と違って気の抜けた声に聞こえるから、最初は慣れずに何度も不安になっていたことがあった。

 蒼月もまだハラスメントに関しては、知らないことが多い。後で、自分も調べようと思っていたが、先を越されたと思った。

 紅日のが調べることに関しては早い。蒼月の場合はいろいろと考えながら生活をしているので、調べようと思っても後回しにする場合が多く、調べることに関しては遅い。まあ、それでも調べようと思っていたことは必ず忘れずに調べるから、知識はどんどん増えていく。紅日の場合は、残念なことに、調べたら上書きされることが多いので、調べても忘れられている情報もあるのだが。

「紅日、俺も見せてくれ」

「へ? お、おう」

 紅日は間の抜けた声で返答して、慌てて起き上がる。起き上がった紅日の手元にあるスマートフォンを二人して覗き込む。真剣な顔で読み込む相棒の顔を、紅日はじっと見つめた。珍しいと思う。蒼月が一緒になって学んでいるところを見るのは、初めてだった。蒼月がその視線に気がついたようで、「なんだ」と問いかける。

「あ、悪い(わりい)。珍しいな、と思ってさ」

「紅日のほうがいつも調べるの早いだろう。だから、一緒に見ておこうと思ってな。俺も後で調べようと思ってたしな……」

「へ? そうなのか? 蒼なら知識多いからいらないかと──」

「俺だって初めてハラスメント問題を担当するんだ、今の知識じゃ足りないところもあるだろうからな」

 それを聞いて、紅日は少し嬉しくなった。

 蒼も同じことを考えていたのかー、そんなこと知らなかった。けど、同じところを歩いている気がして、嬉しいかも……。置いて行かれているわけじゃ、ないんだな。

 顔を左手で隠して、「ふっふっふ」と笑っていると、蒼月に変な目で見られた。「……大丈夫か?」と心配そうな、けれど若干引き気味な声で聞いてきた。それに対して反射的に怒り、からかいながら、また一つのスマートフォンを覗き込んで、勉強したのだった。



 翌日。

 朝早くに起きた蒼月は、まだ夢の中にいる紅日を叩き起こして、朝食の支度を進める。朝食を食べ、身支度を済ませ、部屋を出た。すると、同じように隣の部屋から星羅が出てくる。紅日が鍵をかけている間に、挨拶を済ませる。紅日も鍵をかけながら、挨拶をしていた。二人はスーツを着て、星羅はカジュアルスーツだ。三人ともどう見ても、学生には見えない。

 会社のすぐ近くに部屋を用意してくれていたので、通勤にさほど時間はかからない。徒歩十分ぐらいのちょうどいい場所にあった。他愛もない話をしていれば、すぐに着いていた。

 会社の営業時間は、午前九時から。対して、蒼月たちが着いた時刻は、午前八時。一時間も前に到着している。とりあえず、中の様子が分からないため、相当早く着くように来てみたのだ。たぶん、普通の企業なら三十分前でも早いと思う。だが、今回相手にするのは、何と言っても「ブラック企業」。

「二人とも、いいな。気を抜くなよ、ここからが勝負だぞ」

 蒼月の言葉に、深刻な顔で二人は頷く。ごくり、と息をのむ音がしたのは、きっと聞き間違いではない。蒼月も気にしていた。

 二人に何かあるようだったら、俺がどうにかしないと──。

 蒼月も覚悟を決める。

「行くぞ」

 蒼月が足を進めると、紅日、星羅の順で後に続いた。先程までの、楽しかった時間は終了。ここからは、仕事をする人間の顔に切り替えなければいけない。

 この会社は一つの小さなビル全体を使用している。

 一階の受付嬢に挨拶をしてから今日から働くことを話せば、不思議そうな顔できょとんとしてから、慌てて三階の社長室へ行くように言われた。エレベーターが前方のあったので、そこまで歩いていこうとすると、二人いた受付嬢の一人に星羅が声をかけられる。星羅はにこやかに笑って、「なんですか?」と尋ねた。そうすると、キョロキョロと辺りを見回した受付嬢は、誰もいないことを確認して、それから小声で星羅の耳元で告げた。

「……気を付けてね」

 その言葉に、星羅としっかり聞こえていた二人が小さく反応する。二人はこっそり目を細めて、目配せをした。星羅も、もうすでにそう言われるのね、と考えてから、またにこやかに小声で「ありがとうございます」とお礼を言う。それから、三人はエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まると、すぐに口を開いたのは、星羅だった。

「やっぱり、そうなんだね」

「やばそうだよなあ……」

「あの受付嬢たちも、いろいろとあるんだろうな」

 星羅のしみじみとした声に続いて、紅日のため息付きの疲れた声、蒼月の淡々と呟く冷静な分析の言葉で会話は終了した。三階だから、すぐに着いてしまった。目の前には廊下、その先に社長室が見えている。この造りにも、何かわけがある気がした。

 蒼月が代表で、扉をノックする。中から声がしたのを聞き、「失礼します」と告げて、扉を開けた。扉を開ければ、偉そうに腕を組んで、さらに足を組んで座っている五十代後半ぐらいの男性が座っていた。ため息をつきそうになって、飲み込んだ三人を誰か褒めてほしい。心の中で呟いた言葉は、全員一致していた。

 すごく腹が立つ……!

 顔と態度に出さないように努めて、三人は社長と思われる男性の前に机を挟んで、一列に並んだ。また、蒼月が代表で話し始める。

「本日からお世話になります、蛇塚蒼月です。よろしくお願いいたします」

「鷹林紅日です、お願いします」

「兎姫星羅です、よろしくお願いします」

 三人は順番に自己紹介しながら、頭を下げる。社長は紹介が終わると、「うむ」と頷いた。足を組みなおしてから、話し始める。その行動にも、腹が立つと思っている三人である。

「よろしく頼むよ。君たちは相当優秀のようだね、期待している。そして、彼が今日から教育係につく、横山だ。三人とも彼の担当になっているから、彼の言うことを聞くように」

 社長の横に、一人女性がいて、その人はたぶんだが秘書だろうと考えていた。その秘書の斜め前に、もう一人男性が立っていて、誰だろうと考えていた三人は納得がいく。確かに、普通新入社員には教育係がつくだろう。もうここで教えてもらえるとは思っていなかったが。

 その男性は、三十代前半に見えた。優しそうな顔をしている。この人は違う、蒼月はそう思った。優しそうなだけなら、見た目だけって場合もある。だが、明らかに違った。妙にやつれていたのだ。疲れが取れていないように見える。

 この人も被害者の一人、と考えてよさそうだな──。

 すっと目を細めて、蒼月は彼を見つめる。にこりと微笑んだ彼は、そのまま一礼した。

 その後、すぐに追い出された三人は、横山の後ろをついて廊下を歩く。追い出されたことに違和感があるのを忘れずに、蒼月はそっと心にしまい込む。横山は、エレベーターを呼んでいる最中に、三人に声をかける。

「君たちは僕たちの人事部に配属になっているんだ。よろしくね。事務所は二階、三階は社長室以外は会議室になっているけど、会議以外の場合は近づかないほうがいいよ」

 そう言った横山の顔は、暗かった。ため息もついている。三人はそれも目に焼き付ける。こういう一瞬を見逃さないことが、任務に役立ってくるのだ。今回の場合だと、話をしていい人間か、そうでないのか見極めることが大事になってくる。

 エレベーターに乗り込み、二階に着くと、事務所の扉が見えた。その扉はガラス張りになっていて、中が見えるようになっている。だが、その中の様子に三人は息をのんだ。もうすでに、皆席について仕事をしているではないか。慌てて紅日は腕時計を確認した。時刻は、午前八時十分。まだ、始業時刻まで余裕がある。それなのに──。

「あの、横山さん、これは一体──」

「あ、うん……。ちょっと、移動しようか」

 横山は二階にある食堂に三人を連れて行った。この時間だから、やはり誰もいない。二階には、一応会議室が一つと食堂、給湯室、トイレがあるぐらいだと言う。そんなに広くないことは見た目で分かっていたので、そんなものなのだろうと三人は頷いた。

 本来なら、会議室が使用したかったのだろうが、それで使用するのは心苦しかったのかもしれない。横山はキョロキョロと辺りを見回してから、小声で話し始めた。前かがみになる彼を真似て、三人も前かがみで聞く体勢になる。

「……実は、求人票には書いてないんだけど、皆仕事が終わらなくて、始業時間も終業時間も関係なく、仕事しているんだ。さっき見た光景はそれでなんだよ、皆大抵一時間は早くに出社している。本当にやばい人だと、始発に乗ってきている人もいるんだ」

「そんなにですか!?」

 紅日は思わず叫んだ。その場にいた皆に、一斉に「しーっ」と人差し指を口元に当てながら言われ、慌てて口を噤む。とりあえず、聞かれたことはなさそうだ。

 横山は続ける。

「うん、僕は大抵一時間半前ぐらいかな。仕事が切りがついていると、一時間前ぐらいにくるけど……」

「それでも、これぐらいには来ているということですか……」

 星羅は口元を両手で覆った。息をのんでいる。蒼月もふむ、と頷いた。

 横山は慌てたように手を振りながら、言った。

「あ、でも、別に必ず残業しなければいけない、ってわけじゃないからね! ただ、結局雰囲気にのまれたり、仕事が終わらなかったりして、残っている人ばかりなんだけど──。定時に帰るな、とは言わないから安心して」

 いや、安心できません。

 三人はまた心の中の呟きが一致していた。しかし、横山の言うことは信じることができそうだ。

 とりあえず、様子見といったところか。

 蒼月は、ため息をつきたくなったが、我慢した。

 結局、始業時間よりも早い時間に人事部に紹介されて、自己紹介もそこそこにすぐに仕事を振られた。与えられた机には、デスクトップとキーボード、マウス以外はなかった。筆記具は持ってきたものがあるので、それを使用することにする。三人固まっているので、不安になることはなさそうだ。

 横山が見せてくれた書類は、そんなに難しいものではなかった。蒼月は説明を聞いてからすぐに行えば、始めて三十分ぐらいに終了させることができた。紅日や星羅は若干戸惑っているようだが、それでも確実にこなしているようだ。すぐに完成させたそれを横山に渡した。彼の目が驚きで見開かれたのが分かった。案の定、「早いね!?」と言われた後、蒼月はちょっと考え込んだが、試してみるつもりで言ってみた。

「横山さん、まだ手がつけられていない仕事があれば、任せていただけますか?」

 どよっと周囲がざわめいた。横山も何も言えずにいる。その後ろから、紅日と星羅も姿を現した。

「はーい、俺も終わりました。蒼……、蛇塚さんと同じように仕事があれば振っていただければいいですよ」

「私も終わりました。確認お願いします。それと、二人と同じようにお願いできますか?」

 二人も書類を出し、横山は慌てて出された三組の書類を確認する。確認した後、彼は震える声で告げた。

「……さ、三人とも、お疲れさまでした。こ、この書類は、お、オーケーです」

 告げられた言葉に、またもやざわめきが起こる。三人は思い思いに笑う。

 その仕事ぶりを見初められてか、次々と横山やそれ以外の人間からも与えられる仕事。それを要領よくこなしていく三人。得意な分野はそれぞれ違うが、分からないところは先輩に確認し、自分の得意なところを常に生かして、仕事をこなす。それを見てか、先輩方も仕事をこなすスピードが速くなった。

 なんだかんだ時間を忘れて仕事をしていたら、知らぬ間にお昼になったようで、チャイムが鳴った。その音で動き出す者もいれば、まだ机について、きりのいいところまで仕事をしている者もいる。蒼月もきりがいいところまで行って、一つ息をはいた。

 休憩時間は一時間。その間に食事を済まさなければいけない。三人で食べられるだろうか。……それにしても、とりあえず午前中は特に何もなかったな──。

 そうなのである。午前中は何ともなかった。何か大きな音が聞こえるというわけでもなく、悲鳴が上がるわけでもない。気になることが何もなかったのだ、それが逆に不自然に思えてくる。あんなにひどい会社だと記載があったのに、今は普通の会社に見えるのだ。

 もしや、隠れて行われているのか──。

 すっと目を細めた蒼月。嫌な予感が的中されていなければいいと思う。実際、今までこういう事件にかかわったことがないため、どういうときに行われているのか分からない。だが、人に見つからないように行っている可能性もあるのか、と考え直した。自分の考えがすべてではない──。

 蒼月は一旦机の上を片付けた。最初と同じ状態になった時、隣の紅日の机から「あー、終わったー……」と気の抜ける声が聞こえてきた。見れば、ぐでーっと机に突っ伏している。紅日も相当の量の仕事をこなしていたから、無理もないだろう。向かいの机にいる星羅からも、ため息が聞こえてきた。どうやら、全員終わったようだ。

 蒼月が声をかけるより早く、横山から声をかけられた。横山はやつれた顔が、さらにひどくなったように見えた。錯覚か、と蒼月は疑問に思う。

「全員、きりがついたようだね。お昼、一緒にどうかな?」

「いいんですか!? じゃあ、お言葉に甘えて」

 横山の言葉を聞いた瞬間、紅日が元気よく頷いた。それに対して、ため息をついたのは、蒼月と星羅である。もう少し遠慮しろ、という意味であった。紅日が苦笑いしながら頭をかいている。横山は気にしていないようだ。それに混ざってきた高い声に、全員が振り向く。

「あのー、私たちもいいですか?」

「君たちは、違う部署の……」

「はい、ぜひとも新人の子と食べたいなーって……」

「えー、それなら私たちも一緒に食べたいですー!」

 最初に入ってきた女性三人は、どうやら一緒に昼食を取りたかったようだ。顔を見たことがなかったから、なんとなくそんな気はしていたが、やはり違う部署の人間のようだ。それに加えて、はいはーい、と手を挙げて同じ部署にいた女性がアピールしている。俺も、と同じ部署の男性もアピールする。横山はそれに対して、「君たち、おごってもらいたいだけでしょ」と笑って返している。これだけ見れば、普通の会社だ。仲がいいように見える。

 どうなっているんだ──?

 とりあえず、この状況を収拾しないと、休憩が無くなる。そう思った蒼月は、すぐに返答をする。

「横山さんさえよければ、俺はかまいません。紅日、星羅、二人はどうだ?」

「異議無いでーす」

「私も、どちらでも構いません」

「……そうかい? ごめんね。じゃあ、三人以外はおごらないけど、それでもいいなら来ていいよ。あ、あと、三人とも今日の夜いいかな? 歓迎会をやろうと考えているんだけど」

「はーい、大丈夫です! けど──」

「大丈夫です、未成年だよね、飲ませないから安心して」

 横山が淡々と話を進める中、紅日が元気に答える。横山も分かっているよ、と言うようににこやかに笑っている。

 今回、屋城の話では、高校卒業後、そのまま就職しているという設定らしい。時期が普通だと四月だが、そこは一度退職しているということにしているらしい。それでも入社させてくれると言うのだから、会社が人手不足であることを理解できる。

 なんだかんだと話していたが、休憩時間が無くなることを誰かが指摘して、とりあえず食堂に向かうことにした。昼食は楽しく食べることができて、何も問題がなかった。

 昼食後も任された仕事をこなしていく。休憩は適度に自分で取っていい、と横山から聞いた。これで心置きなく仕事はできるというものだ。紅日も星羅も順調に仕事をこなしている。今日は、問題なさそうだった。

 結局、今日は何も分からず、そのまま終業時刻を迎え、部署全体で歓迎会へ。その時も、特に気になることはなかった。全員が歓迎しているように見えたのだった。


 歓迎会終了後、そのままお開きになり、蒼月たち三人は帰宅した。星羅ともすぐに別れる。もう今日は遅いし、気になることが全員の中でなかったため、明日からということになったのだ。

 部屋に戻って、スーツから私服へ着替えた。リビングに蒼月も紅日も何も言わずに、集まった。それから、疑問をぶつけ合う。

「どうなってんだ? 特に違和感はなかったぞ」

「ああ、残業時間が多いことは分かったが、ほかは特に気にすることがなかった。何だろうな。一つ、気になったとするなら、横山さんが言っていた『社長室には近づくな』ってことぐらいだな」

「……あんまり言いたくないけど、セクハラしているに一票」

「奇遇だな、俺もだ」

 紅日の言葉に、蒼月も肯定を示した。社長室からエレベーターまでの廊下は、明らかにほかの階の廊下より距離があった。そして、こっそり休憩した時に確認に行った会議室は、社長室とだいぶ距離があった。隣に作ってはあるが、奥にある会議室から社長室までの廊下の距離は、エレベーター前の廊下の長さと変わらないだろう。意図的に作られたものであることが分かる。事務所もだいぶ新しく見えた。建設した年を調べてみる価値もありそうだ。

「まあ、会議室横に階段があって、『あそこの会議室を使用する場合は、階段を使用すること』、なんて聞かされたら、そう考えるのが妥当だろうな」

「同感」

 蒼月の分析に、今度は紅日が肯定する。

 話し合った結果、やはり横山さんは被害者っぽいということ。まだ何とも言えないが、隠れて行われている可能性が高いということ。全員が全員、悪い人ではないということ。この三つが出てきた。そして、役員が怪しいということ、というのも上がった。

「気がついたか、紅日」

「役員がどうかしたのか?」

「今日、事務所にいて一人も(・・・)見ていないんだ(・・・・・・・)、社長以外」

 言われて、ハッと驚いた紅日。必死に今日の記憶を思い出そうとしているのを、蒼月は見つめて待つ。思い出せるなら、思い出してほしかった。そう、今日一日仕事をこなしながら、役員を探していた。しかし、確実に上の人が座ると思われる席には、一人もいなかった。全員が出張というパターンも考えた。だが、パソコン上のカレンダーにはそんな予定入っていない。会議の予定が入っている時間帯はあったが、全部の時間じゃない。だからこそ、おかしい。

 その日は、結局休憩中にいろいろと探すか、という結論で終わってしまった。



 それから、一週間。まったくと言っていいほど、何も起こらなかった。明らかに怪しい。

 休日になった瞬間、三人は集まった。休日も出勤している場合が多いらしいが、今回は横山が休んでいいから、と気を遣ってくれたようだった。集まったのは、蒼月たち男性の部屋だ。三人とも、首を傾げて唸っている。

「なんで、こんなに何もないんだ?」

「分からない……。いろいろと探っているが、まったくそんな気配がない。疑問しか出てこないな」

「やっぱり、事務所にいる人に探りを入れるしかないんじゃない? このままじゃ埒が明かないわ」

 星羅の言うことも一理ある。だが、どうも気になって仕方がないのは──。

「もしかしたら、俺たちのことを警戒しているのか……」

 思いつきで呟いた蒼月の言葉に、二人が息をのんだ。まさかそんな、という思いが募る。口を開いたのは、紅日だった。

「いやいや、今までそんなことなかったんだぞ。それに、誰がそんなことを知ってるっていうんだ」

 紅日の声は、少し震えていた。そんなこと信じたくない、と自分に言い聞かせているようにも思えた。星羅も縦に首を振っている。今回の紅日の言葉には賛成しているようだ。

蒼月はふむ、と考えて、それもそうか、と考え直した。

 結局、また様子見という結論で終わってしまった。だが、証拠を集めるためにも、小型の隠しカメラと盗聴器を会社にたくさん仕込むことにした。

 しかし、その時は誰も気がついていなかったのだ。この後、とんでもない展開になるなんて──。



 休日が空け、また月曜日。だいぶ、週五日で働くという感覚が分かってきた。自分たちの場合は、休日や平日はあまり関係ないため、一般的な感覚とは違う。慣れというものは怖いものだと、こういう時に実感する。

 蒼月は仕事をする手を一旦止め、お手洗いへ。行く際もいろいろと見たが、やはり何も起こっていなかった。

 自分の机へ戻ってくると、紅日も星羅もいなかった。

 俺と一緒か──?

 なぜか、そう思えなかった。思いたくても、疑問で終わってしまう。むしろ、不安で仕方がない。胸がざわつく。

 嫌な、予感がする。

 蒼月は一度座って、仕事をしようとしたが、できなかった。ダメだな、と思う。首を軽く横に振って、また立ち上がる。コーヒーでももらいに行こうと思ったのだ。仕事中に集中できないのは、さすがに会社に悪いと思う。人一倍仕事をこなしているので、そんなことはないのだが、そこは真面目な蒼月だ。潜入でもしっかりと仕事はこなす。それに、問題を解決するためにも、集中しなくてはいけない。

蒼月は給湯室へ向かった。給湯室に近づいたその時、急に声が聞こえた。高い声と低い声。女性と男性であることが分かる。その女性の声が、蒼月には聞き慣れた声だった。もしや、とハッとする。すぐに走り出した。

 勢い良く、給湯室を覗き込む。そこには、よく知っている人物、星羅がいた。だが、星羅は冷蔵庫に押し付けられている。押し付けている男性は、彼女の両腕を片方の手で抑え、もう片方の手は身体をいろいろと触っている。星羅は、泣いていた。泣いているからか、声が出せずにいる。

 一瞬で理解した蒼月は、頭よりも身体が先に動いた。

「何やってるんだ!」

 蒼月は右手を使って、手刀を勢いよく男の手へと落とす。痛みに耐えきれず、星羅から手を放した瞬間、彼女を腕の中へ引き込む。それから、男を蹴飛ばす。給湯室の入り口に向かって蹴飛ばせば、男は廊下まで転がった。その男の顔を見て、見たことがあると思った。

 こいつ、役員の一人の──!

 役員の写真だけ屋城が用意してくれていたため、顔だけしっかりと覚えていた。確か、名前は鈴木だったはず。星羅も覚えていたのだろうが、逃げられなかったのだろう。

 蒼月は、腕の中にいる彼女を見た。表情は見えない。だが、身体が震えていた──。

 起き上がった男、鈴木が喚く。

「貴様、この私に向かって──」

「ふざけるな! 彼女は嫌がっているんだ。こんなにも怖がっているんだぞ、何をしようとした!」

 蒼月は敬語なんて忘れて、言い返す。仲間を傷つけられて、だいぶ頭に血が上っていた。鈴木はネクタイを締め直しながら、ふんっと偉そうにしている。

「……君は確か、新入社員だったな。今ならまだ許してやる、その子を返して、土下座しろ。でなければ、給料を下げて──」

「そんなもの、いくらでも下げろ! お前の脅しなんか、痛くも痒くもない!」

 蒼月がそう言うと、鈴木はさんざん罵倒しながら、逃げていく。ヒステリックになって、叫んでいるので、何を言っているかも分からない。慌ただしい音が遠くなっていく。静かになった瞬間、蒼月は深いため息をついた。

 やってしまった……。あまりにも、カッとなってしまって、思わず言い返してしまった。これで俺たちが標的(ターゲット)にされる可能性は高くなったわけだ。だが──。

 自分の腕の中で震えている少女を落ち着かせようと、頭を撫でる。しかし、このままだと先程の男が来る場合もある。とりあえず、場所を移動したほうがよさそうだ。

「……星羅、立てるか?」

 恐る恐る声をかけたのだが、星羅はびくりと身体を強張らせた。今は何を言っても、どうにもならないと思う。逆に怖がらせてしまうだろう。返事があるのを待てば、ゆっくりとだが頷かれた。

 蒼月は腕を解いて星羅の手を掴み、立たせてやる。星羅は顔を俯かせたまま、何も言わない。とりあえず、今なら誰もいないことを見越して、食堂へ向かうことにした。

「星羅、今は何も言わなくていいからな」

 蒼月がそう言うと、後ろを歩いていた彼女はやはり無言のまま、頷くのであった。移動最中、蒼月はスマートフォンを取り出して、ある所へ電話を入れた。


 一方、紅日は会社の中をいろいろと歩き回っていた。頭を使いすぎて疲れたので、気分転換に見回りに行くことにしたのだ。今日の朝早くに隠したカメラや盗聴器は取られてないし、無事に動いていた。安心して、今は事務所内をぶらぶらと歩いていた。今は、自分たちが配属された人事部とは正反対の方向の部署にいた。あまり来ないので、新鮮に思える。

 へー、こっちってこんなに静かだなー。

 見回りついでに、偵察もしている。とりあえず、今のところは特になし。

 本当にあるのかー?

 だんだん疑うしかできなくなってきた。怪しいことは分かっているのに、何も掴めない。完全に相手は手練れだった。

 その時、バキィっと大きな音がした。不思議に思って、大きな音がするほうへ足を進めた。近づくにつれ、何やら騒がしくなってくる。のぞいてみれば、そこには土下座をして謝っている男性と、その男性を見下ろしながら、頭を踏んで暴言を浴びせている男性がいた。

 暴言を浴びせている男性をよく見てみれば、見たことがある顔。

 あれ、あいつって、役員の一人……だったよな?

 記憶を手繰り寄せて思い出せば、やっぱり役員の一人である。名前は確か、阿部、だったよなと考える。

 それにしても、これってもしかして──。

 そう思っていると、近くでこっそりと話している女性二人がいた。こそこそと話しているのは、どうやら二人の男性のことのようで。気になった紅日は、女性二人に近づいた。にこやかに笑ってみせる。

「こんにちは、先輩」

「きゃっ! び、びっくりしたー……。君は……」

「俺はこの間入った新入社員です! あの、気になってしまったんですけど、あれは一体──」

 紅日は元気よく答え、さっそく質問をした。少し怖がっているように見せ、なんで会社でこんなことが起こっているのかと、新入社員らしく聞いてみる。女性二人は、気まずそうにお互いを見てから、紅日に向き直ってこっそり話してくれた。

「……あのね、この会社って結構パワハラとかセクハラとか多くてね、特にあの役員はパワハラ上司で有名なのよ。今回は、私たちの部署の部長が標的になったみたいでね、ちょっとかわいそうだなーって……。さっき、殴られてたし」

 一人が気まずそうに話してくれたが、その話を聞いて、他人事だな、と紅日は思った。助けようとは思っていない、それは自分が標的(ターゲット)になるのが怖いから。紅日は考えて、本当はもう少し話が聞きたいけどなー、とも思ったのだが、自分の心に正直になることにした。

「教えてくれて、ありがとうございます。……じゃあ、ちょっと席外してくださいね?」

 紅日がウインクしながらそう告げると、彼女らは「え?」と間抜けな声で聞き返した。そんなことはお構いなしに、紅日は走り出す。助走がついたところで、そのまま跳躍し、役員の一人である、阿部の顔めがけて右足を突き出した。彼が気付いた瞬間には遅かった。もうすでに紅日の飛び蹴りが顔面に綺麗に入って、その勢いのまま後ろへ飛ばされ、机の上に投げ出された。紅日はそれを見て、ニッと笑う。

「ビーンゴ」

 言葉の最後にハートマークでも付きそうなぐらいに、軽快に言ってみせると、先程の女性二人が悲鳴を上げながら逃げていく足音が聞こえる。土下座していた男性は驚いて、あんぐりと口を開けている。一瞬静かになったが、すぐに阿部は起き上がって、怒鳴ってきた。

「お、お前、いきなり何を──」

「すみません、顔に虫が止まっていたもので、つい」

「そんなものでごまかせると思うなよ、クソガキ! 新入社員だろ、お前! 新入社員は新入社員らしく、上司の言うこと聞いて仕事してりゃあいいんだよ!」

 一人ギャーギャー喚いている阿部の言葉を聞いて、紅日ははあ、とため息をついた。それから、すっと目を細めて、彼を睨む。

「あのさあ、何舐めたこと言ってんの?」

 急に低くなった声と鋭くなった瞳に、阿部は一瞬びくりと身体を震わせた。空気が一度、二度は下がったように思えた。だが、すぐさままた喚き始める。

「お前、俺に向かって敬語を使わないとは──」

「へえ、役員がそんなに偉いわけ? 意味が分からないな。役員なら何でもやっていいのかよ、今そこの男性足で踏んで暴言浴びせてたけど、それもいいのか? 言っちゃ悪いけど、お前バカじゃないの?」

 紅日はそう言い放ってから、まだ床に座り込んでいる男性に手を差し伸べた。驚きながらも、男性は手を取りながら立たせてもらう。紅日は笑って、「大丈夫ですか?」と聞く。男性はさっきの辛そうな顔から、少し笑った顔になっていた。ほんの少しだが、安心できたようだ。殴られた痕が痛々しい。だが、笑った顔を見て嬉しくなる。男性を逃がして、自分は阿部と向き合った。

 阿部が今まで黙っていたのが静かで気になったが、どうやら怒りで何も言えなかっただけらしい。紅日は、ふーんと思うだけであった。

 こっちは、だいぶ怒っているんだ。お前なんかより、腸煮えくりかえっているんだよ……!

 そんなことは露知らず、阿部はもっと激しく暴れだす。

「……お前を、絶対に退職させてやる! その前に、給料を大幅に下げて、仕事など与えてやらんぞ! それから──」

「そんなこと言っている前に、あんたが仕事やれば? 本当にバカバカしいよな。あ、ちなみにそんな脅しは効かないんで、よろしくお願いしまーす」

 紅日はそんだけ言うと、さっさと去った。後ろでまだ喚いているが、何言っているのか分からないので、無視をする。ちらちらといろんな人から視線を向けられた。それも気にしない。とりあえず、一人になりたくて、食堂に向かうことにした。

 しかし、紅日の心の中は、態度とは違って焦っていた。

 やっべー……。あまりにもカッとなってやっちまったぜ……。蒼と星羅になんて言おう。給料も仕事もどうでもいいけど、完全に標的(ターゲット)になっちまったー。これは短期戦だなー……。

 思い足取りを他人に悟らせないようにしながら、事務所を出た。


 食堂に着いた蒼月と星羅、向き合うようにして紅日が立っていた。「あ」と、蒼月と紅日の声が重なる。一つの机に、蒼月と星羅が並んで座り、紅日が向かいの席に座った。二人のため息がまた重なる。先に行動したのは、蒼月だ。

「どうかしたのか、紅日」

「……悪い、俺やっちまった」

「奇遇だな、俺もだ」

 紅日が聞き返す前に、蒼月は席を立った。食堂に備えられている、電話機まで歩き、受話器を取る。ある人へ電話をかけ、短く話し終えると、すぐにまた席に戻ってきた。紅日は首を傾げる。そして、星羅が何も言わないことに、何かあったんだと悟る。

 そんな時に、食堂に飛び込んできたのは、横山だった。血相を変えている。息も乱れ、相当急いできてくれたことが分かった。蒼月が電話した相手は、横山だったのだ。

「へ、蛇塚くん、今の電話は──」

「すみません、横山さん。お仕事中に呼び出して」

 蒼月は立ち上がって、最初にそう謝罪した。紅日は、相棒が何を告げたかまでは分からなかったが、横山を呼び出してくれたのはありがたかった。もう、短期戦になることが決定した今、手段を選んでいる場合ではない。早く話を通して、さらに話が聞ければこの上なくいい。

 横山が紅日の隣に座ったのを見て、蒼月は話し出した。

「……実は、少し問題が発生しました。星羅……、兎姫さんがセクハラにあったようで」

「うえ!?」

 紅日の口から変な声が出た。なんとなく想像はついていたが、やはり被害にあっていた。だが、標的(ターゲット)になったのが、まさか星羅だとは思わなかったのだ。しかも、よりによってセクハラとは──。無性にその犯人を殴りたくなった。

 俺だって仲間を傷つけられれば、腹が立つしな。

 紅日が胸の中で殴りたい衝動を抑えている間に、蒼月は話を続けていた。

「加害者は役員の一人でした。横山さん、あなたを責めるわけではありませんが、これは日常茶飯事なんですか?」

 蒼月はとりあえずそう言った。たぶん、それは話を進める手順として現在蒼月の頭の中で組み立てられているはずだ。だからこそ、紅日は黙ったままでいる。こういうときは、蒼月に任せたほうがいいと分かっている。

 横山は顔を俯かせて、しばらく黙っていた。蒼月も紅日も近くにほかの人間の気配がないか気にしながら、彼の言葉をただひたすら待つ。数分後、彼は決心したらしく、勢いよく顔を上げて小声で話し出した。周囲は気にしながら、淡々と話す。

「……もう、この会社は終わっているんだ。セクハラもパワハラも、毎日のように行われている。僕もだいぶパワハラを受けたもんさ。残業も似たようなもんだよ、役員や部長の仕事を皆押し付けられているんだ。役員は全員だけど、部長は一部、それも役員から無理矢理やらされている場合ばかり。この会社の社員に逃げ場なんて、ないんだ……。三人にも話しておくべきだったのに、本当に悪いことをしてしまったね……」

 横山は目を伏せて言った。横山が何年働いているかは分からないが、それでも彼は長い年月の間我慢して働いてきたと言う。ちなみに、人事部はまだマシらしい。人事部の部長はこの状況が問題であることは分かっているようだが、自分が標的(ターゲット)になることが怖いらしく、逆らえていないと言う。役員が来ると嫌な空気が流れるが、それ以外はいい雰囲気で仕事ができているらしい。横山も役員に仕事を押し付けられる場合が多いと言う。

 蒼月も紅日も顔を見合わせて頷いた。星羅はまだ動かない。しばらくは駄目だろう。蒼月は、話を進めることにした。横山は、信じられる。

「……横山さん。俺たちはこの会社の現在の状況を解決するべく、派遣されたんです。俺たちの正体は『言ノ葉協会』。言葉による問題が起こったときに解決する、政府公認の組織なんです」

 横山はそれを聞いて、目を見開いてそのままでいる。驚きで声も出ないらしい。紅日がさらに続けて言う。

「今回、この企業が話に上がったので、俺たち三人が派遣されたんです。潜入捜査ということで、俺たちは会社の新入社員として入ったのですが、この一週間はまったく問題となっているセクハラもパワハラも三つからなかったんです。けど、今日は違った」

 そこで、紅日は区切った。ぎり、と歯を噛みしめる。

 紅日の目がギラリと鋭くなったのを見て、蒼月はやはりか、と思う。今回は暴走しそうなのは紅日だ。絶対に自分が冷静でいなければ、ともう一度心に刻み付ける。

 蒼月はまだ放心状態の横山へ言葉をかける。横山はやっと我に返ったようで、蒼月の言葉に耳を傾ける。

「横山さんには、協力してほしいことがあるんです。この会社をブラックから、ホワイトへ切り替えるためにも──」

「……確かに、よくしたいけど。けど、それで僕が──」

「大丈夫です、絶対に守ります。それに、役員に何かしてほしい、ということではありません。あと、喧嘩なら俺たちがすでに吹っかけています」

 蒼月が口元に右手の人差し指をすっと置きながら言うと、横山は大声で叫びそうになったのを口元を両手で抑えて言葉を飲み込む。

 とりあえず、まだ誰かに気づかれたわけではなさそうだ。誰も入ってこない食堂で、蒼月と紅日は先程あったことをすべて打ち明けた。横山が話を聞いて、叫びそうになるのを何度も口元を抑え込んだ。話が終わると、横山は「よくそんなことできたね……」と呟いた。

「すごいね、君たちは。そんな勇気があるなんて」

「どっちかっていうと、怒りで頭より身体が動いたパターンですね。けど、後悔していないと言ったら嘘になるけど、何もやらなかったよりはよかったと思ってます」

「もっとしっかり調べるつもりでしたが、状況が状況です。とにかく、被害者の話が聞きたいんです。何人かと話ができるようにしてほしい、それがお願いしたいことなんです」

 紅日は苦笑しながらそう告げた。続いて、蒼月が横山へ頼み事をする。横山は頷いた。

「分かった、この状況が変わるなら協力するよ! 被害者なら大体分かっているから、すぐに連れてこられると思う。ただ、何人も席にいないと怪しまれるよね……」

「打ち合わせをしていることにして、会議室を取りましょう。時間差で一人ずつ呼んで話を聞くことにします。最低五人、それだけ話が聞ければいいです」

「分かった、任せて。ただ、三人ともが打ち合わせだと怪しまれると思うから、誰か一人は席に戻ったほうがいいと思う──」

 横山の言葉に、蒼月も紅日も固まった。確かに、横山の言っている意味は理解できる。いつもならその言葉に頷いて、どっちかがすぐに席に戻っていただろう。だが──。

「さっき、喧嘩吹っかけたんだけどなー……」

「星羅を一人にするわけにはいかない。俺か紅日が戻るしかないだろうな」

「それもそうだけど、それよりも星羅を家に戻したほうがいいんじゃないのか?」

「今は、一人にさせないほうがいいと思う。心細くなるだろうしな」

 二人がため息をつく。横山も慌ててフォローしようとしているが、それも聞こえていない。とにかく、どちらかは事務所内に戻ったほうがよさそうだ。怪しまれたら、余計に面倒くさいことになる。早く決着をつけたほうがいいが、もっと追い込まれる状況は避けたかった。

「……おし、俺が戻る」

「紅日、大丈夫なのか?」

「何かあれば、逃げるなりなんなりするさ。もしかしたら、力を先に使うかもしれないけどな」

「かまわない。……気をつけろよ」

 紅日がこくり、と頷く。いつもの楽観的な感じではない、気を引き締めて油断していないようだ。

 紅日が時間を稼いでいる間に、情報を集めないとな──。

 一度、紅日と共に横山も戻る。横山は会議室の予約と人選をしてきてくれる。予約ができ次第、食堂の電話機に電話がかかってくることになっている。それまでは、ここで大人しく待っているのが得策だ。蒼月は立ち上がって、二人を見送った。

 二人がいなくなると、急に蒼月の身体に振動が来る。視線をわずかに下に落とせば、蒼月のシャツの裾を遠慮気味に星羅がくい、と引っ張っていた。蒼月は椅子に座りなおして、少女の名前を呼んだ。すると、彼女は小声で何かを呟いた。聞き取れなかったため、もう一度声をかける。ゆっくりとだが、星羅は話し始めた。

「……っ、そう、く……、わ、わたっし、怖か、怖かった……」

「うん」

「と、突然っ、声を、か、かけられてっ、そのまま冷蔵庫に──。それから、最初っ、は、口を手で、塞がれて、助けをっ、呼べ、なくて……」

「うん、ゆっくりでいい」

「か、身体、いろんなところっ、触られて……。き、気持ち、悪くって──」

「……ああ。ごめんな、助けが遅くなって」

 蒼月は、星羅の背中をさすって落ち着かせてやる。ゆっくりとだが、星羅も打ち明けた。泣きじゃくりながら、自分が何をされたのかを話す星羅。その姿は、あまりにも痛々しかった。蒼月の眉間に思わず皺が寄る。

 腹が立った。まだ十四の少女がここまで傷つかなくてはいけないのか。今回は、人選ミスだったと思う。何が何でも、屋城に拒否をしなくてはいけなかったのかもしれない。いや、それよりも自分たちが彼女を守れなかったことに無性に怒りを覚えた。

 待っていろ、絶対にあいつを許さない……。仲間を傷つけたこと、後悔させてやる……!

 星羅にはその表情は見せない。怒りでぎらつく瞳は、今はいない加害者へ向けられていた。


 紅日は、席に戻って仕事を進める。だが、集中できずにいるのは確かであった。書類を見て仕事をこなすが、内容が頭に入ってこない。かろうじて与えられた仕事をこなすことができるレベルであった。脳裏に残映るのは、先程食堂で見た星羅の姿。その姿は、あまりにも痛々しかった。

 大丈夫か、星羅……。確かに、一人でいさせるのも不安だけど、ここにいたほうが落ち着かないんじゃ──。

 ふと視線を上げると、横山がまた事務所を出ていくところだった。先程電話をしているところを見かけたので、たぶん食堂にいる自分の相棒へ電話をしたに違いない。横山が出て行って少し経った後、人事部の女性が一人事務所から出て行った。

 彼女もそうなんだな──。

 そう思った瞬間、何やら殺気のようなものを感じ取る。やばい、とすぐに動いた。首を少し右に傾ける。すると、勢いよく顔の横を通り過ぎていくものがあった。それは、デスクトップの画面に当たって止まる。画面が割れることはなかったが、大丈夫かと不安になる。そして、自分の身も心配になった。思ったより、動き出しが早かったな、と考える。椅子から勢いよく飛び降り、相手をギロリと睨みつける。椅子が激しく音を立てて倒れるのと同時に、一斉に向けられる視線。たくさんの視線が自分へ向けられた。だが、それは気にしない。自分が気にするべきものは、視線の先にいる相手だけだった。その相手は──。

 やっぱり、さっきの役員か──。

 目の前には、自分が付けた靴の後をくっきりと残した役員がいた。画面を殴った拳を引っ込め、紅日を睨みつける。負けじと睨み返した。着地して座ったままだったが、ゆっくりと立ち上がる。

「さっきは、よくもやってくれたな、ガキが。この俺が直々に教育してやろう。大人しくそこに立っていろ」

「うわー、役員とは思えない言葉(セリフ)。あんた、役員辞めたほうがいいよ、絶対」

「敬語を使わんか! そんなことも分からないのか、今のガキは!」

 そう言って、殴ってきた役員の拳をあっさり受け止める。驚愕で見開かれる目を見て、にやりと笑いながら言い返した。

「悪いけど、敬語を使う相手は選んでいるだよ、俺はな!」

 紅日は受け止めた拳を放して、腕を掴む。そのまま一本背負いで、相手を床へと打ちつけた。ドオン、と大きな音をさせて打ちつけられた役員はそのまま伸びてしまった。気を失ったのを確認して、「ふいー」と息を吐き出しながら、額の汗を拭う。汗が出て仕方がなかった。

 事務所内は静寂で包まれた。その瞬間、今度は冷や汗がドッと出てきた。

 しまったー、またやっちまった……。俺って学習能力なさすぎだろ……!

 どうしよう、と焦っていたが、しばらくして事務所内にいた人間は顔を見合わせ、それからわあっと歓声が沸き起こった。紅日はなんだなんだ、と首を激しく左右に動かした。状況を把握できていない。けれど、自分を包み込んでいるものは、紛れもなく歓声だった。

「すげえ、すげえよ、新人! やるなあ!」

「ありがとう、新人くん!」

「平和が来る前兆だな、これは!」

 口々に騒ぐ社員は、どんどん紅日の周囲に集まってくる。最終的には胴上げまでされた。

 こ、これでよかったのかー!?

 紅日は笑顔を張りつけながら、内心動揺していた。



 紅日のおかげで、その日情報が集まった蒼月は帰宅してから紅日と星羅を部屋に呼んだ。星羅をソファに座らせ、二人は床に座った。だが、星羅には話をする前に確認しておかなければいけない。

「星羅、今日のこともある。解決する前に、協会に戻るか? これ以上は辛いだろう」

「俺もそう思う。今なら戻れるぞ」

 口々に声をかけるが、星羅は横に首を振った。二人は顔を見合わせたが、星羅が話し始めたので視線を彼女へと戻す。

「……二人とも、ごめんなさい。最後まで、いさせて。迷惑をかけていることは分かっているけど、最後までいたいの」

 辛そうな顔でそういう彼女を、二人は見つめた。本人の意志が固いことを悟る。

「分かった。だが、本当に辛かったら、言っていいんだからな」

 蒼月はそう言って、星羅の頭を撫でた。紅日はうんうんと激しく頷いている。星羅は小さく「うん」と返事をした。それを見て、安心した蒼月は話を進めることにする。

「じゃあ、進めるぞ。とりあえず、有力な情報は手に入れることができた。紅日、時間を稼いでくれてありがとな」

「いや、本当に悪い(わりい)、だいぶやらかした。なんかでも、社員には喜ばれたぞ」

「それが本当の気持ちだということだ。あとはまとめるだけだが──」

 そう話していると、家の電話が鳴った。「来たか」と蒼月は言いながら、立ち上がって電話を取りに行く。紅日も星羅も心当たりがなかった。蒼月は受話器を取って、五分程度話していた。話し終わると、また戻ってきて、床に座る。

「よし、これで情報は揃った」

「今の誰だったんだ?」

「ああ、狼さんだ。今日、頼んどいた。もうすぐ、ファックスが届くはずだ」

「はあ!? いつの間に!」

 大げさに驚く紅日の言葉に、星羅も何度も頷いて肯定した。蒼月は苦笑して、説明する。

 星羅と食堂へ向かいに行く途中、蒼月はスマートフォンを取り出して、警察署の狼の電話に電話をした。ちょうど席に着いていたようで、ワンコール以内で電話に出てくれた。事情を話すと、二つ返事で了承してくれた。申し訳ないと思いながらも、今日中に調べてほしいことも伝える。散々文句を言われたが、なんだかんだ面倒見の良い狼のことだ、結局は聞いてくれた。

 狼に頼んでいたことは、三つ。役員の経歴と今までの会社内の問題で公表されたものがあったかということ、そして社員の被害についての状況だった。被害については分かるところまででいいことを伝え、まったく分からなかった場合は、過去に訴えられたことがあるかも調べてもらった。

 ファックスの音がして、蒼月はまた立ち上がり印刷された紙を手に戻ってくる。それを机の上に置いて、全員で覗き込んだ。無言で各自文章を読む。読み終わると、思ったことを口にする。

「これってさー、その……」

「その通りだ。上の人間が今まで問題にされそうになったら、力で揉み消していたんだ。あの腹立つ社長、中々権力を持っているようでな、言うことを聞かせるのは容易かったようだ」

「だから、役員も何でもやれたし、今まで公にならなかったってこと……?」

「そういうことだ。だが、それも明日で終わる。紅日、手伝ってくれ、今日は徹夜コースだ。星羅はゆっくり休むといい。今日はいろいろとあったしな。準備は任せといてくれ」

 星羅を仲間外れにしているようで申し訳ないが、それでも無理をさせるわけにはいかない。今日は辛いことがあったから、ゆっくりと休んでほしかった。紅日も疲れているだろうが、明日で決着をつけるためには、いろいろと準備がいる。

「はーい、徹夜コース入りまーす……。そうだな、星羅は休んだほうがいい。俺たちに任せといてくれ」

 苦笑いでふざけて言うが、星羅のことは真剣に考えているようでちゃんと声をかけている。星羅もその言葉に安心したのか、少し笑顔を取り戻して「ありがとう」と言った。そのまま星羅を部屋に帰し、隣だがしっかりと部屋に入ったことを確認してから作業を開始する。

 二人の長い夜が始まった。

 情報は揃っていた、さすが狼だ、抜かりがない。

 だが、まだ不十分だ。結局、今日で回収してしまった隠しカメラと盗聴器のデータをまとめる。

 帰宅したのは、午後九時前でかなり遅かったが、それでも疲れと眠りに負けるわけにはいかない。なんといっても、昼間仕事を放って、自分たちの本来の仕事に集中していたから仕方がない。それに、蒼月よりも紅日のが断然疲れていることだろう。自分は途中社員の話を聞いていただけだったが、その間も紅日は仕事をしていたのだから。

「……と言っても、俺は途中で胴上げされてたけどな」

「なんだ、それ。そういや、喜ばれたとか言ってたな」

 蒼月は心配して相棒へ声をかけると、そう返答があった。苦笑して言えば、淡々と紅日は昼にあったことを話し始める。口は動かしても、手が止まることはない。話し終わった紅日は笑ってみせた。蒼月も安心して仕事に集中する。

 何もかもが終わったのは、午前三時を過ぎた頃だった。

 あとは、明日役員が全員いるかどうかだ──。

 そう思いながら、残り少ない時間を睡眠に充てることにした二人だった。



 まだ眠たいのを相当我慢して、二人は起きて支度をした。不安だったが、とりあえず星羅も出勤できそうだ。三人で会社に向かう。

 出勤した蒼月たちは、唖然とした。昨日まで自分たちが使用していた机やパソコン等が、ないのだ。そういうことか、と納得するのと同時に、腹が立つ。歯をぎり、と噛みしめた。

 あいつら、見とけよ……!

 胸中でいろいろと思っている最中に、ふと視界に入ったのは、横山の姿だ。目が合った彼は、申し訳なさそうに目を伏せる。だが、そのまま席を立って、事務所の扉の前にまで行くと、三人だけに分かるように小さく手招いた。三人は顔を見合わせてから、横山と一定の距離を保ちながら、後をついて行った。

 向かったのは、食堂。そこで、横山は席にも座らず、入り口に背中を向けて立っていた。蒼月たちが入り、声をかけると、背を向けていた彼は勢いよく身体ごと振り返る。

「ごめんね、昨日のことで役員全員が相当起こっていて、席を回収するように言われたんだ。君たちの正体は言っていないよ。ただ、君たち全員を退職させるつもりでいるんだ」

「そんなことだろうとは思いましたけどね」

「けど、俺たちの仕事は残っている。……横山さん、今日役員が全員いるかどうかは分かりますか?」

 横山は一瞬考える素振りをして、すぐに答える。

「確か、全員いるはずだよ。けど、それがどうかしたの?」

「全員いないと、意味がないんですよ」

 蒼月はくすっと笑った。横山の頭には、はてなマークが浮かび上がっているようで、首を傾げている。横山には事務所に戻るように促した。後は任せてほしい、とも頼む。これ以上は、横山を巻き込むわけにはいかないからだ。横山は心配そうに見ていたが、三人の顔を見てから、頷いて戻って行った。

「さあ、始めようか」

 蒼月の言葉に、紅日も星羅も動き始める。向かうは、事務所。蒼月は、たぶん全員事務所にいると考えたのだ。目的は、俺たちを全員を退職させるため──。

 事務所に入れば、一瞬事務所内にいた全員の視線を向けられた。しかし、すぐにそらされる。この事務所内全体に息がかかっているんだろう。本当に怒ることを通り越して、呆れてくる。

 入り口付近で突っ立っていると、後ろから人の気配がした。殺気みたいなものを感じ取って、バッと後方へ飛びつつ、距離を取って振り返る。振り向いた先にいたのは、やはり役員だった。全員集合している。社長を筆頭に合計七名の人間がいた。間違いなく、記憶している役員の全員と顔が一致する。

 蒼月は冷静に話し始めた。

「おはようございます。さて、どういうことか説明していただけますか?」

「君たちには失望させられたよ。仕事は確かにできるようだが、態度がなっていないな」

「俺の顔を蹴りやがって!」

「私にも反抗したよね」

 社長の言葉の後に、阿部と鈴木が口々に言う。それにほかの役員も乗り出してきて、どんどん話が大きくなってくる。だが、蒼月と紅日はそれを聞いて「ハッ」と嘲笑した。それから、綺麗に口を揃えて言い放つ。

「自業自得だろ」

「な、なんだと!」

 役員たちの動揺は、手に取るように分かった。

「パワハラするわ、セクハラするわ……。そりゃあ、いつかは仕返しが来るに決まってんだろ」

「自分たちが正しいと思っている、その根拠が分からないな」

 呆れている紅日と蒼月は、口々にそう言った。役員の面々は怒っている。事務所中を怒声が満たした。そんな中、悠長に紅日は自分の指を耳栓代わりに両耳に突っ込んでいる。その様子に蒼月は苦笑し、「そろそろ始めるか」と呟く。その小さな声に役員の一人、阿部が反応した。蒼月は話でしか知らないが、紅日が目撃したパワハラの加害者だ。

「おい、今なんて言った!」

「耳だけはいいんだな、耳だけは」

 蒼月はわざと強調したいところを二回繰り返した。それにさらに怒り狂う阿部に、クスリと笑ってみせる。ただの腹いせのつもりがなかなかいい反応をすると思う。簡単に挑発に乗るところが子どもっぽい。笑ったことにも反応して、滑稽に思えてきた。また阿部が言い始める前に、紅日は笑いながら相棒を止める。

「そろそろ始めるんだろ、蒼」

「そうだな」

 紅日の言葉に、蒼月は頷く。星羅にも目で合図を送れば、彼女が頷くのが見えた。いまだにギャーギャーと喚き散らしている役員たちを、静かにさせようと紅日は息を大きく吸ってから声を張り上げた。

「静かにしろ!」

 その声は、びりびりと振動を伝えた。全員が黙る。役員たちは何か言いたそうだが、何も言えずにいた。冷静でいられたのは、蒼月たち三人だ。

 静かになった空間で、蒼月は話し始めた。

「俺たちは、政府公認の組織、『言ノ葉協会』。言葉による問題が起こると、駆り出され、解決するためにその場所に派遣される。今回は、この会社で行われているセクハラ、パワハラの問題を解決するように依頼されたため、今まで潜入していた。状況が状況だったが、この一週間で情報が集まった」

「隠していた小型カメラと盗聴器、その他もろもろによって、お前たち役員が主体で行っていることが分かった」

「被害者の痛み、裁きにて味わってもらうぞ」

 蒼月の目がすっと細められ、役員七名を捉える。彼らは動揺したようだった。逃げ出しそうになっている彼らの動きを見て、紅日と星羅が動く。逃げ道など、作らしはしない。

 星羅のことは少し不安だったが、自分から買って出てくれたので、任せることにした。

 蒼月は「言ノ葉の裁き」を発動させようと、右手を天に突き出す。その時、社長が慌てて言った。

「ま、待て待て! そんな証拠が本当にあるというのか!」

「あるんだなー、これが」

 紅日がにやっと笑って答える。紅日はジャケットのポケットから、スッとボイスレコーダーを出した。それを見て、その場にいた全員が固まる。すぐにそれを元の位置に戻す。

「これは、盗聴器から録音したものを全部まとめて入れたものだ。あとは、USBにも隠しカメラの映像を全部保管してあるのと、警察からもらった逮捕状、こんなもんかな」

 逮捕状をひらひらと見せれば、役員たちの顔から血の気が引いていく。USBは見せないが、星羅が隠し持っていた。ちなみに、逮捕状は昨日狼からファックスで送ってもらったものである。

「警察も全部知ってる。さすがにボイスレコーダーとかの再生はやめとくけどな」

「無駄な足掻きは終わったか。ちなみに、お前たちが無理矢理やらせていた人間もいるようだが、それは力が判断してくれるだろう。覚悟するがいい」

 蒼月はそう言って、今度こそ「言ノ葉の裁き」を発動させた。やはり表示されたのは、「警告」の二文字。そして、蒼月の背後には大きな鎌。死神がいるように見えた。

「行け、攻撃!」

 そう指示すれば、その鎌は役員全員めがけて振り下ろされる。室内には悲鳴が響き渡った──。

 結局、裁かれたのはやはり役員だけで、一部の人間に衝撃はあったものの、そう大したことはなかった。役員が倒れているのを見て、三人はうまくいったことを察する。とりあえずは一安心だ。

 社員が恐る恐るのぞく。先程まで悲鳴を上げて、逃げ場がないために机の下に潜り込んだり、壁によったりしていたが、ゆっくりと近づいた。それを見て、三人は笑いかけてやる。

「安心してください、死んではいません。そして、彼らはもう終わりです。あなた方が脅かされる日常は、これで終幕です」

 蒼月の言葉に、社員全員はその場にいた近くの人と顔を見合わせる。状況が理解できると、一斉に喜んだ。嬉しすぎて泣く者、お互いの肩を抱いて喜ぶ者、叫んでいる者──。様々だった。三人が一息ついていると、そこに横山が近づいてきた。

「ありがとう、君たちのおかげだよ」

「いえいえ、これも仕事ですから!」

「……だが、まだ終わっていないがな」

 にこやかに返した紅日の後に、蒼月は冷ややかに呟く。その言葉に首を傾げたのは、横山と星羅だった。

 役員が起きるまでに、蒼月は狼に連絡をして来てもらうように頼むのだった。

 それから、しばらくして役員たちは起きた。起きる前に狼と鴉夜が来たので、全員手錠をかけられた状態である。床に座っている役員たちの前で、にこにこ笑っている紅日と、冷ややかな目で見つめる蒼月が立った状態で見下ろしている。「言ノ葉の裁き」がうまくいった後の役員たちは、彼らを見て怖がっていた。

「さて、いろいろとしてほしいことはあるわけだが──」

「とりあえずは、俺たちの妹分を泣かしたこと、ちゃんと謝罪してもらおうか?」

 にっこりと笑っている紅日は、手をバキバキと鳴らしながら告げる。その言葉を聞いた瞬間、役員たちは座った状態だったため、土下座をし始めた。驚いたのは星羅だ。

「蒼くん、鷹林、もしかして終わってないことって……」

「必要だろう」

「重要だな。ほら、星羅に謝った後は、ほかの社員にも謝れよ?」

 役員たちが平謝りしているのを見て、二人はすっきりした。これでやり残したことはない。

 星羅はしばらく俯いて黙っていたが、二人を呼んでこう言った。

「ありがとう、蒼くん、紅日」

 笑顔でそう言った星羅に、今度は紅日が驚く番だ。やっと名前で呼んでもらえたので、それが嬉しかったに違いない。いい笑顔で、「おう!」と元気よく頷いた。

 ひとしきり謝っていた役員たちを狼がパトカーへ次々と乗せていく。その時、鴉夜が蒼月に近づいた。そして、スッと小さく折りたたんだ紙を渡してくる。蒼月が目を細めると、鴉夜は頷いてから小声で告げる。

「この間頼まれたもの、調べがついたよ。そこにすべてが記されているから」

「ありがとうございます」

 蒼月も小さな声でお礼を言う。鴉夜はそれを聞いて、にこりと笑った。それから、狼を手伝いに戻る。

 蒼月たちも、会社の人たちに別れを告げ、狼たちが出るのと同時に会社を出た。これから、協会に即行戻って寝るつもりでいた。



「あれから、あの会社は良くなったようだよ」

 任務から帰ってきて、二週間が経過したある日、屋城にそう言われた。

 帰宅してすぐに報告をした三人は、どっと疲れが出てきて、すぐに部屋に戻って寝てしまったのだ。報告してからはあまり思い出したくもなかったので、話すこともなかった。

 屋城はにこにこと笑いながら告げ、そのまま淡々と話しだす。

「役員も全員変わってね、考え方が変わったからブラック企業じゃなくなったんだって。急に変わったから、慣れない部分はあるようだけどね。社長は、皆がよく知っている人物だよ」

 屋城はそう言って、一枚の紙を見せた。覗き込んで確認すれば、横山の名前が社長の枠に記載されていた。

「へー、横山さんが!」

「なるほど、それは良くなりそうですね」

 二人は納得したのと同時に、嬉しくなった。それから、星羅にも教えてやろうと動き出す。



 また新たに解決済みの依頼書が、挟まれたのであった──。

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