第二件 幼児虐待事件
第二件 幼児虐待事件
いじめ問題が解決してから、すでに一か月近くが経過しようとしていた。この間は蒼月も紅日も特に依頼もなく、協会の中で時間を過ごしていた。
いじめ問題を解決して帰宅した二人は、また依頼が多く来ていてすぐに駆り出されるかと思っていたが、どうやらほかのメンバーが次々と対応してくれていたらしく、依頼が多い期間が知らない間に終わっていたのだった。今はメンバーの中でも依頼が少ないらしく、外出している者が少なかった。
久々の長い休日をメンバーと楽しく過ごす中、依頼に出ているメンバーから連絡を受けて相談をされたり、生活の中で協力しあったりしていた。さらに、自分たちが動けるように身体を鍛えたり、「言ノ葉の裁き」に慣れるように実戦練習をしたりもしていた。
そして、今日はその「言ノ葉の裁き」の攻撃呪文に関して、メンバーから頼まれた二人は講師を務めていた。
協会の中にある、一つの大きな部屋はいつも会議を開いている部屋だった。どこかの大学の教室を思い浮かべるその部屋は、会議だけでなく勉強するためにも用意されている部屋で相当大きい。協会の中で一番大きいその部屋は満席であった。
最初は数人の仲の良いグループから頼まれただけであった。たぶんだが、そこから話が広がったのであろう。何と言っても、トップクラスの実力をもつ二人が講師を務めるのだ。話を聞きつけたメンバーはその機会を逃すわけがない。開始時刻前から大勢押し寄せてきて、しまいには席に就けなくても部屋の後ろで立ちながら話を聞こうとする始末だ。
そこまでするのか、と講師を依頼された紅日は驚きながらも何も言わずに部屋の中を見渡す。しかし、紅日は今日は講師を務めるつもりはなかった。
実を言うと、紅日は「言ノ葉の裁き」を使用することはできるが、どちらかと言えば苦手分野であった。いや、この言い方では語弊があるだろう。紅日にとっては、使用することは簡単だが、感覚で覚えたために人に教えることができないのだ。自分は頭ではなく身体で覚える人間だ、と紅日自身も理解している。それが理由で苦手分野となっていた。
逆に蒼月は頭で理解したうえで行動するためよく理解している。だからこそ、人に教えるのはうまい。彼はなんでもこなせるので、紅日はすごいといつも感心する。だが、蒼月は人間関係、つまり人付き合いが苦手だ。この間のいじめ問題でも潜入していた高校では転校生として教室に入った瞬間、すぐに険悪なムードを作ってしまった。そこを和らげたのは紅日である。蒼月は紅日のそんなところをよく感心していた。
二人はお互いに得意な部分を活用し、苦手な部分をサポートする──まさに「完璧」であった。その関係が協会のメンバーにとって憧れの存在となっていることを二人は知らない。
「──つまり、この呪文を生かすも殺すも、自分自身。使用する判断を見誤れば、問題を解決するどころか、問題の人間が悪化してそれ以上の罪を犯すことだって有り得てくる。そうならないためにも、使用する俺たちが判断を見誤らず、さらに心を強く持っていなければいけない」
蒼月の言葉を聞きながら、紅日はやはり理解できないでいた。理解できない自分がよく使用できるようになったよな、と自分で苦々しく思う。そして、蒼月には絶対に頭が上がらないように感じるのであった。
一通りの蒼月の解説が終了すると、各々実戦練習へと移っていた。協会のメンバーの中では実戦練習が許されていた。それは、本番でうまく使用できないと大変なことになるからという理由と、もう一つはメンバーの中では制御がお互いにできるためという理由であった。裁きの使用をした者が暴走したときに止める人間が必要になる、それを見通しての許可である。ただし、制御が必要になるため、必ず三人以上での練習を決められていた。
ぼーっと辺りを見渡していた紅日のもとにも、三人の男性が歩んできていた。歳は皆、三十代半ばの男性である。
「おう、紅日。すまないが、練習に付き合ってくれないか? お前とのが実戦に向いているだろうからな」
「お、いいですよー、任せてください。演技も加えて、本格的にやりましょう。ノリノリでやったほうが絶対本番に近いでしょうしね」
「紅日が演技したいだけだろ」
笑って言われると、紅日は「あ、分かっちゃいましたー?」と笑って返す。会話が弾んでそのまま場所を移動しようとすると、蒼月に声をかけられた。
「紅日、無茶するなよ」
「ああ、分かってるぜ、蒼」
相棒の一言にひらひらと手を振って答えて、それから待っているメンバーと一緒に練習場所へ移動した。
始めた練習はなんなく無事に終わった。メンバーは全員問題なく、紅日も逃げる犯人役やむかつく言い方をする犯人役、さらには危害を加えようとする犯人役など、体術を含めた場合も取り入れて練習した。メンバーもコツを掴み、終わった時には達成感があったらしく、嬉しそうな顔をしていた。それから、紅日に何回もお礼を言って自分たちの部屋へ戻って行った。紅日も嬉しい気持ちになって、メンバーの後ろ姿を見届けてから、自分も先程の部屋へ戻ることにした。たぶんだが、蒼月がまだそこにいる気がしたのだ。
蒼月は確かにそこにいた。まだ話を聞きにくるメンバーもいるかもしれないと考えたというのもあるが、紅日が探しにくる予感がしていたからだ。その間に紅日が帰ってきたら渡すタオルを用意しておくことも忘れない。
紅日と別れてから蒼月は練習に移ったメンバーの様子を見ながら、相談に対応したり、アドバイスをしたりしていたが、練習の相手を頼まれることがなかったため、本音を言えば手持無沙汰であった。だから、紅日を待ちながら、「言ノ葉の裁き」についてもう一度見直したり、相手に教えるのに理解しにくい部分があったかどうか思い出しながら改善する点を探したりして、紅日を待っていた。
それからしばらくして、部屋の扉が開いた音で視線を向ければ、相棒が部屋に入ってくるのを目にした。蒼月の視線を受けた彼は、すぐに気がついたらしく、嬉しそうに笑って親指を立ててみせた。蒼月はそれを見て、うまくいったことを悟る。それから、手にしていたタオルを彼に向かって放ってやる。紅日はそれを受け取って汗を拭き始めた。蒼月は念のため確認をする。
「うまくいったのか?」
「ああ、無事に終わったよ、よかった」
にしし、と笑ってそう言う相棒の顔を見て、蒼月は安堵する。どうやら、随分と楽しんできたようだ。怪我もしていない。
紅日はすぐに調子に乗るからな……。だが、怪我をしていないなら、まあいいか。
蒼月の悩みには、相棒のこともあるようだ。だが、心配されている当の本人はまったく気がつくことがなさそうだった。
そんな中、急に開いた扉で二人はそちらに視線を向ける。そこには先程講義に出席していた一人の青年が立っていた。二人の姿を見つけると、すぐに駆け寄ってくる。
「蒼月、紅日! 屋城さんが呼んでいるぞ!」
屋城がいるのは、食堂だと聞いたため、二人で食堂へ続く廊下を肩を並べて歩く。食堂に着く前からにぎやかな声が聞こえてきた。
中へ入ると、いつもよりもにぎやかであった。いつもは少ない食堂も今は依頼が少ないために人が多くいる。ちょうど十八時を指す時間帯というのもあるのだろうが。
屋城を見つけ、二人揃って歩み寄ると、屋城の目の前にはもう一人いた。その小さい姿を見て、珍しく思い、紅日が驚きの声を上げる。
「あり? 佳露じゃん」
「蒼兄、紅兄」
協会の最年少者は、二人を見上げて無表情のまま首を傾げた。
霧佳露。協会の最年少者で七歳。屋城が拾ってきた男の子だ。確か、拾われた時はまだ二歳になったばかりだったと思う。その頃からすでに無表情であり、あまり感情を表に出さない──いや、感情がなかった。協会にいるメンバーの過去は聞かないのが暗黙の了解となっているので、佳露の過去も誰も知らなかった。最近は少し人に甘えることを覚えてきて、よくかわいがられている。笑ったところを見たことがあるというメンバーもいて、見たいと佳露に一時期人が集まっていたことをよく覚えている。
蒼月は佳露の姿を見て、顎に右手を添えて、考える。
佳露はまだ少年。仕事に出る回数も少ない。それを見越して……? いや、屋城さんがそれだけで佳露を連れてくるとは思えない。おそらくは子ども関連の仕事……。それに──。
「屋城さん、今回は佳露も連れていくということですよね? もしや子ども関連の仕事で結構深刻な状態ということですか?」
「出たー……、蒼の普通では有り得ない状況判断力ー」
蒼月の言葉を聞いて、紅日が大げさに反応するが、それは無視する。そんなことにかまっている暇はない。
佳露が出てくる場合は、だいたい切羽詰まっている状態だ。あまり屋城も少年である佳露を仕事に出したくないらしく、佳露を出す場合は人手不足や子ども絡みの仕事だけ。子ども絡みの仕事は同じぐらいの年齢である佳露が一番適任という理由からだった。大人が対応するよりも佳露のが気持ちが分かるだろうからだ。
屋城は蒼月の言葉を聞いて、頷いてみせた。
「蒼月の言うとおり、今回は幼児虐待についてでね、虐待が行われていると思われる家の近所の方から依頼があった」
その言葉を聞いて一番に反応したのは、佳露であった。いつもの無表情ではあったが、少し表情が強張ったのを二人は見逃さなかった。そして、一瞬空気が凍った気がした。そのことに関しては、二人も屋城も何も言わなかった。
紅日は佳露の頭を撫で、そのまま屋城に確認をする。
「屋城さん、それって政府からの依頼なんですか?」
「一応ね。政府に一回通って、それから依頼は来ているが、今回は指名制ではなかったんだよね。まあ、あまりに深刻とのことだったからこちらの判断で蒼月と紅日、そして佳露にお願いすることにしたんだ。佳露には協力はしてもらうけど、無理のない程度でお願いするよ」
屋城はにっこりと笑って佳露を見た。紅日にずっと頭を撫でられ続けている佳露は、屋城の顔を見た。
「……うん」
屋城に対する返事は素気なかったが、こくりと頷いてみせた。屋城の話をしっかりと聞いて、理解したことを行動で示している。まだ小学生と同じ年齢だとは思えないぐらいだ。
佳露はそれから蒼月を見上げ、続いて頭を撫でている紅日を見て、静かに話す。
「……蒼兄、紅兄。僕、頑張るね」
「ああ、頼むぜ、佳露!」
「無理はしなくていいからな」
佳露の言葉に笑って元気に返す紅日と、静かだが微笑んで見せて安心させるように言う蒼月。二人の姿を見て、少し安心した佳露はもう一度こくんと頷いて見せた。蒼月は佳露の姿を見届け、後は紅日に任せることとし、屋城に向き直った。屋城は三人の姿を見ていて、腕組をしながら、うんうんと何度も頷いて満足しているようだった。自分の世界に入り込んでいた屋城に気がついてはいたが、蒼月は話を進めることとした。
「引き受けました。三人で行ってきます」
「宜しくね。もうすでに車の用意はしてあるし、部屋も用意してあるから、自分たちの用意ができたらすぐに出発してほしい。で、毎回で悪いんだけど、早めに帰ってこれるように頑張ってね。またいつ人手不足になるか分からないからね。……佳露、二人の言うことをよく聞くんだよ。それと、絶対に無茶はしないこと、いいね」
「……うん、行ってきます」
やっと紅日の手がどいた佳露の頭に今度は屋城の手がのって優しく頭を撫でた。そして、諭すように言い聞かせる。佳露も紅日のとき同様屋城にされるがままになっていた。屋城の言葉を理解した佳露は無表情のまま屋城を見上げ、こくんと頷いて返事をした。佳露はまだ少年というのもあり、屋城のことを親のように思っている部分もある。紅日のときよりも屋城に撫でられているときのが嬉しそうであった。
蒼月たち三人は、夕食は移動してからにすることとし、一旦食堂で別れた。別れる前に、屋城から依頼内容が記載された依頼書が封入されている封筒を蒼月が受け取った。それを全員が確認し、それから自分たちの部屋ですぐに用意を済ませ、玄関で集合すると車に乗り込んで移動した。
車に乗り込んだらすぐに封筒を開け、依頼内容を確認することにした。車を運転しなくていいのは、こういうとき本当に楽だと思う。元々、蒼月たちは年齢からして誰もが運転はできないのではあるが。
後部座席に紅日と佳露、助手席に蒼月が座った。蒼月が依頼書を手にして、佳露と紅日はその言葉に耳を傾ける。依頼内容はこうだった。
隣の住人の証言によると、二か月程前から毎日のように大きな音や子どもの泣き叫ぶ声が聞こえるという。だが、以前はよく叫び声が聞こえていたのが、最近は叫び声が聞こえなくなったらしい。ただ、かすかに泣いている声が聞こえ、大きな音はやむことがないと言う。毎朝家から出てくる子どもを見れば、日に日に傷が多くなっていたが、最近は傷が見当たらないらしく、どうやら服を着ていれば見えない部分に傷があるのではと訝しんでいる者が近所には多い。現状況では何とも言えないが、気になることがもう一つ。
「もう一つ? なんだそれは」
「落ち着け。まだ続きがある」
話の途中で口を挟んだ紅日が先を促すが、それを静止して蒼月は続けた。
この間、依頼者が気になってその子どもに声をかけてみた。その時、その子どもは怯えた目でこちらを見たと言う。そして、こう言った、「やめてください、嫌だ、もう痛いのは……!」と。拒絶の反応しか見せなかった。何を言っても聞き入れるどころか、謝罪をされるだけ。頭を撫でようと思ったら、びくりと反応してすぐに手を払われてしまった。子どもはもう一度謝罪して、走り去ってしまったという。
「……子どもの名前は、『記憶では確か、島田麻穂だった』と書かれているな。年齢は五歳だったはずだとあるな。結構記憶で記載されているな、交流がないのか。少し前まではよく笑って通っていたのを見かけていたともあるな」
「現状では何とも言えないけど、ひどいな……。まだ五歳なんだろ」
「そのようだな。情報ではそう記載がある。それと、保育園の住所が記載されているな。……ちなみに、俺たち二人は保育園で先生のアルバイト、佳露は保育園の園児として潜入するようだ」
「厄介だろ、それ……」
蒼月の言葉に紅日はうなだれた。この間は高校生に混ざって高校での勉強をし、今回は保育園の先生のアルバイト……最近はどうやら面倒な仕事が多いようだ。
二人が淡々と会話をしている中、佳露はうつむいて膝の上でぎゅっと手を握りしめた。二人は何も言わない佳露に気がついて、視線を佳露へと移した。紅日が一番近くにいたため、佳露の身体が小刻みに震えていることが分かった。もしかしたら、と紅日はふと思う。
もしかしたら、佳露は今の話を聞いて、過去のことを思い出したのかもしれない。いくら同じぐらいの子どもが任務の対象者だからと言っても、この仕事は早かったんじゃないか……?
蒼月も佳露の様子に気がついたらしい。紅日が何か考えているのもたぶんお見通しなのだろう。だが、彼は何も言わなかった。紅日もどう声をかけていいのか分からなかった。だが、佳露は自分から話し始めた。
「……僕、この子を助けたい」
「佳露……」
「……一緒なんだ、だから助けたい」
佳露はそう言った後、顔を上げた。最初に目が合ったのは蒼月、そしてその後に視線を紅日へと向ける。二人は視線を受けて、いらない心配だったことを理解した。二人の顔を見る少年の目には強い意思が宿っていたからだ。
佳露には自分とその子を重ねている部分があるのだろうが、自分のようにはなってほしくないと考えているのかもしれない。だから、強く助けたいと思っているのかも──。
蒼月も紅日も各々思うところはあったが、顔を見合わせてから微笑んで少年へ視線を戻す。
「ああ、助けよう」
「しかし、珍しいな、佳露が自分のことを話すの」
紅日は佳露を抱き上げ、自分の膝の上に下ろした。それから、頭をわしゃわしゃと撫でる。佳露は何も言わずに紅日の手を受け入れていた。少しうつむいているので、恥ずかしいのだろう。自分を包んでくれている紅日のもう片方の手をぎゅっと握っている。恥ずかしいのもあるが、安心もしているという感じだった。
そんな二人を横目で確認して、蒼月はクスリと笑った。次第に笑いがこみあげてくることが自分でも分かって、見られないようにと顔を前方へと戻した。
「? どうしたー、蒼」
いまだされるがままな状態の佳露に頭を撫で続けている紅日は、急に顔が見えなくなった相棒に声をかける。何か楽しそうにしていることだけは後ろの席にいても分かった。蒼月はその問いにはすぐに答えず、しばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……いや、紅日が父親みたいだなー、と思ってな」
「なっ!?」
あまり両親のことを知らないが、知識をとにかく増やすために子どものころ書籍やドラマを散々チェックしておいたおかげか、今の光景を見ていたらなぜか親子のように見えたのだ。だから、蒼月は笑ってしまった。紅日が父親になれるのか、と失礼なことを思ってしまったこととまだ歳が自分と一緒の青年にそう言うのも面白いと思ったからだ。いつもならあまりいらないことは言わない蒼月だが、つい今回は口が軽くなってしまった。案外、蒼月は面白いことは好きだった。
逆にそんなことを言われて困ったのは、紅日のほうだ。まさか父親だと言われるとは思っていなかった。
「おいおい、待ってくれよ! まだ言われるとしても兄貴だろうが!」
「……お父さん」
「佳露まで!?」
驚いてからすぐに反論した紅日に向かって、今まで黙って考え込んでいた佳露がぼそりと呟く。紅日は驚きで声が裏返ったが、気にせずに叫んだ。車内ということもあって、大声を上げればすごくうるさい。だが、こういう時間も楽しいと感じる。
考え込んでいた佳露は、言うべきかどうか迷ったみたいだが、蒼月や紅日よりも両親という存在をよく知らないため、一度はそう呼ぶべき存在がほしいと思ったのだ。だから、いい機会だと思って声に出したら、意外にしっくりときたらしい。呼んでみた後、無表情なのは変わらないが、すごく嬉しそうにしていた。
それを見て、にやりと笑うのは蒼月である。
「……も、もっと呼んでやれ、佳露。くっ……くくっ」
笑いをずっとこらえていたが、佳露が紅日のことを「お父さん」と呼んだことにより、抑えることはできなくなってしまった。だが、それでももっと呼んでやれという蒼月は明らかに楽しんでいる。その言葉を最後に本格的に笑い始めた蒼月は、もう何も言えなくなってしまった。車内にはただただ笑い声が響くだけ。
珍しいなー、蒼があんなに笑っているの……。
紅日はぼんやりとそんなことを考えていた。しかし、よくよく考えればそんなことを考えている暇ではない。ばっと視線を佳露に戻せば、佳露はほくほくと効果音がつきそうな様子できらきらとした瞳を自分へと向けていた。やばい、と思ったのもつかの間、膝の上に大人しく乗っていた少年はまた「お父さん」と紅日のことを呼んだ。紅日はずっこけそうな思いをとにかく踏みとどまらせて、佳露にやめるように言おうと思った。しかし、何度も繰り返される少年の呼ぶ声、そのたびに大きくなっていく相棒の笑い声、しまいには運転手までもが笑いだす始末だ。全然会話に入っていなかった彼もが、聞いているだけで堪えられなくなったようである。もうどうしようもできない。
「おっ、俺はっ……俺は、そんな歳じゃねー!」
紅日の叫びがむなしく車内に響き渡ったのだった。
「おお、ここがしばらくの家かー」
どうにか復活した紅日は、目的地に着くと先程のことなどもう忘れたかのようにあっけらかんとしていた。外見を見て、おお、と歓声を上げている。やれやれと呆れている蒼月は今は佳露を肩車していた。運転手とは先程別れ、ある話から佳露が肩車をしたことがなく、肩車とは何かと質問をされたことから実際にやってみることになったのだ。今回は蒼月がすることになった。先程散々紅日は佳露を甘やかし、助手席に乗っていた蒼月はあまりかかわれなかったこともあり、佳露からのご指名があったからだった。その時に紅日が少しショックを受けていたというのは、秘密である。さらに、肩車をした直後、蒼月は佳露が軽すぎて身体のことが心配になったことも秘密だ。
蒼月は肩車されている少年を見上げ、質問する。
「佳露、もう夕飯の時間帯だが、何か食べたいものあるか?」
佳露はすぐに横に首をふるふると振った。
「……特にない」
「佳露、遠慮するなよ、なんでもいいんだからな」
「『お父さん』もああ言ってるから、な」
「だから、違うよ!?」
佳露は気を遣っているのか、自分の要望を言わない。紅日は言いやすいようにと優しく声をかけ、それに蒼月がさらに加える。ちゃっかり先程車内で繰り広げられた会話を織り交ぜ、さらに「お父さん」の部分だけ強調することも忘れない。紅日はすぐに反応したが、蒼月は無視をしただけだった。佳露にはその後の会話が聞こえておらず、しばらく考え込んでいたがやがてぼそりと呟いた。
「……蒼兄の、料理」
その声は遠慮したのかすごく小さかった。だが、二人は聞き逃さず、しっかりと耳にした。それに驚くのは蒼月だ。耳にした瞬間、目を大きく見開く。そして、疑問が頭に浮かんでいた。
「……俺が佳露に食べさせたこと、あったか?」
「……ううん、ない。でも、前に――」
佳露は静かに話し出した。
あれは、まだ佳露が協会にきて間もない頃のことだった。
まだ協会に慣れずにいた佳露には誰も近づいてくることはなかった。その時は特に無表情で、さらには甘えることもできずにいたからだ。みんな本当は理解していたが、あまりにもかわいげがなかったためか、なかなか話しかける人がいなかった。そんな中でも、佳露は気にせずに生活していた。屋城が気にかけてくれていたことは大きかったのだと思う。
ある日、佳露は屋城にもらった本を小さな手で抱え込みながら、廊下をとてとてと歩いていた。ちょうど、食堂の前を通ろうとした時、賑やかな声が聞こえてくる。時刻は午後九時をとうに過ぎていて、この時間帯には人はいないはずだった。不思議に思って恐る恐る扉を少しだけ開けて覗きこんでみた。すると、一人の青年の姿が見えた。
その青年は席に座ってじっと待っていた。髪が光の加減で赤く見えた。よく見れば、茶髪である。何をしているんだろうと疑問を抱き始めた頃、もう一人の黒い髪の青年が皿を持ちながらその青年に近寄っていくのが見えた。その青年の髪は光の加減で青にも紫にも見えた。佳露はますます気になって、じっと中を凝視していた。皿を茶髪の青年の前に置いた黒髪の青年はそのまま向かいの席に座る。
「ほら、リクエスト通りのものだ」
「おお、さすが蒼! うまそうな、オムハヤシ!」
蒼、と呼ばれた青年は呆れたように言った。対して、もう一人の青年は手を合わせて、大きな声で「いただきます!」と言ってから勢いよく食べ始めた。その様子を見ながら、蒼と呼ばれた青年は少しだけ口角を上げた。なんだかんだ嬉しそうだな、と思いながら佳露はさらに様子を見ようと前に乗り出した。
「うまい! やっぱり蒼の料理はうまいよな!」
「分かったから、落ち着いて食べろ、紅日。取ったりしないから。それと、お前も料理しろよな」
「絶対、やだ」
頬にいっぱい入ったまま、しっかりと拒絶する紅日と呼ばれた青年。首を勢いよく振り、さらに否定する行動までする。蒼と呼ばれた青年は、苦笑しつつ、「お前はりすか」と呆れた様子で返答した。
佳露はすごくその光景が羨ましかった。あんなにおいしそうに食べている青年を見て、自分も先程までお腹がいっぱいだったはずなのに、空いてきてしまったほどであった。
いいな……僕も食べたい……。
佳露は、その光景を目に焼き付けていた――。
話し終わった佳露はその後黙ってしまった。
「そんな昔のこと、よく覚えていたな」
紅日は考え込んでから、そう言った。その言葉を聞いて、佳露はこくんと頷く。それから、紅日のことをじっと見る。今度は紅日が黙って、首を傾げた。佳露は、また静かに話し出した。
「……紅兄がすごくおいしい、って言いながら食べてたから。だから、いつか食べてみたいな、って……」
「けど、あの時ってまだ佳露が三歳とかそんなもんだろ? 屋城さんが連れてきて、すぐぐらいの頃だった気がしたけど」
「それだけ印象的だったのだろう。今でも覚えているということは」
蒼月も驚きはしたが、冷静に分析をした。佳露とは二人ともそうかかわったことがなく、仕事でも今回が初めての同行だった。以前、協会メンバーの一人に話を聞く限りでは、仕事は確かに淡々とこなしてはいたが、自分たちとかかわることが少なかったと言う。おそらく、甘え方を知らない時期もあったと思うが、どう大人と接していいか分からなかったのだろう。
佳露は黙り込んでしまった二人に不安を覚えたのか、恐る恐る聞いてきた。
「……ダメ、かな? 蒼兄」
上から覗きこんでくる少年の瞳は、不安で揺らめいていた。蒼月の瞳を覗きこんでくるが、視線がしっかりと合うとものの数分で視線をそらす。やはり、わがままを言ってはいけないと思ったのだろう。だんだん少年の体重が軽くなっていくように思えた。
蒼月は不安にさせてしまった、と少し後悔する。自分でもすぐに黙って考えてしまう癖があるのは重々承知であった。だが、自分より幼い少年を不安にさせるなど、まだまだ未熟だと思う。最近、甘えるようになったというのは、話に聞いていたが、やはりまだ遠慮ばかりする少年のことをしっかりと考えてやる必要があった。横にいる紅日の姿を見れば、おろおろと焦っているのは分かったが、どうしたらいいのか分かっていない様子であった。
こういうのは、紅日のほうが向いているとは思ったが……。
蒼月は佳露を地面に下ろした。それから、かがんで視線を合わせる。佳露は俯いていたが、蒼月が頭に手をのせ、撫で始めると、顔を上げた。
「分かった。何が食べたい? なんでもいいぞ」
「……本当に?」
「ああ」
自分に問いかけてくる少年の瞳は、きらきらと輝いていた。顔も無表情は変わらないが、心なしか明るくなったと思う。頷いて見せると、少年は「じゃあ」と小さく呟いた。
「じゃあ、同じものがいい。紅兄が昔食べていたものと同じもの」
「お、いいな! 俺も食べたい、最近食べてないしな、オムハヤシ!」
そこに悪乗りする紅日は、にししと笑っていた。蒼月同様、佳露の頭に手を置いて、わしゃわしゃと撫でる。蒼月はすぐに手を下ろして、紅日が好きなように撫でるのを眺めていた。立ち上がって、二人の顔を交互に見る。
「……じゃあ、そうしよう。材料、買いに行くか」
荷物を部屋に投げ入れるように置いてから、戸締りをして、近くのスーパーへと向かった。
買い物から帰宅すると、蒼月はすぐにキッチンで夕飯を作り始める。紅日と佳露は、荷物をとりあえず座る場所と寝る場所が確保できるぐらいには片付けて、それからはテレビを見始めた。三十分もすれば、いい匂いが部屋の中を充満し始める。蒼月は手際がいいのと無駄が嫌いなところがあるので、料理をするにも何をするにもやはり早い。
屋城が用意した部屋は今回も広すぎた。前回は二人だったが、今回は三人。まあ、ちょうどいい広さだろうなと考えていたが、今回は前回より広い部屋を取ったらしく、4LDKだ。あまりよく知らないが、一軒家のリビングとリビングの広さが変わらない気がしている。相当家賃は高いはずだ。心の中で紅日は苦笑いした。
紅日は胡坐をかいた足の上に、佳露を座らせながらテレビをぼんやりと見ていた。現在、ニュースが映っている。佳露は年齢から考えれば、一般の小学生と変わらない。だが、チャンネルを選ばせたら、すぐにニュースを選択していた。チャンネルを選択している際に映った、教育テレビや夕方にやっているアニメ番組は目にもくれず、次々と変更していた。一切興味がないらしい。ただただニュースを一生懸命に見ている。
紅日はふーんと思いながら、とりあえず佳露に確認をすることにした。
「……佳露ー、おもしろいか?」
「……うん、いろんな情報があって面白い」
こくこくと頷いて、佳露は肯定した。瞳がきらきらと輝いているのが横から見えた。さらには紅日の足の上に乗っているため、床に着かない足をぶらぶらと揺らしている。やはり楽しいらしい。
「アニメとかは見ないのか? 教育番組とかさ」
「……小さい頃は見ていたよ。けど、現実と違うから」
「いや、まだ小さいことに変わりはないからな」
ふるふると否定した佳露に思わずツッコミを入れてしまった紅日。けれど、佳露はそれには何も言わず、またテレビに釘付けになった。ころころと情報が変わっていくたびに、目が輝いているのが分かった。どうやら内容によっても、だいぶ興味が湧くものと湧かないものと差が激しいようだ。見ている限りでは、仕事に関連するようないじめの問題や会見のニュースになると、姿勢が前のめりになる。それは毎回紅日が離れて見させるために身体を抑えていた。逆に、仕事に関連しなさそうな、行事があっただの今日が何の日だっただのそんな特集みたいなのは暇そうにしていた。背筋が丸くなって、紅日の胡坐の上で静かに収まっていた。分かりやすいな、と思う。
さすが、七歳で仕事に駆り出されるだけはあるな。普通ならかわいくないとか言われそうだけど。
佳露は協会の最年少で優秀、さすがにまだ一人で仕事をさせるわけには行かなかったが、それでもよくほかのメンバーと仕事に向かう姿はよく見かけていた。仕事がないときは、たまに食堂で屋城にかわいがられていたところを見かけていた。屋城にはすぐに打ち解けていたから、一番安心する場所なのだろう。今だと一人で本を抱えて移動しているところなどを見かけるが、昔は本当に屋城にべったりだった。よく覚えている。
まあ、でもまだ動作とかは幼さがあるよな……。
そんなことを考えて、紅日は目の前の小さな頭をわしゃわしゃと撫で繰り回す。今日でだいぶ分かったが、佳露は結構頭を撫でられるのは好きらしい。親との関わりがなかったのもあって、安心するのかもしれない。そんな時に、蒼月の声がかかった。
「ほら、二人ともできだぞ」
「よーし、佳露飯だー!」
「……うん」
佳露を持ち上げて立たせると、佳露はこくりと頷いて蒼月にとてとてと駆け寄っていった。その後をゆっくりとついて行く。オムハヤシが三つとサラダが大皿に一つ、さらにスープが三つ、各席に並べられていた。三人それぞれ席について、手を合わせ、口をそろえて「いただきます」と言う。真っ先に食べ始めたのは紅日だ。頬張って食べるため、外見がりすみたいになっている。「落ち着いて食べろ」とあの時みたいに蒼月は咎めた。佳露も紅日に続いて食べ始める。すると、すぐに声を上げた。
「……! おいしい」
「だろ!」
「お前が自慢げに言うな」
ぱあっと顔を輝かせて言う佳露は、無表情ではあったが、相当嬉しかったようだ。それに対して、紅日が自慢げに言うので、蒼月は軽く相棒の頭を小突いた。大げさに痛がる相棒を無視して、蒼月は佳露を見た。嬉しい、という気持ちが表情というよりは空気で伝わってきた。やはり、自分が作ったものをおいしく食べてもらえるというのは嬉しいものだ、と思う。
「佳露、協会にいるときでも食べたいときは言えばいい。作るから」
「……本当?」
「ああ」
佳露は驚いて目を見開いた。それから、確認してくる。まだ遠慮してくる少年に優しく微笑んで頷いて見せた。佳露はまた瞳を輝かせた。嬉しかったようだ。そんな中、一人騒がしくなる。
「あー、蒼! 俺も」
「お前はなしだ」
「えー!?」
紅日がギャーギャーと喚くのを、蒼月は彼の顔を掴んで押し返す。絶対に言うと思っていたので、予想通りで呆れてしまう。
蒼月が佳露に作ってあげると言ったのは、佳露の顔を見たからで。無表情でもあれだけ嬉しがってもらえるなら、何度でも作ってやりたくなるのが本心だ。それに、佳露はまだ自分たちに甘えてくることをしないから、少しでも甘えられる場所を作ってやりたかった。屋城だけが安心できる場所だと、いないときには居場所がないように感じられるかもしれない。それだけは阻止したかった。
思いにふけっていると、佳露に呼ばれた。視線を少年に向けると、少し笑っているように見えた。
「……ありがとう」
ほっとした顔で言う佳露を見て、蒼月は微笑み返した。
まだ七歳、たった七歳の子どもなのだ。──俺のようになってほしくない。
蒼月は口には出さなかったが、胸で呟いた。それを紅日はそっと見つめていた。
「なあ、蒼。お前、なんかアホなこと考えてただろ?」
佳露が寝た後、ふいに紅日にそう問われた。蒼月は驚いて瞬きを繰り返した後、逆に問い返した。
「いつのことだ?」
「とぼけるなよ、蒼」
はあ、と大きなため息をついた紅日は、頬杖をついたまま呆れたように言った。蒼月はいまだに分かっていないようだ。
「飯食ってる時さ、どうせ、佳露には俺のようになってほしくねえとか思ってたんだろ。表情には出てなかったけど、そんなこと考えてんだろうなとか考えてた」
けっと言う紅日は本当に呆れているという顔をしていた。蒼月はもう一度瞬きをしてから、クスリと笑った。なぜ、そんなところだけ分かるのか、と心の中で呆れる。本来なら、蒼月が呆れている場合ではないのだが、やはり呆れてしまうものは呆れてしまう。
「……そういう勘を違うところで使用しろよな」
「ほっとけ。……協会の奴は、大抵何か抱えてるんだよ、いちいちバカな事考えてるなよ」
はっと今度は嘲るように言う紅日に、蒼月は苦笑する。
「協会の人間として、アホとかバカとか言っていいのか」
「分からない奴には言わないとダメだろー? 少しは頭冷えたのかよ」
「そう、だな……」
紅日に言われ、自分でも考えすぎていたのと思い込みすぎていたと思う。佳露の姿と自分の姿が重なったように見えたのだった。佳露も小さいのに、何か重たいものを背負い込んでいるようにいつも見えるのだ。他人には分からないだろうが、紅日の言うとおり、協会の人間は何かしら抱え込んでいるから──。
蒼月は、少し考えてから紅日に静かに話し出した。
「……なあ、紅日。俺の過去は話したことあったよな」
「……ああ、けどなんで急に。笑える話じゃないだろ」
「ああ、ふと思い出してな──」
蒼月は自分の小さい頃を思い出した。この歳になっても、よく思い出している。隠してはいるが、相棒である紅日にはバレバレなのだろう。
蒼月は一般家庭に生まれたごく普通の子だった。特に家庭に問題があるようには見えなかった。だが、裏では蒼月の両親は蒼月を邪魔な存在に思っていた。夜中にこっそり話していたのを聞いて蒼月は知ったのだった。その時は目の前が真っ暗になって、すぐに家を飛び出していた。邪魔な存在に思われていたのは、蒼月が周囲の子どもよりも頭がよく、大人びていたため。両親からしたら、かわいくなかったのだろう。蒼月は甘えることもできない子だったから。
蒼月は小さい頃からよく難しい本ばかり読んでいた。保育園にあった絵本は読まず、先生が持っている文庫の小説や新聞などを借りて回ったものだ。それを先生から聞いていた両親は驚いたらしい。最初はただ褒められるだけだった、それがどんどん視線が冷たくなっていった。小さい蒼月にはなぜなのか分からなかった。
蒼月は近くの公園のブランコに乗って、少し揺らしていた。信じていた両親に裏切られ、ただただ辛かった。
ただ、ほめられたかった……。それだけなのに──。もう、ひとはしんようできない。
蒼月の瞳からぼろぼろと涙が出てきた。溢れて止まることのないそれは、自分ではどうしようもなかった。そんな時。
「こらこら、こんな時間になんで外にいるんだい?」
自分に影が差したことにより、顔を上げると若い男性がいた。知らない人、と思いながら蒼月は涙を袖でごしごしと拭く。男性はそれを見て、慌てた。
「ダメだよ、そんなに強く拭いたら。目が腫れちゃうだろう? これで拭きなさい」
慌てて出されたハンカチは、綺麗にたたまれていて。蒼月はきょとんとハンカチと男性を交互に眺めてから、ゆっくりと受け取った。男性は蒼月が落ち着くまで、何も言わずにそのまま立っていた。
蒼月はハンカチで口元を隠しながら、男性を見上げてお礼を告げた。
「ありがとう、ございます」
「うん、お礼が言えて偉いね。で、なんでこんなところにいるの? 家は? もう子どもはとっくに寝ている時間だろう?」
その言葉を聞いて、蒼月はぎゅっとブランコの鎖を握る手を強めた。それから、事情を話してみた。
今思えば、とても危ないことをしたと思う。知らない人間に事情を話して聞いてもらうなど。だが、その時は誰かに話を聞いてもらいたかったのと、なぜかその人間は信じられる気がしたのだ。
男性は話を聞いてから、「そうか」と頷いた。
「それは、辛かったね」
「……さいしょは、いろいろとおぼえるとほめてくれて、それがうれしかった。けど、どんどんおぼえるとだんだん──」
「親は冷たくなっていった、というわけだね」
こくん、と蒼月は頷いた。また出てきた涙をハンカチで拭く。その男性は隣のブランコに腰かけ、蒼月の頭を撫でてくれた。この感じは、本当に久しぶりだった。撫でる手が止まった瞬間、蒼月は顔を上げた。男性はこちらを向いていて、にこりと笑ってくれた。
「ねえ、君はまだその家にいたいかい?」
「……しょうじきいうと、もうべつにいいんです。おとうさんもおかあさんもやさしくないし──」
「じゃあ、一緒に来ないかい?」
「え?」
蒼月は耳を疑った。そして、「知らない人について行ってはいけない」という保育園の先生の言葉を思い出した。蒼月は逃げようと思った。その気配を察知したらしく、男性は慌てた。
「ああ、ごめんね。変な意味じゃないから。……実は、僕は行き場のない人を救おうと動いていてね、君もそうっぽいからどうかな、と思って。君のような人間はたくさん見てきた。君みたいな子どもも今僕のところに一人いてね、友達ができるといいなとも思ったんだよね。……で、どうかな?」
蒼月は考えた。本当にこの男性を信じていいのか、分からない。けど、信じれる気がした。それに、両親に固執する理由がなくなったからだ。
「……いく」
「うん、決まり。よろしくね……えっと、そういえば、名前、聞いていなかったね」
「へびつか、そうげつです。よろしくおねがいします。……あなたのなまえもきいていません」
そう言って、じっと見つめれば、男性は目を瞬いてから、にこりと笑った。「そうだったね」と呟きながら、かがんで蒼月と目線を合わせて名乗る。
「えっと、改めて、屋城柱です。よろしくね」
差し出された掌を、蒼月はじっと見た。それから屋城と名乗った男の顔をじっと見れば、にこにこと笑って手を差し出したまま、何も言わないし動かない。変、とこっそり思った蒼月だったが、自分よりも大きな掌をそっと握った。
「おねがいします」
俯きながら言うと、屋城は空いている手で蒼月の頭を撫でた。蒼月はされるがままになっていた。やがて、屋城は撫でていた手を止め、立ち上がった。そして、蒼月に手を差し出して、蒼月の手を引きながら歩きだす。まだ小さな歩幅の蒼月に合わせて、ゆっくり歩いてくれている屋城が一瞬父親と重なった。蒼月の目が大きく見開かれる。
そうだ、むかしはこうやってあるいてくれたんだ──。
懐かしく思ったそれを、すぐに頭から追いやった。ふるふると首を横に振る蒼月を見て、屋城がすごく心配していた。けれど、それを「なんでもない」と言って否定したんだ──。
「それからは屋城さんにすべて任せた。全部やってくれて、両親も説得してくれて──。両親の顔を俺は忘れないと思うんだ、あのほっとしたような、悲しそうな顔を──」
「あの人、本当にハイスペックだよな……。で、蒼、今になって後悔しているのか?」
「まさか。ただ、佳露と似てるだろ」
「だなー、蒼もかわいげがなかったんだなー」
「お前は本当にオブラートさがないよな」
紅日の言葉に蒼月は呆れてから、相棒の頬の両側を思いっきり引っ張った。よく伸びるその頬はどう考えても青年というより子どもの頬のようだった。思いっきり引っ張られる中、「痛い」と告げようとした相棒の言葉が何を言っているのか分からなくて、蒼月はだんだん笑えてきた。頬を引っ張る手を放して、腹を抱えて大笑いする。紅日は頬を抑えながら、その光景をまた物珍しく眺めていた。
「今日は、よく笑うな、蒼」
「……なんだかな。けど、これはこれでいいと思う」
「……明日からは切り替えてくれよ、相棒」
「当然。紅日こそ、明日はちゃんと起きろよ、明日からバイトだぞ」
紅日にそう言えば、「勘弁してくれよー……」と泣き言が帰ってきた。蒼月は口元を綻ばせ、相棒の背中を思いっきり叩いたのだった。文句を聞きながら、寝床に入って、すぐに目を閉じた。そこからの意識はない。
翌朝、蒼月は昨日遅かったのにもかかわらず、時間通りに起床して顔を洗った後、洗濯物を洗濯機に放り込んでスイッチを押した。それから、すぐに朝食を作り始める。
この場所から依頼に記載されていた保育園までは自転車で行くつもりなので、だいたい十五分ぐらいだ。現在の時刻は、午前五時三十分を過ぎた頃。まだ寝かしといていいか、と考えていると、佳露が起きてきた。まだ眠たそうに目をこすっている。寝癖がなかなかすごくて蒼月はクスリと笑ってしまった。
「……おはよ、蒼兄」
「ああ、おはよう、佳露。もう少し寝ていてもいいぞ」
「……ううん、目が覚めちゃったから。僕も手伝う」
「そうか、とりあえず顔を洗ってこい」
こくりと頷いた佳露は、すぐに洗面台のほうへと向かっていった。どうやら、一番の寝坊助は紅日らしい。佳露はしっかりと起きれている。
あとで教えてやろう。
蒼月は相棒がどんな表情になるのかと考えながら、支度を進める。笑いがこみあげてきそうで、気を引き締めた。佳露が戻ってくると、まだ寝癖が直っていなくて、また笑ってしまった。
「直らないな、寝癖」
「……うん、いつも。直すのに苦労するの、いつも屋城さんが直してくれる」
「そうか、後で直してあげるな。……佳露、ゆっくりでいいから食器を机に並べてくれるか?」
「うん」
佳露はまたこくんと頷いて、すぐに動き始めた。おぼつかない様子で食器を持って机に並べている。ただ、並べ方は知っているようで並べることは早かった。知識で知っているようだ。
蒼月は、そういえば、と思い出す。最近、食堂を手伝っている時に、佳露が手伝いに来ていたのを思い出す。話を聞けば、少しでも協会のお手伝いをしたいと言って最近手伝っているとのことだった。その時は、確かカレーライスを作る日で、じゃがいもの皮をピーラーで剥いていた。なかなか手際が良かったのを覚えている──。
せっかくだ、疲れていなかったら頼んでみるか──。
蒼月はそうぼんやりと考えた。今日からは保育園に潜入するため、あまり無理をさせたくない。特に、佳露は小学校どころか保育園や幼稚園にも行っていなかったと話を聞いた。協会に来る前は一応幼稚園に通っていたようだが、途中で退園しているとも聞いている。屋城が佳露を助けたのは、幼稚園をやめていた頃だというから、そう長いことは通っていないと考えられる。初めての環境には疲れるだろう。様子を見ながら、と言ったところだ。
佳露がてくてくと歩み寄ってきた。どうやら、先程の仕事は終わったらしい。下から見上げてくる視線を受け止めて、頭を撫でた。それから、どうしようかと考えたが、いい仕事を思いついた。
「佳露。次の仕事は、紅日を起こすことだ」
「紅兄を……?」
「ああ。どう起こしてもいいぞ」
佳露にそう言ってみたが、どうやら思いつかなかったらしい。首を傾げてこちらを見ている。そういうことをしたこともなかったのかもしれない。蒼月は苦笑した。佳露がもう一度問いかけてくる。
「……どう、起こすと起きるの?」
「そうだな、なら──」
蒼月は佳露に小声で教えた。佳露はすべて聞き終わると不思議そうな顔で、「それでいいの?」と聞いてきた。少し不安もあるようだ。だが、たぶん普通に起こしただけでは紅日は起きないと思ったので、頷いて見せた。一言付け加えることも忘れない。
「もし、紅日が怒るようだったら、俺のところに逃げて来い。俺のせいにすればいい」
佳露はそれを聞くと、躊躇ったようだが、こくんと頷いた。それから紅日のもとへ一直線へ向かっていく。とっとっ、と小走りなのがまだ子どもっぽくてかわいらしい。蒼月は支度の最終段階に入った。あとは、味噌汁の味噌を溶いて、つぐぐらいだな、と考えていると、寝室から大声が聞こえた。ほぼ悲鳴に近い。
「……始まったな」
蒼月は佳露にこう言ったのだ。紅日が起きないことは明白だから、思いっきり紅日の身体の上に飛び込んで何度もゆすってみろ、と。佳露自身はそんなことをしていいのか、と思ったみたいだ。不安げな瞳だったのはすごく印象的だった。やっぱり無茶ぶりをされたことはないようだ。もっといたずら心があってもおかしくない年頃だ、そういうことをさせてみても罰は当たらないだろう。
そんなことを考えていれば、佳露がてててっと走ってきた。その後から大きな足音と唸り声が聞こえてくる。佳露は背を向けている蒼月の前へ潜って、隠れている。蒼月は手を洗ってから、しっかりと仕事をこなしてきた少年の頭を撫でてやる。
「ありがとな、佳露。お疲れ」
「……蒼兄、本当によかったの? 僕──」
「いいんだ。すまないな、怖かったな」
ふるふると否定する佳露は、少し無理をしているようだ。
佳露は、怖かった。自分が怒られることは、協会に引き取られる前で終わっている。屋城はもちろん、協会の皆も誰も起こったことはなかった。それは佳露が特に悪いことをしなかったのと、とにかく佳露の心が癒えるまでは過去を思い出させるようなことはしてはいけないと屋城が言い聞かせていたこともあった。だが、本当に佳露は何も悪いことはしなかったので、協会の皆も怒る必要がなかっただけだった。そして、今回は蒼月が仕組んだことなので、佳露はまったく悪くない。だから、佳露が怖がる必要も罪悪感に押しつぶされる必要もないのだが──、あまりに紅日が恐ろしかったため、佳露の心は恐怖と不安、罪悪感でいっぱいだった。
しまった、佳露に無理をさせてしまったな──。
少し調子に乗ってしまった、蒼月はすぐに後悔した。前髪を掻き上げる。久しぶりに冷静さを欠いたようだ。よし、と蒼月は佳露を背後に紅日と向き合うように体勢を変え、そのまま右足で蹴った。
その時だ、紅日が動いたのは。蒼月の足を左手で受け止める。はっとした蒼月の目には、紅日のしたり顔が見えた。にやあ、っと効果音がつきそうな程、不気味な笑顔が浮かべられていた。
「……朝から質が悪い冗談かよ、蒼月」
「悪い、少し調子に乗りすぎた。言っとくが、佳露は悪くないぞ」
「そんなもん、とっくに分かってるってーの」
はっと、紅日は笑い飛ばした。それから、蒼月の額にデコピンをくらわす。蒼月が額をさすっている中、紅日はしゃがんで佳露を呼んだ。佳露は震えながら、紅日に謝罪の言葉を言おうとした。紅日はそれを見て、口を手で塞いだ。きょとんとしている佳露に向かって、にっと笑いかける。
「おはよ、佳露。起こしてくれたのに、朝から怖い思いさせて悪かったな。佳露は悪くないから、謝る必要ないからな」
紅日は言いながら、少年の口を塞いでいた手をそのまま頭にもっていって撫でた。「あはは、寝癖すげえ」と笑いながら、撫でていると佳露が抱き着いてきた。小さい手で首に手を回して、離すつもりはないらしい。しかも、安心したのか、泣き始めてしまった。少年の泣き声が響き割る中、紅日は佳露を抱き上げ、蒼月をギロリと睨んだ。
「蒼ー……!」
「……本当にすまない。冷静さを欠いていた。佳露には申し訳ないことをした」
「お前のことだ。佳露にもう少し子どもらしく過ごせるように、いたずらでもさせてやろうと考えたんだろうけどな、やり方があるだろ。だいたいにして、寝ている俺を対象にするのがおかしい!」
「自分で言うな。……だが、そうだな」
蒼月は苦笑した。
俺もまだまだだな、と思う。
蒼月は佳露の頭に手を伸ばして撫でた。だいぶ泣き止んできたようだが、辛いことをさせてしまったことに変わりはない。素直に謝罪の言葉を告げた。
「ごめんな、佳露。本当はもっと遊び心のつもりだったんだが、何も分かっていなかったな。紅日を標的にした俺が悪かった。怖い思いさせて、ごめんな」
「いろいろと言ってやりたいことはあるが、とりあえず謝ったことは偉い」
紅日はうんうんと頷く。それから、佳露の様子を見るとどうやら泣き止んだようだ。まだしゃくりあげているが、落ち着いているようではある。佳露を下ろすと、もう抱き着いては来なくなった。佳露はしばらく俯いていたが、急に蒼月に向かって両手を伸ばした。蒼月は不思議に思ってしゃがむ。
「どうした、佳露」
「……蒼兄、僕怒ってないよ。けど、お願い、聞いてくれる?」
「ああ」
蒼月が頷くと、佳露は恥ずかしそうに言った。
「……抱っこ、して」
蒼月は驚きで目を見開いた後、無言で佳露を抱き上げた。体温が温かい。子どもの体温は高いというのは本当なんだな、と考えていると、佳露が話し出した。
「……蒼兄、ありがとう」
「……なんでだ?」
「僕のこと考えてくれたんでしょ、それは嬉しかったから」
「……嫌いに、なっていないのか?」
恐る恐る蒼月は聞いた。あんなにひどいことをしたんだ、嫌いになられてもおかしくはないはずだ。けれど、佳露はふるふると首を横に振った。
「……なってない、蒼兄のこと好きだよ」
「だが──」
「……じゃあ、たくさんご飯作って。約束」
「え……?」
蒼月の口から間抜けな声が出た。佳露は目の前で右手の小指を突き立てている。蒼月は理解できていなかった。
「……それで終わりにしよ、蒼兄」
「……ありがとう、佳露」
蒼月は少年の小さな小指に自分の小指を絡めた後、ぎゅっと思いっきり抱きしめた。佳露もしっかりと抱き着いてくる。どうやら本当に怒っていないようだ。それに一番ほっとする。
もう少し人の気持ちを考えて動くようにしよう。
蒼月はこっそりそう思った。佳露とずっと抱きしめ合っていると、腕の中にいた少年が身じろぎする。「……蒼兄、苦しい」と小声でだが、伝えてくる佳露が微笑ましくて、蒼月は表情を柔らかくして少しだけ力を緩めた。もう少しだけ、と抱きしめたまま。
「……おーい」
そんな中に聞こえた雰囲気を考えてだと考えられる恐る恐るかけられた声。佳露と同時に揃って声の主に顔を向けると、苦笑いした相棒の姿が見えた。紅日は頬をかいて、「ハハ……」と乾いた笑いを零す。
「あんまり、ゆっくりできないんじゃね……?」
「もとはと言えば、お前がゆっくり寝てるからだがな」
「問題を起こしたのはお前だろうが!」
ギャーギャーと言う紅日に珍しく熱くなって言い返す蒼月。間に挟まれた佳露は、するりと蒼月の腕の中から抜けた。それでも蒼月は気がつかない。相当だな、と佳露は思う。蒼月が普段言い合う姿など見せることはないから、どうしようかとうろうろとしていたが、やっぱり、と考えて二人の手をぎゅっと引っ張った。二人の意識は自分たちの視線よりも下にある少年へ向けられる。紅日が不思議そうに佳露の名前を呼んだ。佳露は思い切って言った。
「……二人とも、言い合いダメ」
「いや、だがな──」
「ダメ」
佳露は言いながらフルフルと首を横に振った。それから二人に視線を合わせて頬をぷくっと膨らませる。まるでそれは頬袋にたくさん食べ物を詰め込んだリスのようにも見え、同じ状況のハムスターにも見えた。二人は揃って、かわいいと思う。当の本人と言えば、本当に嫌がっているのだが、二人はそんなことお構いなしだ。佳露は頬を膨らませたまま、俯いた。その時、パシャッという音とともに一瞬光が部屋を照らす。思わず膨らましていた頬を元に戻して顔を上げた佳露の目に映ってきたのは、蒼月が携帯電話を構えている姿だ。紅日は唖然としている。
「……蒼、いつの間に」
「……すまない。撮影している場合ではないことは重々承知なんだが、つい……。佳露の見れていなかった姿が見れるから記念に撮っておこうかな、と」
「お前こそ、父親ポジションじゃねえか」
佳露の姿をばっちり撮影した蒼月は嬉しそうに確認している。心なしか気分も上昇しているようだ。紅日は本日今までためていた分を全部いっぺんに出すぐらいの勢いで長いため息をついた。
佳露は状況が掴めていない。何か変なことをしたのだろうか、そう思って不安げに二人を見上げた。それに気がついた二人は顔を互いに見合わせて頷き合い、それから視線を戻し、同時にしゃがんだ。しっかりと視線が合う。
「ごめんな、佳露。朝から俺たちダメなところばっかり見せてるな」
「ありがとう、佳露。それから、すまなかったな」
二人は笑っていた。紅日はいつものようにニカッと、蒼月はふわっと微笑んでいる。どちらも頭を撫でてくれた。佳露はそれだけで嬉しかった。だから、表情にはあまり出せていないのは分かっていたが、笑った。三人で笑ってから、蒼月は「さてと」と腰を浮かす。
「二人とも、すぐに朝食にするぞ」
その声に各々声を上げ、慌ただしい朝の続きが始まった。
それからはなんとか無事に次々と準備を進め、三人は今日から通うことになっている保育園へと足を踏み入れた。まだ創立十年ぐらいだという建物は、確かに見るからに綺麗であった。そして、なかなかに広い。少子高齢化社会が進んでいる中、それでも人数がすぐに満員にならないようにと大きめに建物を設計させたと記載があったのを覚えている。「へー」と「ほー」という、佳露と紅日の驚きの声が同時に聞こえた。
やはり息がぴったりだな。
蒼月は苦笑した。なんだかんだと似ている部分が多いのは紅日のようだ。紅日が聞いたら、大声で反論をしているだろうが──。
「とりあえず、先に園長室に行くことになっているから、そちらに向かうぞ。佳露も一緒に行くからな。あと、佳露が歳をごまかしているのは内緒だからな」
「あ、話していないんだな」
「そちらのが都合がいいと屋城さんが判断したようだ。いいな、佳露、歳を聞かれたら五歳と言ってくれ」
佳露はこくりと頷いた。物分かりが良すぎて、仕事上では頼もしいが、少し心配になる。三人は園長先生のもとへ向かった。
建物内に入ると、園内の先生を見つけ、今日から入ることになったことを伝えれば、もうすでに話は通っていたらしく、園長室を教えてもらえた。案内をしてくれると言うので、その後をついていく。
おそらく園内にいる先生には誰にも事情は知らされていない。ただ、アルバイトが来るという話しかしていないはず。園長先生もあまり大げさにされたくないのだろうな。
蒼月は後ろを歩きながらそう考える。前にいる先生は普通に接してくれているし、訝しんでいるようには見えない。園長先生がどう考えているか、そこがすごく気になっていた。今回の依頼は何と言っても近隣の住民からだった。親が何かしているはずだから、親からの依頼がないことは確かだが、保育園の先生は誰も気がつかなかったのか、と疑問が湧いている。ふつふつと怒りが沸き起こってきている。今まで考えていたことが本当だとしたら、相当だ。だんだん廊下を歩く速度が速くなりそうになるのを必死に抑え込む。
蒼月の後ろで佳露と横に並んで歩いていた紅日は、前方の相棒の様子に気がついた。すっと目を細める。
怒っているな、蒼。
佳露が寝た後、昨日少しだけ二人で仕事のことも話していた。その話の中で、なぜ保育園の先生からは一言も話が出なかったのか、疑問に思っている、と蒼月から話があった。紅日はそんなこと言われるまで気がつかなかった。同意した時、蒼月の瞳がギラリと光った気がした。それは、いつも冷静な蒼月が時折怒りの熱をもったときのそれだった。冷静だけど、すぐに熱が入って暴走するときがある。蒼月は自分が嫌な目に遭ってきたから余計に仕事に力が入るのだ。そして、犯人にはすごく腹を立てる。犯人には改正してほしいからなんだろうが、気持ちが強すぎる。自分と同じ目に遭ってほしくないという気持ちが一番強いことを紅日は知っていた。
まあ、かくいう俺も過去にはいろいろあるけど……。
紅日の過去を蒼月は知っている。だから、その状況に似ている仕事を引き受けて暴走したときは、蒼月が止めてくれるだろう。
だから、今は俺が止める。蒼の為にも──。
紅日の瞳には決意が宿っていた。今回の任務に熱を入れるのは、蒼月だけではなさそうだ。
佳露は二人の様子を見て、静かに頷く。
各々が静かに決めている中、園長室に着いたようだ。先生が先に入って、話をしている。三人は気を引き締めた。部屋に案内され、室内へ足を踏み入れるとそこにいたのはにこやかに笑う五十代後半の女性だった。眼鏡の奥にある瞳は細められていてよく読み取れない。園長先生は案内してくれた先生を部屋から出し、それから話を始めた。
「話は聞いています。……この保育園に通う子がまさか虐待に遭っていたとは思いもよらなかったです。気がつかなかったことは申し訳ないですが、プロであるあなた方が来てくれたことは本当にありがたいです」
「話の途中ですみませんが、先生方には話をしているのですか?」
「いえ、話をしたら逆に混乱を招くと思いましたし、大げさにしたくはないので」
紅日の質問には冷静に返す園長先生。どうやら、やはり話を大きくしたくなかったようだ。それがどんな理由からなのかは分からないが、それを聞いても教えてはくれないのだろう。
蒼月はすでに素気なくしている。この間の時と言い、今回もかかわりたくないらしい。紅日は心の中で苦笑いして、話を続けることにした。今は自分が話を進めるしかない。
「確か、被害者は島田麻穂ちゃん、でしたよね? その子の様子が変わったとか、そういうのを気がついた人はいませんでしたか?」
「そうです、島田麻穂ちゃん。……あまり様子が変わったとかはなかったんですがね。けど、表情が暗くなったのはありますね。笑っているのに、心から笑えていないようで……。あとは──」
園長先生はそこで言葉を区切った。言うのを迷っている、そんな様子だった。だが、知っていることは言ってもらわないとこちらが困る。なんといっても、こちらも事件解決のためにここに来ることになったのだ。紅日は続きを促した。
「すべて、知っていることは話してください」
「……気になっていることがあると、麻穂ちゃんのクラスを担当している先生から相談を受けたことがあります。それが、麻穂ちゃんがお父さんやお母さんの話題を振られると急に身体を震わせて、何も話さなくなると言うのです。今まではそんなことなかったというのに、急にだと言うので……。けれど、麻穂ちゃんも何も言わないので──」
「だから放っておいたと言うのか」
紅日を押しのけて、蒼月が怒りを露にしたまま前に出た。ずかずかと今まで一定距離を保って立っていたのを縮め、園長先生を見下ろす形になっている。園長先生も少々驚いたらしい、一瞬仰け反った。紅日はすぐに止めに入ろうとしたが、それよりも蒼月のほうが早かった。
「……この間の高校でもそうだったが、上の人間は本当に勝手だ。なぜ理解してあげようとしなかった、なぜもっと親身になって……、気になったならその子のことを考えられたはずだろう」
「蒼、落ち着けって!」
紅日は蒼月の右肩を掴んだ。このまま殴ることはないだろうが、それでも止めないとまずい。まだ今日ここにきて三十分も経過していない。その前に問題を起こしたら、屋城さんにも、協会の皆にも迷惑がかかる。それよりも自分たちが問題を起こしたら、仕事ができなくなる。たぶん、蒼月自身も分かっている。分かっているが、それよりも怒りのが勝ったようだ。肩に置かれた手が勢いよく振り払われた。紅日は本当に焦っていた。
蒼、今回相当おかしいぜ……。何がそんなに怒れてくるんだよっ……!
蒼月が息を整えているのが見える。その時、佳露が紅日の右横をてくてくと歩いて通るのが見えた。そのまま蒼月の右手を掴む。はっとした蒼月は視線を落とした。下からはじっと見つめている少年がいる。佳露はじっと見つめて両手で手を掴んだまま、静かに言った。
「……蒼兄、大丈夫。僕たちがいるよ」
「か、ろっ……」
佳露はそのまま視線を園長先生へ向けた。
「……園長先生、ごめんなさい。けど、僕も蒼兄と一緒の気持ちだよ。……なんで、聞いてあげなかったの? それは……それは、僕のような子どもにはすごく嬉しいことなんだよ。大人は、子どものこと分かっているってよく言うけど、そんなことないよ。子どものが、遠慮、するから──。気持ちにすぐに反応しちゃうから、だから味方がいるって、遠慮しなくていい大人が一人でもいるって、すごく心強いんだ」
淡々と話す佳露は、園長先生から一度も目を離さなかった。紅日も蒼月も驚いてその光景をただ見つめることしかできなかった。佳露はまだ蒼月の手を掴んだまま、離すことはない。それどころか力がぎゅっと強くなった。握られた手が温かく、蒼月の心はだんだん落ち着いていく。落ち着いていけば、気づくこともあった。
佳露の手、震えている──。
振動が自分に伝わってくる。あんなにはっきりと相手に物事を伝えることは、そう容易いことではない。佳露にとっては特にだろう。それでも、何を言われるか分からないけど伝えようとする気持ちが痛いほど二人には伝わってきた。
佳露、お前は本当にこの事件を解決したいんだな……。
紅日は佳露が伝えようとしている姿を見て、眩しく思った。そして、また焦る。このままでいていいわけがない。ぎゅっと無意識で作られていた拳に力がこもる。
ここまでされてて、俺たちが情けない姿見せられるわけないだろ。
知らない間に、にっと笑っていた。いつもの自分に戻っている。落ち着けたようだ。何度も心の中江大丈夫、と唱える。紅日は蒼月の横に並んだ。佳露は、まだ伝えたいことがあったようで、声が聞こえてくる。
「……僕は、攻めるつもりで言ってないよ。けど、次からはそうしてほしい。家庭の事情なんて知らないから、難しいと思う、けど、それでも、子どもは待ってるはずだよ、先生の救いの手を。だから、差し出してあげて……?」
佳露は無表情のままそう伝えた。こてんと横に首を倒す。少しだけ泣きそうな、笑っているような顔に見えた。園長先生は、何も言わない。それどころか俯いてしまった。三人はそれ以上何も言わなかった。とにかく相手の様子を待つことにした。すると、園長先生は眼鏡を外した。一瞬見えた顔には一筋のきらりと光るものが──。三人ははっと息をのんだ。園長先生の手が顔を覆う。表情は見えなくなってしまったが、聞こえてきた声は絞り出したようなものだった。
「……そう、ですね。なぜ、もっと対処をっ、してあげなかった、のか……。けれど、私たちにできることなど」
「……話を、聞いてあげるだけで、いいんだよ」
園長先生の声を遮って、佳露は告げた。園長先生は、はっと顔を上げる。手がどけられた顔は涙で濡れていた。佳露は蒼月の手をするりと離して、机をぐるりと回って園長先生の前に行く。それからその小さな両手で彼女の手を握った。こてんと首を横に倒した佳露は、また無表情のまま話し出す。
「……あのね、子どもはまだ受け止められることが少ないんだ。僕も、そう……今蒼兄や紅兄が辛いのよく分かっているのに、受け止められないんだ。大きなことがあると、すぐに心がいっぱいになっちゃって、苦しくなる。……だから、少しだけ受け止めてあげればいいんだよ。それは、できること、でしょ……? 自分たちで、解決はしなくていいんだよ」
園長先生はそれを聞いて、本格的に泣き出してしまった。佳露はおろおろとどうしたらいいのか焦っているようだ。とりあえず、自分がいつもしてもらっているように頭を撫でている。片方の手はいまだ握ったままだ。それを見て、紅日は蒼月の左肩に手を置いた。相棒が気まずそうに見てくる。
「……すまない、また」
「お前、本当にどうしたんだよ、蒼。後でどーんと受け止めてやるよ、佳露が言うようにな。けど、いつものお前じゃないと困るんだぜ? ……佳露に手本を見せられたままじゃ、やべえだろ」
「ああ、すまない。本当に今回はどうかしているようだ。……そう、だな。挽回しないとな」
「そうこなくちゃ」
紅日は相棒に向かって、ニカッと笑って見せた。蒼月もすまなさそうに笑う。とにかく、話を進めることが大事だ。二人は、佳露とともに園長先生を落ち着かせることにした。
それから落ち着いた園長先生に、一番最初に蒼月が謝罪した。園長先生も痛いところを突かれていたが、事実だったため怒っていなかったようだ。逆に謝罪してくるのを何とか収め、話を進めるとどうやら保育園では分かっていることが少ないらしい。
分かっていたことは先程の話で出た、表情のこと、態度の異変、そして家庭の事情だった。どうやら、すでに父親が亡くなっているようだ。ということは、問題になっているのは、母親からの虐待。三人はそこまでは理解した。後は本人に聞いてみないことにはどうにもならないようだった。頷き合って、園長先生に向き直る。
「すみません、ありがとうございました。保育園での仕事については──」
「それは、麻穂ちゃんの担当クラスの先生に一任してあります。二人とも一緒です。えっと、佳露くん、でしたよね、君も同じクラスです」
二人はほっとした。二人が一緒なのも重要ではあったが、どちらかと言えば佳露のが心配だった。佳露一人が違うクラスだとどうしようか、と考えていたが、心配無用だったようだ。
園長室を退室する前に、園長先生は席を立って佳露に歩み寄った。しゃがんで、目線を合わす。佳露は不思議に思って、首を傾げた。園長先生は、恐る恐る問いかけた。
「佳露くん、君はすごいのね。私のほうが教えられてしまったわ。けれど、なんで『僕のように』なんて──」
「ちょっ、それは──」
「……僕も、いろいろあったから。麻穂ちゃん、たぶん僕と一緒だから」
紅日はさすがにそれはまずいだろう、と止めに入ろうとした。だが、佳露は淡々と答えた。園長先生は口を閉ざした。聞いてはいけないことだと、気がついたのだろう。けど、佳露は気にせずに続けた。その瞳はこの機会に理解しといてほしいと物語っていた。
「気持ちが分かると、その子がどれくらい傷ついているかは、よく分かるんだ。僕もそうだった。分かってほしくて、けど人には言えなくて……聞いてきてくれる人がいないって辛いんだ。だから、その手助けをしたい。その子を救いたいんだ。……次は、困っているかも、って思ったら、聞いてあげて。抱え込んでいるものを」
佳露はそう言うと、ぺこりと頭を下げて、一人先に部屋を出て行った。紅日も続けて出ていく。蒼月は園長先生にもう一度向き直った。
「先程は大変失礼しました。……島田麻穂のことは、任せてください」
「いえ、気にしていませんよ。こちらこそ、申し訳ないですが、よろしくお願いいたします」
蒼月が顔を上げた時、園長先生が頭を下げているのが目に映った。自分が恥ずかしい。こんなにもいい先生だったのに、何も理解していない状態で決めつけてしまった。
「……あなたは、いい先生だ。だから、その地位につけているのだろう。これからもいい保育園にしてください」
蒼月はそう言い、退室した。いまだに園長先生は頭を下げたままだった。
「はー、一時はどうなるかと思ったぜ」
紅日は職員室に移動しながら、盛大にため息をついた。大げさに肩をすくめてみせる紅日に蒼月は素直に「すまない」と謝罪した。佳露は蒼月に手を引かれながら歩いていたが、二人を見上げるだけで何も言わない。蒼月は静かに話し出した。
「……紅日、まだお前に話していないことがあるんだ」
「それが、今回のことと関係しているんだな?」
「ああ。最も関係している、と言ってもいいかもしれない。もしかしたら、俺がそう思っているだけで、本当は違うかもしれないが──」
蒼月が俯いて目を細めたままそう言ったのを、紅日は何も言わずに見ていた。
紅日が蒼月とコンビを組んでから相当な年月が経過していたが、それでも知らないことはまだあった。いや、たぶん、自分が気がついていないだけなんだろうな、と何回も思ったことがある。紅日自身もまだ彼に話していないことはいくつかあった。お互いに話し辛いことはあるのだろうとは考えていた。だが──。
蒼、お前はすごく抱え込んでいるんじゃないか──?
そう思っては、言えない自分がいた。その思いを引きずったままここまできてしまった。そろそろ本当の相棒になるためにも、向き合わなければいけない。誰かが受け止めてやらなければいけない、そう思った。
「よし、帰ったら話すこと、絶対約束だからな」
「ああ」
蒼月が頷いたのを確認して、紅日は「うむ」と偉そうに腕組をしてみせた。蒼月が小声で「……なぜか知らないが、腹が立つな」と言ったのを聞き取っていたが、無視することにした。
その会話が一通り終わったと思われた時、佳露が蒼月の手をくいくいと引っ張った。蒼月は佳露を見下ろし、見上げてくる少年の視線と視線が合う。紅日も覗き込むように蒼月の背後から顔を出している。佳露は二人を交互に見た後、「僕も」と告げた。
「僕も、知りたい」
「いやー、佳露には早いだろ……」
「……やだ」
紅日が頭をがしがしとかきながら、言いにくそうに告げるのに対して、佳露は首を横にフルフルと振って拒否した。蒼月は少年と目線の高さを一緒にするため、かがんで両膝を床につけた。佳露は見上げていた視線を蒼月の動きに合わせながら下ろし、また視線が合うと静かに話し出した。
「……今回は僕も一緒の仕事をしているから。だから、話聞かせて」
「確かにそうだが、佳露には辛いんじゃないか? 紅日もそこを気にしていると思うぞ」
蒼月は心配だった。朝の件で自分が言えたことではないのは重々承知だが、それでも自分と十以上歳が違う少年のことは気にかけてしまう。自分が子どもにどういう対応していいのかはよく分からない。もっとも、紅日に言えば、「俺たちも子どもだけどな」と返されそうだが。
「辛い、かもしれない。けど、僕は聞きたい。そういうことを話す相手が、いなかったから──。それに、蒼兄や紅兄に僕の話を聞いてほしい、ってのもあって……」
「佳露の、話──」
紅日が小さく呟いたのを、蒼月は聞き逃さなかった。たぶん、紅日も自分と一緒で驚いているのと同時にどうしていいのか分かっていないのだと思う。佳露がそう言うのを屋城は聞いたことがあったのだろうか、話すとしたら彼にだけだろうが、それを自分たちが最初かもしれない少年の話を聞いていいのか、すぐに頭に浮かんだのはそのことだった。動揺しているとすぐに分かった。
次に気になったのは、自分たちがそんな会話をしているから無理をさせているのか、ということだった。
「……佳露、その話は帰ってからでもいいか」
「紅兄」
知らない間に蒼月のようにしゃがんでいた紅日が、佳露の頭に手を置いてそう言った。紅日は笑っていた。佳露を見つめる視線は優しかった。
「無理に今結論付けなくていい。もし、帰ってからでも佳露がそう思うのであれば、聞いてやるから、な?」
「うん、分かった」
佳露はこくんと頷いた。「よし」と頷いた紅日がニカッと笑って自分の掌より小さな頭を勢いよく撫で回した。「紅兄、髪がぼさぼさになる」と小さく言っているのを聞きながら、彼の手は止めない。やがて、手を止めた紅日は話しながら立ち上がった。
「さて、行くぞ。そういや、佳露って本当に話すのうまいよな。それぐらいの子どもってまだ舌足らずっていうか、まだしゃべりにくそう、って感じだけど。しゃべっているのを聞くと、漢字で書いてあるのを読んでいるって分かるっていうか、大人の話し方と同様って思うもんな」
「言いたいことが分かるような、分からないような……。まあ、でも確かにな。佳露の年代なら舌足らずってことはないだろうが、俺たちと同様に話せているからな」
「そう、かな……。協会の皆が話しているのを聞いてたからかも」
佳露は恥ずかしそうに俯いた。少しだけ頬が赤く染まっているように見える。蒼月も紅日も微笑ましくてついつい緩む頬を引き締める。蒼月もやっと立ち上がり、佳露にもう一度手を差し出した。小さな手が伸ばされ握り返すのを見て、目を細める。
三人は急いで職員室に向かった。
職員室で顔を合わせた、自分たちの面倒を見てくれる先生は、女性の二十代後半ぐらいの元気な人だった。にこやかに笑って説明をしてくれる先生の名は、田中桃子と言う。蒼月は不思議に思った。
こんなに元気な先生が、対応に困るのか?
佳露と話しているときも、別に態度で変わっているところや困っている感じではなかった。佳露は無表情だから誤解を生む可能性があるが、この先生は全然気にしていないように見える。佳露がこういう子どもだと分かって接しているように蒼月の目には映っていた。だから余計に気になってしまったのだろう。
一通りの説明が終わるとすぐに教室に案内される。教室は年中の桃組だ。
「へー、先生の名前と一緒ですね」
「そうなんです、なんだか嬉しくて」
「確かにそれは分かるかも。自分の名前とか何か共通があると嬉しいですよね!」
紅日が楽しそうに田中先生と話しているのを耳にしながら、先程の様子を思い浮かべ、考え込む。それでも自分の中では結論が出ない気がしていた。
確認したほうが早いな。
蒼月はそこで考えをやめた。ふと気になって背後にいるだろう少年を振り返って確認する。佳露は三人の後に少し小走りになりながらついてきていた。蒼月はふっと笑って少年に右手を差し出した。佳露は「蒼兄、ダメじゃないの?」と小声で聞いてきた。先程、田中先生には、「三人の関係は内密に」と注意されたばかりである。それを気にしてのことだろう。蒼月はしーっともう片方の手の人差し指を口元において、「今だけな」と小声で返した。佳露は嬉しそうに手を握ってくる。二人は急いで前方にいる紅日たちを追った。
到着した教室はもう賑やかな声が廊下にも漏れていて、楽しそうなことが入室していなくても分かった。とりあえず、田中先生が入って、蒼月たち三人は呼ばれてからの入室となる。蒼月は佳露の手をまだ握っていた。ぎりぎりまでは握っていようと思っていたのだ。その時、佳露の手が震えているのが分かった。もしかしたら、過去のことを思い出しているのかもしれない、そう思った。
「佳露、大丈夫だ」
「……蒼兄」
「自分通りに行け。そして、今は楽しんで来い」
ふっと笑って言うと、佳露の震えが止まった。少しは安心できたようだ。こくんと頷く佳露の表情は強張っていたのがいつも通りになっている。
そんな時、田中先生の呼ぶ声が聞こえた。
「行くぞ」
「ああ」
紅日の言葉に力強く頷く。
いろいろと考えなきゃいけないことや二人に告げなくてはいけないことがあるが、そんなのは後回しだ。とにかく今は今日を終わらせる──。
入室した瞬間、目に飛び込んでくるのは園児たちの姿だ。ざっと数えて三十人ほど。聞いていた人数と一致する。皆、目を輝かせて興味津々だ。
「はい、今日から先生のクラスでお手伝いしてくれる蛇塚蒼月先生と鷹林紅日先生です。そして、桃組に一人お友達が増えます、霧佳露くんです。仲良くしてあげてください。」
田中先生の声が教室に響く中、蒼月はクラスにいるだろう島田麻穂の姿を探す。子どもに気づかれないように視線だけぐるりと教室中を見渡すと、一番窓際にちょこんと座っていた。記憶していた写真と顔が一致する。浮かない顔をしている、と思った。
田中先生の紹介が終わって、一言をと前もって言われていたので、蒼月から順番に話すことになった。
「蛇塚蒼月です、今日からお世話になります」
「はーい、鷹林紅日でーす! 『紅先生』、と呼んでください。ちなみに、先生は演劇がうまいです。『蒼先生』はたくさんいろんなことを知っていまーす! よろしくお願いします」
「紅日、お前……」
蒼月の呆れたような、怒っているような声に紅日はてへっと舌をぺろりと出している。本格的に怒りが湧き起こったところで佳露が話し出した。
「……霧佳露、です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた佳露に、勝手に癒された二人はほんわかとしていた。田中先生も例外ではなかったようだ。三人の紹介が終了したら、田中先生に促されるように園児たち全員が口を揃えて「よろしくおねがいしまーす」と元気に言った。そこからは忙しくなった。
紅日に突撃しに行く園児たちが多く、佳露のほうにも園児たちは近づいて行った。蒼月のほうには園児たちは来ず、やはりか、と思った。田中先生は気にして、声をかけてきたが、自分自身が気にしていないので、そうなんとも思わなかった。
視線を巡らせ、もう一度島田麻穂の姿を確認する。いまだに窓際に座ってぼんやりとしている感じだった。誰の元にも行こうとはせず、ただ窓の外を眺めていた。蒼月はその姿を見て、とても心配になった。一人で何かをするわけでもなく、ただ座っているだけの少女の姿が消えてしまいそうな気がした。
少女の元に行こうとした時、くいっとストレートパンツの裾を引かれた。気になって視線を下へとずらせば、女の子数人が立っていた。絵本を抱えている一人の少女が裾を引っ張っていた。蒼月はしゃがんで片膝をつく。
「どうか、したのか?」
少女は俯いてなかなか言おうとしなかったが、しばらくして小さな声で告げた。
「……えほん、よんで、そうせんせい」
蒼月はその言葉に驚いて目を見開いた。自分にそんなことを言いにくる子がいるとは思っていなかったのだ。そういうのは、紅日や田中先生に行くと思っていた。だが、来てもらえることは素直に嬉しい。ふわっと微笑んで絵本を受け取る。
「分かった。おいで」
蒼月がその場に座ると、少女たちが目を輝かせて集まってくる。ほかの園児たちも気になって近づいてくる。だんだん大きくなった円の真ん中で蒼月は手渡された絵本を読み始めた。蒼月の背後から絵本を覗き込む子もいた。蒼月が一冊読み終わるごとにまた違う子が違う絵本を持ってきて「読んで、読んで」とせかしてくる。蒼月が読書をするため、読み方が上手なのだろう。
蒼月は絵本を読み上げたまま、島田麻穂を何度か観察していた。それに紅日以外は気がついていなかった。
紅日はそれを見て、笑った。なんだかんだ蒼月にも子どもが寄っているので、少し安心する。それにしても、と思う。
それにしても、蒼月は保育園の女の子にもモテるのか……。イケメンめ。
紅日は苦々しくそう思った。蒼月はまったく気がついていないだろうが、先程の少女はどう考えても蒼月に気があるようだ。今もちゃっかり蒼月の真横をキープしている。しかも、ずっと顔を見ている、絶対に絵本の内容は頭に入ってきていないだろう。
なんだかこの差が悲しい、と心の中で思う。だが、紅日に近づいてきている園児たちはお構いなしに子どもたちの中で人気なヒーローものの真似をリクエストしてくる。男の子が多く集まってきているが、中には女の子も混ざっていた。
「こうせんせい、はやくはやく!」
「え? ああ、ごめん。えっと、こんな感じだったかな……。『やはり、ここに来ていたか! 俺がいる限り、絶対に皆には手を出させない!』」
「おお、すげえ、せんせい! にてる!」
振付までしっかりと演じてみせると、子どもたちから嬉しそうな声が上がった。田中先生も見ていたようで、思わず感嘆の声を上げ、拍手をしている。
まあ、いっか。それにしても、ヒーローものとか勉強しといてよかったな……。
紅日はこの仕事が決まった時、こっそり今子どもの中で人気なテレビ番組をリサーチしていた。だからこそ、今日寝坊したわけだが。
その後もいろんなキャラクターをリクエストされ、次々と演じていく紅日の周りには園児たちが絶えなかった。
佳露も園児たちと話して楽しんでいたが、何回も蒼月や紅日が気になってしまった。どちらかが今まで隣にいてくれていたが、今は一人で園児たちの中に混ざっている。心細い、それがすごく佳露の中にはあった。
今まで仕事をしていても、そう思ったことなかったのに──。
佳露は理由がよく分かっていた。それは、蒼月と紅日だから。二人はほかの協会の皆とは違っていた。もちろん、協会の皆もよくしてくれていた。だが、二人は特別だった。いつも自分のことをよく考えていてくれた。仕事で組むのは初めてだったし、協会の中でもそう話したことはなかったが、この二日間で佳露の中で二人は特別になっていた。
蒼兄も、紅兄も、僕のことをすごく考えてくれていた。二人の側が居心地がよく思う。屋城さんの隣もよかったけど、今は二人の側がいい──。
佳露は胸にうずく黒い感情を押し込めた。
そして、一日が終わるころ、蒼月も紅日もすごく疲れていた。園児たちが全員帰宅した後、二人同時に床に寝転がってしまった。田中先生は笑っている。
「お疲れさまでした。二人とも、初めてとは思えなかったです。でも、やっぱり疲れちゃいますよね」
「いやー、先生すごいですね。俺、途中から疲れを表情に出さないようにするのに一生懸命でしたよ」
「……これは、結構きますね」
「でも、園児たちの喜ぶ顔を見たら、疲れって吹き飛んでしまうんですよ。だから、この仕事はやりがいがあるんです」
楽しそうに話す田中先生は、本当にこの仕事が好きなんだと分かった。疲れているだろうに、全然疲れているように見えない。今日一日見ていたが、笑顔を崩すことがなかった。叱らなければいけない場面ではしっかりと叱っていたが、疲れを見せる様子は一切なかった。本当にすごいと感心してしまう。
片づけを終わらせ、田中先生に帰宅していいと許可をもらった二人はいまだに教室に残っている佳露の元へ向かった。佳露は大人しく絵本を読んでいた。少年の名前を呼ぶと、勢いよく顔を自分たちに向けた少年は、とっとっとすぐに駆け寄ってきた。そのまま紅日に抱きつく。二人は驚いた。紅日は少年の頭を撫でながら、話しかける。
「どうしたー、佳露」
「……ごめん、紅兄、蒼兄。僕……」
「? 何かあったのか、佳露」
蒼月も気になって、佳露の顔を覗きこもうとする。だが、佳露は顔を紅日のお腹に埋めたままでいる。二人は顔を見合わせた。佳露がこうなっている状況がまったく読めていない。視線で紅日に問われたが、蒼月は静かに首を横に振った。紅日は、蒼でも分からないことが俺に分かるわけない、と考える。二人でどうしようかと顔を見合わせたままでいたが、佳露の頭が動いたことで気がついた紅日に続いて、蒼月も視線を向ける。二人の目に映った佳露の表情は、眉が八の字になっていて悲しそうな表情だった。
「……僕、寂しかった」
「佳露……」
「今日の朝まで、僕の隣にいてくれた二人が、全然隣にいてくれなくて、寂しかった。ほかの子たちに嫉妬していた……。ごめん、紅兄、蒼兄」
しょぼんとしている佳露は、また紅日のお腹に顔を埋めた。きゅっと服を握りしめている小さな手の力が強くなった。泣いているわけではない、わがままを言うわけではない。二人は謝られる意味が分かっていなかった。
蒼月はもしかして、と考える。もしかして、佳露は自分がわがままを言っていると思ったのだろうか。自分の気持ちを伝えてはいけないと考えたのだろうか、まだ遠慮しているのだろうか──。
紅日は佳露の頭を撫でた。わしゃわしゃと撫でながら、気持ちがいいぐらいににかりと笑って言う。
「佳露、お前かわいいなー」
「紅兄?」
「そうやって寂しいことは寂しいと言っていいんだぞ。俺たちは受け止めるから。気持ちを伝えないと人には分からないからな」
「なあ、蒼?」と聞いてくる紅日に、蒼月は頭が上がらないと思った。頷いて見せる。
紅日は人の気持ちにはすごく敏感だった。そして、どう扱っていいのか心得ている。そういうところが勝てないんだ、と蒼月は心の中で呟いた。思わず苦笑する。蒼月も佳露の頭を撫でた。
「俺はこういう点では不甲斐ないと思うが、頼ってくれていいからな、佳露。力になれることはなるからな」
佳露は二人の顔を交互に見て、それからもう一度紅日に抱き着いた。その後、すぐに離れて蒼月にも抱き着く。蒼月に抱き着いたまま、見上げてきた佳露はもういつも通りの無表情さに戻っていた。だが、少しだけ雰囲気が明るくなったように見えた。
「ありがとう、蒼兄、紅兄」
それを聞いて、嬉しくなった二人は同時に少年の頭を撫でる。しばらく撫で回していると、抱き着いていた少年がゆっくりと蒼月から離れた。俯いてどうすればいいのか分かっていないようだ。二人は笑って、佳露に手を伸ばした。
「帰るか、佳露」
「何か食べたいものあるか? 夕飯のリクエスト、くれるか?」
佳露は二人の手をしっかりと握った。それから、小さくこう言った。
「……肉じゃが」
帰宅して、すぐに食事にし、入浴まで済ませた三人はリビングに集合した。佳露を胡坐をかいた足の上に乗せた紅日は、ぎゅっと少年の身体を抱きしめている。佳露も嬉しそうにしていた。
さて、何から話すべきなのか。
蒼月は考えた。自分のことを話すとは決めていた。だが、佳露も聞いてほしいことがあると言う。そして、島田麻穂のこと──。順番的には、やはり自分のことか。
「……佳露、本当に俺の話を聞くんだな? 傷つくかもしれないぞ」
そのことは一番最初に確認しておくべきだ。だから、佳露にそう聞いた。佳露はきょとんとしていたが、意味を理解すると、こくんと頷いた。
「……聞く。後で、僕の話も聞いて?」
横に首を倒した少年の顔は不安そうだった。蒼月も紅日も頷く。そこは全然大丈夫だった。
蒼月は静かに話し出した。
「紅日には話した部分もあるんだが、一部話していないことがあったんだ。そこまではいいかと思っていてな……」
「そうだったのか──。それって、朝のことと関係があるのか?」
「大あり、と言っても過言じゃないな、たぶんだが」
蒼月はそれから静かに話し出した。
実は、話していなかったことは、蒼月が通っていた保育園の先生だった。今考えれば、その先生が事の発端とも考えられた。その先生は結構好き嫌いが激しくて、この子は良い子、この子は悪い子、と勝手に決めつけ、贔屓することがあった。蒼月はそれに気がついていた。あまり気がつかない人はいないと思っていた、声のトーンで一発で分かったからだ。蒼月はだんだん目に余るようになってきたその先生に一言、言ったことがある。「そんなことやめたほうがいい、みんなのてほんになるのがせんせいなんでしょう」と。その瞬間に頬を平手で殴られた。蒼月は泣くことよりも怒りのほうが勝ってしまった。しかし、それは子どもと大人の差。騒ぎを聞きつけたほかの先生が来ると、その先生は被害者ぶった。蒼月の言葉は誰も聞いてくれない、結局保護者を呼ばれ、大事になってしまった──。
その後は以前の話に繋がる──。
「……自分が正しいと思って動いた結果がそうだった。先生は誰一人俺を助けようとしてくれなかった。その時と、重なったんだ」
「やっと繋がったぜ……。なんかおかしいなとは思ってたんだよ。まあ、話したくないことを無理に話させるつもりはなかったから、聞きもしなかったけどな」
紅日は肩をすくめた。盛大にため息もついている。
紅日のそういうところは本当にありがたかった。
詮索する人間のほうが世の中には多いが、協会の人間ではどちらかと言えば、何も詮索しない人間のほうが多い。たまに共感してほしいと願う人間が詮索してくるが、それでも話す人間はほぼいなかった。やはり古傷を抉られたくないのは誰でも一緒なのだろう。
紅日はその中でも特に何も聞かない人間だった。たぶんそれは、自分がそういうことを聞かれたくないから。蒼月にとってそれは本当に嬉しかった、相棒だからすぐに教えろと無理を言ってくることがなかったので、心の整理をゆっくりすることができたのである。成り行きで今回は話すことになってしまったが、本当はもっと早くに話すべきだったのだ。
蒼月は「すまない」と謝罪した。それに対して紅日が口を開こうとした時だった。それより早く佳露が話し出した。
「蒼兄も、僕と同じだね」
「佳露……」
蒼月が少年の名を呼んだ。少年は小さくこくっと頷いて見せた。そのまま静かに話し出す。
「……僕も、ね、先生が怖かったんだ」
佳露はそう言って、過去のことを振り返る。
佳露が通っていたのは、小さな幼稚園だった。佳露は物覚えが良く、大人に褒められることが多かった。両親が読書家だったこともあり、家にある小説を片っ端から読んでいた。幼稚園児では読めない漢字も両親に教えてもらって覚えた。絵本も読んだが、正直に言えば、暇つぶしだった。その頃から知識が豊富で、話し方もなかなか上手だった。
そして、佳露はなんとなく同級生の子との付き合いが分からなかった。それもあって、ある日喧嘩していた同級生の男の子と女の子が喧嘩しているところを丸く収めたのだが、佳露は正論を言って、どちらもが悪いことを分からせようとしていた。しかし、そこは幼稚園児、まったく分からず最終的に泣き出してしまった……ので、丸くではなかった。すぐに先生が駆け寄ってきて、佳露は事情を話した。話し終わると、なぜか佳露が怒られてしまった。自分がしたことは間違っていないと思った、なぜ怒られたのか分からなかった。その後、両親を呼ばれ、次の日からは先生から厄介者扱いされた。また変なことを言い始めたら、と考えていたのだろう。同級生からも声をかけてもらえなくなった。両親からも、黙っていてくれ、と何度言われたか。もう、自分の居場所はない、そう思った。幼稚園で教室の隅で本を読んでいた──。
「今考えれば、僕がかわいくなかったんだろうね。本で学んだことをそのまま口にしちゃったから。先生の目、田中先生と同じで最初は優しかったんだ……けど、最後の冷たい目を、よく覚えてるよ。屋城さんが助けてくれたあの日、両親も先生も二つ返事だった、すぐに了承してた」
佳露は泣きそうな顔で口を閉じた。きゅっと下唇を噛んでいる。だが、蒼月は不思議だった。
今の話ではそう気になるところはなかった。問題になるところはなかったはず。もしや、佳露は本当のことが言えていないのか……。だが、言えないことを無理に聞くことは絶対にしてはダメだ。
そんな心配はすぐに終わることになった。佳露はまた話し出す。
「……僕ね、幼稚園で先生に言ったことがあるんだ。これはやる必要があるの、とか、怒られるべきだと思うあの子はなんで怒られないの、悪いことしたんでしょ、とか疑問に思ったことは全部。それが悪かったんだと思う。あの時は、なんでも気になっていたから──。両親にもそういうこと言って、虐待みたいなことされたこともあった。困った時に、屋城さんが助けてくれてよかった」
佳露はそう言った後、俯いた。後悔しているんだと思う。蒼月は、自分と似てるな、と思った。無駄に多くつけてしまった知識は、今でこそ役立ってはいるが、子どもの頃には人生を歪めてしまうものだった。人間は気に入らないものは受け付けない、拒否する。それがたとえ、物だろうが、人間だろうが──。
紅日が大きなため息をついた。
「あー、あー、もう天才は子どもから天才だったってことか、俺には耳が痛いぜ」
「紅日、お前な──」
「……けどさ、その人たちには厄介者だったとしても、俺は違うぜ。協会の皆だってそうだ、どんな面倒ごとだって、些細なことだって、その人にとっての辛い記憶を分かってくれる、厄介者になんかしねえよ。俺たちは仲間で、家族だからな」
紅日はニカッと笑った。紅日はいつもそう思っていた、だからそれだけを伝えたかった。だから、簡単にそう言うことが大事だと思った。
蒼月も佳露もぽかんとしていた。普段見せない、あほ面とも言える間抜けな顔に紅日は爆笑した。腹を抱えて笑い転げる。蒼月はそれにカチンときた。佳露を持ち上げ、紅日の腹の上に乗せる。
「佳露、そのまま全体重をかけてやれ」
「うわっ、佳露、おっも、い……。腹は、腹はやめろ……!」
「紅日、この状況で笑うな。今のは怒るぞ」
「悪かったって! 佳露、下りてくれ!」
佳露はゆっくりと紅日の腹の上から下りた。紅日は長い息を吐き出している。紅日は見上げてくる少年の視線を受け、笑った。佳露は不思議そうに、なんで笑ってるの、と視線で訴えている。
「蒼も佳露も悩みすぎ。大丈夫だから、な」
紅日はまたにっかりと笑った。笑顔が太陽のように輝いて見えた。蒼月と佳露は顔を見合わせた。それから蒼月がクスリと笑い、佳露は無表情だったが嬉しそうだった。
「そっ、か……。ありがと、紅兄」
「ありがとうな、紅日」
「おうよ」
そう言った後、口元を綻ばしたまま蒼月の拳が紅日の腹にクリーンヒットした。
気を取り直して、今度は島田麻穂について話し合うことにした。だが、初日というのもあって、蒼月と紅日は仕事に専念していたため、かかわることができなかった。ただ、様子を観察していると思ったことはいくつかあった。
「……何度か観察していたんだが、島田麻穂は一人で必ずいたな。だが、一人で何かするというわけでもなかった、そのまま呆然と窓の外を眺めていたんだ」
「何か皆でやる、ってときも全然集中してなかったよな。なんか、魂だけがどっか行ってしまったって感じだったよな」
蒼月は紅日の言葉に頷く。何度か田中先生が話しかけているのは見かけたが、彼女は俯いたまま静かに横に首を振るだけだった。田中先生に聞けば、それが日常化しているという。先生自身も無理強いはできないため、どう手を打っていいか分からないらしい。
その時、佳露が小さく挙手した。紅日が揶揄って、「はい、佳露くん!」なんて言う始末だ。蒼月は小さくため息をついた。佳露は二人の顔を交互に見た後、いつものように静かな口調で告げた。
「僕、少しだけ話したよ、麻穂ちゃんと」
その言葉に驚いたのは、蒼月と紅日だった。まさか衝撃の事実が今になって告げられるとは、思いもよらなかったのだ。それに──。
「いつだ! そんなとこ、全然見かけなかったぞ!?」
「二人が大変そうな時に、人目がこちらに向けられていなかったから、行けるかなって……」
「すごいぞ、佳露」
紅日の騒ぐ声に佳露は静かに答えた。蒼月はそれを聞いて、少年の頭を撫でながら素直に褒めた。佳露は気持ちよさそうに目を細めて、その状態のまま続けた。
佳露が話した内容はこうだった。
佳露はゆっくりと彼女に近づいた。顔は写真で覚えていたが、一応名札も確認する。ひらがなで書かれた名札には、綺麗な字で「しまだまほ」と書かれている。佳露はゆっくりと名前を呼んだ。その瞬間、勢いよく振り向いた彼女の顔は、怯えていた。佳露は驚いて、それでも落ち着かそうと慌てた。
『ごめん……驚かすつもりじゃ、なかった、んだけ、ど……』
『あなたは、きりくん……?』
『佳露、でいいよ。……どうして、ここにいるの?』
『みんなと、かかわりたくない。みんな、おとうさんやおかあさんのはなしをするんだもん……』
麻穂は体育座りした膝に顔を埋めた。
泣きそうな声だったことが、いまだに頭の中で鮮明に残っていた。
佳露は、そのことには触れずに、前方を見ながら話す。
『麻穂ちゃんは、僕とも話したくない、かな……?』
『……おとうさんやおかあさんのはなし、しない?』
『しないよ。……僕も、好きじゃないしね』
佳露は麻穂の頭を撫でながら、見つめた。安心させるように笑いたかったが、上手に笑える気がしなかったので、無表情のままだった。麻穂は佳露の言葉に驚いたように顔を上げた。そんな風に言う同級生が今までいなかったのだろう。目をぱちくりとしていた。それから、言いにくそうに佳露を見た。やがて、好奇心のほうが勝ったのか、ゆっくりと声を出した。
『……かろくん、きらいなの? おとうさんとおかあさん』
『うん、そうだよ』
こくりと頷いた佳露に、目を輝かせた麻穂は詰め寄った。佳露は驚いて少し距離を取ろうと下がる。しかし、麻穂のが動きは早かった。距離が縮まった瞬間、麻穂は小声で言った。
『……あのね、はなしきいてもらっていい? さっきあんなこといったけど──』
佳露はこくりと頷いた。それから、麻穂と一緒に場所を変えてしばらくそこで彼女の声に耳を傾けていたのだった──。
佳露が話し終えると、耳を疑った蒼月と紅日は黙ったままだった。「どうしたの?」と佳露がこてん、と首を横に倒したのを見て、ハッと我に返った紅日が叫んだ。
「いや、展開早くね!? おかしいよな、なんでそんな簡単に──」
「そうか、島田麻穂にとっては自分と同じくらいの子がそんなことを言うとは思いもしなかっただろうから、嬉しかったんだろう。それに、今まで自分の話を聞こうとしてくれた人間は、佳露が初めてだっただろうからどうしても今までたまっていたものを話したくなってしまったんだな」
「うん、さすがの分析力、冷静にありがとな、蒼! いつも通りになってくれて嬉しいけど、なんでそこまで分かるのか、ツッコんでいいか!?」
「もうしているじゃないか」
呆れたように言い返した蒼月は、佳露に続きを話すように促した。佳露はこくんと頷くと、「えっと」と考えてから、まとめたことを話し出した。
「えっとね、麻穂ちゃんのところは、お父さんが亡くなって、二か月ぐらいになるんだって。それからお母さんがおかしくなったみたい。毎日理不尽なことで怒られたり、殴られたりしてるみたい。後は、暴言、かな」
「完全に虐待だな。期間も依頼書と一致する」
蒼月は静かに頷いた。もう一度依頼書を皆で確認すると、やはり期間が一致していた。
だが、気になることがある。
蒼月は、佳露に聞いた。
「佳露、依頼書には大きな音がしていたと記載があったが──」
「最初は、虐待はなかったみたい。お母さんが一人で暴走して物をよく割ったり、壊していたりしていたみたいだよ。けど、途中から突き飛ばされることもあった、って。麻穂ちゃん、最初はお母さんを止めようとしたみたいだから──」
「そうか」
蒼月は悲しそうな表情をしている佳露の頭を撫でた。自分と重ねている部分もあるのだろう。もっとも、今回の場合は完全に母親が悪い。どう考えても島田麻穂を救わなければいけない。蒼月は考えた。
おそらく、母親は父親がなくなった悲しみで暴走しているのだろう。誰の声も届かない、届くのは亡くなってしまった、たった一人愛した夫の声だけ。娘の声まで聞こえなくなるとは……。好きな人が亡くなるということは本当に恐ろしい。その人間を豹変させるだけの力があるのだろうから──。
「蒼月、また一人で考えるなって。ああ、いつも通りになったことを喜べばいいのか、どうすればいいのか分からないな」
紅日の言葉に、我に返る蒼月。だいぶ自分らしさが戻ってきたが、こればかりは気を付けなくてはいけないと、毎度のことながら思う。がしがしと頭をかいている紅日の呆れた声に、思わず苦笑した。
「とりあえず、佳露にもうしばらく島田麻穂のことは任せよう。紅日、明日から近所に聞き込みをしてくれないか」
「それはいいけど、蒼は何もしないのかよ」
「……夕飯がなくていいと言うなら、やるが?」
「喜んでお受け致します!」
大げさに頭を下げた紅日の隣では、佳露が勢いよく首を横に振っている。紅日も蒼月の料理が食べられないのは嫌だが、それよりも佳露のが嫌なようだ。首が取れるんじゃないかというぐらいの勢いだった。あまりの激しさに、蒼月はクスクスと笑ってしまう。紅日も一向に頭を上げる気配がない。蒼月は、「冗談だ」と告げた。
「夕飯の支度をしたら、すぐに手伝いに行く。紅日一人に任せるわけがないだろう」
紅日が顔を上げてから、ほっとため息をついた。佳露も安堵したようで、同じようにほっと息をつく。似ている、と蒼月はまた思った。
今後の方針をだいたい決めた三人は、就寝することにした。佳露がもう眠たそうだった、というのもある。
昨日同様、三人川の字に布団を敷いて佳露を間に挟んだ。佳露はすぐに寝てしまった。蒼月は紅日に声をかける。不思議そうに聞き返してきた紅日に、思っていたことをそのまま言葉にしてぶつける。
「……なあ、紅日。前から思っていたことがあるんだ」
「なんだよ、まだあるのかよ……」
「……いつも誰かの話を聞くと思うんだが、屋城さんには何かあると思わないか?」
蒼月の言葉に呆れて聞いていた紅日は勢いよく身を起して、大声を上げそうになる。佳露が寝ているのを配慮するため、一度叫びそうになったのをすべて飲み込んで、気を取り直して口を開いた。
「……どういうことだよ、蒼」
「以前から疑問に思っていたんだ。協会の皆の話を聞くと、大抵困っている時や辛い時に屋城さんは現れる。最初は偶然かと思っていた、だが本当に偶然なのか、狙っているのではないか、と考えていたんだ。一度も口には出したことないがな。……さっきの佳露の話もそうだった。佳露が嫌われるようになってから現れたんだ。俺のときも、紅日、お前もそうだったんじゃないのか?」
蒼月は淡々と話した。紅日はあんぐりと口を開けながら、相棒の横顔を眺めている。耳に入る言葉をゆっくりと理解して、頭の中で整理する。確かに思い当たるところはあった。紅日が屋城に助けてもらった時もそんな感じだったのだ。心の中で、誰か助けて、と思った時に、彼は現れた。蒼月の話とも佳露の話とも、そして協会の皆が話していたのとも一致する。蒼月が言わなかったら、気にも留めてなかっただろう。
蒼月は続けた。
「佳露の話は詳しいことを聞いていないから、何とも言えないが、ほかの皆の場合は違う。全員一致するんだ。おかしいと思わないか?」
「確かにな。けど、屋城さんは俺たちの恩人だぜ? 疑うってのか?」
「そうじゃない。屋城さんをどうしたいとかではないんだ。だが、おそらく屋城さんは何か隠している」
蒼月の瞳が紅日に向いた瞬間、その瞳はギラリと光った。確信をもって言っている、そう物語っていた。紅日はその瞳を見た瞬間、蒼月がふざけて言っているわけではないことを察した。ただ、屋城が何か隠しているとしたら、それを知りたいのだろう。そして、手伝えることなら手伝い、そう思っているのだろうと考えた。蒼月はそういう人間だ。
「屋城さんが何か抱え込んでいるなら、俺たちが手伝えるようにしたいんだ。紅日、協力してくれないか? 佳露には知られたくない、俺たち二人だけで探したい」
もう一度意思を言葉にした蒼月に、紅日はいつものように笑って見せた。
「分かった、協力する。二人で秘密裏に、だな?」
「ああ、頼む」
佳露が眠っている上で、静かに拳を突き合わせた。こつん、と当たった音は確かに二人の耳に届いていた。
それから、平日は蒼月も紅日も保育園で働き、佳露は麻穂の隣にいて話を聞いて情報を集めた。保育園が終われば、紅日は佳露を連れてそのまま麻穂の家の近所を片っ端から回り、情報を集める。蒼月は一度帰宅して、夕飯の支度を済ませ、すぐに紅日たちと合流し、情報収集に参加した。その状態が一か月近く続き、こっそり連絡を取っていた狼からの連絡を待つのみとなった。そろそろ決着をつけないと、と蒼月は焦り始めている。
集めた情報をまとめると、麻穂自身からの話と佳露の話から身体にいくつもの痕があることは確かだった。麻穂は佳露にちゃんとその痕を見せてくれた、佳露もそれを証言している、間違いない。近所からの話では最近では泣き声も聞こえてこないと言う。それと麻穂は帰宅するのがだいぶ遅いと言う。これは夜散歩している人からの証言だった。田中先生に確認を取ると、麻穂は保育園が終わるとすぐに帰宅すると言う。だが、迎えは必ず来ない──。
「ということは、たぶんどっかで時間を潰している、ということだよな」
「おそらくな。親が迎えに来ないのもおかしいよな。俺たちはまだ知らない親もいるが、言われてみれば知らない間にいなくなっていたし、親が迎えに来たという話も聞いたことがない」
「麻穂ちゃんは公園にいることが多いみたい。あまり家に帰りたくないとも言っていたよ」
「なるほどな」
蒼月は顎に手を添えて、ふむ、と考えた。佳露が麻穂と仲良くなったのもあって、だいぶスムーズだが、問題はまだある。狼からの連絡は待たなければいけないが、それよりも重大な問題が一つ。
「……あとは、どうやって俺たちが近づくか、ということだな」
「それだよなー、なんだかんだ近づけずにいたからなー……」
蒼月の言葉に、紅日が深いため息をつく。
紅日が言うことはもっともだった。保育園の仕事になかなか慣れずにいた二人は毎日子どもたちに振り回され、麻穂に近づこうにも話せずにいたのだ。その点、佳露がいてくれたことが本当にありがたい。二人ではそこまでできなかった、ということになるからだ。大人が近づくのは怖がってしまう、と考えていたのもあって余計に近寄り辛かった。
その時、佳露が二人の袖を同時に引っ張った。
「それは僕に任せて」
「なんとかできるのか」
「分からないけど、とりあえず大丈夫だと、思う。明日、聞いてみるよ」
佳露の力強い言葉に二人は任せることにした。同時に頷く。佳露もこくん、と頷いた。
その後、電話が着信を告げ、待ちに待った狼からの電話で、相変わらずうるさいが親身になってくれる彼の報告を聞いて、ゴールが見えてきた。
明日からが勝負どころである。
翌日、佳露が麻穂に話をしたところを二人はちら、とうかがった。他人には気がつかないほどの一瞬、それで二人は把握した。佳露の言葉に麻穂が頷いているのが見えたのだ。
今日、すべて終わらせる。
二人は次々とくる園児たちを相手にしながら、一日の終わりを待った。
園児が全員親と帰り、片付けまで終了した二人は、急いで着替えて公園へと移動した。麻穂が時間を潰しているという公園、そこには佳露もすでにいる。佳露から話を聞いた二人は、こっそり佳露に麻穂と一緒に公園へ先に向かっていてほしい、と伝えた。佳露はこくん、と頷いて了承した。
麻穂の自宅付近の公園は、遊具こそ少ないが、芝生の広場はとても広い。小学生がサッカーや野球をしに来ると近所の人からの話で聞いてはいたが、驚いてしまった。
二人は公園に入って、佳露と麻穂の姿を探した。紅日が見つける。彼の指が差す方向を見てみれば、ブランコを一つずつ使い、佳露と麻穂が大人しく座っているのが見えた。二人はそれに駆け寄る。
「悪い、遅くなった」
「ごめんな、佳露、麻穂ちゃん。怖くなかったか?」
「うん、だいじょうぶ」
「よし、いい子だ」
紅日が佳露と麻穂に手を伸ばした。だが、その瞬間麻穂がびくりと大げさに身体を震わせた。一気に強張らせたのが見てとれる。固く閉ざされた瞳は開くことがない。一方、佳露は大人しく頭を撫でられていた。今の一瞬で、蒼月も紅日も、恐怖が少女の身体に刻み込まれていることが分かった。
紅日は手を止めたが、もう一度ゆっくりと動かして少女の頭に、ぽん、と手を乗せる。ゆっくりと目を開く少女に優しく笑いかけて、頭を撫でながら言った。
「ごめんな、怖がらせるつもりじゃなかったんだ。偉いぞー、ってこうやって頭を撫でようと思ったんだ」
「まほは、えらいの……?」
「偉いぞ、俺たちの言うこと守ってただろ。佳露の言うことも聞いて、大人しくここにいたんだろ? なら、偉いだろ」
「いい子、いい子―」と言いながら、撫で続ける紅日。佳露の頭も撫で続け、小さな二つの頭はぐしゃぐしゃだ。麻穂は撫でられている最中にだんだんと力が抜けていった。強張っていた小さな身体が、元に戻っていくのが分かる。
蒼月は様子を見て、落ち着いたのが分かったため、話を始めることにした。
「麻穂ちゃん、俺たちは君を助けに来たんだ。急に言われても困るだろうけど、近所の方からもだいぶ話が上がっている。お母さんのことを話に出されるのは嫌かもしれないが、話をさせてほしい」
「……おかあさん、まほのことがきらいなんだ」
「どうしてだ?」
「まほのこと、おこるの。なにがわるいのか、わからない、けど……。たたくし、おこるっ、し……っく」
麻穂は泣きながら一生懸命に教えてくれた。分からないながらにいろいろと考えながら、とにかく話し続けた。隣のブランコにいた佳露が立ち上がって、麻穂の横に移動し、頭を撫で続ける。しゃくり上げる声が公園内に響き渡る。
「お、とうさっ、しんじゃってっ……、おかあ、さん、かわってっ、どうっ、し、たら──」
「そうか、ありがとう。辛いことを思い出させたな」
蒼月も麻穂の頭を撫でた。紅日は隣で首を捻っている。
「今ので、話分かったのか、蒼」
「ああ、聞いてた話と一致していたから大丈夫だ」
「さすが、蒼……。よく分かったな」
紅日が苦笑いする。蒼月は今の話を聞いて、全部の話と一致していたことを確認し終えた。あとは麻穂の母親と話をつけるだけだが、どう乗り込むかだ。蒼月は腕を組んで考える。
佳露はまだ麻穂の隣にいた。麻穂もまだ泣き止む気配がない。紅日は二人を眺めていた。何やら考えているようにも見えるが、実際には分からない。
とりあえず、麻穂が泣き止まないと、母親に怪しまれるだろう。時間をかける必要がある。麻穂を一度家に帰さなければいけないが、一人で家に入らせるのも怖い。だが、俺たちが一緒に入るのは無理があるだろう。それこそ、玄関で追い返されて終わりだ。さて、どうするか。
麻穂が泣き止んできたことが声で分かる。だが、作戦が決まっていない。このまま帰すわけには──。蒼月に焦りが生じたその時だった。
「──蒼兄、紅兄、僕が麻穂ちゃんと一緒に家に行くよ」
静かに佳露がそう告げた。麻穂の手を繋ぎながら、二人の顔をじっと見つめる。それに反応したのは、紅日のほうが早かった。
「待て待て、佳露。お前、正気か?」
「……この中で、一番怪しまれないのは、僕だと思うよ。蒼兄も、紅兄も、先生の立場だから、追い返される可能性が高いでしょ? その点、僕は同じクラスの友達、ってことになるから……」
「そうは言うが……」
蒼月も簡単には頷けなかった。何が起こるか予想ができていないのに、そう簡単に子どもだけで行かせることに許可を出すことはできなかった。麻穂は自分の家だから、帰らなければいけないが、佳露は友達の立場で潜入という形になるのだ。不安が募る。
佳露は、静かに不安なことをそのまま口にした。
「……蒼兄、紅兄、僕の……、僕のこと、信用できない?」
佳露は首を傾げた。こてん、と横に倒した顔は、今までの中で一番不安そうな顔をしていた。蒼月は静かに、自分の思いを素直に話すことにした。しゃがんで目線を合わせる。
「佳露、そうじゃない。俺は……、いや、俺も紅日も、信用はしている。だが、二人で行かせることが不安なんだ。二人に何かあったら、怖い」
後ろで紅日が頷いている。大げさに頷いているので、そこは無視をするが、それでも蒼月と紅日の考えは一致していた。蒼月はふと考えてから、続ける。
「佳露、お前がこの事件を解決したいと思っていることは、よく分かっている。けれど、無理をさせたくないんだ。もし、佳露がいいと言うなら、任せてほしいと言うなら、俺は佳露の意思を尊重しようと思う。……大丈夫なんだな?」
「おい、蒼!」
「……うん、行けるよ。任して、蒼兄」
「おい、待てよっ。そんな簡単に──」
「紅日、すまない」
蒼月は静かに立ち上がりながら、紅日へ謝罪した。紅日が焦るのも自分ではよく分かっている。自分だって、本当は焦っていた。だが──。
「今は、佳露の意思を尊重したいのもあるが、これしか方法が思いつかない。どう考えても、佳露の言うことは正論だ。一番成功率が高い。……佳露、その代わり俺も紅日も限界だと思ったら、突入するからな。一人で何でもやろうと考えるなよ」
「……分かった」
佳露がこくん、と頷いたのを確認した蒼月は、そのまま自分の相棒へと目線を向ける。紅日は蒼月の言葉を聞いて、何も言わなかった。黙ったまま、蒼月を見つめてくる。まだ言いたいことはあるようだが、自分の叫びたい声を無理矢理飲み込んでいるように見えた。
蒼月は相棒の名を静かに呼ぶ。一度で反応しなかったので、もう一度呼ぶ。三度目でやっと反応した。「あー!」っと、声にならない叫びを出して、頭をガシガシとかいている。
「分かった、分かった、分かりましたよ! 本当はやらしたくないけど、今回は緊急事態だし、目を瞑ることにするっ。だけど、絶対佳露も麻穂ちゃんも傷つけないからな! それだけは譲らないからな!」
蒼月は頷いた。紅日もやっと納得がいったようだ。ふんっと言いながら、両手を腰に置いてふんぞり返っている。佳露も麻穂も不思議に思ったようで、二人して首を傾げてこちらを見上げている。その様子に蒼月と紅日は顔を見合わせ、笑ってしまう。それから、蒼月は三人に分かるように、これからのことを話し始めたのだった。
蒼月と紅日は小さな二人が家に入るのを、距離を保ってこっそりのぞきながら、様子をうかがっていた。今いる場所は、もし母親が家から出てきたとしても、見つからないように十分すぎるぐらい取ってあった。麻穂の家が曲がり角に近い家であったため、角を利用して見つからないようにしている。それでも死角をすぐに探し出せるところが、さすが「完璧な二人」である。
佳露たちが家に入ったことにより、二人は麻穂の家の玄関まで距離を詰めた。玄関前でいつでも乗り込めるように、だが見つからないようにしゃがんでいる。二人は玄関の扉を挟んで、両端に一人ずつ座った。それから、蒼月は盗聴器の受信機を起動させた。音量を少し上げて、紅日にも聞こえるようにする。少量の音でも聞き逃さないように鍛えられている耳は、そんなに音量を上げなくても、紅日の耳に余裕で届いた。紅日が右手の親指を上げているのを確認する。蒼月も頷いて見せた。それから、本格的に内容を聞くことにした。
『……ほ、麻穂! どうして、この時間に友達を──』
『っ、だ、だって──』
『……僕が、入れてほしいって言ったんだ。麻穂ちゃんは悪くないよ。こんな時間に、すみません』
盗聴器は佳露の服につけた。佳露もそのことを了承している。麻穂にはそのことを口止めした、あとは彼女が話さなければ大丈夫だろう。
盗聴器から聞こえてきた最初の声が、麻穂の母親だろう。最初から怒っているところを聞くと、やはり麻穂が何かすることが気に食わないのだろう。金切り声が聞こえた瞬間、蒼月と紅日は耳を抑えた。蒼月は受信機を落としそうになったのをなんとか堪えたぐらいだ。麻穂が怯えた声を出していたが、佳露がフォローしたのがすぐに聞こえてきた。
さて、これからどうする。
蒼月はまた耳に意識を集中させた。
『あー、僕、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないかな? 麻穂も忙しいしね』
『い、いそがしくないよ──』
『あんたは、黙ってなさい』
佳露に話しかけていた母親の声が、麻穂の言葉を聞いた瞬間、声が低くなった。その声だけで周囲の温度が二度くらい低くなった気がした。紅日が大げさに寒がっているのを無視する。
『……それは、麻穂ちゃんに何かするということですか?』
佳露……!?
「直球で言ったぞ、大丈夫か!?」
紅日が小声で叫んだ。蒼月も冷や汗をかいている。まさか、佳露がそんなに勝負を早く仕掛けるとは思っていなかった。乗り込むのは時間の問題な気がした。
声だけしか分からないので、今家の中がどんな状態なのか気になる。今は何も音が聞こえてこない。だが、母親の震えた声がすぐに聞こえてきた。
『……ねえ、それは麻穂に聞いたの?』
『違うよ、でも……これ以上、麻穂ちゃんに何かしたら、許さないけどね』
次に聞こえた佳露の声に思わず、蒼月も紅日もびくりとした。初めて出した声だった。いつもの佳露からは予想ができない。佳露がそんな声を出すということは、怒っているのだろう。
蒼月はやばいと感じた。そろそろか、と構える。紅日のほうもいつでも駆けだせるように、足を踏み出している。次に聞こえてきた母親の声。
『子どもが、大人に逆らうんじゃないわよ!』
「紅日!」
「おう!」
母親の暴走した声を耳にした瞬間、蒼月は相棒の名を呼んだ。紅日は元気よく答え、扉を蹴飛ばした。ものすごい勢いで蹴飛ばしたため、扉が壊れそうな勢いで開く。その瞬間、紅日は靴を履いたまま家に上がる。蒼月も続いた。
リビングに向かってみると、やはりそこには三人がいた。佳露の背中に隠れている麻穂、怖気づくことなく母親を見つめる佳露、もうすでに暴走しそうな母親。まだ理性が働いているようだ、怒りで震えているがその場から動こうとはしていないし、佳露や麻穂に手を出していない。睨み合っているだけだった。
「佳露!」
紅日の声に三人が一斉に彼のほうを見る。佳露が名前を呼んだ。
「ちょっと、不法侵入よ! 警察に連絡してやる!」
「あいにくだが、俺たちは近所の方からの依頼で、警察からは許可を取っている。捕まるのはあなたのほうだ。幼児虐待の罪を受けてもらう!」
「なんですって……!? あなたたち、一体──」
「俺たちは政府公認の組織、『言ノ葉協会』。言葉による問題が発生したときに、それを解決するために姿を現す。身体の傷は一応範囲外だが、一緒に証拠となるしな。この間、家に盗聴器を仕掛けさせてもらって、証拠も揃っている。相当、ひどいことを言っているな。自分の娘にこれはないんじゃないか?」
蒼月は手にしていたボイスレコーダーを母親に見せた。母親の目が見開かれる。さすがにボイスレコーダーを再生するのはやめた。麻穂がかわいそうだ。
そう、佳露から麻穂に頼んで隠してもらっていたボイスレコーダーは、何日か前に回収してもらい、すべて内容を確認した。あまりにも内容がひどかったので、それに関しては伏せておくことにしよう。ちなみに、それは警察にも狼を通して、提出されている。言い逃れはできないだろう。
「麻穂ちゃんにもすべて話を聞いた。あまりにもひどいことを言っていたな」
「子どもにそんなことばかりして、恥ずかしくないのかよ。おばさん、ちょっとは後悔とかないわけ?」
「うるさい! あなたたちに関係ないでしょ!」
「はー、話にならねえ。蒼、あとよろしく」
額を抱えて紅日は、ひらひらと空いているほうの手を振った。蒼月は頷いて、それからすぐに「言ノ葉の裁き」を開始した。その間に佳露たちと母親の間に紅日が割って入る。麻穂が泣き始めたのを紅日は抱き寄せて宥める。佳露は麻穂の様子をうかがっていた。母親が逃げないようにだけ、紅日は見張っている。蒼月が開始させた「言ノ葉の裁き」から表示されたのは、数字ではなく、「警告」のたった二文字。
「さあ、裁きを受けてもらうぞ」
「麻穂ちゃんの痛みを思い知れ!」
紅日の言葉に、横にいた佳露がこくこく、と何度も頷いている。麻穂は泣きながら、様子をうかがっていた。蒼月の攻撃宣言により、「警告」の文字の後に出現した大鎌が攻撃を開始した。
麻穂の泣き声が室内に響き渡った──。
蒼月は警察を呼び、紅日が麻穂を宥めているのに近寄った。佳露は麻穂の頭を撫でながら、蒼月に視線を向けた。
「……蒼兄」
「警察を呼んだ。麻穂ちゃんの母親も大丈夫だ、『言ノ葉の裁き』はうまくいった。起きたら、改心しているだろう。……麻穂ちゃん、怖がらせてすまない。それと、今言うことではないだろうが、これからどうしたい? 身寄りはあるか?」
麻穂は何も言わずに、首をふるふると横に振った。
一応、こっそり調べていたが、やはり身寄りはなかったようだ。もしかしたら、実家との仲が良くなかったのかもしれない。まだ亡くなっていないことだけは分かっているが、麻穂自身が知らないということは、会ったことがないのだろう。
となると──。
「蒼、どうする?」
「……協会にいれるのは、どうかと思うからな。やはり、あの人に──」
「おい、ここにいたのかあ!」
「狼さん、うるさいです! 子どもが怖がる!」
警察を呼んだら、狼が来てくれたようだ。内情を知っている彼なら、ありがたい。それに、頼み事もできていたところだ。
「……狼さん、この子引き取れませんか? まだ傷が癒えていない子なんですが」
「この子が、被害者なのかあ。傷は、どこのだあ?」
「身体にも、心にも……。身寄りがなくなってしまって、施設に入れるのもどうかと思って。狼さん、お子さんいましたよね?」
「ああ、三歳の娘と、もうすぐ一歳になる息子がいるがなあ」
「嘘だろ!?」
蒼月と狼の会話を聞いて、紅日が大声を上げた。その瞬間、狼の手が紅日の頭に伸びる。ガシッと掴んだ瞬間に全力で締め上げる。
「ああ、なんだあ、紅日! 文句があるのかあ!?」
「いたっ、痛たたたたっ、やめてください! 本格的にやばい!」
「そこまで。近所迷惑だよ、湊」
そこに静かに聞こえてきた声に全員が振り向く。視線の先には優雅に腕を組んで立っている男性がいた。蒼月が彼の名前を呼ぶ。
「……鴉夜さん!」
「久しぶりだね、蒼月。……さて、それよりも、近所迷惑だし、収拾するよ」
鴉夜優。狼との同期で、しかも同級生。中学生からの付き合いだという。狼とは違って、言葉遣いが穏やかだ。鴉夜も優秀だが、現在は巡査部長だ。噂によれば、狼を支えるために、自分の位をわざと下げるようなことをしたとか──。面倒見がいい鴉夜は、よく知っている狼のことが心配だったようだ。鴉夜も狼と一緒に紹介してもらい、それからはよく面倒を見てもらっている。
そこからは、蒼月と鴉夜が話をまとめあげた。その後は、狼と鴉夜に任せ、蒼月たちは現場を後にする。帰宅した蒼月たちは、翌日に協会に戻ることにし、荷物をまとめた。そして、早くに就寝したのだった。
誰もいなくなった、静かな現場に人影が現れていたことは、誰も知ることがなかった──。
協会に戻った蒼月たち三人は、すぐに屋城に報告へ向かった。屋城の部屋に着いてすぐに、報告を始める。帰路途中で、狼から連絡をもらっていたことも、すべて話した。
「──とりあえず、島田麻穂は狼さんの家に引き取られました。狼さんの娘さんと息子さんと仲良くやれているようです。島田麻穂の母親は、だいぶ後悔しているようで、一度署で顔を合わすようです。それには狼さんも一緒になるようなので、大丈夫だとは思いますが……。島田麻穂が狼さんに慣れるのは、時間がかかりそうです」
その瞬間、吹き出したのは紅日だ。昨日、散々な目に遭ったため、根に持っているようだ。笑い続けている紅日は無視する。紅日が笑っている中、佳露が屋城に近づいた。屋城は不思議そうに問いかける。
「どうかしたのかい、佳露」
「……屋城さん、携帯が欲しい」
佳露はそう言った。屋城はますます分からず、首を傾げる。蒼月と紅日は顔を見合わせた。二人はなぜ佳露がそう言うのか理由が分かっているからだ。蒼月が説明をすることにした。
事件が解決して、翌日。協会に戻る前に麻穂に会いに行くことにした。
狼の家には、鴉夜もいて、様子を見に来ていたようだった。狼の家でまだ馴染めずにいる麻穂だが、狼の娘と息子とは仲良く話したり、遊んだりしていた。まだ狼のことは怖がっているようで、狼の奥さんとはどう接していいのか、分からないでいるようだ。そこは狼に任せることにした。
狼と話していると、佳露に麻穂が近づいてきた。佳露の目の前で足を止めた少女は、少年の名前を呼んだ。佳露は、「……何?」と首をこてんと横に倒した。しばらく俯いたままもじもじとして、何も言えずにいた麻穂が急に顔を上げて口を開いた。
「あ、あのね……」
「……?」
「まほ、かろくんのおよめさんになる!」
その言葉を聞いて驚いたのは、佳露だけではない。蒼月と紅日、狼が一斉に「え?」と声を出す。鴉夜は聞いてにこりと微笑んでいた。狼の奥さんは、「あらあら」とにこやかに笑っていた。佳露は慌てていた。
「……なんで、また」
「かろくん、かっこよかった!」
「あー、もう! 今どきの子どもは怖え! 急展開すぎる、ついていけないぜ!」
「うるさいぞ、紅日」
佳露と麻穂の会話に割って入った紅日を、軽く叩いて止める。紅日は頭を抱えたまま、天を仰いでいる。だが、一番衝撃を受けていたのは、狼のようだった。まさか、昨日自分の娘になったばかりの少女が、少年に結婚宣言をするとは思わなかったのだろう。実の娘のようにかわいがるつもりでいたであろう、狼はすでに嫁に出す気持ちを味わっているに違いない。彼は話を聞いて、固まってから、まったく動かない。
佳露は困ったように頬をかいた。
「うーん……。僕、告白なんてされたことないから、どうしたらいいのか分からないよ。それに、そんなに会えるわけじゃないし……。あと、僕本当は七歳だよ」
「いいよ、それでも。わたしがかろくんのこと、すきなの!」
「……。……蒼兄、紅兄」
困った顔で佳露は、兄のように思っている二人を見上げた。眉が八の字になっている。だが、これに関しては、二人も何も言えなかった。それというのも──。
「いやー、佳露悪いな。俺も恋というものは、よく分からない」
「俺もだな。まったくそういうものにかかわっていないからな。もし、気持ちが分かるなら、狼さんだが、たぶんダメだろうな、今は」
二人とも、苦笑して言葉を返す。佳露は少しだけ裏切られた気持ちを味わったが、それは隠した。佳露はしばらく考えたが、「じゃあ、」と小さな声で提案した。
「……じゃあ、とりあえずお試しで、ってことでどうかな」
「うん!」
そんなこんなで、麻穂は狼からもらった子ども用の携帯電話の番号とメールアドレスを、佳露に教えた。携帯電話を買うことを約束して、その場は収まった。その後に我に返った狼が暴走したのを、鴉夜と奥さんが止めに入ったのは言うまでもない。
「なるほどね、分かった、すぐ用意する」
「いいんだ、それでいいんだ! しかも、何も聞かないんだ!」
屋城はすぐに電話をかけ、携帯電話を用意するように指示している。それに対して、紅日は全力でツッコミをいれている。蒼月は盛大にため息をついた。佳露はじっと屋城を見て、それからちゃんとお礼を言っている。収拾がつかなくなったこの場を止めることをやめ、蒼月は静かに部屋に戻ることにした。
疲れた。報告も終わったし、もう寝るとするか……。
蒼月は屋城の部屋を静かに出て、廊下に聞こえてくる会話を耳にしながら、自分の部屋に向かったのだった。
また、新たな解決済み依頼書が挟まれたのだった──。