騎士が仮面を外す時
本編終了後
ーーいつでも自分が自分でいられるのは剣を握っている時だけだった。
頭上で輝くシャンデリアは非日常を演出し、色とりどりのドレスは会場全体を華やかに見せる。音楽に合わせステップを踏んでいる男女も談笑している者たちも楽しそうに見えるが、その全てが幻想でしかないことをハーヴェイはよく知っている。
ホールよりも数段高いところに位置する王族の席には両陛下と王太子、そして第二王子であるクロードがおり、ハーヴェイはクロードの背後に護衛として控えていた。夜会用の白地の騎士服に身を包んだハーヴェイは普段の何倍も凛々しく見え、令嬢達の視線を引きつける。だが、ハーヴェイの立つ場所が場所なだけに、令嬢達はただ眺めることしかできなかった。
「ハーヴェイ、お前は出席者の方にいなくてよかったのか?」
「私はクロード殿下をお護りするのが使命ですから」
「そうか」
クロードの質問に表情を変える事なく答えながら、ハーヴェイはつい数日前の家族とのやり取りを思い出す。
ハーヴェイの住居は独身ということもあり騎士団の所有する寮である。実家に帰ることはほとんどなかったし、あちらから声がかかることもない。家族を見るのは騎士として仕事をしている最中が主であった。
それなのに、浄化の旅から帰ってくると今まで接点のなかった事が嘘のように頻繁に連絡が来るようになった。それも、家に帰ってきてはどうだやら、縁談の話があるやら、ハーヴェイにとって酷く面倒な事ばかりである。今回の夜会だってエレキソン伯爵家の者として出ろと半ば命令に近い手紙が届いたが、仕事で無理だと送り返していた。
ハーヴェイの生家であるエレキソン伯爵家は文官を多く輩出する家で、父も兄も漏れなく文官として王宮で活躍している。ではなぜハーヴェイは騎士を目指したのか。それは、ハーヴェイの兄が大きな原因であった。
兄は幼い頃からとても優秀な子どもだった。頭が良く、人当たりもよい。ハーヴェイを見ればわかるだろうが容姿もとても整っていて、弟のハーヴェイから見ても完璧な男であった。そんな長男がいれば親も期待するわけで、両親の関心はいつでも兄に向いていた。
『ハーヴェイも兄を見習いなさい』
『そんなこともわからないのか。お前の兄さんならーー』
『なんだか貴方と話していてもつまらないわ。きっと貴方のお兄様ならーー』
毎日の様に耳に入ってくる兄と比較される言葉に嫌気がさしたのはいつ頃だったか。ハーヴェイは決して頭が悪いわけではない。貴族として十分な知識も身につけていた。それでも兄には敵わない。評価はされない。
ハーヴェイの能力が目覚めたのがこの頃だったのも悪かった。両親や使用人達が表立って避ける事はなかったが、あきらかに以前と距離感が変わっていった。
兄は性格だって良く、『お前はお前だ。周りの言葉なんて気にすることはない』とハーヴェイを励ますように言ってくれていたが、その頃のハーヴェイに兄の言葉を素直に受け入れる余裕などなかった。それどころか優しい言葉をかけられるほど腹が立った。
結局、ハーヴェイは逃げ出した。家に居たくない。比較されたくない。ここに自分の居場所はない。その一心で、文官になるだろう兄とは違う道、騎士という道を選んだのだ。
そんな不純な動機だったため、最初の頃はとてもしんどかった。甘く見ていたと何度も後悔したし、辞めたいとも何度も思った。それでも続けられたのは、ハーヴェイに剣の才があったからで、能力が騎士向きだったからだろう。今では聖女一行の一人でティライス王国一の騎士とまで言われるようになった。
騎士として様々な修羅場を乗り越えてきたせいか処世術だって身についた。美しい女性の甘い誘いも威張りちらす貴族の言葉も嫌悪の含まれた嫉妬の目も……ハーヴェイの心を揺さぶるものなど一つもない。ただ柔らかな笑みを浮かべ、当たり障りのない言葉を吐く。
何を考えているのかわからない。あいつは扱いやすい。そう思われても気にしない。もう自分をさらけ出す勇気をハーヴェイは持ち合わせていなかった。
動き出したクロードに付き従いハーヴェイは賑わうホールへと足を向けた。夜会は決して踊りや食事を楽しむだけの場所ではない。どんなに面倒臭くとも、人脈を広げたり探りを入れるには手っ取り早い場所である。
例え、視界の端に映る銀髪の着飾った女性と話したくないとしても、第二王子としてクロードはホールに降り立たなくてはいけないのだ。
「そうか。無事に芽を出したか」
「はい。穢れにやられた際はどうなることかと思いましたが、民達もやっと一息つけることでしょう。それもこれも尽力してくださった殿下のお陰でございます」
「何を言う。皆が頑張ったからではないか。これからも民を頼んだぞ」
「かしこまりました」
もう何人目かもわからない相手の話を疲労感を見せることなくこなしていたクロードがすっとハーヴェイに視線を流す。視線を受けたハーヴェイは心得たとばかりに小さく頷き、クロードを柱の陰に誘導する。近づいてくるカツカツという忙しない音を聞きながら、ハーヴェイは躊躇することなく能力を使った。
目の前に広がるのは月に薄っすら照らされた花々。風に乗って微かに音楽が漏れ聞こえてくる。ここは王宮にある小さな庭だ。
ふぅ、と体から力を抜くようにゆっくり息を吐き出したクロードが近くにあったベンチに王子らしからぬ態度でどかりと座る。
「おちおち休憩もできんな」
確かに休憩しようと移動している間に彼女に捕まっていただろう、とハーヴェイはなんとも言えない表情を浮かべた。彼女、オリビアは伯爵家の娘である。クロードが言葉を交わしている相手が爵位持ちばかりであるが故に娘でしかないオリビアは話に割り込んでくるという無作法をしてはこなかったが、移動中ならば話は別だ。聖女であるオリビアがクロードに接触すると、皆は気を使うのか話しかけてこなくなる。ただの貴族の娘という扱いができないのだ。
聖女、それはとてつもなく厄介な肩書きであった。
「必要な挨拶も済ませたし、兄上がいれば私がいなくてもいいか」
「よろしいかと存じます」
実際は、よろしいかよろしくないかと言えば後者である。夜会に出席する者達にとっては聖女一行として世界を救ったクロードやハーヴェイとお近づきになれる数少ない機会なのだから。
だが、ハーヴェイに聞くあたり、すでにクロードは夜会に戻る気がないのだろう。きっと一度王族席に戻り、両親や兄に挨拶をして去ると言うに決まっている。案の定、ハーヴェイの読み通り、クロードは挨拶を済ますとそそくさと会場を後にした。
国王が「オリビア嬢とは話したのか」と聞いてきていたが、クロードはニコリと笑うだけで答えることはなかった。隣で王妃と王太子は苦笑いを浮かべている。真面目で素直に育っていた第二王子は、旅によってまた一つ大人に成長したということだ。つまり、自分の意に沿わない親の意見に反発することを覚えたのである。
もちろん国に迷惑をかけることはない。ちょっと遅れてやってきた反抗期のようなものであろう。
浄化の旅は彼らに様々なものを与えた。それはハーヴェイにも言えることだ。
クロードを無事部屋まで送り届け、仲間の近衛騎士に引き継ぎを済ませたハーヴェイは寮に戻るため王宮の廊下を通り抜ける。途中でぬけたせいで遠くからは今だに賑やかな音が聞こえてきていた。
ふっと背後から人の気配を感じたハーヴェイは足を止め、振り返る。
「なにか私にご用でしょうか?」
「あ、あの……」
突然ハーヴェイが振り返った事で驚いたのか、ピクリと肩を揺らした薄紫色のドレスを纏う女性は、高くか細い声を発しながら近づいてきた。歳は十六、七くらいか。まだデビューしてまもないように見受けられる女性は不安げに瞳を揺らす。ハーヴェイはもしや迷子にでもなったのか、と考えを巡らせたが、次に女性が口にした言葉ですぐに状況を理解した。
「わたくし、アゼルディア伯爵の娘エミリアと申します。突然のことで大変申し訳なく存じますが、ハーヴェイ様にお願いしたいことがあり、こうして参りました」
「お願いですか? 私が叶えて差し上げられるかわかりませんがお話は伺いましょう。しかし、エミリア嬢。このような人気のない場所にお一人でいらっしゃるのはあまり褒められたことではありませんよ。ましてや男性と二人きりになどなれば、どこで誰に見られるかわかりません。変な噂がたち貴女のような可憐な女性が苦しむ姿を私は見たくない」
ハーヴェイは笑みを浮かべ優しく諭す。ハーヴェイの甘い微笑みを間近で見ることになったエミリアは一瞬で頬を赤く染めながら首を横に振った。
「構いません。 それがハーヴェイ様とならば尚のこと。わたくし……ハーヴェイ様を陰ながらずっとお慕い申し上げておりました。けれど、先日父が縁談を進めていると知り、居ても立っても居られなくなってしまって。ハーヴェイ様、どうかわたくしを攫っていってくださいっ」
「そ、それは……」
「では、一夜だけっ! 一夜だけでもわたくしを愛してくださいまし」
胸の前で爪が食い込むほどに手を握りしめ、瞳を潤ませるエミリアの姿をハーヴェイは困ったように眉を下げ見つめていた。エミリアの言葉は貴族令嬢として、いや女性としても、はしたないと切り捨てられてもおかしくない台詞である。
けれど、ハーヴェイはそれほどまでに自分を求めてくれることを素直に嬉しいと思った。そして同時に、自分のどこを見て好きだと言ってくれているのかとも思うのだ。
ハーヴェイはエミリアと話した記憶がない。いや、浄化の旅から帰還した後、様々な夜会に呼ばれていたので、その際に話した事があったのかもしれない。だが、話しかけられすぎて全く覚えていない。
つまり、ハーヴェイは特別なことをしていないのだ。笑顔を貼り付け、当たり障りのない会話をする。もはや深く考えなくてもできてしまう事を繰り返していたに過ぎず、記憶にないということはエミリアにも同じ対応をしていたことになる。
ここでなんだかんだ流されるのが昔のハーヴェイだった。さすがに婚約者も決まっていないような娘を抱くことはなかったが、キスくらいはしていたかもしれない。それで相手が満足するのなら、丸く収まるのならいいじゃないかとすら思っていただろう。
ふっとハーヴェイの頭の中に一人の人物が浮かんでくる。いつも誰にだって優しい笑顔を向ける彼女は、ハーヴェイにだけは眉間に皺のよった不愉快そうな表情を向けてきた。
『言い寄ってくる女も上手くあしらえない男はお呼びじゃありません』
胸にちくりと棘を刺してきた言葉。言い訳の言葉も思いつかない。
「ハ、ハーヴェイ様?」
笑みを浮かべたまま反応のないハーヴェイにエミリアが遠慮気味に声をかける。不安と期待が混ざり合ったエミリアの瞳を見たハーヴェイは意を決したようにすっと小さく息を吸った。
「貴女のお気持ちはとても嬉しく思いますが、私はその気持ちにお応えすることができません」
「っ! な、なぜですか? だって今までーー」
ハッと慌てて言葉を飲み込んだエミリアだったが、ハーヴェイはエミリアが言いたかった事が容易に想像できた。
『だって今までいろんな女性と一夜の関係を持っていたでしょう』と。来るもの拒まず、女性好き。それが社交界におけるハーヴェイの評判だ。あながち間違いでもないので否定もしていない。だが、それでは駄目だとハーヴェイはわかってしまった。
「……大切にしたい人ができたのです」
「え?」
「好きな女性がいるのです。ですから、そんな気持ちを抱いたまま貴女に答えることはできません」
「そんな……私は」
縋るように伸ばしてきたエミリアの手をハーヴェイが取ることはなく、申し訳ないと頭を下げた。頭の先でエミリアが力なく腕を下ろしたのがわかる。そのまま走り去る靴音を耳にしながらハーヴェイは重い息を吐き出した。
人と向き合うのは精神的にきついものがある。今まで避けてきたからこそ尚更だ。でも、もう逃げてはいられない。
ハーヴェイは感じる疲労を吐き出すように髪をかきあげながら顔を上げる。そして、不自然な体勢のまま固まった。
木の上にある小さな影。全く気配を感じなかったが木の枝に腰掛け足をぷらぷら揺らしているその人物を見間違えるはずはなく、ハーヴェイはなんとも言えない表情を向けた。
「あの子、泣いていましたよ」
「なぜここに?」
「ちょっとセルベト様からお遣いを頼まれていまして。その帰りです」
木の葉の影になっていて表情は見えないが、いつもと変わらぬ優しげな笑みを浮かべているだろうことは簡単に想像ができた。
「断るにしても、もう少し言い方があるでしょうに」
「……全部見られていたようだね。彼女は私のような男のことをすっぱり切り捨てた方がいいんだよ」
「そのためにあんな言い方を?」
「まぁ、嘘ではないしね」
ハーヴェイは笑みを消し、真っ直ぐ木の上の人物を見つめた。彼女は動揺する様子もなく、すっとその場に立ち上がる。葉の陰から出てくる気はないようで、ハーヴェイに背を向けると音もなく姿を消した。
残されたハーヴェイはいつの間にか止めていた息を吐き、全身から力を抜く。何度も命のやり取りをしてきたハーヴェイだが、今までで一番緊張したかもしれない。腰に下げている剣を何度も撫で、心を落ち着かせる。
『貴方様の誠意は受け取ります』
彼女の去り際に耳に届いた微かな声。
「あぁ、どうして」
たったそれだけの言葉で落ち着かなくなるのだろう。繕うことが得意であった自分が、一番良く見せたい相手の前で仮面をかぶる事に失敗してしまう。
なのにそれが心地よくて、もう手放せなくなってしまった。いつからなのかもわからない。それでもーー
「君が好きで堪らないんだ、サリーナ」
月夜が隠した彼女の姿をもうすでに求めている。ハーヴェイの頭の中は、次にヘルムリクトへ行けるのはいつかということでいっぱいになった。
「でもその前に兄上に手紙を書こうか」
浄化の旅でハーヴェイはかけがえのない存在を見つけた。その存在を射止めるためならば、今まで逃げてきた相手に向き合う勇気も湧いてくるから不思議だ。
騎士としても、男としても、己はまだまだ成長しなくてはいけない。いや、してみせる、とハーヴェイは剣に誓う。
剣を振るう時しか自分を見いだせなかった男は、仮面を外しありのままの自分でいられる場所を手に入れるため奮闘するのであった。