苦労王子の憩いの場
本編終了して少し経った頃。
雲が多いせいで月や星を拝むことができない夜は、貴族達にとってなんとも味気ないものであろうが、行動を起こす格好の夜となる。
自室で自ら平民が着るような服に着替え、迎えを待つ。ドアを叩く小さなノック音に返事をすれば、普段の騎士服ではなく同じ平民のような服を纏ったハーヴェイが部屋へと入ってきた。
「頼んだぞ、ハーヴェイ」
「かしこまりました、クロード殿下」
そう言うとハーヴェイはベランダへ続く窓を開け振り返る。クロードがハーヴェイの肩に触れた瞬間、ぐらりと身体と視界が揺れる。それが何度か繰り返され、落ち着いた時に目の前に広がるのは見慣れた林であった。
ハーヴェイの後に続き目的の場所まで歩く。遠くの方から聞こえてくる騒がしい音に自然と口元が緩んだ。
「到着いたしました」
「ああ」
暗くてよく見えないが、花の香りが僅かに漂う二階建ての建物。中がほんのり明るいということは、まだ一階にいるということだ。その証拠に騎士らしくびしっと背筋を伸ばし立っているハーヴェイであるが、目がお菓子を差し出された子供のように輝いている。
クロードは笑うのは可哀想だと必死に耐えながら建物の扉に手をかけた。カランカラン、と可愛らしいベルの音が響き渡る。
「お邪魔するよ」
クロードの声に反応したのはカウンター席に座っていた建物の住人の一人、サリーナだ。サリーナは振り返りクロードを確認すると、ふふっと優しい笑みを浮かべた。
「お久しぶりですね、クロード様」
「最近忙しくてな」
「紅茶でよろしいですか?」
「頼む」
すっと音もなく立ち上がりサリーナは奥へと消える。斜め後ろから落ち込んだような重い空気が漂ってきて、クロードは静かに「ハーヴェイも好きにしていろ」と言葉をかけた。
何とも情けない命令であるが、ハーヴェイは「はっ!」と騎士の礼を返し、一目散にサリーナの後を追っていく。その姿に耐えきれずクロードは吹き出した。
クロードは近くのテーブルに腰をかけ、持ってきていた本を開く。奥の方では賑やかな声が飛び交っているが、気になることはない。むしろ心地よいくらいだ。
この時間が今のクロードにとって唯一の癒しであり、息抜きである。
穢れが浄化されたとはいえ、まだ国内外どこを見ても落ち着いた様子は見られない。父である国王と兄である王太子を支え、朝から晩まで政務の毎日。聖女一行の一人としてすり寄ってくる者をあしらったり、悪事を働いていた者たちを裁いたり、穴が空いたポストの人員を確保したりと休む暇などない。それに、何故か自分に好意を寄せていると勘違いして言い寄ってくるオリビアから逃げるのも疲れてきた。
そんな時、クロードがたまに逃げ込むのがソフィアとサリーナの店だ。
ここにいる者達はクロードをティライス王国第二王子として扱わない。もちろんハーヴェイは騎士として敬ってくれるが、ここでくらいは普通に接してくれて構わないと言っている。サリーナとソフィアも任務外のためか旅の時のように頭を下げたりしてくることはないし、クレイズは……旅の頃から変わらない。
はっきり言って、クロードにとってこの店はとても居心地がいいのだ。決して王子としての政務が嫌だと思っているわけではないが、たまには少し現実から離れたくなる時もある。気が置けない仲間と深い意味などないことで騒ぎたい時もある。ゆっくり周りを気にせず本を読みたい時もある。
ふわりと鼻をくすぐる香りに誘われ本から顔を上げれば、クロードの前に紅茶と一口サイズのケーキが数種類置かれていた。
「これは?」
いつも飲み物しか出されないので、珍しいなと運んでくれたサリーナに疑問を口にする。その疑問に答えてくれたのはエプロンを外しながら奥からやってきたソフィアだった。
ちなみにクロードは今でもソフィアとサリーナの見分けがつかない。判断基準は彼女達の側に立つ男達である。
「試作品なんです。今度店のメニューに加えようと思って。よかったら感想を聞かせてください」
「ほぉ。それでは頂こう」
王族が調べられていない食事に手をつけるなど、まずありえない。ましてや、試作品を食べさせられるなんて以ての外である。
しかし、それが許されるのが彼らなのだ。信頼とは少し違うかもしれない。ただ、クロードを害して得をする者などここにはいない。それどころか、そんな面倒ごとには関わりたくないと考えるような奴等ですらある。
クロードは躊躇うことなくフォークを手に取る。一つ目のケーキを食べようとフォークをさした時、大きな声が店内に響いた。思わずクロードは手を止める。
「それは食べたら駄目だ!」
そう言って店の入り口から飛び込んできたのは、フードがとれ、男でも見惚れてしまいそうな容姿を露わにしたクレイズだった。肩で息をしている様子からして、慌ててきたようである。
クレイズの言葉に不快感を表したのはクロードではなくソフィアだった。
「なに? 毒なんて入ってないわよ。ほら、ハーヴェイさんだってピンピンしてるじゃない」
「とても美味しかったよ」
「ハーヴェイ、お前食べたのかっ!」
ニコリと爽やかな笑顔を浮かべたハーヴェイに殴りかかるクレイズ。だが、ハーヴェイに簡単に拳をかわされ、クレイズの表情はより険しくなった。
「そんなに試作品作ってたか?」
「いいえ。クロード様ので最後よ」
「おまっ……なんで俺が食べる分ないんだよ!?」
そういうことか、とクロードは静かに納得した。つまり、クレイズは試作品にありつけておらず、ハーヴェイとクロードにだけ提供されたようだ。
「だいたい、ハーヴェイが食って、俺が食えない意味がわからねぇ。俺は……従業員だろうが」
浄化の旅を始めたばかりの頃、クレイズはフードをかぶっていて表情がわからなかったが、感情をぶつけるタイプではなかったのは確かだ。口が悪く文句も言うが、声を荒げることなどしなかった。
しかし、今はどうだ。美しい顔を歪め、大きな動作でソフィアに必死に訴えかけているではないか。健気すぎて涙が出そうである。
「だって好きじゃないでしょ?」
ボソリと呟くような小さなソフィアの声に皆の動きが止まった。クレイズなんてポカンと口を開けたまま固まっている。
「な、なにが?」
「だから、貴方甘いもの好きじゃないでしょって。あんまり食べてるところ見たことないもの。ハーヴェイさんとかクロード様は嫌いじゃないようだし参考になると思って。えっ、好きだった?」
首を傾げたソフィアを見てクレイズの耳がみるみる赤く染まっていく。それを横から眺めていたクロードは面白くて笑いそうになるも、笑うのは邪道かとケーキに視線を落としやり過ごした。
だが、そんな気づかいは無用だったようだ。サリーナとハーヴェイは我慢することなく吹き出すと、腹を抱えて笑っている。
「くくくっ……クレイズ、そんなんじゃソフィアさんには伝わらないぞ」
「ふふふっ……そうね。ソフィア、彼は食べれなくて怒ってるわけじゃないのよ?」
「え? 違うの? てっきりそうだと。じゃあなんで?」
ここでクロードも堪らず吹き出した。周りのみんなが笑い出したことにソフィアは困惑した表情を浮かべ、クレイズは耳を染めたまま周りを睨みつけている、が全く怖くない。むしろそれがさらに笑いに繋がる。
「くそっ。もういい。お前ら勝手に笑ってろ。お前はこいっ!」
「え、ちょ! 引っ張んないでよ!」
ぐいぐいとソフィアの腕をとり、奥へと向かっていくクレイズとソフィアの背にクロードは言葉を投げ飛ばす。
「おい、クレイズ。半分残しておいてやろうか?」
クロードの言葉を受けたクレイズは一旦その場に立ち止まると、首だけ動かし振り向いた。そして一言「そうしてくれ」とだけ残し、そのままソフィアを連れて奥へと消えた。
「クロード様は優しすぎますよ。そんな小さなケーキ食べちゃえばいいんです」
「そうですよ。クレイズがちゃんと言えないのが悪いんです。男は決める時に決めなきゃいけないんですから」
「さすが、女性の扱いに慣れていらっしゃる方のご意見は参考になりますね」
「え、いや、そういう訳じゃ! ちょっと待ってくれサリーナ。俺はな、そうじゃーー」
スタスタとハーヴェイの言葉に耳を貸すことなく歩き去るサリーナの後をハーヴェイが追いすがるように着いて行く。
あれもこれも、よくある光景。うまくいっていないように見えるが、じきに収まるところに収まるだろう、とクロードは本を再び開く。
紅茶を飲んで、本を読む。時々友人と言葉を交わし、笑いあう。
普段と違う騒がしさが心を温かくしてくれる。普段と違う時間の過ごし方が心を穏やかにしてくれる。
そしてまた明日から、クロードは忙しい生活に身を沈めるのだ。無理難題を解決し、山を作る書類とにらめっこをして、追いかけっこを逃げ切り、いざこざを収める。
決して楽ではないが苦ではない。いや、旅をする前よりは気持ちが軽い。
何故ならクロードは息抜きができる場所を手に入れた。