恋の種が芽吹いた瞬間
空気を震わす美しい声、心に染み込む旋律。辺りには小さな光の粒が青く染まった空へと舞い上がり、その中心では銀色に輝く長い髪を風に靡かせ女性が佇んでいる。
何度も見てきた光景だが、久しぶりに見たそれを男は小さな岩に腰掛け深くかぶったフードの隙間から黙って眺めていた。
「魔獣化した動物との戦いもすっかり慣れたものだな。だてに救世主と呼ばれていただけはある」
「……お前に言われると馬鹿にされている気にしかならない」
メンバーの中で一番活躍するのは、この気安く話しかけてくる男、ハーヴェイである。背筋をすっと伸ばし、辺りへの警戒を緩めることなく近づいてきたハーヴェイに対し、クレイズは不快そうに眉間に皺を寄せた。もちろんハーヴェイには見えていないが、不満であると声だけでビシビシ伝わってくる。
「それは考えすぎだ。俺達は共に旅する仲間だろう?」
「仲間、か」
クレイズはついこの前別れたばかりの女性を思い浮かべる。癖のある亜麻色の髪、我の強そうな緑の瞳、真っ白な肌に滅多に緩まない小さな口。
「ハーヴェイ様、クレイズ様、この後の旅の進路についてご相談があるとクロード様がお呼びです」
ちょうど想像していた人物と瓜二つの女性が目の前に現れる。しかし、クレイズは小さく首を振った。
「やっぱり違うんだよな」
あいつはそんな優しげな笑みを浮かべはしないし、困ったような顔で首を傾げたりもしない。きっと不愉快そうに表情を歪めながら「なにが?」と聞き返してくるだろう。
ハデスト帝国の城から旅立って二週間ほどが経ったが、クレイズの心にはずっとソフィアが居座り続けていた。
「どうかしたのか?」
ぼんやりしているクレイズを心配したハーヴェイの問いかけに、クレイズはボソリと呟き返す。
「俺たちは仲間なのか?」
「もちろん」
「じゃあお前とあいつは?」
「あいつ? ……あぁ、サリーナの妹のことか? それはもちろん仲間だ」
ハーヴェイの言葉を受けてクレイズの表情が険しいものへと変化する。
「それは気にいらねぇな」
「は? 何を言ってるんだ。あんなに活躍してくれた彼女を仲間と言わずになんと呼ぶ」
「そう言うことじゃない」
ハーヴェイとサリーナはクレイズが何を言いたいかわかるかと確認するように顔を見合わせるが、どちらも首を横へと振った。
クレイズがこんなに話すのも珍しい事だが、話している内容がつかめなければ同じ事である。サリーナはこんなクレイズと上手く仕事をしていたソフィアに尊敬の念を送った。
「悪いがもう少しわかりやすく話してくれるか? 何故、俺が彼女と仲間じゃ気にいらない?」
「あいつにとって俺は仲間らしいからな」
「……つまり、俺と一緒の括りっていうのが気にいらないと?」
「……ああ、そうか。それで気にくわないのか」
何故かハーヴェイの言葉を受けて納得したように頷くクレイズに、自分自身理解してなかったのか、とハーヴェイは若干呆れたようにため息を吐いた。
そんな二人のやりとりを一歩下がったところで聞いていたサリーナは素直に感心していた。
「クレイズ様はソフィアから仲間と言われたんですか?」
「ん? あ、ああ」
「そうですか」
「何か問題があるのか?」
「いえ……」
サリーナは少し考えるように押し黙ると、顔を上げ、クレイズへと視線を向けた。その表情はどこか寂しそうであり、嬉しそうでもあった。
「凄いですね、クレイズ様」
「何がだ?」
「ソフィアに仲間認定されたことです。あの子が闇の世界で仕事をする者以外を仲間として認めたなんて初めて聞きました」
ハーヴェイはソフィアを仲間と言っているが、それは一方的なものであるとサリーナは理解している。ソフィアにとって聖女一行は任務の中で守るべき対象、或いは関わりたくない相手くらいの存在だろう。
しかし、ソフィアはクレイズを仲間とした。クレイズはソフィアやサリーナとは違う世界の住人である。それどころか王宮魔術師だ。
「それは凄いことなのか?」
「はい。とても」
ソフィアとクレイズはハデスト帝国でどんな生活を送ってきたのだろうか。たしかにソフィアは変わった。少ししか会話は交わせなかったが、確実にハデスト帝国にいる間にソフィアの中で何か変化があったはずだとサリーナは確信している。
それはやはり別れ際にキャメルが言っていた通り、クレイズが何か関係しているのかもしれない。
そして、クレイズもまた変わったとサリーナは感じている。動作に変化があるわけではないが、纏う空気や言葉が変わっている。
クレイズの事情をソフィアから知らされているせいもあるだろうが、以前までの近寄りがたい雰囲気が薄くなっているからこそ、今のようにハーヴェイやサリーナが話しかけられているのだ。
「なるほど……クレイズ、君はサリーナの妹さんにとって少し特別なのかもしれないな」
「……特別」
クレイズの呟きは、強い風が辺りの木々を大きく揺らしたせいでかき消えた。聖女オリビアの歌声も止み、束の間の静かな時間も終わりかとしみじみ思いながらサリーナがオリビアの立っている場所からクレイズへと視線を戻した瞬間、すっと視界の色が鮮やかな青に染まる。
そこにいたのは、クロードのような威厳ある凛々しい顔立ちでも、ハーヴェイのような男らしい顔立ちでもない、中性的で美しいという言葉がぴったり当てはまる、そんな男だった。
共に旅をしてきたが、始めて拝んだその顔にサリーナは一瞬息を止める。誰だ、そんな感想を抱きそうになるが、彼が着ているのは見慣れたローブで、ただ風でフードが取れただけである。
サリーナはハーヴェイを盗み見た。驚いたように目を見開いているあたり、ハーヴェイも初めて見たようである。
しかし、我に帰るのが速かったのはハーヴェイの方であった。すぐさまクレイズとオリビアの間に入るよう立ち位置を変えるのは、さすがという他ない。オリビアがクレイズの容姿を見れば、確実に面倒なことになる。クレイズには悪いが旅の間はフードをかぶり続けてもらおう、とこの時サリーナもハーヴェイも思った。
二人の気持ちなどつゆ知らず、何か考え込んでいるクレイズはフードが取れていることさえ気づいていない。ハーヴェイはオリビアが気がつく前にフードをかぶってもらおうと声をかけようとして、そのまま固まった。
「それは悪くないな」
そう言って口の端を僅かに上げ、夜空を取り込んだ瞳をふっと緩めたクレイズの表情がとても魅惑的で、ハーヴェイとサリーナが復活するまで暫し時間を要したのだった。