始まりはいつも緩やかに
キッチン付きの、広間にある木造のテーブルに着き、アスは朝食のパンを口に放り込んだ。
モグモグと咀嚼しながらため息をつき、アーサーとは本当に不思議な出会いだったなと思い返した。
そしてこいつは厄介な奴だとじろりと見つめ項垂れる。
剣を抜いて三年、アスは聖域に住むことを決め、今まで過ごしてきた。魔王と戦うなんて自分には無理な話だと感じたし、勇者なんて柄ではない。だから新しい勇者が現れるまで待つことを選んだのだ。
「なぁアスよ。聖剣を手にしたのだから、この美しい世界を旅しないか?」
「しない、めんどい」
この冒険好きが、ワクワクした目でこちらを見るな!と、アスは思いつつも、食卓を片付けて洗濯に取りかかるべく家を出た。
そこは日だまりに包まれた小さな平原が広がっていた。青々とした緑と綺麗な青空が広がっている。
木々に紐をくくりつけ作った簡単なつくりをした物干し場で、今日もせっせとたらいに水を入れ、洗濯板でごしごしと服洗っていると、その姿を見にアーサーがひょっこりと顔を出した。
どうやら外に連れ出すことを諦めてないようだ。
実のところ一人と一柱の神という生活は忙しい。炊事、洗濯、掃除、狩り、これら全てアスの仕事である。アーサーが御飯を用意してくれるわけはないし、そもそもやらせるという考えが浮かばない程、アーサーは不器用すぎて使えないのだ。
全く困ったものだとしかめっ面で洗濯していると、アーサーがそわそわとしながら顔を覗き込んできた。
「アスは勇者とか憧れ……」
「……たりはしない。オレは忙しいんだよ。オレに構わないで、勝手に一人で冒険でもしてくれ」
そう言えばアーサーががっくりと項垂れて去っていくので、少し言い過ぎたかと思いつつ、家に入っていくその背を見つめた。
洗濯も終わり、風になびくシーツと穏やかな景色に、アスの気持ちは落ち着いていく。雲よりも上に聖域が存在しているためか、雨が降らず、天気を気にせず洗濯できるのだ。聖域万歳である。
今現在アスの中では、自分は聖域の守護者という考えに行き着いてる。何せ色々登ってくるのだ、ここは。聖剣を手にしようと目論む輩がわんさかと。だから放っておけないという気持ちもあって、ここに住んでいる。
「今日は誰も来ないから平和だなぁ」
寂しくはないかと聞かれたら確かに寂しいが、アーサーがいるから過ごしていける。食べ物も水も聖域にはあるので外へ出る必要がないから、アーサーの要望には応えてやることはできない。だから外へは本当にアスを必要とする大事が起きない限り出ない。
すまないなとそんな事を考えた瞬間、聖域の玄関口である女神の踊り場辺りでどんと爆音がして、アスは走り出した。
何かが聖域を侵そうとしている。
久しぶりに手に取ったナイフと、痺れるような殺気に心が踊る。爆音を聞く限り、どうやら相手は人間ではなさそうだ。
どんという激しい音と共に、鳥は羽ばたき、動物達が逃げていく。その先に獲物がいると思うと、期待に胸が膨らんだ。
急げ急げとぐんぐんスピードが上がっていく。こうなったアスに追い付けるものはそう居ない。茂みを抜け、獣道を駆ける足は軽やかだ。
まだ見ぬ聖域を脅かす強敵の出現に自然と笑みがこぼれた。崖を飛び越え、森を突き抜けた先、聖域の玄関口である女神の踊り場にたどり着いた。そこには赤い肌をした人の腰元位の高さの小鬼であるゴブリンが数匹居て、アスは驚いた。
「魔物が聖域に入り込んでる」
こんなことは初めてだった。聖域は清浄過ぎて、普段ならば魔物という不浄のものが入ることはできない。何故なら、目には見えない結界がはられているからだ。それをどうやって越えたのだろうかと疑問がわく。
ゴブリンはそれほど頭のいい種族ではない。主に森を拠点にしており、街道を通る隊商を狙うような魔物だ。崖をはいのぼるなんて器用な真似はできない。
だからこの場合、結界を潜らず聖域の中に突然現れた。ということが、一番しっくりくる。
そうなると、聖域に入るための転移魔法を使うしか方法がない。でもそれは不可能な話だ。転移魔法をゴブリンが覚えるには圧倒的に知能が足りないのだ。魔術が使えるゴブリンメイジだとしても、それは言えるだろう。
だとしたら人間だろうか。しかし人間が魔物を寄越してくるわけがない。ここは中立地帯、聖域だから誰も手を出せない筈だ。となると、可能性から考えて、魔王の仕業なのではとアスはそう結論づけた。
ゴブリンたちが持ちこんだのは樽爆弾のようである。かなりの数があり、一気に爆発すると、聖域といえども影響は少なくないはずだ。しかし、無傷で手に入れることができたら、物置小屋で眠っている銃が使えるようになる。
わくわくしながらやってきて、ゴブリンという酷く低級の魔物が相手ということが分かり、がっかりしていたが。火薬という魅力的な宝を前に、どん底であった気持ちが浮上する。
そして、この聖域に入れるだけの力を持っているのだ。きっと楽しませてくれるのではと、僅かな希望を抱いた。
「我等ゴブリン族がこの聖域を支配したのだ。聖剣とやらを破壊するぞ」
かなり意気込んでいるようだが所詮ゴブリン。知性の欠片も見えなければ、品性もない。やはりどう見てもただのゴブリンだった。いつまでも隠れていても仕方がないと、アスが茂みから姿を現せば、ゴブリン達にとっては突然のことだったらしく、驚かれ警戒の目を向けられた。
「貴様、何者だ」
「オレ?」
突然の問いかけに驚く。やはりそれなりの知能はあるようだ。でもそれもゴブリン族の中での話だけれど……
「オレの名前はアスライル・カルバネーラ、一応仮で聖剣の守り手をしている」
「仮だと、このゴブリン族の長であるこのオレを前に仮だと。このチビが」
「チビ言うなし。というか、たかだかゴブリンの癖に生意気なんだよ。お前らにはこの聖域は早すぎるだろう。それに口の聞き方覚えろ。力量の差も分からないお前らは身ぐるみ剥いでサヨナラだ」
アスはナイフを引き抜くと、腰を深く落とし、唇をペロリと舐める。久しぶりの戦闘だ。相手がゴブリンだろうが手を抜かない。
そして次の瞬間、目にもとまらぬ速さで駆け出した。速く、速く、速く、音の速さを越えて、ゴブリン達の合間を縫うように走り、ナイフを滑らす。気付けばゴブリン達は、するりと身ぐるみを剥がされ、転がされていた。
とうのゴブリン達は、一体何が起きたのか分からないといった様子で放心している。なんの歯ごたえもなかったことに少しがっかりしつつ、アスは女神の踊り場からゴブリン達を蹴落とした。
「やる気が出たらまた遊びに来いよ」
ゴブリン達は悔しそうな声を上げて落ちていった。
火薬にブロンズナイフ、ミスリルハンマー。所持品を見て思う。やっぱり普通のゴブリンの装備だ。
聖域までゴブリンを転移できる何者かが確実に存在している。何か悪いことが起きるような、そんな前兆のようなものが感じとられた。
すると女神の踊り場の下からアスの名を呼ぶ声がして、アスが下を覗くと、一人の兵士が登っているのが見えた。アスはロープを垂らし兵士を迎え入れた。
短く切られた茶の髪、くりくりとした緑色の瞳、そしてそばかすのある顔、背の高い青年が笑みを浮かべた。彼は星空の国アルカディアからの使者で、名はルーク・キャロラインという。アスは息切れしているルークのために、湧水を酌み手渡した。
助かりました。と、ルークはごくごくと水を飲むと息を整えた。
「新たな勇者様をご案内していたのですが、途中の崖で音を上げて逃げ出してしまい。それと同じくして戦争が始まり、下山が難しくなったので、しばらく置いて貰えないかと思いここに来ました」
アスの出方を伺うルークにアスはくくっと笑うと、その背を嬉しげに叩き歓迎すると、視線を下界に向ける。
戦争か……と、ため息をつく。確かに東の平原に、蟻よりも小さな群れと群れがぶつかりあって、火花を散らしているのが見えた。どうやら戦っているのは妖精の国ティルノナーグと、幻惑の国イースのようだ。
この世界には10の国と呼べる縄張りがある。
妖精の国ティルナノーグ
幻惑の国イース
星空の国アルカディア
海原の国オリュンポス
桃華の国桃源郷
雷鳴の国ムー
英霊の国アヴァロン
神代の国出雲
死者の国黄泉
天上の国ヴァルハラ
種族も価値観も異なる国が10もあるのだから、こうした小競り合いはよく起きている。
「魔物そっちのけにして暴れていると、魔王に攻めこまれるだろう。何考えてるんだあいつら」
「ティルナノーグからイースが妖精を拐った。とかじゃないですかね」
それはあるかもしれない。イースは妖精を使役し発展した国だ。だから大々的に妖精を乱獲した可能性がある。それに対して、ティルナノーグの女王が怒ったのかもしれない。
「まぁでも下界のことに口出しするつもりはないしな。見守るしかないな」
アスのその言葉にルークは驚きを隠せず目を丸くしている。ティルナノーグの領土に、聖域が含まれているからだろう。
「イースが攻めてこようが、この聖域はオレが守るだけだ」
そう言えばルークはうーんと唸りながら空を見たが、1つの考えに落ち着いたのか頷き、アスを見つめニコリと笑った。
「確かに勇者を敵に回すってことは、滅亡を意味しますしね。国で対応しても勝てない魔王を倒せる実力は、兵器に匹敵しますから」
その言葉にアスが仏頂面をしたのが面白かったのかルークがにやにやと温かい目をしたので、アスはすかさずツッコミを入れた。
「オレは勇者じゃありません」
「分かってますって、誰もアス様にはかなわないだけですよ」
かなう勇者が欲しいと、言葉が喉元まで出かかったが止めた。自分よりも強い相手なんて、今のところ発見できてはいないのだから。
「ルーク、お前を鍛えてやろうか」
「それ死んじゃうじゃないですか。嫌ですよそんなぁ」
笑って返され、アスは小さく息をつく。聖域まで来られる人間は少ない。ルークは気付いていないが、彼にも可能性はある。ただ本人にやる気がないのと、大切な友人を失いたくはないというアスの思いから、その選択肢は初めから存在していなかった。
「本物の勇者は一体どこにいるんだろうな」
アスの口から零れた言葉を、聞くものは誰も居なかった。
のんびりと石造りの階段を登る。手すりはない。人一人が通るのが限界のこの階段は崖になっており、女神の腕と呼ばれている。
女神の腕は聖域の両端にある道で、険しく強風が吹きすさぶ危険な場所だ。
しかしアスはふらつくことなく、樽爆弾を抱え登っていく。風の声を聞きながら歩いているため、強風に煽られることがないのだ。
そんなアスを感心するルークに、アスは少し照れ臭くなり慣れればどうってことないとそっぽを向いた。
「オレのことより逃げ出した勇者の心配をしたらどうだ」
「崖の中腹で逃げ出したので、どうしたのだろうなとは思います。下にはスリープフラワーの森もありますし、少し心配ですけどね。
まあでも妖精が出払っているので森の中で迷うことはないでしょう」
それもそうかと話しているうちに女神の腕を抜け、小さな平原にたどり着いた。ここは女神の息吹と呼ばれている。先程までの強風が嘘のように感じられるほど柔らかな風が吹き、草木を揺らす。
アスの家はこの付近にある。巨木の虚に構えた、古めかしい木とレンガで出来たこじんまりとした家がそれだ。その家から飛び出してきたアーサーがこちらに気付き手を振る。
「ルークではないか。久しいな」
「アーサーさんもお変わりはないようですね」
ニコニコと語り合う二人を置いて、アスは物置小屋の前に樽爆弾を置くと、どっかりと座り、慎重に樽を解体していく。新たな樽に少しずつ火薬を移して、次には薬莢に火薬を詰める。そして出来た銃弾を装填し、試し射ちをした。
「良さそうだ」
銃を腰のベルトに引っかけ上機嫌だ。物置小屋は少し埃っぽくて、色々な書簡や地図、それから武器がしまわれている。石造りのそこはちょっとした工房のようだ。剣を打ち直す炉もここにある。アスは、そこに樽をしまうと家に戻った。
扉を開ければ陽気な声が聞こえてきて、少し心が弾む。入るとすぐに見えるキッチンつきの広間。ゆったりとしたそこには、既にアーサーとルークが待っていて、アスは笑みを浮かべる。
「アス様、アーサーさんお腹すいたみたいですよ」
「おやつは却下だ」
アスが居ない間にアーサーがこっそり甘辛豆を食べていたであろう痕跡を見つけた。甘辛豆というのは、その名の通り豆を甘辛く煮たものだ。豆は栄養価が高く長持ちする貴重な食材である。それをつまみ食いするとはなんたることだ。アスはじろりとアーサーを見ると、無言の圧力をかける。
「すっすまん食べた」
雷が今にでも落ちそうな位怒るアスに、アーサーはだらだらと汗をかき縮こまる。神のくせに食い意地がはっている。こればかりは何を言っても直らないので、仕方ないかとアスはため息をつき、料理を始めた。猪の干し肉を柔らかく煮詰めて、そこに甘辛豆を入れ炒めれば、簡単なおかずの完成だ。それで朝焼いたパンを用意し、食卓を囲む。
「うわぁ、アス様の手料理美味しそう」
「どんどん食ってくれ」
ルークは若いだけあって、がつがつ食べてくれるので、作りがいがある。しかも嬉しそうだ。こうしてたまに遊びに来る客人をもてなすのも、アスの楽しみの1つである。
「それでルークがここまで来たのは、他にも理由があるんだろ。」
「えっとですね。この頃黄泉がきな臭いんですよ。勇者になりそうな子供ばかりが神隠しにあっていて、黄泉への次元の扉の痕跡が少し計測されたんです」
死者の国が生きた人間を集めているというのも変な話だ。勇者を育成してくれるなら願ったり叶ったりだが、そうではないだろう。
黄泉が危険なことに手を染めようとしているのが分かる。
けどそれが何かは分からず、でもアスが何とかしなくてはならないような状況であるのは、ルークの様子からも見てとれる。ルークがこの話を持ちかけるあたり、既に星空の国アルカディアが調査隊を出したが、全滅しているのだろうとアスは読んだ。
「ルーク、留守を頼めるか」
「アス様ならそう言って下さると思ってました」
ルークは有難いといった顔をしてアスを拝んで、大袈裟だとアスは笑った。
「アスよ。外へ行くのか」
「あぁ、行くぞアーサー」
その言葉にアーサーの目が輝いて、そんなに喜ぶなとその耳を掴み引っ張ると、痛がるのを無視して家を出た。
決まったら動くのは早い。鞘を手に世界樹の根本に向かう。樹のトンネルを抜け、流れる小川を目印に、坂道を登って行けば、そこには一筋の光を浴び、世界樹の根本に突き刺さる剣があった。神々しいそれに手をかけ意識を集中させる。
この瞬間、聖剣の力がアスの体を駆け抜けて、手の甲に赤い聖痕が浮かび上がる。するとアーサーが剣に吸い込まれるように消えて、聖剣はすんなりと抜けた。
剣はまるでアスの為だけに作られたように手に馴染んで光を帯びる。その剣をアスは鞘に収めた。
「それじゃあ行こうか」
アスは来た道を駆け降りて、女神の踊り場まで一気に歩を進める。風が髪を揺らし、にやりと微笑みながら、アスは踊り場から飛び降りた。