#8「メイドと怪物と警察」
#8「メイドと怪物と警察」
【Aパート】
三年前からいつも世話になっている病院がQP/と提携していたと知ったのは、生島将星が業務に関わる特殊な診断を精神科で初めて受けた時だった。
いま将星の目の前に座っているのは、長い付き合いがある壮年の医師、里井先生だ。
「経過は良好。完治したと思ってくれて良い」
里井が満足そうに言った。
「マッチングリンクを見ても吐き気を催さなくなったと聞いた時は驚いた。この三年間、よく頑張ったね」
「ありがとうございます」
将星は深々と頭を下げた。
「先生のおかげです」
「いーや? 俺は何もしていない。心の病を引き起こす要因は人それぞれだけど、それを治す力は自分の中にちゃんと息づいている。だから、それは生島君自身の力だ。俺はそんな君の後ろに立っていたに過ぎない」
将星の脳内に保存していた名言辞書に、また新たな記述が追加された。こんな面倒くさい病状を相手に三年も粘って対応してくれた精神科医は言う事が違う。
将星はQPの間で起きるカップル成立の予報、マッチングリンクを見る度に吐き気を催すという心の病を患っていた。それは三年前に起きた事件に起因する病状なのだが、QP/に配属されて一か月も経つ頃には改善の兆しが見えていたのだ。
さっき試しに里井がマッチングリンクを題材にした古い恋愛ドラマを見せてくれたが、吐き気を催すどころか、純粋にそのドラマを楽しめた。
「何にせよ、本当に良かった。……ああ、それから」
何かを思い出したらしい、彼は机の引き出しから、別の診断書を取り出した。
「君のマイナス属性の正式な診断結果が出たよ」
「ああ……そういえば、そんなのも受けてましたねぇ」
のほほんと呟きつつ、将星はその診断書にじっくり目を通した。
マイナス属性とは、要するに負の感情から生まれた能力の事である。QP/が独自に生み出した基準の一つで、これを元に上級捜査官としての適性が決まる。
属性は『嫌悪』『否定』『絶望』『悲哀』『諦観』『逃避』『喪失』『憎悪』の八つ。QP/が最初に定めた基本属性であり、新種だと『殺人衝動』や『狂気』などがある。一見するとただの負の一面でしかないが、これらのうち一つ以上を固有の能力として昇華した特殊な人間のみが上級捜査官として選出される。
「……全八属性の値が基準値以上……俺ってそんなにネクラでしたっけ?」
「本来だったら普通の人間として生活できるレベルじゃない。でも、君にはそれらを抑制する別の何かが眠っている。おかげで現在の社交性を保っているみたいだ。これもあくまで仮説に過ぎないが」
「別の……何か」
雄大からも似たような事を言われたのを思い出し、そら寒い気分になる。
自分の中に、得体の知れない何かが眠っている感触。実感が湧かないが、だからこそ考えるだけで恐ろしい。
「君は何か、自分が妙な力を発揮しているというような心当たりは無いかね」
「無いですね。不思議な事に」
「そうか? 長官からは、「やる気に満ちた生島君は物覚えが異常に早い」というような報告を受けているんだが」
「買い被り過ぎです」
「…………」
里井が何やら目を細めている。だが、考えるだけ時間の無駄と悟ったらしい、すぐに調子を切り替えて言った。
「まあ、それも後で分かる事だ。外で空井さんを待たせているんだろう? 今日はもう帰って良いから、何かあったらまた私のところに来なさい」
「はい。ありがとうございました」
将星は立ち上がり、再び里井に頭を下げ、診察室を後にした。
待合室で付き添いの空井花香と合流し、二人は病院の敷地外に出た。
将星は晴れやかな気分を隠そうともせずに言う。
「いやぁ、わざわざ付き添いに来てくれてすまんね」
「いいえ。私も診断結果が気になっていましたし」
組織内では雄大と同じくらいには花香とも仲が良い。だから、彼女も何かとこちらを気にかけてくれているようだ。
将星は診断書の内容を思い出しながら訊ねる。
「花香ちゃん。君はたしか悲哀の属性が一番強くて、マテリアライザーの威力を大幅に強化出来る能力を手に入れたんだって?」
「ええ……まあ、条件付きですけど」
「それと似たような力が、俺の中にもあると思う?」
「んー……」
花香が眉根を寄せて考える仕草をする。
「強いて言うなら、欲張りってところですかね」
「何じゃそら」
「普段はそうでもないのに、仕事の時は……そう、将星さんからは何か足りないものを求めているような感じがします」
「ふーん……?」
足りないものを追い求める。
それはつまり、足りない何かに飢えている――という事か。
「分かりました!」
花香が突拍子も無く言った。
「もうそれ、第九のマイナス属性にしちゃいましょうよ」
「はあ?」
何を言い出したんだ、この娘は。
「何ですか、その如何わしいものを見る目は」
「いや、だって……君の独断でQP/の基準が動く訳無いだろ」
「でも、具体的な能力は判明してるんですよね。だったら、後は名前を付けるだけじゃないですか」
「名前?」
「例えば……そう、『飢餓』!」
将星の内心深くあった部分を、なんと花香が言い当ててしまった。
「常に飢えてる心理状態。それはつまり、飽くなき探求心を象徴します。何でもかんでも調べたがる将星さんにはピッタリかと思いますけど」
「なんちゅーデタラメな――」
疑問に思ったところで、将星の視線は自然と木陰の一つに移った。
緑葉が青々と茂った大きな木の下で、一組の男女が何かを語らっている。すると、彼らのQPがそれぞれ桃色の波長を垂れ流しにして、手を取って仲睦まじく身を寄せ合った。
あれがマッチングリンク。QPに記載されたプロフィール情報から、それぞれお互いにとって的確な恋人候補を付近から見つけ出す機能だ。
将星は長年、この現象の視認に苦痛を覚えていた。しかし。
「……うん、何も感じない」
「どうやら本当に完治したみたいですね」
花香が優しく微笑んだ。
「将星さん。この後、雪見さんの喫茶店に行きませんか? 完治祝いです。今日のお代は私が持ちます」
「ゴチになりやーす、先輩」
二人は並んで歩く。
今日はいつもより、お互いの肩と肩の距離が近かった。
●
喫茶店・シロサワの店内は、将星のクラスメート達で埋め尽くされていた。
この様子を、将星と花香は玄関口で唖然として眺めていた。
「ただの貸し切り……って訳じゃなさそうだな」
「何があったんでしょうか」
店の隅に星乃や慎之介がいるのはともかくとして、全員の表情が一様に沈み込んでいる事から、これが単なるパーティーだとはさすがに思い難い。
「おお、将星君か。丁度良いところに」
白沢雪見がウェイトレス姿で将星の前に躍り出た。
「雪見……これは一体?」
「少々困った事になった」
そう告げる雪見の面持ちは、ここにいる誰よりも暗かった。
「困った事?」
「うちのクラスのメイド喫茶が潰されるかもしれない」
「何だって?」
特に驚きはしなかったが、代わりに将星は眉根を寄せた。
「いま潰されるって言ったか? 何で?」
「うん。それが……」
「モンスターペアレントって知ってるかい?」
慎之介が雪見の隣に立ち、会話に割り込んできた。
「知ってるけど……それが何だよ」
「うちのクラスメートと、それ以外のクラスと学年の生徒の親達が、いまさらになってうちのクラスの出し物にケチを付け始めたんだ」
「たしかにいまさらだな。開催まであと一週間だぞ? 内装も料理もメイドの配役も、俺がいない間にその辺りはどうにかなったんだろ? 俺が、いない間に」
大事な事なので二回言いました。
「そう。将星がいない間に……ね」
大事な事なので三回目も言いました。慎之介が。
「君がいない間に済ませられた事もあれば、君がいない間に起きたトラブルもあるって事だよ」
「トラブル?」
「さっきも言ったろ? この出し物に文句を付けて来た親は、俗に言うモンスターペアレントなんだよ」
「どうせ「メイド喫茶なんて公序良俗に反するから駄目! 中学生にやらせる事じゃない!」とかいう反論だろ? 開催期間まで時間が無いのを理由にすれば押し切れるもんなんじゃねぇの?」
「話はもっと複雑だよ」
今度はキッチンの奥から雪見の父親、白沢正樹が参上した。
「そもそも時間が無い中でこういう文句を付けてきたのは別のクラスの親達であって、うちのクラスの親達はもっと以前からまた別の文句を付けていたんだ」
「は……はいぃ?」
話がいつもの事件と同じくらいにはこんがらがってきた。
「順を追って説明しよう。まず、最初のクレームはうちのクラスの生徒、その保護者の連中だ」
「その人達は全員、女子の親なんだ。苦情の電話を直に受け取った水谷先生によると、彼らは「何でうちの娘をメイド役にしないんだ」ってずっと言い続けているらしい」
「おいおい、お遊戯会の浦島太郎かシンデレラじゃねぇんだから……」
慎之介の説明から、将星は微かな既視感に襲われた。
二一一五年現在に発行されている歴史の教科書によると、これは二○一○年代、幼稚園のお遊戯会なんかでよくあった話らしい。
例えば、劇のお題目が『シンデレラ』だったとしよう。どの物語も基本的に主役は少数なので、シンデレラというキャラクターの役はそこらのモブと違って役者も一人だ。
しかし、ここで園児の親達が出しゃばってくる。曰く、「何でうちの娘をシンデレラの役にしないんだ、不平等だ!」とか、「クラスの女の子全員シンデレラにすれば良いじゃない!」という難癖を教職員側に叩きつけてくるのだ。
結果、立場の弱い職員が様々な検討の末に導き出した結論が、女の子全員をシンデレラ役にして、時間も無い中で無理矢理脚本を書き変えるという強硬手段だ。
また、これの男の子バージョンでよくあったお題目が浦島太郎や桃太郎である。
閑話休題。要するに、いま将星のクラスは、幼稚園レベルのトラブルによって頭を悩まされている状態なのだ。
「それだけならまだ良かった」
雪見が辟易として言った。
「問題は、期限ギリギリになってつけられた、他のクラスの親達による難癖だ」
「ああ……メイド喫茶に反対って奴?」
「そんなの、否定するなら企画検討の段階にしておけば何の問題も無かった」
文句の内容に目を瞑れば、の話ではあるが。
「でも、厄介なのがタイミングだった」
「つまり、わざとこの時期に反対意見を出してきたと。もう色々取り返しというか、引き返す事が出来ない状況になったのを見計らって?」
「おそらく、他のクラスの妨害だと思う」
「は?」
それはそれで妙な話だ。そもそもこのイベントでこちらが競い合う相手は他校であって、内輪揉めなんて以ての外だろうに。
「妨害? 何の為に?」
「原因はアレだ」
雪見が向けた目線の先には、アレこと宇田川星乃が居た。
「いまや学校一の美少女がいるクラスでそんな出し物をしてみなさいよ。イベントが始まってすぐならともかく、二日目以降は客の全てをうちのクラスに持っていかれるかもしれない。そうなれば他のクラスは体面を失ってしまう。そういう危機感がうち以外のクラス、学年に伝播したんだろう。だからそれを嗅ぎつけたモンペ共が立ち上がったんだ」
「でも、星乃ってメイド役はやらないんだろ?」
「星乃がいる。なら、星乃が絶対にメイドとして登場するだろう――そういう先入観が少なからずあったんだと思う。でも、他のクラスの連中は星乃が出ない事を知らないし、言ったところで半信半疑だろう」
「そんな……可愛い女の子一人の力で――ていうか、中学生の女子一人の存在で、そこまで大げさな話になるもんなのかよ」
「星乃の影響力がどうあれ、現状はかなり厳しい」
「実際、小道具に悪戯されてたからねぇ」
慎之介が腕を組んで唸る。
「白沢さんが当日使う予定の包丁にはガムがくっついてたり、あとガスのケーブルにもいくつか切れ込みが入ってた。爆竹も近くに何個か転がっていたし。嫌がらせを悟った白沢さんが道具や設備を再点検していなかったら当日はどうなっていた事か……」
「おい、ちょっと待て。それってガチの奴じゃねぇか」
下手をすれば困るのは雪見を始めとする厨房スタッフだけではない。火を使う料理の際にうっかり爆発事故を起こして、最悪の場合は客にも被害を及ぼしていた可能性もある。
犯人が誰にせよ、状況の悪さが実感出来る内容だ。
「将星、お願い! 何とかして!」
最後に、いままで黙っていた星乃がこちらに駆け寄り、涙目でせがんできた。
「正直、出し物は台無しになっても良いかもしんないけど……そんな事より、ゆっきーや他の人達が危ない目に遭うかもしれないだよ!」
「……そうだな」
他のクラスのド腐れモンペ共が言いたい事はこうだ。
いますぐそちらの出し物を撤回しろ。さもなくば、雪見達にはそれ相応の覚悟をしてもらう――と。
あまりにも言動や行動が幼稚過ぎる。
いや、それよりも――
「将星君。私の心配なら不要だ」
雪見がいつもの調子に戻って告げた。
「事件以外の面倒事で君の手を煩わせる訳にはいかない」
「いーや、これも立派な事件です」
将星は真っ向から断言する。
「産業廃棄物以下のクズ共が束になって何様のつもりだ? 文化祭なんぞ正直どうでも良いが、雪見を危険な目に遭わせるつもりなら容赦はしない」
言葉を紡ぐ毎に湧き上がるこの怒りは、決して自分が短気だからではない。
なるほど、この怒りが殺意という奴か。よく分かった。
「雪見。安心しろ。お前の努力を無駄だなんて誰にも言わせない」
「…………」
雪見が困惑して押し黙っている。思えば、異常な胆力を秘めている彼女が辛そうにしている様子は非常に珍しい。
だからこそ、余計に許せない。
「……別に、頼んではいない」
雪見が俯き加減に呟いた。
「私の事は私で何とかする。じゃないと、自分が情けない」
雪見がカウンターの奥にある居住スペースに引っ込んでいく。将星はそんな彼女の背中に手を伸ばした。
「お、おい、何処へ――」
「少しだけ頭を冷やしてくる」
雪見が声音だけ平静を装って告げる。
「……ごめん」
最後にそう言い残し、彼女は店の奥に姿を消した。
暗く、重たい沈黙が、喫茶店全体に重圧を生んだ。
「すまないね、皆」
正樹が父親として頭を下げる。
「あー見えて強情なところがあるんだ。それに、色々あってショックだったんだろう。少しの間で良いから、あの子を一人にしてやってはくれないか。多分、すぐ戻ってくる」
「ですね。ゆっきーは強いもん」
星乃が言った。
「それより、これからどうしようか」
「その前に、一つだけ良いかな」
クラスの女子の一人が挙手する。
「生島君の隣の子、他校の生徒だよね?」
「え? 私?」
いままでずっと状況を静観していた花香が、自分で自分を指さして驚く。
「あ……そういえば、そうですよね。すみません、いますぐお暇しますから」
「いや。君は雪見のところへ行ってやってくれ」
将星は店の奥を視線で指して言った。
「でも、いまは一人に――」
「頼む」
「……分かりました」
花香は正樹とクラスの人間にお辞儀して店の奥に引っ込んだ。これで雪見の事も一応は大丈夫そうだ。
さて。後は、今後の方針についてだ。
「……とにかく、雪見が危ない目に遭う可能性があると分かった以上、俺達に残された選択肢は三つだ。一つは親達の要求を呑んで出し物を放棄する」
「まあ、それが一番安全策だよね」
「でも、ただ尻尾を撒いて逃げる訳じゃない」
「というと?」
「出し物を放棄して、このクラスの生徒は全員ボイコットする。これでどうだ?」
「たしかに。それならうちのクラスのモンペからの追及もある程度は逃れる事が出来る。理由も別のモンペの妨害とでも言っておけば済む話だし。嘘は言ってないよね」
慎之介の解釈はそのまま正解だ。
「二つ目は、出し物の変更だ。企画段階で出し物が決まった時点でこの件は校長の手を離れているから、後から変更したって何の文句も言えない訳だ。そもそも、こういう事態に対処してない教員側が悪い。後から文句をつけられても無視すれば良い」
「でも、あと一週間の間で何が用意出来ると思う?」
「問題はそこだな。まあ、そっちは一旦置いておこう」
正直、希望が持てない選択肢なので、深く考える必要は無い。
「三つ目はそのままメイド喫茶で押し通す」
「その場合は、どうやってモンペの処理をするかだよね」
「殺す」
「まあ……うーん……駄目かな、倫理的に」
「本心は?」
「全然オッケーだと思う」
さすが慎之介。付き合いが長いだけはあってノリは良い。
「とにかく、この三つから方針を選択しなきゃいけない。皆はどうする?」
『…………』
さすがにすぐ決め兼ねるのだろう、クラスメートは全員押し黙っていた。
「それは……ゆっきー次第じゃないかな」
星乃が先に口を開く。
「顔には出してないけど、ゆっきーは文化祭を楽しみにしていたんだ。張り切って店で出すメニューを考えていたし、そもそもグダグダだった会議を纏めたのもゆっきーだし……それだけ本気だったんだと思う」
「元々人前に出るのが好きな子だったからなぁ」
正樹が深々と頷く。
「きっと諦めきれないだろう。自分が危険な目に遭うと分かっていても」
「……分かりました」
それだけ聞ければ、判断材料としては充分だった。
「雪見が結論を出す出さないに限らず、三つ目の選択肢を前提にして考える」
「そのままメイド喫茶で押し通す」
星乃が繰り返した。
「じゃあ、まずは」
「ああ。問題の大掃除からだ」
殺害以外の方法でモンスターペアレントを片付ける方法――か。
これは、いつもの戦闘任務よりも骨が折れそうだ。
雪見はカーテンも閉め切った暗い自室のベッドの上に座り込み、ただひたすら、この後の方針について考えていた。
自分の態度や我が儘でクラスのみんなに迷惑を掛けるなんて、情けないにも程がある。これなら将星に頼ってしまった方が、よっぽど気が楽だったと思う。
だからこそ、雪見は決心しなくてはならない。
続けるか、諦めるか。
「雪見さん。私です、花香です」
自室の扉の向こう側から、花香が呼びかけてくる。そういえば、そもそも何で将星と花香はうちの喫茶店に訪れたのだろう。
とりあえず、雪見は呼びかけに応じた。
「……どうぞ」
「お邪魔します……って、暗っ」
扉を開けて部屋に入ってくるなり、花香は部屋の暗さに驚嘆して、手近のシーソースイッチをオンにする。
部屋全体が一気に明るくなり、一瞬だけ瞼を閉じてしまう。
「……眩しい」
「そりゃそうですよ」
花香が苦笑し、雪見の隣に腰を下ろした。
「ねぇ、雪見さん」
「何だね」
「私は雪見さんがそうやって悩んでる姿を、正直想像出来なかったです」
「何を言うか。私も思春期真っ盛りの乙女オブ乙女だぞ」
「そうそう、そういうところですよ」
「何がおかしい?」
花香が苦笑しているのを見て、雪見がこれ以上無いくらい険しく眉を寄せる。
「冷やかしに来たなら帰ってくれないか」
「冷やかしなんてとんでもないです。むしろ、ちょっと安心しました」
「は?」
「私の中で雪見さんは強いっていうイメージがあったんです。ちょっとやそっとじゃビクともしないタフな人なんだなーって、知り合った時からずっと思ってました」
「勝手な想像だな。悪いけど、これが私の本性だ」
「それで良いと思います。そっちの方がとっつきやすいですから。私が安心したって言ったのは、そういう意味です」
「…………」
雪見は目を丸くした。おそらく、将星が相手でもここまでは驚かされないだろう。
「弱気になったって良いんです。そういう時は、誰かに頼っちゃえば良いんです。雪見さんなら、それが許される相手に心当たりはあるんじゃないでしょうか」
「……それは、駄目だ」
雪見は俯き加減に言った。
「私なんかより立派にやってる人の邪魔は出来ない。将星君に頼ったら、きっと私は私の無力さを痛感する。それだけは、嫌だ」
「え? 将星さん?」
今度は花香が驚いた。
「いやいや、将星さん以外にもいるでしょ。星乃さんとか、あなたのお父さんとか」
「え……?」
「ていうか、頼る相手が将星さんだけだってずっと思っていたんですか? だとしたら雪見さん、彼に大して相当な思い入れがあるって事じゃ……」
「いや、待て、違う! そういう意味じゃない!」
さっきとは打って変わって、雪見はムキになって反論する。
「さては貴様、この私を嵌めおったな!?」
「そっちが勝手に自爆したんじゃないですか!」
「魔性の女め……この私に奸計で勝負してくるとは良い度胸だ」
「何も考えてないですから! 別に雪見さんを陥れる気はゼロですから!」
「ぬぬぬ……天然で私を殺しに来るとは……」
雪見は一旦落ち着き、大きくため息をついた。
「まあいい。そんな事より、これから先をどうするか……だ。私はともかく、当日に来る客と他の厨房スタッフに危険が及んだら……いや、メイド役にも何らかの嫌がらせが飛んできたら……」
雪見の思考はさっきからその一点で堂々巡りしている。店のフロアで行っていた対策会議でも答えは結局出なかった。
自分の欲を優先するか、他の人の安全を優先するか。雪見の立場からすれば、答えは火を見るより明らかだ。
「でも、まだ諦めきれないんだ。普通に考えたら、諦めた方が良いに決まってるのに。自分の欲とみんなの安全、秤にかけるまでも無い筈なのに」
「……もし」
花香が一語一句、大切にするように言った。
「もし、どっちも選び取れるとしたら?」
「そんな前提、最初から有り得ない。それに、選び取れないのは私の意思が弱いからだ。決断できない、私の弱さだ」
「だったら、どっちも勝ち取れば良いじゃん」
驚いた事に、星乃が部屋の扉を開けて、中に入ってきた。
「星乃。聞いていたのか」
「途中からね」
星乃が苦笑する。
「将星から伝言。いますぐ下に降りてこい。モンペ共を抹殺するぞ……だってさ」
「抹殺って……」
「あいつ、本気で怒ってた。ゆっきーを傷付ける奴は許せないんだとさ」
「あら、男らしい事を言うじゃない」
さっきまでわざと何も言わなかったのだろう、雪見の白い小狐型QP・グレイスが、ようやくこちらの足元に姿を現した。
「私も彼に同意だわ。行きましょう、皆の所へ」
「……将星君め。この私をか弱い乙女扱いか。上等だ」
雪見は立ち上がり、腕で目元を拭った。
「奴よりも早くアイデアを出す。グレイス、行こう」
「ええ」
頼れる相手は一人だけじゃない。それどころか、人間だけじゃない。
QPにも頼って良いのがこの時代だと思うと、自分は良い時代に生まれ、良い仲間に巡り合えたものだと、雪見は内心で素直に嬉しい気分になった。
●
将星が喫茶店での会議を終えて向かったのは松陰中学だった。今日は花香と同じく非番なので、彼女も将星の目的に同伴している。
最初に足を運んだ家庭科室が例のメイド喫茶の会場だ。内装はそれらしく装飾されており、大きな間仕切り一枚を挟んだ向こう側である窓側に近い四畳半のスペースが厨房となっている。
将星はまず、厨房の台所下の収納棚を開けて中を覗いてみた。
「マジかよ。中の調理用の道具が全部壊れてやがる」
「こっちも大変な事になってます」
花香がガスレンジ下の収納棚を覗きながら告げた。
「レンジ下の収納棚を通ってるチューブの近くに簡易コンロ用のガスボンベが……あと、何故かガス銃用のガスボンベがたくさん置かれています」
「ガスの元栓は?」
「閉まってます。でもチューブに切れ込みが……」
「とりあえず、ガスボンベだけでも撤去するぞ」
花香が指示通り、収納棚に収まっていたガスボンベを全て撤去すると、将星は彼女と並んでガスのチューブに入った切れ込みを凝視する。
「臭いがしない。この厨房だけガスの通りを止めてるのか」
「とりあえず、業者に連絡を入れた方が良いのでは?」
「だな。でも同じ轍を踏みそうだ」
「家庭科室の鍵も壊されてますし」
花香が家庭科室の扉に目を遣った。
「入り口と窓側に監視カメラを設置するというのは? 一応、申請すればQP/本部の保管庫から持ち出せますけど」
「強盗みたいな格好に変装して中に突入されたらカメラがあろうが無かろうか結果は同じだ。それに、俺達の目的は犯人の逮捕じゃない」
最大の目的はやはり、開催期間中の安全の確保だ。犯人を一人逮捕したところで、この悪質な嫌がらせが複数犯によるものだとしたら、とてもじゃないがあと一週間でその特定は間に合わない。
「さーて……どうしてやろうかな」
「あら、生島君じゃん」
意外な事に、担任の水谷が扉からこちらの様子を窺い見ていた。
「どうしたの? 他校の生徒の子まで連れてるみたいだけど……」
「例の悪戯を対策してやろうかと思いまして」
「でも、地道に撤去作業するしかやる事が無いよねー」
水谷が盛大にため息をつく。
「私もいまから台所下の収納を見ようと思ってたんだけど、そのガスボンベをみる限りじゃ先を越されちゃった感じ?」
「一応、いまから修理業者に連絡を入れようかと思ってます」
疲れたような顔をする水谷に対し、他校の生徒である花香が申し出た。
「えーっと……あなたは?」
「申し遅れました。私立エトワール学院中等部一年の空井花香です」
「ああ……例の上級捜査官ね」
どうやら水谷もこの辺りのあれこれはある程度理解しているらしい。
「まあいいや。修理業者には私が連絡入れておくから。あと、どうしても気になる事があるなら校長先生のところに直談判してみれば?」
「校長?」
そういえば、うちのクラスにメイド喫茶をやれだなんて言い出したバカはこの学校の校長先生だ。
「そ。まあ、無駄だとは思うけど。さっき私も色々相談したんだけど、もうこの件は私の手から離れてる、の一点張り。やっぱり保護者の皆さんとはあまり揉めたくないみたい」
教職員はモンスターペアレントをモンスターペアレントとは言わない。あくまで保護者の皆さんとか親御さんとしか呼ばないのだが、それはそれでホストである教職員の立場の弱さが強調されているような図式に見える。
提供する側は既に下手で、常に立場が弱い。これは教育や教養という商品を生徒という客に提供する教職員だけでなく、ありとあらゆるサービス業にも適用される不文律だ。
「私だって揉めるのは御免だから何とも言えないけど……」
水谷もいつになく弱気だった。
「なんかこう……上手い方法ってないのかな」
「……あるには、あります」
「でも、成功するかどうかは別の話……って感じですか?」
さすが花香大先輩。よく分かっていらっしゃる。
「ああ。でも、勝算が無いよりはマシだと思う」
「だったら、ちゃっちゃとやっちゃいましょうよ」
「その為にはまず生徒会長を見つけないといけない」
「生徒会長? この学校の?」
「この時間にいるかな、あの人……」
そういえば問題の生徒会長、谷戸篤の連絡先を持っていない。だから直接彼を探し出さねば話は進まないのだが、実はもう下校時刻を過ぎているのでほぼ全ての生徒はここから確実に退出している筈だ。
「生徒会室の鍵ならもう返却されてるけど?」
水谷があっさりと教えてくれた。
「谷戸君はもう帰宅してるんじゃないかな、きっと」
「……分かりました。僕らはもう帰ります」
「ええ。二人共、気を付けてね。最近は不審者が多いから……って、警察の二人には釈迦に説法か」
「ありがとうございます。では、また明日」
水谷に見送られ、二人は学校を後にした。
●
社宅の近所のスーパーで夕飯の買い物をしながら、将星と花香は難しい顔をして店内を歩き回っていた。
「将星さん。例の生徒会長さんと何を話す気だったんですか?」
「俺がその人の頼みで文化祭期間中にちょっとした用心棒をやるって話をしただろ? その代役を星乃に頼むんだ。あいつなら二つ返事で受けてくれると思うし、これで星乃がメイド喫茶に参加しないという確定情報が生まれる。そうなれば他の出し物とうちらの出し物の客入りはイーブンとなる」
「でも、女子を危険の矢面に立たせるのはご法度なんですよね?」
「そこを先輩と交渉する。失敗する可能性も半々だし、そもそも星乃に面倒を掛けたくなかったから使いたくない手だったんだけど……」
一瞬、雪見の暗い面持ちが脳裏を過った。
「俺自身のプライドなんか、本当にどうでも良かったんだ」
「将星さん、あなた――」
「あー! 先輩の事思い出したらカップ麺食いたくなってきた!」
無理矢理嫌な思考を追い出し、将星はインスタント食品のコーナーに直行する。
商品の棚の短い側面、その手の業界だとエンドと呼ばれるスペースに、最近発売されたビッグサイズのチリトマトヌードルの山を発見する。
「お? 新発売か。面白そうだな」
「インスタントばっかりだと不摂生が祟りますよ?」
「最近、主力捜査官のオバちゃん達に顔がやつれたとかツッコまれてんだ。これ以上痩せたら死ぬっての。塩分脂分大歓迎だぜ」
喜び勇んで商品に伸ばされていようとした将星の手が、別の客が伸ばした手と偶然触れ合ってしまった。
「あ、すんません」
「いえ、こちらこそ――」
二人は、互いの顔を見合わせて固まった。
「……あ」
「生島君?」
別の客――もとい、谷戸篤が丸くした目を瞬かせた。
【Bパート】
二日も経つ頃には、例の悪戯もぱったりと止んでいた。家庭科室の鍵やガス周りも完全に修復され、それ以降も何かの被害を受けたような形跡は無い。念の為当日使う予定の食器や調理器具などは全部殺菌洗浄しておいたが、もうこれ以上は誰かが何かを仕掛けるような不安はさっぱり無くなっていた。
昼下がりの教室の隅で、雪見は将星に問い質す。
「将星君。これはどういう事だね?」
「どうもこうも、そういう事だ」
「少なくとも、悪戯だけは解決したらしい。でも……」
雪見は思案気に言った。
「星乃が君の代わりに用心棒の係を引き受けた。じゃあ君は一体、谷戸先輩に何を吹き込んだ?」
「男の子は秘密の一つや二つは持っておかないと死んじゃう生き物なんですー」
「白々しい奴め」
彼女は本気で呆れている様子だった。
「でも、これで誰にも危険は及ばなくなったな。悪戯の犯人は最後まで分からず終いだったけど」
「問題が根本から消えたんだから、別にそれで良いだろ?。星乃にしたって非常時しか動かないし、余程の事が無ければ文化祭中は遊び放題さ。誰も損はしてないだろ?」
難しい話のように見えて、これも実際は単純な四則演算に過ぎない。
問題の中心にあった星乃の影響力をクラスから除外するだけで、まず外側からの圧力を根本から断つというのが将星の目論見だ。
理屈は分かっている。分かってはいるが、その交渉を成功させる為に使った将星の手管が分からない。
「そんな事より、残りはうちのクラスのモンペ共だ。これを潰さない限り、無事に当日を迎えられるかが心配になってくる。ある意味、連中はさっきの悪戯の犯人よりも性質が悪い」
「私にはただ難癖を付けてくるだけの連中にしか思えないんだが……」
「だからこそ、当日は何をしてくるか分からないから厄介だ。でも大丈夫。その辺りの対策もしっかり考えてある」
「というと?」
「この後クラス内会議の時間があるだろ? その時教えるよ」
丁度良く、授業開始、もといクラス内会議開始のチャイムが鳴った。雪見は釈然としない気持ちのまま席につく。
会議の内容は以前の喫茶店の会議と同じく、モンペの対策案だ。
「あー、みなさーん? ちょっとよろしいですかね」
将星が立ち上がって挙手した。
「外側からの妨害は俺の方で排除しておいた。だから今度はうちのクラスのモンペ共についてなんだけど……」
「生島君。とりあえず、教壇まで来たら?」
「そうですね」
水谷に促され、将星はさながら大統領みたいな素振りで教壇に立った。
「……えー、おっほん。まずは最初に一つだけ。実際に難癖を付けてる親の子供達には余計に苦い話かもしれないが、教職員も一応はサービス業みたいなもんだから、先生達も下手に手出しは出来ないというのを分かって欲しい」
この前置きには、全員が沈黙で答える。
「……よろしい。これからはそれを踏まえた上での話になる。ここで問題になるのはメイドの配役についてだ。メイドには定員数があって、惜しくも抽選漏れする場合があるっていうのは皆も重々承知してると思う。そこでなんだけど……」
将星はあらかじめ慎之介から受け取っていたシフト表に再度目を通す。
「ぶっちゃけ、これについては素直に従う必要は無いと思う」
「それって結局、何の対策もしないって事?」
訊ねる慎之介の口調がいちいちわざとらしい。これは何かあるな?
「何もしないとは言っていない。ただ、もうちょっと話し合ってもらうだけだ」
「話し合う?」
「さすがに問題がモンペだけだなんて思わないからな。そこで、だ」
将星は頭上で何回か手を叩いた。
「さあ野郎共! 俺達は教室から出るぞ!」
「え? え? ちょ……生島君?」
「ああ、先生と雪見はみんなの纏め役をオナシャス」
「なるほど、そういう事か」
雪見は将星の目論見を悟り、ようやく納得した。
いまの話からヒントは得られている。なら、後は実行するのみだ。
「先生。ここは将星君の言う通りにしましょう」
「でも――」
「さあさあ野郎共。ここから先は男子禁制の女の園じゃい! 出て行けオラ!」
「雪見大明神の許可が下りたぞ! 俺達は退散だ!」
『おおおおおおおおおおおっ!』
何やら変なテンションで雄叫びを上げ、クラスの男子が一斉に教室から廊下へと放たれた。最後に出た将星が去り際に見せた変顔ウィンクは、正直言って超キモい。
それにしても、中二男子はバカばっかりと言うが、ここまで簡単に踊らされるだなんて思ってもみなかった。いや、慎之介ですら何の疑問も持たずに出て行ったという事は、おそらく男子だけの間で事前の打ち合わせも済ませた上での行動だろう。いつの間にそんな手回しをしていたのかは謎だが。
教室に取り残されたのは二十人前後の女子生徒と自分、そして水谷だけ。
ここから先は、雪見一人だけの勝負となる。
教室から消えた男子は全員、当日の会場である家庭科室に集まっていた。
将星は暇潰しに、慎之介の亀型QP・カメチョーを机の上に乗せ、甲羅の上に浦島太郎の恰好をさせたセイランを乗せて、慎之介と一緒にほっこりとその様子を眺めていた。余談だが、セイランとカメチョーも将星や慎之介と同様に付き合いは長いのでそれ相応に仲が良い。
「なあ、生島」
たまたま近くに居た男子の一人が訊ねてくる。
「白沢一人に任せて良かったのかよ」
「大丈夫だろ」
将星はセイランの頭を指の腹で撫でながら述べる。
「そもそも、クラスの女子共は親とメイド役の事について何か話し合っていたと思うか? それと、女子達自身がメイドをやりたいかやりたくないかっていう希望も含めて再確認する時間が必要になるだろう。そのあたりは俺よりも雪見がよく分かってるし、そうでなくてもこの出し物の実質的リーダーは雪見だ」
「努力は人を惹きつけるってね」
慎之介がカメチョーをセイランごと掌の上に乗せる。
「感情を抜きにしたって、一番頑張ってた子の意見は男女関係無く無視は出来ないでしょ。それに、彼女には人を引っ張っていく力がある」
「あいつは何となくうちの上司と似てるからなー」
将星の上司、新條由香里は、雪見とは何気にちょくちょく交流を深めているという。似た者同士で馬が合っているのかもしれない。
「それから、当日のシフト表を見て思ったんだ。一日目は午前六人、午後は別の女子六人の計十二人。二日目は一日目とは違う女子達が午前から最後まで同じ六人が担当。三日目は余った二人と一日目、二日目で良い働きを見せた四人が選抜されて、午前からラストまでぶっ通し。これなら女子全員がメイド役になれて余りが出ない図式になるけど、心の底からメイド役をやりたいと思わない女子の分だけ人員が減るかもしれない。で、シフトを組んだ奴はそれをちゃんと理解してるのか?」
「してるよ。何せ僕が組んだんだから」
慎之介が自慢気に鼻を鳴らす。
「あくまで応急処置的な対策だよ。余りが出ないようにする方法も一応は作っておかないといけないでしょ?」
「ならよろしい。で、厨房スタッフ分のシフトは?」
「基本的に調理は白沢さんと白沢さんのお父さんだけでやるってさ。当日は本当にやる事が無くて暇だからっていう理由で食器洗いなんかも手伝ってくれる人がいるから、これについてもまあまあ大丈夫」
「じゃあ、これで俺の仕事は終了か」
「後は白沢さん次第だね」
こちらの相談がひと段落したと同時に、この部屋の扉が開き、雪見が一直線にこちらへ歩み寄ってきた。
「お? 話は終わったみたいだな」
「丸井坂君。シフトの変更をお願い」
いまの彼女には将星の存在が眼中に無いらしい、慎之介と早速当日の人員運用の相談を始めた。軽口を一つも叩かないあたり、彼女の本気の度合いが窺える。
しばらくして話し合いが終わり、雪見がようやく将星と向かい合った。
「将星君。君の目論見は成功したらしい」
「そりゃ重畳」
「やっぱり、女子だけで話し合った甲斐はあったよ」
将星には、雪見があの場でどういう会議をしていたかが手に取るように分かる。
問題は、メイドという存在のブランド力にもあったのだ。そういった格好で人前に出るのは必然的に見てくれが良い女子と相場が決まっていると、己の外聞を気にするタイプの女子達は結構本気で思いこんでいる。QPの繁栄と共に恋愛至上主義の傾向が強くなっているこの時代では尚更当然の摂理だ。
だが、そういうタイプの人間が全てではない。自分に自信が無かったり、消極的だったりする者も少なからず存在する。中には、皆がやらないから私がやるというような、その場の雰囲気に流されて役を引き受ける者もいるかもしれない。
でも雪見はそういった女子の人間関係や頭の押さえ合いの煩わしさを、自分が先頭に立って否定したのだろう。勿論、本気でやりたくない人間は選択肢から除外した上での話だが。
そこで残る問題はモンペの存在だが、これも既にクリアしている。
何故なら、配役を決めたのはただリーダーを気取ってるだけの司会でもなければ教職員でもなく、誰よりも本気で苦悩していた白沢雪見だからだ。
「これは君が私をよく見てくれなかったら到底行き着かない結果だった。おかげで適切な人数でのシフト運用が出来そうだ」
「だろ? それに、これで親から何かしらの文句が来ても無視出来る大義名分が得られた。開催までの四日間はこれで凌ぎ切れるだろ」
そもそも、モンペ共の要求はテロリストの要求と同レベルだ。テロリストに譲歩しないのは国際常識なので、同じくモンペ共の要求に譲歩しないのは社会常識だ。
いまこの場で作り直されたシフトから、雪見がモンペ共に譲歩していないという意気がありありと表れている。当日のスケジュールからは先程のような目まぐるしさは消え、運用に必要な適性人数の確保も成されている。緊急時にシフトを代われそうな人間もしっかり用意されているので、余程の事が無ければこれで何の問題も無い。
それで良い。それでこそ、雪見を信じた甲斐が出てくる。
「さて、これからが大変だ」
雪見がいつもの先天的な偉さを取り戻す。
「野郎共。男子禁制は解除された。とっとと教室に戻るぞ」
彼女の指示に、男子全員は素直に従った。
やっぱり、人徳って大事だなと思った。
●
外側の圧力から逃れ、内側の圧力も追い出せる算段は整った。メイド役についての一悶着も偏見と独断で解決し、残るは当日の勝負のみとなった。
でも、雪見の内心は釈然としていなかった。
だから彼女は生徒会室に乗り込み、文化祭に関わる書類仕事を終わらせた谷戸篤に直接その場で問い質した。
質問の内容は、将星との交渉の内容についてだ。
「うーむ……どうしようかな」
篤が俯き加減に考える仕草をする。
「生島君からは口止めされているんだけどなぁ……」
「どうしても知りたいんです」
「……まあ、良いや」
篤が存外あっさり了承する。
「でも、僕がこれを言ったなんて誰にも言わないでくれよ?」
「それで構わないです」
「よろしい」
彼は居住まいを正すと、やや苦笑して述べる。
「本当は僕としても宇田川さんのピンチヒッターは反対だった。でも、彼はそこを何とかって僕に必死に頭を下げてきた。その時、彼は何て言ったと思う?」
「いえ……分からないです」
「では、実際に聞いてみるとしよう」
篤はリンクウォッチを操作し、ICレコーダーのアプリを起動させ、録音された音声を再生した。
『……君をそれ程までに突き動かす理由は何だい?』
最初に流れたのは篤の声だ。どうやら将星との交渉中の様子を、篤がこっそりQPドライバーで録音していたらしい。全く以て趣味が悪い。
『本当はこんな事、俺だって頼みたくない』
これは将星の声だ。明らかに声音が切羽詰まっている。
『既に了解を貰ってる話とはいえ、星乃だって巻き込む話ですから。でも――』
ここで五秒くらい無音の時間が続き、将星がようやく、決定的な発言を口にした。
『でも、雪見にはいつも助けられてばっかりなのに、自分はまだあいつに何もしてやれていない。だから、少しでも力になりたい』
「え……?」
あまりにも意外な言葉に、雪見は一瞬、我を忘れかけた。
篤がアプリを切り、ふっと小さく笑った。
「彼は彼なりのやり方で君の力になろうと必死だった。あそこまで本気で人に頭を下げられた事は人生で一度も無かったから、思わずOKを出してしまった。彼の熱意に折れた、僕の負けだよ――って、白沢さん?」
「あ……え……いや……え……?」
雪見はひたすら戸惑った。
実際に当日頑張るのは星乃だし、将星はただ自分のタスクを彼女に押し付けただけに過ぎない。でも将星なら星乃にはもう迷惑を掛けたくないと意地を張っていただろうし、人が良い彼がこんな手段に打って出るだなんて普通は考えられない。
だが、彼はこんな些事の為に、自分のプライドを捻じ曲げたのだ。
そして同じ事を言って、おそらく星乃にも既に頭を下げたのだろう。
「……それ……だけ?」
「うん。さすがにビックリしただろ?」
「…………」
今度こそ、さしもの雪見も言葉を失った。
彼は私をよく見てくれただけじゃない。
よく見て、見た上で、彼は私を助けようとしてくれた。
余計なお世話だ、全く。
「……納得しました。ありがとうございます」
「約束は守ってくれよ?」
「無理そうです。多分、大人になったら全部口外します」
「……そうかい」
頷く篤が、何処か優しげに微笑んだ。
「それはそれで、面白そうだ」
「らしくなかったねぇ、将星」
将星が本部の食堂でビーフシチューを食べていると、机の上で鉛筆のように転がっていたセイランから指摘された。
「あのまま会長さんに土下座しちゃうのかと思った」
「よく分かったな」
「え? 本気だったの?」
「まあな」
スプーンを止め、将星は天井をぼんやりと見上げた。
「でもイイじゃん。結局土下座まではしなかったし、会長と星乃には口止めしておいたし、これで俺のハズカシイ場面を誰にも知られる心配は無くなった訳だ」
「案外ぺろっと喋っちゃうかもよ?」
「そん時は校舎裏な」
黒歴史をあっさりばらす不届き者にはぴったりの末路である。
「今日はサイバーパトロールの日かぁ。セイランはもう慣れたか?」
「バッチリやで」
「そうかそうか。頼もしい限り――」
「将星君、お食事中申し訳無いけど、ちょっと良いかしら」
いきなり由香里が向かい側の席に座ってきたのを見て、将星は慌てて水を飲んで居住まいを正した。
「は、はい。何でしょうか」
「大変言いにくい事なんだけど……」
由香里の面持ちはやや面倒くさそうだった。
「文化祭の用心棒の件、いまからでも辞める事って出来ない?」
「ああ、その件は後で報告しようかと思っていたんです。実はとっくに話はつけてありまして、事情があって代役は星乃にやらせます」
「え? そうなの? ……まあ、それならそれで」
「どうかしたんですか?」
「それが……」
由香里が事情を説明すると、セイランもさすがに身を起こし、将星と揃って目を丸くした。
「え? 柊子様が対抗文化祭に!?」
「彼女も一応は花香ちゃんと同じ学校の生徒なんだけど、エトワール女学院の出し物には参加しないで、一人だけ普通に遊びで参加する事になったの。さすがに真夏のダンスイベントで熱中症になられたら問題だし」
「そりゃそうですけど……」
「そこで、遊びに行く際の護衛が三日間必要になったんだけど、柊子様がその護衛は将星君じゃないと駄目って言い出し始めたの」
「俺以外じゃ駄目って、何で?」
「そりゃ、以前の護衛任務であなたに惚れ込んじゃったからに決まってるでしょ。あの方にとってあなたは白馬の王子様同然なのよ? それに、あなた以外の護衛を付けるようなら、当日は皇室にとっても私達にとっても不利益な行動を起こすって言ってるの。彼女のあなたへの入れ込みようから、とても冗談を言っているようには思えなくて……」
要するに、文化祭期間中、将星はずっと柊子様に付きっ切りで、それ以外の行動の自由を封じられるという事だ。
さすがに、それだけは絶対に嫌だ!
「でもそれって逆に、俺が嫌って言えばさすがに諦めるのでは?」
「彼女がそんな物分かりの良い子に見える?」
「見えないですねぇ」
「でしょ?」
皇族のお姫様を相手に言いたい放題である。
「だから言いたくなかったのよ。でも、こればっかりはさすがにこちらも嫌とは言えない。もしかしたら私とあなたの判断一つで国際級のスキャンダルが……!」
「やめてぇえええええええっ! それ以上は何も言わないでぇえええええええっ!」
将星と由香里はひたすら戦慄していた。
皇族に政治への執権は与えられておらず、言うなれば国の象徴でしかない。仕事内容についても一般市民からすれば知ってその実感が得られるようなものでもないし、はっきり言って明確は威圧を全く感じない。
とはいえ、彼らの要求を突っぱねた時のリスクは考えるだけで恐ろしい、皇族自体が何もしなくても、マスコミやら国会やらが動き出したらQP/の存続も――いや、それどころか警察という団体の組織体制を大変な方向で刷新される可能性がある。
どのみち、この二人が生き残る選択肢は一本のみに絞られる。
「将星君、お願い……! ボーナス弾むから……!」
「この際ボーナスなんてどうでもいいっすよ! それより、これで俺に万が一何かあった時はちゃんと労災認定降りるんでしょうね!?」
「降りる! ちゃんと降ろすから!」
「死亡保険は? ああ、それから遺書って書いた方が良いんすかね?」
「まだ希望を捨てちゃ駄目! 諦めないで!」
この後、二人は柊子様護衛任務において必要になりそうな事後処理のあれこれを変なテンションで皮算用したのであった。
偶然通りかかった花香に諌められて気分が落ち着いたのは、それから一時間後の事である。
#8「メイドと怪物と警察」 おわり




