先輩の頼み(煩悩)。
翌朝、寝ている姉を起こさないように起きて、カイは出勤した。軍務のミスはなく、勤務後には安堵の溜息が漏れた。心労が一つ消えただけで、大分様子が違う事に驚く。心労の原因が姉だったからだろうか、と苦笑しつつも、カイはもう一つの心配事であるシュタンの面会届けを書き上げる。
書類を提出すると、その週の内に許可が下りた。以前に較べ、間隔が短い。何か動きがあったのかと、休日を利用してシュタンの病室を訪れた。部屋も以前と変わり、陰気な雰囲気は幾らか和らいでいた。
返事を待たずに入室すると、シュタンは眠っていた。起こしてしまうのも悪いので、カイは手近なパイプ椅子に腰掛けて、部屋の様子を見回した。以前と違い、サイドボードには卓上カレンダーが置かれていた。明日の欄に、赤いマル印がある。何の印か、と思っていると、シュタンが呻いた。
「誰だ。医者か?」
「すみません少尉、カイです」
シュタンの目がカイを捉えた。
「挨拶代わりに謝るな。気が滅入る」
失礼しました、と言って、カイはシュタンが起き上がるのを手伝った。シュタンは呻くように左手で額を押さえて呻いていたが、渡した水を飲むと、大きく息を吐いてカイを見上げた。
「何をやってるんだ、おまえは。軍の方は良いのか」
「今日は休日ですから、少尉のお見舞いに来たんです。少尉の好きなお菓子、持ってきたんですよ」
「お、有り難う。まだ食欲が戻らないから、置いといてくれるか」
頷いて、カイは卓上カレンダーの隣に菓子箱を置いた。
「少尉、この印はなんですか?」
「それか。義手を付ける日だとか衛生兵が言ってたな」
言って、シュタンは左手で頭を掻いた。
「悪い。クスリの所為か、頭が働かない。前よりは良くなったと思ったんだが」
「良くなっていますよ」
「前の俺はどうだったんだよ」
笑いながら、シュタンは横になった。カイが曖昧に笑うと、その頬にシュタンが触れた。
「おまえ、カイだよな?」
「はい。少尉、どうしてそんなことを」
「目が霞む。耳が遠い。くそ、クスリがまだ残ってるのか」
シュタンの顔が苦痛に歪んだ。カイはシュタンの左手を掴んだ。シュタンの目が閉じ、カイは呼びかけるのを止めた。
シュタンの部屋を出たカイは、独りで嘆息した。それでも以前に較べれば、シュタンの具合は大分良くなったように見えた。
○
帰宅すると、姉が食事を用意して待っていた。以前のような危うさは無く、頬の腫れも引いている。
普段は互いに軍の話はしない。だがこの日は、カイが姉の仕事について尋ねた。
「姉さんは前、右腕を奪われた軍人の看護をしたって言ってたよね」
「少しね。あれは殆ど男子の仕事だから。
……あればかりは、こっちも相当しんどいわね。相手は酷い状態から戻ったばかりで正気じゃないし、嫌な薬を打たないといけないの。知ってるでしょうけど、スパイ嫌疑がかかるのよ」
「その薬って、どんなものなの? 副作用とか」
「吐いたり眠れなくなったり、逆に眠くなって幻覚を見たり……」
姉が言葉を濁したので、それ以上は聞けなかった。シュタンの視覚に影響が出たのも薬の副作用なのだろう、とカイは考える。視力まで奪われるなど、シュタンの身に起って欲しくなかった。
「そう落ち込むこと無いわ、一時的なものだから。
見捨てちゃ駄目よ。姉さん達も、皆頑張ってるもの」
姉の顔を見て、カイはふっと不安が軽くなった。以前の頼もしい姉と同じ笑顔に釣られ、カイも少しだけ笑った。すると、姉が声を上げた。
「カイがそういう風に笑うの、久しぶりに見たわね」
「そう?」
「そうよ。カイにはそういう顔が一番だわ。
ああ、言い忘れてたけど、モモちゃんのお母さん、退院したの。モモちゃん、あんたのことを気にしてたわよ。『お兄ちゃんの解らないことは解った?』って言ってたけど、どういうこと?」
カイは曖昧に笑って、場を濁そうとした。すると姉がカイをビシッと指差した。
「その笑い方は駄目、無理して笑うことは無いのよ。
カイが本当に嬉しかった時、楽しかった時に笑えばいいの。そういうことが沢山あると良いわね、カイ」
姉の言葉が嬉しくて、カイは満面の笑顔で頷いた。
○
再びシュタンを見舞う前に、カイは思い切ってシュタンの担当医に面会を申し込んだ。姉は自分で決着をつけたが、シュタンの場合は怪我人である。何か出来る事は無いか、聞くつもりだった。
面会申請の答えは、却下であった。身内でも部下でもないカイでは、個人の詳しい病状を聞くことは出来ないようだった。溜息をついて通知を仕舞い、軍務に戻る。シュタンの面会は勤務明けの時間に許可されていたから、少なくとも本人の具合を知ることは出来る、と自分を納得させる。
夜からの勤務は昼に終わった。息を切って病室に向い、ドアを叩くが返事が無い。あまり気に留めず、カイは戸を開けた。
「しょう……!」
途中で言葉が切れたのは、顔面に物を投げつけられたからだ。
「二度と来るな、クソ衛生兵!」
差し出した手に、ポトン、と落ちてきたのは枕だった。ポカンとしてシュタンを見ると、シュタンも似たような顔をした。
「カイ?」
「はい。あの、帰りましょうか?」
「すまん、衛生兵と間違えた。こっちに来い」
カイはパイプ椅子に座ると、苦笑して枕を返した。
「いけませんよ、衛生兵に枕なんて投げては」
「あいつ、腹立つんだよ!」
シュタンは左手でカイを掴んだ。右腕に義手を付ける日は過ぎていたはずだが、まだそこには何も無かった。
「体力が戻らなきゃ、右腕は無駄だと! くそ、俺はすぐにでも戻って、あいつらを――」
シュタンの声が紡ぐのは、激しい憎悪が生む殺意だった。掴まれた腕の痛みと呪詛に、カイは慄き、言葉を失う。
やがてシュタンは腕を掴んだカイに凭れる様に倒れた。ずるずると落ちていくシュタンの体重の軽さ、体力の衰えに恐怖しながらも、カイはその体を支えた。
どれ程の時間をそうしていたのかは解らなかったが、シュタンはやがてカイから離れた。
「帰れ」
シュタンはそう言って、カイから目を背けた。カイはシュタンの言葉に従う他無かった。
○
それから暫くの間、面会は許可されなかった。当人が拒否しているのだろうか、とカイは暗い気持ちになった。再び軍務でのミスが増え、また自己嫌悪の日々が始まった。だが、今度は姉の調子がいい、と思い直し、スミレに相談することに決めた。
その日、家路を急いだカイを待っていたのはクッションを殴る姉の姿だった。呆然と見ていると、姉が爽やかな笑顔で振り向いた。
「おかえり、カイ。気がすんだから、姉さんがご飯を作ってあげるわよ。少し待ってて」
「ご飯なら僕が作るよ」
「良いの良いの。今日はツミレを作りたい気分だから」
「滅多刺しってこと? ねぇそれどんな気分なの!」
心配のあまり勢い込んで尋ねると、姉は少し目を丸くして笑った。
「ごめん、心配した?
単に仕事のストレスが溜まってるだけよ。誰にも振られてないし、殴ってないわ。本当よ? 患者は殴れないから、代わりにクッションを殴っただけ」
「本当?」
「本当。なんで軍人って無駄にプライドばかりあるのかしらね!
黙って言う事を聞けって言うのよ! カイ、あんたは入院することになったら、素直に言う事を聞くのよ!」
頷かざるを得なかった。だが、これでは仕事の様子は聞けない、とカイは諦める。機嫌の良い時を見計らわなくてはいけない。
食事中、明日のメニューは挽肉から作るハンバーグだと言っていた姉だが、ふと真顔になった。
「あんた、入院してる知り合いがいるって言ったわよね」
「うん……最近、面会許可が降りなくて」
「諦めないで。入院してると気が滅入るから、見舞い客や衛生兵に当たる患者が多いけど、良くなると反省するから。少しの間だけ、相手の愚痴に付き合ってあげなさい。それで溜まったストレスは姉さんが聞くから」
姉が微笑んだので、釣られて笑った。身構えて相談しなくても、姉がカイの不安を察してくれたようで、そのことも嬉しかった。
○
翌日になって、翌週の面会が許可された。指折り日を数え、丁度休みの日にシュタンを見舞った。
何を言われるのか不安になっていたカイだが、シュタンの様子は大分落ち着いていた。
「前は、すまなかったな」
「いえ、良いんです。少尉はその後、具合は如何ですか。義手も付いたんですね」
「ああ。お蔭でリハビリを始めたんだが、衛生兵が五月蝿くて叶わない。あいつ僻地に左遷されねぇかな」
「衛生兵も、少尉を治したくて一生懸命なんですよ」
「あいつは違うね! 断言できる」
それから暫く、シュタンは担当の衛生兵の悪口を言い募った。その様は呪詛を言う時とは比べ物にならない位に子供っぽくて、カイは笑って聞き流した。二人で菓子をつまみながら上官の悪口に花を咲かせた過去を思い出し、カイは懐かしくなってきた。
「何泣きそうな顔をしてるんだよ」
「泣いたりなんかしませんよ」
「じゃあ笑えよ。俺はおまえが笑ってる方が良いんだよ」
昔のシュタンと同じ言葉に、カイはハッとした。シュタンはきっと、このまま良くなる。そう考えると、カイは自然に笑っていた。
面会の終了時間に気付き、カイは立ち上がる。
「また来ます。そうだ、差し入れにリクエストありますか?」
「甘い物」
シュタンは即答し、暫くしてポンと手を打った。
「あとエロ本」
カイが目を丸くすると、シュタンは爆笑した。揶揄されたことに気付いて腹が立つ反面、シュタンの復調に安堵する。シュタンは以前から、そういう下世話なことを言ってはカイを揶揄してくるのだ。
「じゃあ手に入れてきますから、期待しててください」
「ああ、期待しねぇよ」
笑いながら、カイは病室を後にした。
○
次の面会はすぐに許可された。カイは見舞い用の菓子について姉に相談した。もう一品については、冗談半分で相談した同僚がこれまた面白半分に調達してきていたので不要だった、などとは口が裂けても姉には言わない。
「そうねぇ、焼き菓子ばっかりでも飽きるし、食事制限が無ければ生菓子でも良いんじゃないの? 冷蔵庫あるし」
「病室に?」
「共用のものが事務室にあるのよ。そこに置けるから。
暖かくなってきたせいかしらね、具合が良くなる患者が増えたわ」
「姉さんの周りも?」
「ええ、大分ね。受け答えも前ほどギスギスしないし」
姉のストレスも減ったようだった。今日の夕食は焼き魚で、あまり包丁が入っていない。
○
翌日がシュタンの面会だった。生クリーム満載のケーキが詰まった箱を渡すと、食事制限が無くなったシュタンは嬉々として受け取った。右手で箱を受け取り、左手で中身を取り出そうとした所で、動きを止める。
「手掴みで食っても良いか」
「構いませんけど」
するとシュタンは、左手で掴んだ苺のショートケーキを睨んだまま答えた。
「ムカつく衛生兵が言うんだよ。
ケーキのセロハンが剥がせれば、義手で大体のことは出来るとか」
カイは己の選択を悔やんだ。一時でもシュタンの苦痛が逸れる事を祈っての選択だったが、裏目に出たのではないか。
「やってみるか」
カイの後悔に気付かずに、シュタンはピタリとくっついているセロハンに挑んだ。真剣な横顔をハラハラしながら見守っていたが、失敗して手をクリーム塗れにした姿を見たら、大の男が大真面目にケーキに向き合うという図に気づいて、噴き出すのを堪えるのに必死になった。
「スポンジってこんなに柔らかかったか? おい、こっちのもやってみていいか。責任持って食べるから」
「どうぞ、少尉のためのケーキですから、好きにして下さい」
「でもこれ、一人で食べるには多いだろ」
「余ったら、職員の方にでも」
「連中に回すくらいなら独りで食うぞ! あいつらになんか、カイのケーキはやれねぇ!」
「大袈裟ですよ、少尉。それに、衛生兵の部屋に冷蔵庫があるそうなので、そこで保管して下さい」
「や、この場で全部食う。奴の顔を見る機会を減らしたい」
「そんなに嫌いな衛生兵がいるんですか?」
「例の衛生兵だよ! あいつ本気でムカつくんだよ!」
子供みたいに怒って、シュタンはまだ左手に持っていたケーキの残骸を握り潰した。そのことに気付くと、困惑のあまりなのか、今にも泣きそうな顔をでケーキの残骸を見つめる。カイは溜まらずに爆笑し、シュタンの子供染みた怒りに油を注ぐ。こんなやり取りも久しぶりだった。きっと、例の衛生兵とやらもこんなやり取りをしているのだろう。軍属の病院には男性看護師が多いから、大の男が二人、子供みたいに言い争っているというわけだ。
面会時間終了までカイは、笑いの痙攣が収まらなかった。危うく渡しそびれる所だった紙袋を渡して、席を立つ。
「今度は、もうちょっと頑丈なケーキを探してきますね」
「五月蝿い! てかこれはアレか、おまえの趣味なのか」
「本ですか? 同僚が選んでくれたので、僕は中を見ていないんです。何か問題がありましたか?」
「これを選んだのがお前なら問題だ。が、同僚には良くやったと言わざるを得ない」
「どういうことですか?」
「おまえは見ちゃいかん」
小首を傾げつつも、カイは病室を後にした。
個室から複数人数の部屋に移れば、面会は自由になる。カイはシュタンの部屋が移ることを心待ちにしていた。
気候は日に日に暖かくなり、カイの心も明るくなりつつあった。
○
そんな折、帰宅すると姉がまたストレス料理を作成していた。今度はみじん切りの玉ねぎがたっぷり入ったスープだ。大量に入れられたそれは、炒められて形も無くなっていた。
「今度はどうしたの」
そう問うと、姉は暫く俯いて肩を震わせてから、遠くを見る目で顔を上げた。視線がどこを向いているか解らない。
「あんた、部屋にエロ本ある?」
カイは口に入れたスープを鼻から戻す、その寸前で踏みとどまった。
「持ってても別にいいのよ。ちゃんと姉さんから隠してるんでしょ。隠して家で読んでる分には問題ないって、姉さん思うのよ。男の子だしね?
――病室で回し読みしてた馬鹿は死ね!」
「ね、姉さんの担当って……あ、いやなんでもないです」
そういえば前回の面会で、例の本をあちこちに貸しているという話は聞いた。どうやら見つかってしまったが、出所は不明扱いのようだ。
「解ったら殺してやる。差し入れた阿呆もね……!」
姉の怒りを前に、弟は曖昧な笑みと沈黙で答えた。