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姉さんの実力(物理)。

 翌朝、カイが勤務に出る時にはもう、姉は家に居なかった。


 昨夜の事が気になってまた軍務でミスをした。このままでは何時か、取り返しの付かないミスをしそうで、カイは恐ろしくなる。勤務が終ってからも沈んだ気分は浮かばずに、更に姉の帰宅を家で待つのが恐ろしく思えて、足は家路に向かわない。


 気付けば足は病院に向かっていた。シュタンを見舞うには許可がないが、一般面会なら自由なはずで、姉と親しそうなヤマブキなら姉の異常の原因を知っているかもしれず、上着を返して貰いに来たとの口実で、ヤマブキに会えることを期待した。


 病院に着いたカイを待っていたのは、面会時間終了の札だった。やることなすこと裏目に出る。本日何十回目かの溜め息をついて、踵を返した。泥の中を進むようだった。行き交う人々と自分の道では質が違うのではないかというくらい、他人の足音は軽く聞えた。例えば、後ろから聞こえた、兄を呼ぶ女の子の駆け足だとか。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん」


 声が泣いていることに気付いて振り返ると、小さな女の子が顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。カイはギクリとして足を止める。女の子が泣きながら距離を詰めてくる。ずるずると紙袋を引きずって、女の子はしゃくりあげながら訴えた。


「モモ、いっぱい呼んだもん。お兄ちゃんのこと、いっぱい呼んだんだもん。なのに、お兄ちゃん、全然気付かないんだもん!」


 昨日、膝を抱えて丸くなっていた女の子だった。驚愕し、硬直したカイもようやく体が動いた。腰を落とし、名を呼んで腕を伸ばす。しかし、指先はモモに触れる寸前で躊躇う。涙を拭いながら歩いていたモモは、取り憑かれた様に歩き続け、足を縺れさせて転んだ。カイは小さなモモを受け止める。


「ごめん、ごめんね。足、大丈夫?」

「モモは大丈夫だもん。痛くないもん」


 泣き止まないモモを相手に、カイはなす術がない。泣くモモを抱きとめたまま、嗚咽が収まるのを待とうとして、道行く人の視線に気付いた。


「お母さんの病院に戻ろう」


 モモが頷くのが気配で解った。立ち上がろうとするが、モモが上着を掴んでいることに気付く。振りほどく事も出来ただろうが、カイはモモを抱き上げた。モモが吃驚した顔で、でも上着は掴んだままカイを見た。


「モモ、重くない?」

「軽いよ、平気。お母さんに何も言わずに来ちゃったの?」

「お母さん、寝てた」

「じゃあ早く戻らないと、お母さんが起きたら心配するよ」


 モモが頷いた。それから暫く、モモはじっと黙り込んでいた。袖で涙と鼻水を拭って暫くしてから、モモが呟くように言う。


「お兄ちゃん、お母さんと同じ匂い」

 カイはしばしの混乱の後で、原因に気付く。


「湿布の匂いかな? 肩の辺り?」

「うん」

「じゃあ湿布の匂いだよ。モモちゃんのお母さんは、よく患者さんに貼ってるから」

「お兄ちゃんも?」

「僕は患者さんの方。あの、ちょっと聞いていいかな?」

「なぁに?」

「どうして、僕が『お兄ちゃん』なの?」


 そんな呼び方をされたことがなかったから、気付くのが遅れた。カイの疑問に対して、モモはキョトンとして首を傾げた。


「お兄ちゃんは、モモのお兄ちゃんでしょ? お母さん、そう言ってたよ。モモのずっとずっと遠いお兄ちゃんだよって」


 カイは『遠縁の親戚』の説明を諦めた。そのうちに気付くだろうと思い、苦笑して頷いた。


「そうだね、モモちゃんは僕のずっと遠い妹だよ」

 モモが笑ったので、カイも釣られて笑った。


 それから、モモは色んな話をした。それは母親の話であったり、以前に見つけた宝物の小石の話だったりと、取りとめの無い話だった。カイは相槌を打ちながら耳を傾ける。モモとの会話は姉やシュタンとのそれとは違っていて、不安や心を抉る凄惨さがなく、カイは穏やかな時間を過ごすことが出来た。


 病院が近づくと、不意にモモは話を途中で切った。どうしたの、と聞くと、モモは少しの躊躇を見せた後で、勢い込んで言った。


「あのね! モモね、お兄ちゃんに、ありがとうって言いに来たの!」

 カイは無言のままでモモが話すのを待つ。


「あのね、お兄ちゃんは、昨日、ずっとモモの隣に居てくれたでしょ? 何にも、どうしたのどうしたのって、聞かなかったでしょ?

 モモね、それが嬉しかったの!

 お兄ちゃんが一緒にいてくれたからモモは淋しくなかったの!」

 言い切って、モモは少し息を乱した。カイは足を止めていた。


「それって、何もしないで欲しいってこと?」


 モモはぶんぶんと首を横に振った。


「お兄ちゃん、モモと一緒に居てくれたよ!」

「……ごめんね、よく解らない」

「モモは、お兄ちゃんにありがとうって言いたいの!」

「ああ、それは解ったんだ。えと、どういたしまして。

 解らないのは、違うことなんだ」


 再び歩き出したカイが考えていたのは、シュタンと姉のことだ。二人に対しては、どうなのだろうかと考えていた。下手をしたら命を落としかねない二人に対して、何もしないことが良いとは思えなかった。そうして、カイは病院に向った目的を思い出す。


「モモちゃんのお母さん、会えるかな」

「わかんない。まだ寝てるかも」


 病人を起こすことは忍びなくて、カイはヤマブキに事情を聞くことは諦めた。やはり、本人に聞くのが一番のような気がした。


 放っておくことは出来ない。


 カイは再び決意を固め、病院の前でモモと別れた。今日はシュタンに会うことは出来ないが、カイが出来ることは何かあるはずだ。それを見つけよう、と決意する。


 モモに渡された紙袋を手に、カイは家に帰った。




   ○


 帰宅すると、家には明りが点いてなかった。姉はまだ帰宅していないらしい。それでも「ただいま」と呟いて、カイは家に入る。居間を通ると、隅の焦げた写真がカイを出迎える。


 写真の中にいるのは、病室の寝台に横たわる男と、その妻と、幼い娘と、生まれたばかりの赤子の四人だ。何も知らずに寝ている赤子がカイで、カイの頬を突いているのが姉のスミレで、男女は二人の両親である。母はこの写真を撮った半年後に火事で、五年後に父が病で、それぞれ世を去った。


 それからずっと、カイの家族は姉だけだった。カイの世界の全ては、姉だけだった。姉が幸せなら、それで良かった。例え自分が姉に憎まれても、姉さえ幸福になるなら、それで良い。

 今日こそ、姉を問い質そう――決意を新たにした時、玄関で物音がした。間を置かず、姉が姿を見せた。


 おかえり、との言葉は姉の姿を見たとたんに喉の奥に消えた。

 姉の腫れた頬と乱れた髪は、カイが青褪めるには十分な理由になった。姉さん、と叫んで駆け寄ろうとすると、姉がカイを指差した。


「カイ。あんたは私の言う事を聞くわね?」

 そう言った姉には、皇帝すらも跪かせるような迫力があり、皇帝ですらないカイは立ちすくんで頷かざるを得ない。


「姉さんが良いって言うまで、何も言わずに後ろ向いてなさい。

 動いたら殺す。喋ったらやっぱり殺す」


 カイは即座に姉に従った。この従順さは弟の性としか言えない。と、間を置かずに胴体に衝撃が来た。何事かと思わず振り向く前に唸り声が聞こえ、混乱はいや増した。それが姉の泣き声だと気付くと、カイの混乱はピークに達した。


 姉が泣く所は殆ど見たことが無かった。特に父が死んでからはカイの前で泣いたことは無い。その姉が、声を上げて泣いている。よほど振り返って事情を問い質そうとしたが、先刻の言葉に躊躇した。


 泣き声は永遠に続くと思えたが、終わりは五分ほどでやって来た。姉がカイから離れるのが気配で解った。


「あー、気が済んだ」

 掠れた低い声の後で、やたらと豪快に鼻をかむ音が聞こえた。


「よく耐えたカイ准尉。もう動いて喋っていいわよ」

「姉さん冷やして! 腫れてるし血が付いてる!」


 色々と決意を固めていたというのに、真っ先に出てきたのはそんな言葉だった。そして姉の返事と来たら、中指を立ててのやたら威勢のいい言葉だ。


「仕返しにハンドバックで顔面殴って、すかさず鳩尾に肘打ちキメて倒れた所で股間をヒールで思いっきり踏みにじってやった!」

「オニだッ」


 姉の赤いハンドバックはカイも良く知っている。頑丈第一、が売り文句の北部ブランドだ。角は型崩れを防ぐために異常なまでに補強されている上に、姉は鞄にやたらと書籍を詰め込む癖がある。


「顔、洗ってくる」


 そう言った姉は、何故か上機嫌でスカートを翻すと洗面台に消えた。カイは床に投げ出された重いハンドバックを拾った。深い赤味を持つ革地がなんとなく濃く見える。姉の靴を確認するのはやめようと誓うとふらつきながら薬箱を出し、冷凍庫から氷を出して氷嚢に入れる。洗面所からの水音が消えて暫くすると、部屋着に着替えた姉がタオルで顔を拭きながらやって来た。


「あら、準備が良いこと」

「いいから、こっちに来て座って」


 姉はニヤニヤ笑いながらも、素直に従った。カイは姉の疵に触れて顔を顰める。


「ああもう、こんなに腫らして」

「歯は折れてないもん」

「永久歯を折らないでよ。生えないんだから」

「あ、痛い痛い! 丁寧にやんなさいよ、姉さんは繊細なのよ!」

「少しだけ我慢してよ、姉さんが手当てする時もそう言ってるじゃないか」

「良いの、軍人は一寸位乱暴に扱っても! 女の子は丁重に扱いなさいよ、いったぁーいー!」


 大げさに痛がる姉に、カイは段々腹立たしくなってきた。乱暴に湿布を貼る。姉が怒る。


「ひっどい弟ね、あんたは!」

「酷いのは姉さんじゃないか!」

 思わずカイは言い返して、姉の肩を掴んだ。


「なんだよ、毎日毎日ぼんやりしてたかと思えば、急に頬を腫らして帰ってきて!」


 抱き寄せた姉は見かけよりもずっと細くて、俯いたカイの眼からは涙が落ち、声は震えた。


「どれほど心配したと思ってるんだよ……!」

 スミレの手が、カイの背に触れた。


「姉さんが悪かった。ごめん」

「『ごめん』じゃないよ。何があったんだよ」

「……悪い男に引っかかりました」

 カイは少しだけ姉から離れ、肩を掴んだまま、その目を見て問う。


「相手は」

「それは言えないかな……」

「どうして」

「聞いてどうする気?」

「証拠は残さない」

「どーしてそういうことを真顔で言うかなっ。

 殺気が漲る弟には言えません! いーえーまーせーんー!」

「なんで!」

「当ったり前でしょ。可愛い弟を、こんな下らないことで犯罪者にしたくないわ」


 宥めるように、姉はカイの頭を撫ぜた。穏やかに笑う様は以前の姉そのもので、カイは頭に上った血が段々引いていくのが解った。


「報復なら自分でやったわけだしね。ぐふふふ」

「姉さん何したんですか。あ言わないで下さいなんか痛い」

「どっちよ? まあいいけど。今日は疲れたし、もう寝る」

「ちょっと、姉さん」

「綺麗な姉さんが良いなら、ちゃんと冷やしてなさいよ」


 言って、姉はカイの膝を枕に横になった。カイの抗議を一切無視して、すぐに寝入ってしまう。カイは仕方なく、氷嚢を姉の頬に当て、その寝顔を見守った。久しぶりに見る姉の寝顔は静かで、文句を言いながらもカイの心は穏やかだった。

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