病んでますパート2。
シュタンの病室は、モモの母親のいる病棟とは違う建物にあった。古臭く陰気な場所の、更に奥まった場所の、北向きの個人病室である。健康でも気が滅入りそうな場所で、シュタンはドアをノックする前に深呼吸をして、重い戸を叩く。
「カイ准尉です。入室を許可願います、シュタン少尉」
言うが、返事は無い。何度か呼びかけるが、答えは一向に無く、カイは無礼を承知で戸を開けた。薄明かりが差し込む病室には、鉄格子の嵌った窓があり、その下に寝台がある。寝台の上に、シュタンは上半身を起こして座っていた。顔は窓を向き、表情は見えない。
「起きておられましたか、シュタン少尉。カイです」
話しかけて、ゆっくりと近づく。何の反応も無い。以前のシュタンなら――無自覚に思い浮かぶ考えに、カイは己の不甲斐なさを恥じる。
「少尉、今日は一日天気が良かったですね」
――まさに洗濯日和って奴だな。今日は機体を洗っていたら、こっちの軍服までびしょ濡れだよ。着てる服まで洗濯したかないのに――そう言って笑っていたシュタンは、ここにはいない。おまえは白いから陽に当たれ、とカイを振り回した右腕も無い。
振り向かないシュタンの目には、カイは写らない。
少尉、と何度も呼び掛けて漸く、シュタンは暗い瞳をカイに向けた。
「何をしている」
掠れた声が、カイの臓腑を抉る。カイは必死に笑顔を作り、努めて明るく言った。
「少尉に、会いに来ました」
シュタンの窪んだ目には、カイが映らない。
「腕が痛い。凄く痛むんだ」
少尉、と呻くようにカイは言う。シュタンの左腕がカイを掴んだ。
「右腕が痛いんだよ。ほら、操縦桿が熱を持つだろ? それで右手を火傷して。そこが痛むんだ」
医者なら治せるだろう、とシュタンは言い募る。少尉、とカイはシュタンの左手に自分の手を副えた。
「僕です、カイです。医者じゃなくて、実験機乗りの。今度、少尉と同じ基地に異動になったんです。これからは」
カイは言葉を切った。シュタンが痛みに呻き、呪詛が響いた。己の右腕を奪った者への、誰に聞かせるでもない深い憎悪が垂れ流される。カイは何も答えられずに笑みを浮かべた顔を引き攣らせて、閉じた部屋の中で陰鬱な呪詛を聞き続けていた。シュタンの肩を掴んで、貴方にはもう右腕が無いのです、と言い聞かせることは出来なかった。
「腕が、腕が痛いんだ。右腕が痛い」
「きっと良くなります。少尉、きっと良くなりますから。
今はゆっくり休んでください」
部屋が真っ暗になるまで、カイは顔を引き攣らせてシュタンに言い聞かせ続けた。
○
面会の時間が終わり、カイは重い足を引きずり帰宅した。異動に伴い、カイは姉と同居している。家に明りが灯っていることに気付き、姉の帰宅にホッと息をつく。勤務中の様子に変わった所は無かったので、安心していた。
ただいま、と声をかけて戸を開ける。鍋が湯気を立てる音が聞こえた。姉が台所にいるのだろう、という呑気な考えは、異常な湯気に気付いた途端に消えた。荷物を玄関に放り出して台所に走ると、吹き零れる鍋と膝を抱えて座り込む姉が目に入った。即座に火を止めて、姉の肩を掴んで呼びかける。何度も呼びかけ、肩を揺すって初めて、姉は顔を上げた。
「ああ、カイ? いたの?」
「姉さん、鍋を火に?」
虚ろな目が、ゆっくりと動いた。
「あら、火が点いてないじゃない。嫌だわ、暖めて無かったのね」
立ち上がった姉が、あまりに無造作に鍋に手を伸ばしたので、カイは咄嗟にその腕を掴んで止めた。姉が不思議そうにカイを見上げたので、姉が鍋を火にかけたことも、異常な蒸気音にも気が付いていなかったことを悟った。
「今日は僕が夕飯を作るよ、姉さんは休んでて」
「帰ってきたばかりでしょう? 姉さんが」
「ううん、良いんだ。ほら、前に言った南部の鶏肉鍋。急にあれを思い出してさ、作ってみようと思ってたんだ。姉さんも、食べたいって言っただろ?」
「そうだったかしら」
「そうだよ。ほら、あとは任せて姉さんは向こうで映画でも見てて」
カイは姉を台所から追い出すと、コンロに目を落とした。火事になっても姉は座り込んでいたかもしれない。後片付けと調理をしながら、カイは腹を括った。姉の身に何か起きてからでは遅い。姉が怒ろうとも、問い質さねばならない。
固い決意で、カイは出来上がった料理を持って食卓に向った。部屋着に着替えていた姉は、カイが来た事に気付くと、昼間見せたような笑みでカイを迎えた。
「美味しそうな匂いね」
カイは気勢を削がれた。なんとか頷き、鍋をテーブルに置いた。料理を前にはしゃぐ姉の姿は、最前の姉と同じとは思えなかった。手際よく二人分を配膳して、早速口に入れる。熱いよ、との忠告は間に合わず、姉はちょっとあたふたした。しかしすぐに笑顔に戻り、美味しい、と率直に微笑む。カイも相好を崩した。当たり障りの無い料理の感想が交わされる。話の糸口を掴もうとしたが、会話の主導権は常に姉にあり、割って入ることは出来なかった。鍋が半分に減った所で、姉はモモとその母の話をした。
「モモちゃんは起きたんだけど、あんたの上着を離さないのよね。自分で返したいみたいだから、あとで会いにいってやんなさい」
「うん。具合はどうなの?」
「過労よ過労。検査は異常無し。週末ゆっくり休んだら、退院出来るわ」
「本当に?」
「本当だってば。なによ、姉さんの言葉を疑う気? 戦闘に関しちゃ素人でしょうけど、健康に関してはプロよ?」
「解ってるよ、でもさ」
自分の健康状態は把握してるの、と言おうとしたカイを遮って、視線を落とした姉は言った。
「ヤマブキ先輩、モモちゃんのお母さんなんだけど、粛清の後で旦那さんを亡くしてるのよ。だいぶ血筋は遠かったんだけど、行政官で」
カイは言葉を失って、食事の手を止めた。
「モモちゃんは小さかったから、お父さんのことを知らないみたい。ヤマブキ先輩が倒れた時も、ちゃんと受け答えしてたし、泣いたりしなかったから、しっかりした子なんだな、と思ってたんだけどね」
面倒見てあげてね、と言われて、カイは頷いた。
「お世話になった先輩が入院してるし、またお見舞いしてくる」
「託児室にいると思うから、行ってあげてね」
カイは頷いた。姉はカイの様子を見て、少し笑った。
「ところで、あんた明日の休みは?」
「出勤だけど」
「そう。姉さんは出かけるから、適当に食事して寝てなさいね」
「休みじゃないの?」
「休み。ご馳走様。片付けはしておくから、早くお風呂に入って寝なさいね。姉さんはもう入ったから」
呼び止める間もなく、姉は食器を手に台所に行ってしまった。カイは姉を追うことが出来なかった。