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病んでます。

 その日もカイは、書類の記載ミスで落ち込んでいた。これまでしたことの無いような、単純なミスにカイは酷く落ち込んで、暗い気分だった。

 それでもようやく許可されたシュタンの面会日であったので、カイは努めて明るい顔を作りながら十四基地の病院へ向った。陰鬱に沈んだシュタンに、自分の暗い顔を見せたくなかった。以前のシュタンは、カイが少しでも落ち込んでいると殊更に明るく振舞ってくれるような人物だった。今度は自分がそうすべきだとカイは思っていた。


 病院に着くと、カイは男子トイレの鏡の前で、ちゃんと笑えているかを確認した。カイは自分の顔が引き攣っている事に気付いた。何度も自然な笑顔を作ろうとして失敗し、カイは洗面台に手をついて俯いた。これでは駄目だ、と自分に言い聞かせる。しかし顔は上がらない――嫌だった昔のことばかり思い出してしまい、その度に助けてくれた姉とシュタンの笑顔が頭を過ぎった。


 幼い頃から、姉はいつでもカイを助けてくれた。姉だってカイと同じで、血筋が原因の孤立を味わっていただろうに、いつでも底抜けに明るくて、嫌な事からカイを守ってくれた。自分の代わりに年上の少年を相手に、殴りあいの喧嘩だってしたのだ。


 何故そんな危ないことをと問えば、姉は常に同じ言葉で答えた――「あたしはカイのお姉さんだから、あんたを幸せにするのが仕事なのよ」そう言って笑う姉は、泥と鼻血に塗れても、何時だって太陽のように綺麗だった。弟の幸せが自分の幸せだと言って微笑む姉が、カイの世界の全てだった。


 シュタンもまた、他人の幸せを自分の幸せだと言うような人間だった。人前で頑なになりがちなカイに対し、シュタンは最初から屈託無く接してくれた。何か思う所でもあるのかと警戒して、始めはあまり親しもうとしなかった。その態度は思い出すと顔が赤くなるほどに慇懃無礼で、素っ気無かったと思う。それでもシュタンは変わらずに接してきたので、カイも次第に打ち解けるようになり、西部での軍務が終わってからも連絡を取るようになった。あちこちの基地に短期間派遣されるテストパイロットのカイにとって、異動後も連絡を取るほど親しくなったのはシュタンだけだ。


 他人に対するカイの態度が変わったのは、シュタンと親しくなってからのことだ。異動を報告した時、シュタンはしみじみと「よく笑うようになった」と言った。不意の言葉に戸惑ったカイの様子が可笑しかったのか、シュタンは破顔して、カイの困惑にトドメを刺す様に「お前が幸せそうだと、なんか嬉しい」と言った。だからお前は笑ってろ、とシュタンは言った。姉と同じような事を言う、とカイも釣られて笑った。


 自分も笑って接しよう。そうすることが義務だと思えて、カイは笑おうとしたが、頬は歪むばかりで、笑顔など作れそうに無かった。カイは自分の不甲斐なさに唇を噛む。姉が心配で、笑う事が出来ない。シュタンのことを思えば、何も出来ない無力さに苛まれ、顔を上げる事も出来ない。二人の事が心配で、軍務に身が入らない――なんと不甲斐ない、とカイは掌に爪が食い込むほどに拳を握った。


 姉とシュタンが苦しんでいる時に、自分は安心させるような事が何も出来ない。

 そのことが悔しくて、カイは無力な己から目を背けるように固く目を閉じた。

 雫が洗面台に落ちる音が耳に届いた。


 ハッとして目を開いた。震える喉から、声が漏れそうになった。

 カイは咄嗟に蛇口を捻った。先刻とは比べ物にならないほどの音で水が洗面台に落ちる。勢い良く流れる水に躊躇い無く両手を突っ込むと、盛大に水を飛び散らせて顔を洗った。何度も繰り返して冷たい水で冷やし、カイは勢い良く顔を上げた。ハンカチを取り出すのももどかしくて、水滴を袖で拭うと、大きく息を吐きだし、目を開いて鏡の中の自分と対峙した。


「笑え」


 自分に言い聞かせて、冷えた頬を緩めると、普段通りに笑えた気がした。すると、自分の行動の可笑しさに気付いて、笑い声が漏れた。青白い頬に赤味が戻ってきたような気がして、カイは満足した。

これならシュタンの前でも笑顔でいられる、とカイはトイレを出た。

 出た所で、カイは足を止めた。




 帝国軍の病院であるから、世話になる者の殆どは軍人である。家族がいれば見舞に来るので、子供の姿も見かけた。

 だが、男子トイレの前で膝を抱えてしゃがみこんでいる女の子は尋常ではない。父親を待っているのかと考えたが、今までトイレにはカイしかいなかった。ならば隣の女子トイレに母親がいるのかと思うが、そちらからは物音すらしない。そもそも病院の隅にある、あまり利用されていないトイレだ。入院患者の脱走という可能性は、女の子の服装から却下した。寝間着ではない。誰かの見舞いに来て、迷子になって座り込んだのだろうか、とカイは考えた。放っておくわけにもいかず、腰を落として女の子に声をかけた。


「どうしたの?」


 女の子は反応しなかった。カイは不安になって、膝を突くと、慎重に近づいた。


「声、聞こえる?」


 女の子は微かに頷いた。カイは一安心しつつ、質問を繰り返す。


「どこか痛い?」


 首を横に振る。


「誰かを待っているの?」


 今度は反応しない。放っておくわけにもいかないが、手を触れるのも躊躇われた。


「一緒に居ても良いかな」

 女の子は小さく頷いたように見えた。カイはほっとして少し距離を取って、女の子の隣にしゃがんだ。


 シュタンの面会は時間が限られている。こうしている間にも、その時間は過ぎていく。それでも、カイは蹲っている女の子を放っておけなかった。

 以前の自分を見ているようだったのだ。淋しくて泣いていた幼い頃や、周囲に馴染めなくて浮いていた数年前。カイには姉が居た。シュタンが居てくれた。蹲った女の子にも、誰かが居るべきだと思った。


 どれ程、女の子の側に居ただろうか。人の通らない廊下に、足音が響いた。ゴム底でも、他に音が無ければ響く。高襟の軍服で、中央に衛生兵科の白線、それに沿う基地所属の緑線、エプロンと三角巾は基本的な衛生兵の出で立ちだ。


 姉だ。カイは立ち上がろうとして、服の裾を引っ張られる。小さな手が軍服の裾を掴んでいた。カイは立ち上がることを止め、姉に大きく手を振った。姉が気付き、駆け寄る。カイの隣に蹲る女の子に気付くと、ハッとして膝を付いた。


「モモちゃん! どうしたの、こんな所で」

「姉さん、知ってる子?」

 頷きながら女の子を抱き起こそうとしたスミレは、その手が掴んでいるものに気付いた。小さく噴き出すと、カイの肩を叩いて立ち上がった。


「カイ、モモちゃんを抱っこしてあげなさい。寝ちゃってるみたいだし、しっかり掴んでるし」

「寝てるの?」

「気付かなかった?」

 カイは首を横に振った。そんなに時間が経ったようには思えなかったし、こんなに静かに眠るものとは思わなかった。


「カイが小さい頃も、こんな風に静かに寝たわよ」

「……姉さんが五月蝿いから、女の子がこんなに静かに寝るとは思わなかった」

「姉さんの所為にしないの。ほら、早く」


 姉に急かされたものの、カイは対応に困った。少し考えてから、女の子が掴んだ軍服の上着を脱ぎ、包むようにして抱き上げた。見れば確かに、女の子はぐっすりと眠っている。寝顔を覗きこんだ姉が、声を出さずに笑い、小声で言った。


「カイの小さい頃みたい。姉さんもよくカイを抱っこして寝かせつけたのよ。姉さんがいないと、すぐぐずったんだから」

「からかわないでよ。この子、何処に連れて行けばいいのさ」


 案内する、と姉は先に歩き出した。追う背がとても小さく見えて、見下ろすカイは少し不安になった。と、姉が振り返り、笑いながら見上げた。


「あんた、昔は姉さんよりも小さかったんだからね? よくおぶってあげたの、覚えてる?」

「覚えてるよ」

「ちっちゃいカイをおぶって、駆けたんだから」

「……知ってるよ」


 姉が何時の事を言っているのか、カイには解った。カイがまだ何も解らなかった頃の、話に聞くだけの出来事だ。


「モモちゃんね、私達の遠い親戚なの」


 カイが抱えた女の子を慈しむ様に覗き込んだ姉が、小さく告げた声に、カイは少し硬くなった。


「モモちゃんのお母さんは衛生科で、先輩なの。姉さんにとっては恩人なのよ。

 最近、大きな戦闘があったでしょ? あの処理で、モモちゃんのお母さんは倒れてしまって、少し入院してるの。 お母さんはもう大丈夫なんだけど、やっぱり、モモちゃんも疲れちゃったのね」


 モモちゃんにはお母さんしか居ないの、と姉は言った。

 カイには姉しか居ない。いなくなってしまった。


「淋しかったのかな」

 呟くと、女の子を抱く腕に力が篭った。小さな女の子は、とても儚げだった。


「守ってあげてね」


 姉の言葉に、カイは無言で頷いた。それから幾ばくもしないうちに、案内された六人部屋に入ると、女の子と似た女性が窓際のベッドに座っていた。女の子を見て声を上げようとしたのを、姉が人差し指を立てて制止する。


「モモちゃん、眠ったみたい。弟が一緒に居ました」

「まあ、すっかり寝ちゃって……ありがとうございます、スミレちゃんの弟さん」

「帝国軍人としての勤めです」


 敬礼すると、姉にわき腹を肘で突かれた。堅すぎる、と囁かれて少し戸惑う。やり取りを見ていた女性は小さく笑い、その手に抱いた娘を、愛おしそうに撫でてやった。


「この子、私の前では何時も笑っていてくれるの。

 不安だろうに、ずっと気を張ってくれていたのね。ありがとう」


 カイは鼻の奥がツンとした。用があるからと暇を告げると、女性は軍服を返そうとした。が、小さな手が掴んで離さない。


「駄目よ、モモ。お兄ちゃんにお洋服を返さなきゃ」

「いえ、結構です。姉に渡して下されば」

「そういえば一緒に住めることになったと言っていたっけ。良かったわね、スミレちゃん」

「自慢の弟ですから」


 姉の返事が、カイには嬉しかった。




 

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