三年後(後)。
売店まで来て、カイは我が目を疑った。
罵倒しながらの殴り合いをカイが認識するまで、暫く時間が掛った。騒動の外にちょこんと置かれた、包みから頭を出した帝国兎は所在なさげで、カイはそれに妙に感情移入してしまう。脳のどこかが、現実を受け入れるように警告してきた所で、カイはようやく一歩踏み出した。その間にもシュタンは少年たちに接近し、鼻血を垂らして馬乗りになっていたリョクの首根っこを掴んで猫のようにぶら下げ、反撃に出ようとしたコンを右手で押さえつけた。カイはようやくリョクに駆け寄って、怪我の程度を確認する。
「コン君の怪我はどうですか?」
「頑丈だからどうにでも。そっちは」
「酷い傷はないみたいですけど。リョク君、どこか痛い所は?」
リョクは口を開くが、言葉はなかった。頬は紅潮し、見開いた金瞳からは今にも涙が零れそうだ。まだ興奮が醒めず、落ち着かないようだった。向こうでは、シュタンがコンを力ずくで押さえつけていた。こっちは大分荒っぽい。
「もっ、申し訳ありません! 優先事項を守れず、このような!」
腰を直角に曲げて、リョクは一息に言う。気にしなくていい、と言い終わらぬ内に、悲鳴染みた声が響いた。ついでに人を殴る音もついてくる。
「すんごいきれーだし、ソラさんちの猫に似てるから、可愛いって言ったら、殴られたッ!」
「まだ侮辱するかッ!」
カッとなったリョクを制止する。細い背を撫ぜて、逆上するリョクを宥めた。肩にリョクの額が当たり、落ち着こうとしていることが察せられた。あまり感情を出さないリョクが激昂する姿は、カイが初めて見るものだった。カイの上着を掴む指先に力が篭っていることからも、その感情が大きくぶれているとが感じられる。似たような言葉は嫌というほど聞いているはずだが、年の近い相手に言われ、いつも以上に許せなかったのだろう。コンにも悪意は無く、素直に見たままを言っただけのように思えた。当の本人はシュタンの右腕によって、涙を流して反省しているようだった。鼻血も出ている。
少年らが落ち着いた頃を見計らい、カイは所在なさげだったぬいぐるみを抱え、もう一方の手でリョクの手を取った。
「車に戻りましょう、僕が運転します」
シュタンが無言で頷く。コンは自分が運転すると言ったが、目の上が腫れていた。リョクも名乗りを上げたが、拳に血が滲んでいるので同じ反応を返す。その代わり、独りで歩けると言った時には素直に手を離した。先頭に立って歩くとシュタンがリョクに話しかけるのが聞こえた。喧嘩の仕方を話しているらしく、カイは苦笑する。と、視線を感じて振り向けば、コンと目が合った。
「どうかした?」
「少尉も似合ってかわッだぁッ! なんでもありません!」
シュタンに後頭部を殴られる様を見て、カイは苦笑だけを返した。
ぬいぐるみを受け取ったモモのはしゃぎようは例えようが無く、遂には「お兄ちゃんのお嫁さんになる!」とまで言われた。感謝されると悪い気はせず、カイはモモの頭を撫ぜた。ずっとカイの傍でぬいぐるみを抱えているモモは子供らしい可愛さで、手当てを受けていたコンは何度と無く目を細めていたし、顔を洗ってきたリョクも無表情を緩めていた。スミレとシュタンに「良かったね」と言われ、モモは何度も満面の笑みで頷いた。
夕飯にはコンも同席した。二人の少年は相当に相性が悪いのか、何度も喧嘩に発展した。その度にシュタンが止めに入り、最後にはスミレとカイは笑って見ていた。ちょっかいをかけずにいられないコンと、反撃せずにいられないリョクは、年齢よりもずっと子供に見えた。そもそもリョクがこんなに感情を露わにすることが珍しい。
食事が済むとコンは基地に戻り、カイの裾を掴んで放さないモモを部屋に寝かしつけた所で、リョクも下がった。気を利かせたように思えたが、コンとの喧嘩で相当消耗しているようだった。
姉とシュタンと面と向って話をするのは三年ぶりである。カイは少し緊張した。自然と背筋が伸びた。
と、一枚の書類が出てきた。シュタンが目を逸らし、スミレは頬を紅潮させて笑う。カイは力が抜けて、にっこり笑った。
「いつ出しに行くんですか?」
「……明日にでも」
「一緒に行く?」
「二人で行った方が良いと思うな。
それで、年度が変わったら中尉もここに?」
「……北部第五基地に異動する。その前に、きちんとしておこうという話になった」
それまで照れたように目を背けていたシュタンが視線を戻した。軍にいる時の目だ。
「航空隊から拡大計画に派遣される」
カイは目を丸くした。言いたい事が喉に詰まり、言葉にならない。
「……計画に参加したら、家族としか連絡が取れないだろう? それも理由の一つだ。今のままでは、俺が連絡を取れる相手は一人もいない」
「それじゃあ、姉さんは!」
「一応、私も配属変更は出したけど、今回は無理だと思う。二人とも、一年はしっかりやってなさいよ。私はモモちゃんといるから」
姉が己の胸を叩いた。それでも不安が拭いきれないカイは、シュタンを見やった。
「少しは姉を信じてやれ」
カイは言葉をなくしてしまう。姉を見れば、穏やかな微笑を浮かべていた。
「あのね、カイ。正直な所、貴方が居なくなってから、ずっと淋しかった。顔も見れないし、連絡も取れないし、帰ってきた貴方からは相変わらず湿布の匂い。貴方が向こうで何をしていたのか、凄く不安になる。気付いてないでしょうけど、痩せたわね?」
細い指が頬に触れ、カイは息を呑む。
「貴方が満足そうだから、私は納得できたのよ。今の軍務は、やりがいがあるのね?」
正直に頷く。姉が笑った。
「それと、リョク君。懐かれてるってことは、良い先輩なのね。姉さんは嬉しいわ、貴方は私の誇りよ」
姉の言葉に胸を突かれ、カイは姉の指に手を重ねて俯いた。奥歯を噛み締めていないと涙が零れてしまいそうだった。
「体を壊さないようにね、カイ」
「姉さんも、幸せに」
姉は笑って、それはこっちにも言ってやって、とシュタンを指差した。シュタンは居心地が悪そうに顔を背けている。頬杖を着いて隠そうとしている頬が赤くなっていることに気付き、カイは笑う。
カイは姉を休ませ、シュタンを駅まで送った。星明かりと街灯で道はさほど暗くないが、時間が遅く人気は無い。
「姉さんを、宜しくお願いします」
駅に着く直前、そう深く頭を下げると、シュタンは頷いた。
「正直な所、おまえには殴られると思ってたよ」
「どうして僕が中尉を殴るんですか?」
シュタンは苦笑する。カイは首を傾げる。
電車が来るまでは、まだ間があった。シュタンが言いにくそうに話を切り出す。
「計画のことは、よろしくとだけ言っておく」
「はい。中尉は航空隊からの派遣という形になるんですよね?」
「聞いた限りでは」
「リョク君の所属も航空隊なんです。面倒をみてもらえませんか」
「俺はおまえほど優しくない」
「僕は中尉ほど公正じゃないんです」
今は特例でカイの雑用をしているだけであることを付け足す。
「凄く嫌なんです。僕にはリョク君を助けることなんて出来ない。精々、傷を舐めあうだけです。それも、僕の傷なんて凄く浅くて、なんの慰めにもならない」
俯いたカイの頭をシュタンの左手が撫ぜた。
「おまえが傷つかなかった分は、姉が持ってるんだろう。で、あいつが傷つかなかった分はお前が。
リョク候補生もそうなんじゃないのか? おまえがいることで、大分救われてると思う」
「でも僕は、中尉が僕にしてくれたようには出来ないんです。ただ、傍にいるくらいで」
「それでいいんだよ、おまえは」
「中尉、ですが」
反論しようとしたカイに、シュタンは笑みを見せた。右腕のあった頃、陽気なシュタンが時折見せた笑顔だ。
「あんまり難しく考えるなよ。傍にいる奴は笑ってる方が良いだろ」
電車のライトが迫ってきていた。
翌朝、基地に戻る段になって、姉はカイに一つ耳打ちした。




