ぼくの姉さんと先輩は。
帝国暦九三二年、西部第八郡。
この世で一番の幸福を得るのは、姉のスミレであるべきだ――幼い時にカイはそう信じていた。唯一の肉親である姉は、母であり父であり保護者であり、即ち世界の全てであり、姉の幸福が世界の幸福と同義であったのだ。しかし成長するにつれ、世界が姉と己の閉じた世界ではないことを知り、また姉は自分の幸福のみを願う狭量な心など持ちあわせておらず、故にカイの望みは沢山の人々の幸福に変わった。
今、カイが幸福を望む人々の中には彼、シュタンの存在がある。シュタンはカイの二期先輩の西部第十五基地工兵科航空部隊パイロットで、二年で撃墜五機のエースになり、三年目に一隊を任された優秀な帝国軍少尉である。その頃のカイは北部開発局所属の実験機乗りとして各地を転々としており、西部でたまたま担当になったシュタンが、孤立しがちなカイに目をかけて面倒をみてくれたことを切掛に親しくなった。冗談が好きで快活なシュタンは、上手く笑えないカイを構い、姉以外の世界を広げてくれた。
それから二年が経ち、カイは開発局から整備局に異動になり、シュタンと同じ西部第十五基地に異動した。それは危険で勤務地の一定しない勤務から、特定基地での勤務を意味した。その上姉と同じ勤務地で、姉とのしばらくぶりの同居も決まった。カイもスミレもそれを喜び、報告を聞いたシュタンは「楽しみにしている」と電話越しにカイに告げた。カイは配属日を指折り数えて待った。
心待ちにした日の直前、哨戒任務に出たシュタンは機体を撃墜された。彼は一ヶ月の間、行方不明になった。
帰ってきたシュタンは、右腕と快活さを失っていた。
精悍な顔には凄惨な迫力が宿り、明るかった表情は影を帯びて暗くなった。カイをからかって小突いた右腕は、陰惨な拷問により、指を、手を、肘を、肩を順々に切り落とされていた。多弁だった舌は、拷問中にそうであったように、基地附属病院にあっても、凍り付いたように何も語らなかった。
記憶の中のシュタンと、眼前のシュタンとの印象はまるで別人であった。
追い討ちをかけるように、スミレの様子がおかしくなった。最初は久しぶりに同居による不慣れか気の所為かと深く考えなかったが、湯の沸いたヤカンをじっと見つめる姉の姿は明らかに異常で、カイは理由を問い質した。何でもないから心配しなくていい、姉はそう笑ったが、カイには納得出来なかった。
以前のカイならシュタンに相談していただろうが、病室のシュタンには何も言えなかった。シュタンのことも一度は基地病院に配属されて長い姉に相談したのだが、今では姉自身のことが不安で相談できる状態ではなかった。
ここに至って、カイは自分がいかにスミレとシュタンに頼っていたかを自覚した。せめて軍務だけはと思えども、不安が頭をもたげて身が入らない。自然とミスが増え、注意され、カイはすっかり自信を無くしてしまった。己の不甲斐なさに打ちのめされてしまった。