祓う話
その日は皆がざわめいていた。皆、と言っても今この家には生きてる者は瀧二郎しかいない訳だが、前からよく出入りする未だ成仏できない霊たちが口々に「今日はおかしい」や「何かよくないことが起こるよ」と瀧二郎へと囁いてくる。あの水面でさえ今朝からずっと瀧二郎にくっ付きっぱなしな上に頼継に至ってはさっきから屋根の上で視線を遠くに飛ばし、険しい表情をしている。
瀧二郎自身、よくない予感は胸の内にあったのだが杞憂であると思い切ろうとしていた。むしろそうであってほしいと願っていたのだが、どうにもその予感は外れではなかったようで。今まで屋根の上にいた頼継がいきなり目の前に姿を現したかと思うと、眉に皺を寄せたまま低い声で囁いた。
『…善くないものが来た。』
「あれ…灰掛さん?」
「………八咫さん。」
憔悴し切った様子で家を訪ねてきたのはとある番組の企画で一緒になったことのある男で、名前を灰掛文春と言った。あの事件の時、彼に何体か憑いているのを見て本当に霊が引き寄せられやすい体質なのだなとその目で確かめた瀧二郎は何かあったら自分に連絡するように忠告していた。最後に彼を見たのはあの場にいた人達が廃病院から脱出したその時以来だったが、その時の彼と比べると随分と顔色が悪く、暗い影が射していた。付いてきていた水面にも気付かないところを見るとやはりまだ霊は見えていないようだったが、客間に案内する間も何かに怯えるかのように水面の立てる小さな足音に敏感に反応したりしては辺りを見渡していた。
これは水面が下手に騒ぐといけないと思い「違う部屋で遊んでおいでと」言ったのだが、いつもは聞き分けるのにどうしてか今日は離れようとしないので騒がない事を約束して同じ部屋に居ることを許した。
お茶を淹れてくる、と客間に男を残して向かったのは台所ではなく自室。雰囲気でしか感じ取ってはいないが塩を盛ったからと言って止められる相手ではない気がしたので札を適当に懐に入れ、四方に札を貼っていく。頼継が先程から姿を隠しているが恐らくあの『善くないもの』が出てくるのを待っているのだろう。男が訪ねてくる前に破魔矢を数本渡しておいたがあの数で大丈夫なのだろうかと思いつつ、ついでとなってしまったお茶を淹れてから茶菓子を用意し客間に戻ると男はびくりと肩を震わせたが、瀧二郎の姿を確認すると安堵したようにほっと息を吐いた。
瀧二郎は男の反対側に座ってから、彼が少しでも安心してくれるようにふっと微笑むとゆっくり話し始める。
「大丈夫、『アレ』は此処にできる限り来れないようにしたから。…もしかしたらまだ視線は感じるかもしれないけど、少しだけ我慢してね。」
「何で……そのことを。…アレって、」
「…灰掛さん、前に霊は見えないって言ってたからそうかなと思って。悩まされてるのは具体的な現象じゃなくて大方は視線とか雰囲気なのかな、って思ったんだ。」
そう言ってからお茶を進めると、少し躊躇っていた様子ではあったがゆるゆると湯呑みへ口を付けた。温かいものと甘いものをお腹に入れれば少しでも落ちつくのではないかと用意したものだったが、やはりまだ落ちつかないらしく彼はどうしても辺りが気になるようで、そわそわとしている。瀧二郎は「大丈夫」と言ってまた笑った。
「まだライターをしてるの?」
「あ、ああ……うん。」
「あの事件の後その仕事で何か特殊な事したり、そうだな…変な所行ったりしなかった?」
「変、な所……?」
「うん、感じ的に悪いなーって思うような所とか。」
「……仕事の依頼で心霊スポットに行った…のはあるんだけど、」
「ああ……十中八九それだね。」
「…え。」
その時、男は顔を上げて今日初めて明確に瀧二郎と視線を交わした。「やっと少し焦点が定まった」と思いながらも瀬二郎は続ける。
「変な事、したりしなかった?其処にいる人たちを怒らせるようなこと。」
「写真は………撮った。」
「写真かあ……。」
正直に言うと写真には関連性が無いように思える、彼は霊を引き寄せやすい体質らしいので憑いてきてしまったというのが妥当な考えだろう。だが彼に憑いているそれは些か性質が悪い。何処にいるのかははっきり分からないが、微かに感じる気配と雰囲気で恨み辛みの念が伝わってきた。だがその全てが彼に向けて発せられている、という訳ではないようで瀧二郎は頭を捻る。
どう対処すべきか、と考えあぐねていたその時。木の葉が掠れるかのような、女の子の小さな声が聞こえた。
「――――――を助けて。」
いきなり聞こえた声に驚いたと同時にその声が水面でないことに気づき、瀧二郎は声の聞こえた庭を振り向いた。目を凝らしてみると、木の陰に小さな女の子がいることに気付く。彼女が何かを言おうと口を開きかけた瞬間、背後から「ひっ」と短い悲鳴が聞こえたと同時に今まで隠していたであろうその禍々しい気配が姿を現した。
咄嗟に男の視線の先にある襖へ目をやると、そこには男を悩ませている元凶がほんの少し開いた襖の隙間から無数の目を覗かせこちらを見ていた。こちらへ、と言うよりかはその視線は全て男へ向けられていたのだが。
その視線を真向に受ける当人はというと信じられないものを見るかのように目を見開き、呼吸すらままならない様子で只々恐怖に震えている。
「頼さん!!藍居!!」
鋭い声で呼ぶと狩衣を着た男と銀の毛並みを持つ狐がすぐに姿を現した。頼継はほぼゼロ距離の位置から破魔矢を放つ。藍居は恐怖で動けない男の目の前へと庇うように立ちふさがった。一瞬の出来事だったにも関わらず『それ』は素早く避け、中庭へと飛び出し逃げようと虚空へ身を躍らせるが、直後電気がショートする時のようなバチィッ!という大きな音と共に赤黒い身体が地面へと叩きつけられる。それがこの敷地に入った時から既に結界を張り巡らせていた所為だろう。退路という退路は全て塞いでいた。
その姿を見た瀧二郎は水面へ男を見ているようにと部屋に残し、自身も中庭へと行こうとしたのだが不意に男に呼びとめられる。
「う、あ……ま…待ってくれ!私は…!こ、この子は…!?それに、狐…」
男は相当混乱しているようだった。今まで悩まされてきた現況が目の前に見える形として現れ、普段では見えるはずの無い水面や頼継がいきなり見えるようになったのだから無理はないだろう。瀧二郎は男の背中を優しくぽんぽんと叩き、微笑んだ。
「大丈夫、この子たちと待ってて。すぐ終わるから。」
終わらせてあげるから、と言えば男は呆気に取られたかのように瀧二郎を見つめた。水面一人では不安だったので藍威を呼んだのだが、これも混乱の種に入ってしまったようだ。さすがに動物が喋っては益々混乱させることになるだろうと踏んだのか藍居はふさふさした尾を男の身体にふわりと巻きつけ、その先端で男の頬を撫でる。水面は水面で彼女なりに男を守ろうとでもしているのか男の前へと回り込んでぎゅっと手を握り締めながら中庭を睨みつけていた。
その姿を見て微かに笑った瀧二郎は視線を中庭の赤黒い身体をのた打ち回るそれへと移した。頼継は今の間に破魔矢を三本放っている。瀧二郎が近付きながらそれへ話しかけても答えは返ってくることはなく、既に怨霊となっているそれは言語の意味も理解してるとは言い難い。そうなってしまっていたらすべきことは一つしかなかった。
『……駄目みたいだな。』
「うん。いいよ、後は私がやるから。」
『………。』
静かにそう言うと頼継はその場から離れ、藍威のいる部屋の前まで下がった。まだ苦しげにのた打ち回るその赤黒い身体の前に瀧二郎は一瞬だけ悲しげな顔を向けると、懐から札を取りだした。
「…落ちついた?」
「…それなりに……。」
あれから一時間が経ち、先程とは違う客間に通された男は茶菓子をほんの少し切り取り口に入れていた。向かい側に座る瀧二郎はその様子を見てやはり柔らかい笑みを浮かべる。その視線が気恥ずかしくなったのか男が話を切り出した。
「その…私に憑いてたあれは、一体。」
「ん?ああ…あれはね、亡くなった人の怨念とかそういうものが集まったもの。…とても善くないものだよ。」
「…そんなものがどうして私に…やっぱり、引き寄せやすい体質だからなのか?」
そう言われて瀧二郎はううん、と唸ると顎に手をやって少し考える仕草を取ってから男を暫くの間じっと見つめた後、言った。
「なんて言えばいいのかな…灰掛さんはね、霊を引き寄せやすい体質でもあるんだけど。その引き寄せられた霊が落ちついちゃう体質でもあるみたい。」
「…は?」
「それが人畜無害な人たちならいいんだけど…やっぱりどうしてもさっきみたいなのも引き寄せられるみたいだね。」
正直に言うと男に憑いている霊は彼が思っているよりも多い。だがさっきの怨霊のように明確に害をもたらす存在ではないようなので言わなかっただけだった。下手に真実を伝えてその全てに怯えられるのも、ただ単に彼の傍が居心地が良くて居る霊たちに悪いような気がした。
「…今日は凄く理解し難くて怖い思いをしただろうけど、世の中にはこういう霊ばっかりがいるっていう風には思わないでほしい。寂しくて仕方ない人もいるし自分がどうしてこうなったのかも分からない人もいる。だから全部の霊が全部悪い奴だ、とは思わないでくれるといいな。」
そう割り切るのはとても難しいことだろうけどね、と最後に付け足して瀧二郎は困ったように笑うと、男は「はは…」と少し引き攣った笑みを浮かべて力無く笑った。ただその顔に、来た時の暗い影はもう浮かんでいなかった。
灰掛さんが頼継たちを視認したのは明確に『あれ』が見えた時だけであとは変わらず見えなくなったっぽい。