第1話 ――一粒の価値
それは、本当にどうでもいい事故だった。
ニュースにもならない。
誰の記憶にも残らない。
濡れたアスファルト。
夜の交差点。
ほんの少しの不運。
彼の人生は、そこで終わった。
――はずだった。
目を開けると、空はやけに青かった。
風が揺らすのは、高層ビルではない。
見渡す限りの金色の穂波。
「……田んぼ?」
体を起こそうとして、違和感に気づく。
服が違う。
手のひらが、少し小さい。
そして――目の前に、誰かが立っていた。
白い衣。
金の髪。
背後に揺れる光の穂。
「目覚めましたね」
その声は、どこか懐かしく、温かい。
「あなたは死にました」
あまりにも淡々とした宣告だった。
叫ぶことも、否定することもできない。
ただ、風が稲を揺らす音だけが耳に残る。
「ですが、終わりではありません」
女は微笑む。
「私は豊穣を司る女神。
あなたに、ひとつ祝福を授けましょう」
差し出されたのは、たった一粒の籾。
「《一粒万倍》」
その言葉が、世界に溶けた。
「あなたが自ら拾い、価値を認めた“ひとつ”を、万倍に増やす力」
冗談みたいだった。
剣でもない。
魔法でもない。
勇者の証でもない。
「……落ち穂、拾えってこと?」
女神は、楽しそうに笑った。
「そうです。
世界は、拾う者にだけ微笑むのです」
次の瞬間、視界が弾けた。
彼が立っていたのは、森の外れだった。
空腹。
装備なし。
所持金ゼロ。
チュートリアルもなければ、説明書もない。
足元に、小さな木の実が落ちていた。
誰も拾わないであろう、ひとつ。
彼はしばらくそれを見つめる。
そして、拾った。
――世界が、震えた。
手の中の木の実が、増える。
ひとつが、十。
十が、百。
百が、千。
止まらない。
足元を埋め尽くすほどの木の実の山。
彼は、息を呑んだ。
腹は満たせる。
売れば金になる。
交渉も、拠点も、武器も――手に入る。
「……はは」
小さな笑いが、森に溶ける。
剣はいらない。
英雄の血もいらない。
必要なのは――
拾うこと。
そして、増やすこと。
遠くで魔物の咆哮が響いた。
世界は甘くない。
この力があっても、死ぬときは死ぬ。
だが。
彼の手には、すでに“種”がある。
世界攻略は、
たった一粒から始まった。




