第7話 浜辺に倒れていたもの
今日は休日だ。
朝の海へ散歩に出かけると、いつもより静かだった。潮の音がどこか濁っていて、波打ち際に“息をしているような光”が転がっていた。最初はゴミかと思った。近づくと、それはゆらゆらと浮き沈みしていて、人の形を忘れかけた影みたいだった。透明で、輪郭だけが残っている。海水を吸って、吐いて、たまに少し光る。
……これはもしや、スプ〇ッターハ〇スの究極邪……しかし、青くない。僕は、とりあえず声をかけた。
「……おはようございます?」
返事はない。代わりに、空気が少したわんだ。
いったん、家に戻ることにした。妻がトーストを焼いていた。
「浜辺に誰か倒れてた」
「どんな人?」
「人かどうかも微妙」
「じゃあ、とりあえずタオルと水筒ね」
「……え、行くの?」
「行くわよ、放っとけないじゃない」
行動が早いのが彼女の長所だ。
娘もついてきた。保育園は遠足前日で休みだ。砂浜に着くと、光の塊はまだそこにあった。動かないけれど、消えもしない。妻がしゃがみこみ、タオルをそっとかけた。意味があるのか分からないが、風がふわっと止まった。
「体温、あるのかしら」
「たぶん光温」
娘が近づいて言う。
「ねえパパ、この人、海の声してる」
「声?」
「うん、“おおきいな”って言ってる」
「空耳じゃない?」
「うん、耳で聞こえないやつ」
娘は真剣だった。
妻がタオル越しに触れると、光が震えた。低い音が出て、言葉になった。
「……ここ、すこし、重い」
僕と妻は顔を見合わせた。
「……え、今しゃべった?」
「たぶん」
「外国の人?」
「たぶん違う」
「おはようございます」と妻が声をかけると、光はかすかに明滅した。
「ここ、どこ」
「海沿いの町です」
「町……」
「あなたはどこから?」
「……亜空、ずれた」
「ずれた?」
「方向、まちがった」
「それは……お気の毒に」
妻は手を貸そうとしたが、光がふっと浮き上がった。浮かんだまま、波に揺られている。娘が笑う。「ねえパパ、この人、方向音痴だね」
光が小さく唸った。
「音痴ではない、空間のずれ」
妻がうなずく。
「わかります」
僕はまったく分からなかったが、うなずいた。
風が吹いて、光が少しだけ透明を取り戻した。そこに、かすかに顔のような模様が見えた。目があるのかもしれない。光がまた震えた。
「あなたたち、ここのひと?」
「ええ」
妻が答える。
「観光?」
僕が聞くと、間があって、
「……迷子」と返ってきた。
娘が声を上げた。
「やっぱり方向音痴だ」
光は何も言わなかったが、空気が少し笑ったように揺れた。
そのあと、波がひとつ大きく寄せて、光を押し上げた。妻がタオルでそっと包んだ。
「とりあえず、家に連れて帰りましょう」
「どうやって?」
「浮いてるんだから、ひっぱっていけばいいのよ」
「そんな簡単に……」
「簡単がいちばん」
妻はそう言って歩き出した。娘は後ろから「がんばれー」と応援していた。光はゆっくりとついてきた。
リビングに光を入れると、空気が一度だけふくらんだように感じた。照明がふっと明るくなって、テレビが小さく反応した。ニュースのアナウンサーが笑顔で言う。
「本日、北半球の雲帯が小休止です。風は気分次第」
その言葉を合図にしたみたいに、光がソファの上でゆっくり形を変えた。まるで、居心地を探しているみたいだった。
「コーヒーいる?」と妻が聞いた。
「飲むのかな……」
「温度は合うかもね。うちのは地球式だから」
「何その単位」
娘がコップを持って近づく。
「飲んでみる?」
光がわずかに明滅した。
「……飲むとは、なに?」
「えっと……エネルギーの補給?」
「……あ、じゃあ、たぶんもうしてる」
「どこで?」
「さっき、海で」
妻がうなずいた。
「朝食済みね」
光は少しのあいだ黙っていた。波の残響みたいな音を出してから言った。
「ここ、やさしい」
「そう?」
「亜空より、重くて、静か。いい」
「重いのがいいの?」
「うん。空間が落ちつく」
「観光客っぽい」娘が笑った。光がふっと沈む。
「……かんこう?」
「旅の人、ってこと」
「……そう。旅。長い」
妻はメモ帳を開いて、聞き取りを始めた。いつの間にか“記録係”になっている。
「あなた、どこから来たの?」
光が少し明るくなった。
「……亜空。異の層。ときどき道、ずれる」
「この星に来たのは初めて?」
「……たぶん。ここ、やさしい」
「他にも来たことのある人は?」
「人? ああ、あなたたちが言う“お花畑生物”とか」
僕と妻は顔を見合わせた。「知ってるの?」
「知ってる。あのひとたちは“大きい庭”の管理。私は“その庭の道”」
「庭の……道?」
「うん。ときどき、道が迷う」
「つまり、あなた自身が迷子の道?」
「そう。道の一部が、ここに落ちた。すこし恥ずかしい」
娘が笑った。
「だから倒れてたんだね」
「……たぶん」
光が少し照れたように淡く光った。
冷蔵庫がぶうんと唸り出した。いつもより低い音。壁の時計が一瞬、逆回転した。妻がちらりと見る。
「この人、電気と仲いいのね」
「交流タイプかもね」
「直流だと分裂するかも」
「……」
「そういえば、帰り道は分かったの?」
僕が聞くと、光がゆっくり首を傾けるように揺れた。
「帰り道……長い。まだ、見つけてない」
「地図いる?」
娘が聞くと、
「……ほしい」と答えた。
妻がメモ帳を破って、星の形を描いて渡した。
「これ、うちの町」
「ありがと。……これ、いい地形」
「でしょ」
娘が胸を張る。
「うちの保育園もあるよ」
「……保育園、いい響き」
光がしばらくその紙を眺めていた。紙の上に細い光が流れ、線の上に砂のような粒が並んだ。それはどこかに通じているようにも見えた。
「帰る前に何かいる?」
妻が尋ねると、光は少し考えて、
「お礼、したい」と言った。
「え、お礼?」
「はい。ここの空気、気に入った」
「どんなお礼?」
光はゆっくり明滅した。
「……まだ考え中」
娘がぱっと笑う。
「考え中のお礼ってすてき」
妻が言った。
そのあと、光はテレビの画面に溶けるように移動し、リモコンも触ってないのにチャンネルを変えた。
映ったのはどこかの海の映像。画面の中でお花畑生物が、波の向きを直していた。リポーターが叫ぶ。
「現場では、今日もお花畑生物が、海流の調整作業を続けています!」
光が静かに呟いた。「あのひとたち、ほんと働き者」
「知り合いなんだ?」僕が聞くと、
「うん。前に、一緒に風を直した。彼らは庭を、私は道を」
「職業別なのね」
「うん。でも、たまに混ざる」
「混ざるとどうなるの?」
「花が咲く」
「なるほど」
娘が笑って言った。
「じゃあ、ママの頭の上でも咲きそうだね」
妻は笑って娘の髪をなでた。
「あなたの方が早いわよ」
光はその会話をじっと聞いていた。やがて、低く言った。
「……いい家。ありがとう」
「どういたしまして」
「でも、もう行く」
「帰り道、見つかったの?」
「たぶん。少し長い」
そう言うと、光はゆっくりとドアの方へ向かった。扉は開いていないのに、そこに風が集まって、淡い渦になった。娘が手を振る。
「また迷子になったら来てね」
「……うん。次は地図持ってくる」
そして光は、まるで世界の厚みの間に滑り込むようにして、静かに消えた。残されたのは、メモ帳の上に浮かぶ小さな粒だけ。妻がそれを指で触れた。
「お礼かしら」
「何かに使えるかな」
「さあ。でも、ありがたい気がする」
「意味は分からないけどね」
「そういうのがいちばん長持ちするのよ」
翌朝、風が止んでいた。空は淡い青で、海がやけに遠く見える。浜辺に行くと、昨日の波の跡が光っていた。砂の一部が四角く盛り上がって、そこだけ時間が遅れているみたいに静止していた。妻が目を細めて言う。「この辺りね。昨日、あの人が倒れていた場所」僕はうなずいて、しゃがみこんだ。砂の表面が薄く光っている。
娘がそれを指差した。
「パパ、なんかあるよ」
砂の中に、小さな透明の欠片があった。ビー玉より少し小さい。光が内部でゆっくり回っている。僕が拾い上げると、空気がひとつ深呼吸したみたいに波打った。妻が言った。
「……これ、たぶんお礼」
「でも、これ、何?」
「さあ。でも、ありがたい気がする」
娘が頷いた。「うん。なんか、見てると安心する」
欠片は冷たくなく、重くもなかった。ただ、手のひらの上で“世界の音”がほんの少し静まる。遠くの波が一拍遅れて届く。空が、少し近く感じられた。
「これ、どうする?」
「家に置こうか。観葉植物の横に」
「そんな扱いでいいの?」
「意味のわからないものは、だいたい植物の横が安全」妻は笑った。
娘が砂浜を走って、遠くを指さした。「あ!」
海の向こう、水平線の少し上を、薄い光がゆっくり横切っていた。雲の間をすり抜けるように、空気の層がたわむ。声が聞こえた。ほんの一言だけ。
「ありがとう、の、かわり」
聞こえたのは一瞬だけ。でも、確かに届いた。
娘が両手を広げて叫ぶ。
「こっちこそありがとうー!」
妻が笑った。
「声、届くかな」
「たぶんね。六時間後くらいに」
「そのころには、きっと夕方ね」
「お礼の返事は、だいたい遅れるもんだよ」
妻はうなずいた。
「それでいいわ」
光はすぐに見えなくなった。波がまた普通の速度で打ち寄せた。娘が僕の手を見て言う。「パパ、それ、光ってるよ」
見ると、手のひらの中で欠片がふわりと明滅していた。
「どうする?」
「……ありがとうって言っとく」
僕は空に向かって軽く手を挙げた。空気がひとつ息を吸い、欠片がすっと消えた。
何も残らなかった。けれど、なぜか空が少し軽くなった気がした。
妻がポケットから携帯を出して、画面を見た。
「見て。風速ゼロ。珍しいわね」
「平常運転じゃないの?」
「平常より、静か」
娘が笑って言った。
「たぶん、プレゼントだよ。風が休んでるんだ」
僕はうなずいた。
「なるほど。意味はわからないけど、ありがたい」
帰り道、風見塔がゆっくり回りはじめていた。




