第6話 風見塔の帰り道
駅前の風見塔が、ゆっくりと反対向きに回っていた。空の青は深く、塔の金属が陽を返してまぶしい。妻の列車が遠い都市を出て、ずいぶん経つ。遠いといっても、この星では「少し離れた場所」くらいの扱いだ。帰ってくるころには、町の花が三回咲いて、二回散る。つまり、ちょっとした長旅。
「ねえパパ、ママって、きのう出たの?」
「うん。きのうの朝からずっと走ってる」
「じゃあ、今日つく?」
「んー……“今日”がんばれば、“明日っぽい今日”には着くかな」
「ふうん……それって、あした?」
「まあ、そうとも言える」
娘は首をかしげて、ポケットの鈴を鳴らした。チリンと鳴って、すぐ風に溶けた。音の方が早く着いたらしい。
駅の電光掲示は、いつもどおり到着予定便を光らせている。メンテナンス時には、駅員が手書きで“たぶんそのうち”と貼り出す。僕はあの札が好きだ。あれが出ると、駅全体がちょっと安心する。
塔の影に立つと、風がシャツの袖を引っ張った。遠くの空の向こうから、旅の風が少し遅れて届く。匂いは草と風、それに少しだけ違う時間の匂い。彼女が働いていた通信都市の空気に似ていた。
やがて、地平の線がわずかに揺れた。低い音がゆっくり近づき、銀色の列車が姿を見せる。長い旅を終えたはずなのに、車体はどこか新しかった。遠くでひとつ、低い警笛が鳴る。
娘が息を呑む。
列車が止まり、扉が開く。最初の一歩を踏み出した彼女は、まるで風に押し出されたようだった。スカーフの端を押さえながら、ほんの少し笑う。通信越しに見ていた笑顔より、やわらかかった。
「ただいま。思ったより風が重いね」
「そうか、僕には軽くなった気がする」
「ふふ。なら、いい風」
その声に、僕はほっとした。遠くにいたはずなのに、話すテンポがまったく変わっていない。長い旅を終えた人特有の、時間のズレがまるでなかった。
娘は照れて、塔の影に隠れた。妻は小さく手を振り、空を見上げた。風見の矢印が、またゆっくりと方向を変えていく。
「向こうではね、風が東から来てたの。だから帰り道、追い風で少し速かった気がする」
「そうなのか」
「たぶん、気のせい」
彼女はそう言って笑った。
「さ、帰ろうか」
「荷物、重くない?」
「軽いよ。行きより思い出が減った分、風が入ったから」
その言葉に、娘が「ママ、へんなの」と笑った。僕もつられて笑い、三人で風見塔の下を離れた。
少し歩いたところで、妻が立ち止まった。
「そうだ、お土産があるの」
「なに?」
妻は小さな瓶を取り出した。透明なガラスの中に、かすかに光が揺れている。
「向こうの空の空気。少し甘いの。冷める前に嗅いでみて」
「今、あけていい?」
「あとでね。おうちに着いてから」
娘は大事そうに瓶を胸に抱えた。風が後ろから押してくる。いつもより、家までの道が少し短く感じた。
帰り道のスーパーで、娘が惣菜コーナーの餃子を指さした。
「ママ、これ、帰ってきたから買おうよ」
「いいね。焼き直すだけでごちそうだ」
「皮がパリパリのやつ?」
「うん。旅の終わりにちょうどいい音がするやつ」
妻はそう言って、餃子を一パックかごに入れた。僕はついでに牛乳とビールを足す。娘はその横で真剣にポテトサラダの量を計算していた。
「これ、三人で食べたら……一人分ずつになる?」
「だいたい、なる」
「じゃあ、ママが多めね」
妻が笑う。
「じゃあ、そうしよう。長旅のごほうび」
家に帰ると、部屋の空気が少し違って感じた。いつもと同じはずなのに、壁の色まで柔らかく見えた。
荷物を置いた妻が、玄関で深呼吸をした。
「やっぱり、ここの空気は丸いね」
「丸い?」
「向こうはね、風が角ばってたの。動くたびに引っかかる感じ」
娘が首をかしげる。「風に角ってあるの?」
「あるのよ。きっと“時間の角”」
僕は笑って「詩人だな」と言った。妻は肩をすくめて「理系なんだけど」と返した。
夕飯の支度をしているあいだ、娘はキッチンの椅子に座って鈴を磨いていた。前に音のポストに入れた鈴だった。
「ねえママ、これ、風の人に届いたんだよ」
「風の人?」
「うん。パパがそう言ってた」
「そっか。ちゃんと届いたなら、きっと喜んでるね」
娘が鈴を耳に当てる。音は鳴らない。でも風が少し動いた。
食卓。餃子の音が小さく弾ける。
「向こうの街ではね、夜が少し遅れて来るの」妻がぽつりと言った。
「どうして?」
「時間の歩幅が違うの。あの街の人たちは、夕方を長めに使うのよ」
「都市だしね」
「ううん、気まぐれなだけ」
「なるほど」
餃子をかじると、外がパリッと鳴った。
「おいしい」
「やっぱり家の火がいいね」妻が箸を置いた。
「向こうの火は、風が通りすぎて落ち着かないの」
「さすが通信都市。燃焼にも遅延があるのか」
「そう。炎が送信されてから届くまでが長いの」
娘が「じゃあ、冷めちゃうじゃん」と言って、また笑った。
食後、娘が眠そうに目をこすった。
「ママ、明日もいる?」
「いるよ」
「あしたも“今日の続き”?」
「そうだね。続きでもいいし、新しい始まりでもいい」
「じゃあ、どっちがいい?」
「うーん……どっちでも届くほう」
娘は「むずかしいね」と言って、僕の膝に寄りかかった。
寝かしつけのあと、妻が窓を開けた。夜風がゆっくり入ってくる。
「この風、途中で私を追い越した気がする」
「どういうこと?」
「たぶん、向こうを出た日の風が、先に帰ってきてたの。だから今日は、あいさつをしにきたのよ」
「……おかえり」
「ただいま」
その声のあとで、風見塔の矢印が小さく鳴った。
リビングの灯りを落とすと、窓の外に塔の光が見えた。矢印はまだ反対向きに回っている。風は今日の分を運び終えて、次の町へ向かう途中らしい。
「ねえ、風って、どこまで行くのかな」
「星の裏側まで」
「戻ってこれるの?」
「うん。ちゃんと回ってくる。だから塔が回るんだ」
「ふふ。理屈っぽいけど、いいね」
「君が言いそうなことを言ってみた」
「うまくなったわね」
妻が笑って、ゆっくり背伸びをする。旅の疲れが抜けていくように、指先まで静かに。
「向こうでね、夜が来るたびに、あなたの町の方に風を送ってたの」
「知ってる。夜に風が迷ってた」
「それ、たぶん私の風」
「そう思ってた」
夜の空気が、部屋の隅々まで新しくする。
カーテンがゆるく揺れ、天井のランプが小さく鳴った。
妻の髪が少し浮いて、落ちる。僕はその瞬間だけ、時間が止まったように思った。
「ねえ」妻がぽつりと言う。「帰りの列車でね、途中で風が乗り込んできた気がするの」
「風が?」
「そう。たぶん途中で飽きたんだと思う。窓の外の景色をのぞいてた」
「部屋を間違えなかった?」
「ううん。ちゃんと客間のほうにいたみたい。車掌さんがこの星では風は乗車無料ですって」
「便利な規定だな」
「でもね、その風が降りたのが、この町のひとつ手前の駅なの」
「惜しい」
「そう。だからきっと、まだ歩いてる」
その話のあとで、僕らはしばらく黙った。
風が通り抜ける音が、まるでその“まだ歩いている風”の足音のように聞こえた。
夜はゆっくり更けた。妻は娘の隣で寝て、僕は少し遅れて寝た。夢のなかで、塔が風の手紙を投げていた。どこに届くのか分からない手紙。それでも、ちゃんと届くような気がした。
——朝。
目が覚めると、風見塔の矢印が東を向いていた。夜のあいだに、風が帰ってきたらしい。
窓を開けると、冷たい空気が一気に流れ込む。台所で妻が湯を沸かしている。娘はまだ眠っていた。
「おはよう」
「おはよう。風、戻ってきたよ」
「うん。ちょっと早起きみたい」
「この星じゃ、そういう日もある」
妻は湯気の中で笑った。
「また誰かのところへ行く前に、うちに寄ったんだね」
「たぶん、確認したかったんだ。ちゃんと届いたかどうか」
「何が?」
「ママの風」
妻はカップを差し出し、湯気の向こうで目を細めた。
「じゃあ、合格かな」
窓の外で、塔の矢印が音を立てた。
風は今日も、いつもどおりに回っている。




