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第3話 沿岸補給センターへ出張

 出張の辞令が出たのは水曜の夕方だった。

「来週、沿岸補給センターまで行ってくれ」

 上司はマグカップを持ったまま、画面越しに軽く言った。電子印が画面の隅で濃く点滅する。現物のハンコは薄いのに、電子の印だけは妙に精悍だ。


「海沿いの……あのドームの並んでるところですか」


「そう。近い方だろう?」


 “近い”の基準は、この星ではよく伸び縮みする。地図で線が一本につながっていれば、それは隣で、隣はだいたい近い。そういう理屈で世界は運用されている。


 出発の前日、娘が保育園から戻るなり、僕のかばんをのぞきこんだ。

「パパ、どこいくの」

「沿岸補給センター。味噌とか、瓶とか、調味料のもとがいっぱいあるところ」

「近いの?」

「ちょっと遠い。三日くらい」

「ふーん。じゃあ、今日のおみやげはなしね」

「なしだね」

「きのうのおみやげは?」

「それはもっとなしだね」

 娘はうなずいて、靴をそろえた。彼女の世界は、昨日と今日と明日でよく回る。その回し方は地球のときとあまり変わらない。


 荷造りは簡単だ。ノートPC、充電器、書類少々、着替え、塩分タブレット。紙に「切符」と書いてから、いまは切符という物体を見なくなって久しいことに気づく。アプリですべて足りる。けれど、紙に書くと気持ちが締まる。予定も、締め切りも、紙に書くと、すこし現実の味がする。


 出発の朝。駅構内はよく響く。天井が高く、声が薄くのびて、消える。

 長距離のプラットフォームは人が少ない。都市間移動をする人は、そもそも多くないからだ。掲示板には《沿岸補給センター方面 本日発車予定》とある。予定は心の栄養。栄養は大事で、保証は少しも要らないらしい。


 時間どおり——に近い時間で、リニアが音もなく入線した。銀色の長い車体。肩の力が少し抜ける気配があった。動いてくれるものに、人は自然と優しくなる。


 今回支給された客室は出張用の3LDK。受付の駅員が言う。

「ビジネス等級B、コンパクトタイプでございます」

「コンパクト……」

 扉が引き戸で開く。リビング、寝室、浴室。小さなキッチンに、二人掛けのソファ。窓は壁いっぱいで、水平線が気前よく横切っていた。床は柔らかく、足の裏で、何かがかすかに脈を打っているようにも感じる。どうして動いて、どこから電力を取っているか、説明はない。説明はなくてよく、移動は進む。


 「発車いたします」の声が柔らかく車内に広がった。揺れは小さく、音はほとんどない。窓の外で、海が滑る。走るのではなく、部屋ごと少しずつ流れていくような移動だ。3LDKの“狭さ”が、数日でちょうどよくなるように、家具の配置はよく考えられていた。浴室の鏡は、顔より景色をよく映す。仕事をする机は窓際で、水平線と資料の列とが、同じような顔で並んだ。


 一日目の昼。車内販売がやって来た。

「本日の昼膳は“塩むすび二種と潮汁”です」

「山のものは?」と訊ねる人が必ずいる。

「山は遠いので、次の季節に」

 にこやかなテンプレート。僕は塩むすびをひとつ受け取った。噛むと、塩の角が舌にさわって、すぐ消える。うちの町の塩とは粒の感じが違う。塩にも、それぞれの癖がある。


 午後はオンラインの確認会議に参加した。遅延は数字で見れば僅かだが、参加者は慎重で、間を空けて喋る。「どうぞ」が二回。「ではこちらから」が一回。会議の終わりに「現地確認よろしく」と一文が添えられた。


 夜。テーブルのランプを落とすと、床の下がうっすら明るい気がした。部屋の静けさに、耳が慣れる。遠くの低い音が、寝息みたいに続いて、途切れない。僕はシャワーを浴び、タオルで髪を拭き、ソファで地図を眺め、寝室に移動して、眠った。


 二日目の朝。

 窓の外、海面に白い線が並ぶ。遠洋の貨物船だ。沈まない水平線の上で、沈まない船がゆっくり動く。

 

 昼前、通路を歩いてみた。3LDKが連なって、静かな住宅街のようだ。扉の隙間から、煮物の香りがする。出張者はだいたい三種類に分かれる。よく働く人、よく寝る人、よく煮る人。リニアはそのどれにも優しい。


 夕方、部屋に戻って、書類をもう一度読み直す。沿岸補給センターでは、出荷ラベルの様式が近々変わる。フォントサイズが0.5ポイント大きくなる。読み取り機が新しくなって、目に優しいサイズが良いらしい。世界の変更は、たいていこういう微差で運ばれる。微差の輸送に、数十万キロが使われる。


 三日目の午後、沿岸補給センターに着いた。

 駅を出ると、風がまっすぐだった。塩の匂いが、正面からやって来て、正面から去っていく。

 白い丘の連なり。塩ドーム。遠くから見ると雪山に似て、近くで見るとまぶしくて、目を細める。フォークリフトが蟻のように小さく動き、コンベアが口のように開いて閉じる。潮の音は意外と小さく、倉庫の扉の開閉音の方がよく響いた。


 センターの事務棟はガラス張りで、内側に寒色の光がたまっている。受付で名前を告げると、担当の人が現れた。白いヘルメットを小脇に抱え、笑った。

「遠路ありがとうございます。ここが沿岸補給センター、ラベル貼付課です」

「初めまして。ラベル……貼るんですね」

「ええ。貼るだけです」

 誇らしげだった。貼るだけ、という言い方が、ここでは褒め言葉に聞こえる。貼るだけの“だけ”が、世界を動かす。


 会議室は小さい。テーブルの上には新旧のラベルが整列していた。フォントが少し大きく、すこし太い。紙は同じ。糊も同じ。違うのは、読む人の目の疲れだ。

「この0.5ポイントの差が重要でして」と担当者は言う。

「読みやすくなる?」

「読みやすくなって、“遅れた時の言い訳がひとつ減る”んです」

 なるほど、と頷く。世界は言い訳の数だけ滑らかだ。言い訳が減ると、ほんの少し、進む。


 午後は倉庫を見学した。巨大な室内で、白い丘の斜面に黒い点線が走っている。秤だという。

「塩は嘘をつきません」と案内の人が言う。「水は気分で変わるけど、塩は変わらない」

 会話のテンプレートはここでも機能して、僕は「勉強になります」と答えた。塩の横を通ると、指先が乾く。湿った国の出張者が、ここで一気にカサカサになるという噂は本当らしい。


 夕方、岸壁で船の荷役を眺めた。クレーンが、箱を、ゆっくり上げて、ゆっくり下ろす。急がないのではなく、急げないのでもなく、急ぐ理由が薄いのだ。


 業務は一時間ほどで終わり、「本日の確認終了」と書かれた紙に互いの名前を並べた。印の濃さをしばらく見比べ、どうでもいいのに満足して、握手をして、別れた。


 帰途も3LDK。リビングのカーテンを引くと、部屋が急に“家”の顔になる。寝室の枕はやや高く、浴室の湯はやや熱い。窓の外は黒い海で、灯台が点々と続く。真っ直ぐで、どこまでも続く。

 車内放送が「本日の運行状況は“いい感じ”です」と言った。いい感じ、はこの星の万能薬だ。意味は軽いのに、安心だけはある。


 予定より少し早く、うちの町に着いた。

 改札を出ると、空気が丸くなる。

 保育園に寄ると、娘が走ってきた。

「ただいま」

「おかえり。おみやげは“きょうのやつ”?」

「“今日のじゃないやつ”」

「でも本物?」

「本物」

 袋から取り出したのは、沿岸補給センターの売店で買った小さな瓶——空の瓶だ。ラベルには《本日“も”到着》とあった。容器だけ先に届いて、なかみはいつか来る。娘は瓶を逆さにして、耳にあてる。

「なんにも言ってない」

「うん。静かだね」

「じゃあ、ママごっこに使う」

 彼女の“いつか”は、遊びで満たされる。容器は空でも、用途は先に満ちる。


 家に帰ると、台所は魚の匂いでいっぱいだ。鍋の蓋を開けると、湯気が顔に絡んで、目が少し熱い。

「沿岸はどうだった?」と母が聞く。

「白くて、静かでした」

「うちも今日は静かよ。列車が時間どおり来たから」

 時間どおり、という言葉に、家の中の空気がすこし明るくなる。


 夜、ベランダに出る。空はよく晴れて、星がはっきり見える。地球みたいな夜空。違うのは、遠いものの遠さで、近いものの近さが、やけに安定していることだ。

 スマホが震えた。《沿岸補給センター:ラベル新様式、明朝から運用開始。いい感じです》

 いい感じ。僕は“了解”のスタンプを押して、電気を落とす。娘の寝息が、布団の向こうからすこし聞こえる。


 巨大な星の上で、遠いものは遠いまま、近いものは近いまま——その中間を、3LDKが静かに往復している。

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