第2話 魚は豊富、調味料は欠品
僕が住むのは海沿いの小さな町だ。
自給自足を達成している大都市とは違い、生活のいくらかは外部からの物資に頼っている。といっても、塩は困らない。海水を煮詰めれば手に入るし、潮風で乾く塩田もある。問題は、醤油や味噌、砂糖にマヨネーズ——発酵や精製の手間がかかるもの、そして隣都市のブランドにこだわったものだ。そういうのは、貨物列車や船便が運んでくるまで待つしかない。
この星では、遅延は“日常”である。誰も怒らない代わりに、誰も急がない。空がどこまでも高く、地面の終わりが見えないのだから、急いだところで距離は縮まらない——皆、そう思っている。
今日は休みなので、娘と一緒に漁をやっている父さんの手伝いに来た。
朝の港は慌ただしい。
父さんたち漁師が大声で呼び合い、網を積んだ小舟を押し出していく。彼らは「ちょっと沖に出る」と言って笑う。町の子供は誰も「沖」がどこなのかを知らない。漁から戻った大人たちに聞くと「数キロ先くらいかな」と軽く答える。近いのは良いことだ。実際には何百、何千キロ先まで水域が続いていても、僕らの暮らしに必要な“沖”は数キロで足りる。
その日も漁は大漁だった。
銀色の腹が朝日を返し、桟橋に並ぶと港が少し明るくなる。ときどき、薄桃色のひれをもつ深海魚が混じっている。花びらみたいな模様で、子どもたちは「花びら魚」と呼ぶ。あれはお花畑生物の親戚じゃないか、と本気で言う人もいる。
「これだけあれば、町中でご馳走だな」
「そうだな。ただし、醤油がなければ全部“塩味”だ」
横で魚を数えていた港の人がぼやく。
塩はうちの町の得意分野だ。粒が大きくて、噛むと甘い。だが、煮付けや照り焼きとなると話は別だ。醤油は海沿いの隣町で仕込まれ、年に数回、貨物列車で届く。
午前の仕事を片づけて、港の屋台で塩むすびをひとつ買った。海の塩で握ったおむすびは、それだけで十分にうまい。
空は今日も深い群青で、雲は大陸の地図みたいな形でひとつずつ浮かんでいる。風に流されるでも、もくもくと湧くでもない。ただ、巨大すぎて動いているのかどうかも分からない。
空は、どうも地味だ。海がいろんなものを引き受けて、空には余白だけが残ったらしい。
昼過ぎ、調味料を積んだ貨物列車が近くまで来ていた。もともと情報はスマホでわかっている。列車位置を表示するアプリに、やけに頼もしい矢印が現れて、五分おきにちょっとずつ動く。ちょっとずつ——ほんの、気休めほどに。
駅のホームには人がぎっしり。屋台まで出て、「入荷待ちフェスティバル」ののぼりがはためいている。マグロ串、塩焼き、塩ソフトクリーム。どれも塩がよく効いている。駅長が線路の先を望遠鏡で覗き込み、得意げに言った。
「現在地はおよそ五百キロ先だ!」
隣で立っていた商店のおじさんが僕に小声で聞く。
「五百キロって……あとどれくらいで来るんだ?」
「四、五時間くらいじゃない。今日中には着くよ」
屋台の売り子は「もうすぐ来る!マヨネーズ焼きそば」に看板を書き換える。
駅前のスピーカーから、商店会長の弾んだ声が流れた。
「本日の入荷はあります! 列車は五百キロ、順調に接近中!」
夕刻、空が群青を深めはじめたころ、追尾アプリの矢印は駅名の手前でぴたりと止まり、しばらくすると、ホームの向こうに白い灯が二つ揃って現れる。列車だ。
減速音、きしむレール、停車。運転士がドアから顔を出して帽子を押さえた。
貨物の扉が開く。銀の缶、茶色い瓶、白い袋。マヨネーズ、醤油、砂糖。遠目にも、みんなが待っていた形と色だった。
屋台の「もうすぐ来る!マヨネーズ焼きそば」は、静かに「祝・入荷!マヨたっぷり焼きそば」に名前を変えた。
人波が少し引いたころ、僕は港に戻った。潮の匂いが鼻をくすぐり、桟橋の板が陽に暖まっている。遠くで子どもの声がして、僕はそちらを見た。
娘が巨大タコと遊んでいた。タコの足は家一軒分ほどもあり、娘がその上に乗っても、ただの飾りのようにしか見えない。
「見て! ブランコだよ!」
足の先で器用に娘をぶらんと揺らすタコ。吸盤が桟橋に「ぺとっ、ぺとっ」と軽い音を残す。町の人々は誰も驚かない。あのタコは遊び好きで、この辺りに長年住みついており、毎朝漁師の網をチェックして破れを見つけると、器用に足で結んでいく。父さん曰く「動く裁縫箱」だ。
「落とさないでよ」と母さんが心配する。
「大丈夫、大丈夫」と父さんは笑う。「人間の子ひとりくらい、朝飯前さ。ほら、タコ、ゆっくりだ」
タコは言葉がわかるのか、わからないのか、ゆっくりと娘を持ち上げて、海面すれすれで止めた。娘はキャッキャと笑い、足にぶら下がってぶらんぶらんと揺れる。陽ざしが水面で砕け、銀色のさざ波模様が足の内側を駆け上がった。
海は、なんでも持っている。食べ物も、遊び相手も、見たことのない生き物も。
対して空は、今日もただ広い。雲は大陸サイズだが、ゆっくり流れるだけ。天空の城はない。鳥はたいてい普通の大きさで、たまに港のパンくずを盗んでいく。娘が空に向かって手を振った。
「こんにちは、空!」
空は何も返さない。海の方から、小さな波が「ちゃぷ」と返事をする。
夕方、家に帰ると、台所は魚の匂いでいっぱいだった。大皿に並べられる魚、魚、魚。刺身、塩焼き、揚げ物、潮汁。どれも美味しいが、味付けはほぼ塩だ。塩分量に気をつけないといけない。
「醤油があれば照り焼きが美味しいんだがな」と父さんが言い、
母さんは苦笑して鍋をよそった。
「さっき列車で届いたばかりの醤油があるけど……すぐ使うのはもったいないわね」
娘は口を尖らせて、「マヨネーズ開けようよ!」と主張する。
僕は魚の塩焼きをつついていた。
豊かさと不便さが同居する、この町らしい食卓だ。
母さんはしばらく迷った末、戸棚から“開封前の記念ボトル”として置いてあった醤油を取り出した。
ラベルには大きく「本日到着」と赤いスタンプが押されている。
ふたを開けると、家の空気がふわりと甘くなる。
父さんは最初のひと垂らしを丁寧に魚に落とし、娘は目を輝かせた。
「うわぁ、茶色だ!」
「色で喜ぶなよ」と僕は笑った。「味で喜べ」
晩ご飯を終えて、港に散歩へ出かける。
桟橋の板は湿っていた。遠くの灯台がぽつりと光り、海面に道をつくる。
夜の港は静かだ。魚を揚げる声もなく、漁具の金具が風に鳴るだけ。
空を見上げると、満天の星がきらめいていた。空気は澄み、星座もはっきりしている。
大気が厚いとか散乱が強いとか、そういう話は専門家の言葉で、僕らの目にはただ「よく見える夜空」だ。
雲の端が街の灯を受けてうっすらと縁取りされ、大きな地図のように広がっている。娘が首を傾げて言った。
「どうして空にはお城がないの?」
「海がぜんぶ持ってっちゃったんだろ」
空は余白だ。
その夜、町役場で会議が開かれた。
議題は簡単だ。明日の調味料の割り当て、塩田の当番、次の船便の迎えの人員。
これを決めるだけの、あっさりした会議だ。
夜更け、家に戻ると、娘は布団で眠っていた。母さんは毛布をかけて、小声で言った。
「明日、醤油、少しだけ使おうか」
「うん。祭りまで、もたせよう」
空は静かで、海は満ちている。巨大な星のくせに、僕らの暮らしは地球とあまり変わらない。違うのは、遠いものを遠いままにして、おいしいものは近くでおいしく食べる、というあきらめ方だけだ。
僕は電気を落とし、眠る娘の寝息を聞きながら、自分も布団に潜り込んだ。明日も魚だろう。けれど、それでいいと思った。




