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第11話 冬層の降りてくる町

 この星の冬は、空から落ちてくる。


 雪が降るわけでも、氷点下になるわけでもない。

 ずっとずっと上──雲よりもっと高いところに浮かんでいる「冬の層」が、少しずつ沈んでくる。それだけのことだ。けれど、それだけで十分に季節になるくらい、この星の空気は分厚くて、やわらかい。


 最初にそれを感じるのは、だいたい台所だ。湯気と匂いに混ざって、別の季節の気配が紛れ込んでくる。


 その朝もそうだった。

 ケトルが小さく鳴り始めたころ、窓の向こうの空が、ほんの少しだけ白んで見えた。霧のようで霧ではない。ガラス越しに薄い膜を一枚重ねたみたいな、透明な白さ。

 ここで暮らすあいだに、いつのまにか一目でわかるようになった。


「……ああ、冬だな」


 思わず口に出すと、背後で足音がした。寝癖のついた娘が、パジャマのまま台所に入ってくる。

「パパ、空、ちょっと重いね」

「わかる?」

「うん。耳が、ちょっとへんな感じするもん。冬の手前のときのやつ」


 娘は窓の近くまで行って、ガラスに鼻をくっつけた。額にうっすら曇りがつく。

「まだ落ちてきてない? 冬層」

「うちのあたりまでは、まだかな。きっと北のほうで、今ごろもぞもぞしてる」

「もぞもぞするの?」

「厚い空気だから、場所を探してるんだよ。どこに沈もうかなーって」


 娘は「ふふっ」と笑って、椅子によじ登った。冬が空から降りてくることも、その途中で迷うことも、この星の子どもには当たり前の前提だ。疑うより先に、どうやって迷っているのか想像するほうが楽しいのだろう。


 トーストの匂いが部屋に広がったころ、寝室から妻が出てきた。髪を結びながら、まず窓のほうを見る。

「やっぱり本当だったんだ。昨日の予報」

「今年は静かな冬になりますって。空気の厚み、観測値が去年の一・四倍だって。一・四倍って、どのくらいなんだろう」

「知らない。けど、スーパーの売り場で冬物コーナーが広がるくらい」


 妻はそう言って笑い、自分のカップに珈琲をついだ。

 娘の小さなマグも湯気を立て、三人分のあたたかさが天井のあたりでゆっくり混ざる。

 この星では、季節はたいてい台所の会話から始まる。ニュースより早く、体のほうが先に気づくこともある。


 朝食を終えて食器を流しに運び、僕はリモコンを取った。テレビをつけると、ちょうど天気のコーナーだった。

「——冬層は現在、北方連峰のはるか上空を移動中。層がかなり厚く、ここ数年でいちばん静かな冬になる見込みです」


 気象キャスターが笑いながら指さした先の画面には、白く霞んだ山々が映っていた。輪郭が揺れているのは、距離のせいか、空気の層のせいか。

 山の上では、空気がゆっくり渦を巻いていた。その渦の中に、小さく光る粒のようなものがたくさん漂っている。


 レポーターの声がかぶさる。

「こちらが“冬の光虫こうちゅう”です。冬層が近づくと空中に現れ、光と冷気の流れを整える働きがあると考えられています」


 ただ、画面に映っている光は、光虫そのものというわけではない。いま揺れているのは、どこかはるか上で生まれた光が、冬層の壁で何度も跳ね返され、ようやく地表に届いた気配の光だ。


 光虫たちは、まるで逆再生された雪のように、ふわふわと上へ登っていった。一匹一匹が小さく尾を引き、消えてはまた現れる。その動きが、なぜか見ていて落ち着く。

「ほら、冬の虫、出てきたよ」


 僕が声をかけると、娘が牛乳を両手で抱えてソファから身を乗り出した。

「わ、もう光ってる。去年より早いね」

「去年は、たしか冬層が迷子になってたからね。途中で一回、別の都市圏に降りちゃって」

「南のほうに行ってたやつ?」

「そうそう。『今年の冬は行方不明です』ってニュースになってたやつ」

「ちゃんと見つかってよかったねぇ」


 娘は心底ほっとした様子で言う。本人には何の被害もなかったのに、その口ぶりは完全に当事者だ。

 キッチンカウンター越しに、そのやりとりを聞いていた妻が笑った。

「冬って、迷子になるものなんだっけ」

「なるよ。だって、こんなに空が分厚いんだし」

「それもそうか。……でも、今年はまっすぐ来てるっぽいよ」


 妻は壁に掛かった簡易観測モニターを指した。外気圧と温度と、簡単な層の厚みだけを表示する安い機械。それでも、冬の手前くらいはちゃんと教えてくれる。

 画面の端で、青いバーがいつもより少しだけ下に伸びていた。


 午前中、洗濯物を干そうとベランダに出ると、空気がいつもより静かだった。耳の奥が軽くつまるような感覚。

 遠くの車の音が、ほんの少しだけ遅れて聞こえてくる。

 娘もベランダに出てきて、両腕を広げた。

「パパ、やっぱり今日、冬の手前の日だね」

「なんでわかる?」

「声がすこし、のびてるもん。ねぇ、ほら——」


 娘はわざと大きな声で「おーい」と叫んだ。声は隣の建物の壁に当たって戻ってくる。その反響が、いつもより粘っこく、長く尾を引いていた。

「ね。ほら。からまってる」

「からまってるねぇ」


 洗濯物を物干し竿にかけながら、僕は空を見上げた。高いところに、いつもの雲より薄い筋のようなものがいくつか走っている。あれが冬層の端なのか、それともただの光の迷子なのか。


 昼のニュースでは、冬山の特集が始まった。

「こちら、冬層が最初に触れる北方連峰からの中継です」


 画面の中、山々はほとんど輪郭を失い、白い霧と光の層に沈んでいた。そんな中で、雪のような毛に包まれた丸い生き物たちが、列になって斜面を歩いている。

「こちらが“雪守ゆきもり”です。冬層が降りる季節、霧と光の流れを整えるのが彼らの役目です」


 雪守たちは長い棒のような道具を持ち、その先端を霧の中にそっと差し込んでいく。動き自体は遅く、ほとんど止まっているようにも見えるのに、棒が通った跡の霧だけが柔らかく揺れ、密度を変えていく。


 霧が厚すぎる場所は少し削り、薄いところには別の層から霧を引いてくる。まるで壊れやすい楽器を調律しているみたいだ。

「かっこいい……」


 娘が小さく息を呑んだ。妻もソファに腰を下ろしながら言う。

「ほんと、ちゃんといるんだね。写真じゃないんだ」

「毎年思うけど、あの足場でよく転ばないよなぁ」

「転んだら霧がぐちゃぐちゃになるんじゃない?」

「だから慎重なんだろうね」


 レポーターが雪守の代表にマイクを向けた。顔は陶器のようにつるりとしていて、口元だけがかすかに動く。

「今年の冬、具合はいかがですか?」

「厚いですねぇ。静かですよ。音がよく沈む冬になりそうです」


 低い声がゆっくりと響く。

「静かな冬、いいですね?」

「ええ。静かな冬は、考えごとがよく進みますから」


 スタジオのアナウンサーが笑い、「考えごとが多い皆さんには朗報ですね」とまとめた。

 この星の天気は、たいてい哲学のような顔をして予報される。


 午後になると、空の白さが一段階濃くなった。冬層の第1波が、この町の上空にも触れたらしい。

 最初にそれを教えてくれたのは、役所のスピーカーよりも、娘だった。

「パパ、音、ちいさくなったよ」

「どれどれ」


 窓を開けると、たしかにいつもの工事の音が遠くなっていた。やめたわけではない。重く厚い空気に包まれて、角の取れた音だけがもぞもぞと届いてくる。

 そのとき、町内放送がふわりと流れた。


《冬層、北都市圏上空に第一次接地——今後数日、音の遅れと光の層の変化にご注意ください》


 注意しようがない種類の注意だ。妻が窓から顔を出し、空を見上げた。

「ほんとだ……空の奥行きが違う」

「奥行き?」

「青さの向こうに、薄い灰色が一枚増えてる感じ。写真じゃ伝わらないやつ」


 娘が外へ飛び出して、指さした。

「あ! 屋根、なんか光ってる!」


 僕たちも玄関から外に出る。近所の屋根の上に、ほんのわずかだが白いものが積もっていた。雪のようでいて、雪ほど厚くはなく、霜のようでいて、霜ほど冷たくはない。


 冬層が触れたときだけ生まれる一瞬の膜——冬膜。

 ためしに指先でつついてみる。ぱっと青白い光が広がり、すぐに消えた。

「きらきらした!」


 娘がまねをして、別の場所をつつく。そこでもう一度、光が広がる。

「冬の粒だよ。今日は挨拶だけ、って感じかな」

「もっとたくさん落ちてこないの?」

「明日とか明後日とかかな。冬層が迷わなければ」


 娘は「迷わないでね」と屋根に向かって手を振った。


 夕方になると、家の中の音も変わってきた。

 鍋に落ちる野菜の音が、いつもより丸い。水が沸騰する音も、少し遠くから聞こえる。窓ガラスの向こうを走る車のライトが、やわらかく伸びている。


 テレビからは、昼間の冬山特集の再放送が流れていた。雪守たちは相変わらず霧を整え、光虫たちは冬層の中で静かに回転している。


 娘はテーブルでお絵かき帳を広げていたが、ときどきクレヨンを止めて画面を見上げる。

「パパ、今年の冬、厚い?」

「さっきのおじさんが言うには、厚いらしいね」

「じゃあ、長くいる?」

「厚い冬は、ゆっくり来て、ゆっくり行くんだって」

「ふうん。じゃあ、ゆっくり遊べるね」


 娘はそう言って、また紙に色を重ねていった。クレヨンがこすれる音が、やけに静かだ。


 夜。娘を布団に入れ、電気を落とした。窓の外は、柔らかい灰色に沈んでいる。

「パパ、今日、冬の声きこえるかな」

「まだかな。冬の声はね、音より遅いから」

「どういうこと?」

「空気が重くなると、遠くの音がなかなか届かないんだよ。山のほうから、ゆっくりゆっくり来るんだ」


「じゃあ、いつくるの?」

「たぶん、明日の朝。耳がじんわりする感じで」

「……じゃあ、先に寝とくね」

「うん。先に寝てて。冬の声が追いかけてくるから」

「うん……おやすみ」

 娘は目を閉じ、数秒で呼吸のリズムを変えた。子どもの寝付きは、季節よりよほど速い。


 リビングに戻ると、妻がマグカップを両手で包んでいた。湯気が指の間から逃げていく。

「静かだね」

「うん。空気が声を集めてる感じがする」

「集めてどうするの?」

「たぶん、山に返してる。冬のあいだ預かっててもらうんだよ」

「また変なこと言ってる」


 妻は笑ったが、そのまま少し黙った。テレビの画面では、雪守たちが焚き火を囲んで談笑している。会話の内容は聞こえない。ただ、火の明かりが冬層に反射して、薄い輪をいくつも作っている。

「ねぇ」

「うん?」

「静かな冬って、悪くないね」

「うん。僕は好きだよ。なにも急がなくていい気がするから」

「この星で急いでも仕方ないけどね」

「それもそうだ」


 マグカップの温度が、ゆっくりと手から逃げていく。代わりに、静けさが部屋の隙間を埋めていった。


 妻が先に寝室へ行ったあと、僕はベランダに出た。

 外は思ったほど寒くない。厚手の上着まではいらないくらいの温度。それでも、空気は冬の顔をしている。


 見上げると、星はほとんど見えなかった。代わりに、空の高いところで、冬層の中をさまよう光虫たちが、遠い雲のような帯を作っていた。白とも青ともつかない光が、ゆっくりと渦を巻き、時々、かすかな流星のように筋を引く。


 耳を澄ます。


 街の音は、ある。車も走っているし、どこかの家ではテレビの笑い声もしているはずだ。けれど、そのどれもが直接耳には届かず、一度冬層のほうに吸い込まれてから、やわらかく戻されてくるような感覚があった。


 大きな静けさが、空から地面に落ちてくる。

 耳の奥が、ほんの少しだけ詰まったように感じる。呼吸の音さえ、いつもより遅く胸に響く。

 遠くの山の方向で、光が一つ、また一つと空に滲んだ。

 雪守たちの灯りが、冬層に跳ね返り、ようやくここまで届いたのだろう。冬の形を、誰かの手が今も整えている。


 この星の季節は、どれもどこかで誰かが作っている。紅葉はたぬきたちが塗り、春は花の番人たちが空気を軽くし、夏は海の底から上がってくる光が決める。


 冬は、光虫と、雪守の歩く音と、分厚い空気ぜんぶが協力してできていく。

 本物の冬がこの町に降りきるのは、きっと何日か先だろう。それまでのあいだ、冬層は少しずつ沈みながら、空気の重さと音の届き方を調整していく。


 でも、その前触れだけでも、十分だ。


 冬の静けさは、いつも遅れてやってくる。けれど、それを受けとめる時間だけは、僕たちと同じ速さで過ぎていく。仕事も、締め切りも、買い物メモも、冬とは関係なくやって来て、去っていく。


 深く息を吸う。空気の中に、ほんの少しだけ甘い香りがあった。砂糖を焦がした匂いか、どこかの家の鍋の出汁かもしれない。冬がそれを拾って運んできたのだと思うと、何でも少しだけ美味しそうに感じられた。


 その匂いを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくり息を吐く。ドアノブに手をかける前に、もう一度だけ空を見上げる。


 この星の冬は、空から落ちてくる。

 そのことを、今年もちゃんと目で見て、肌で感じられた。


 それだけで、今日は十分な一日だった。

(((╭( ˇωˇ)╯))) 飲酒投稿。

        進まないので、いったん閉じておこう。

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