第10話 雲の日
休日の朝。ベランダに椅子を出して、コーヒーを飲みながら空を見上げていた。
空には、一枚の雲が浮かんでいる。
大陸の地図を貼りつけたみたいに、輪郭がはっきりしていて、朝からまったく形を変えない。ただ、そこに在る。
「今日も、あの形のままか」
そうつぶやき、カップを傾けた。コーヒーの表面にも、雲の影がぼんやり映っている。
家の前の道路に落ちた影が、ゆっくりとずれていく。向かいの雑貨店の看板にかかるころが、だいたい昼の目安だ。影は正確だ。
遠くで犬の鳴き声がした。少し離れた住宅地のほうから、わずかに遅れて届く。
この星では、音の伝わり方にちょっとしたゆるみがある。
空気が広すぎるせいかもしれない。
風は、ときどき丘の向こうから降りてくる。けれど、地表に届くころには、もう別の温度になっている。風そのものが、長い旅をしてくる感じだ。
昼前、町の放送が流れた。
「本日の連絡です。裏側通信、安定化テストを行います。電波が乱れる場合があります」
スピーカーの声が、少し震える。僕は笑って、ひとりごちた。
「雲の動きより、通信のほうが早いってのが不思議だよな」
昼を過ぎても、雲の形は変わらなかった。ただ、影が少しだけ隣の建物にかかっている。
それで時間が進んでいることが分かる。
ノートに影の線を描く。
「雲の動き観察記録・六日目」と書かれたページに、新しい線を一本足した。
たぶん誰に見せるわけでもない記録だけど、何かを続けることが、僕にとっての生活の証だった。
スマホが光る。娘からのメッセージだ。
《パパ、まだ雲見てるの?》
《うん。今日も同じ形だ》
《飽きないの?》
《動かないけど、影が動くんだ。ゆっくり》
《ふ~ん》
既読がつくまで、ほんの一瞬。通信のほうが風よりずっと速い。
風はあるけれど、届くのが遅い。届いたときには、もう季節がひとつ変わっていることもある。
午後になり、雲の輪郭が少し滲んだ気がした。目をこすってみたが、気のせいかもしれない。
この星では、雲の揺らぎが観測された例は少ない。
僕にとっては、どちらでもよかった。
動いていようが、止まっていようが、雲は今日も空に浮かんでいる。
それだけで充分だ。
テレビをつけると、地方ニュースがやっていた。
「裏側フェスティバルの開催が決定しました。今年のテーマは“見えないを、感じよう。”」
画面の右下では、やる気まんまんのマスコットが手を振っている。
僕は笑った。
「“届かないを、つなげよう”より、少し現実的かもな」
午後三時頃。影が家の前を通り抜け、郵便局の屋根を覆った。
それが、この町の午後の合図。
子どもたちの声が少し遅れて届き始める。夕方の遊び時間の始まりだ。
声のテンポまでどこかゆったりで、世界が大きいぶんだけ子どもたちの時間ものんびりしているように聞こえる。
僕は柵に手をかけ、ゆるく風を受けた。世界は大きくて、暮らしは小さい。
雲は動かず、人間はゆっくり歩く。そんなバランスの上で、今日も静かに昼が終わっていく。
夕暮れ。空の端が赤く染まり、影が丘の向こうに伸びていく。
僕は立ち上がり、雲を見上げた。
やはり朝と同じ形。動く気配がない。
けれど、その変わらなさに、むしろ安心を覚えるようになっていた。
ふとスマホが光る。娘からだ。
《パパ、雲の写真送って》
僕はカメラを向けた。画面には収まりきらない巨大な雲が写り、まるで空の表面に地図の断片が刻まれているようだった。洗濯物の白い影と、暮れかけた空の群青が一緒に映り、なんだか少しだけ特別な写真に見えた。
《送ったよ》
《ありがとう! 明日の絵日記にする!》
それを見て、胸が温かくなった。娘にとっての今日の特別は、この巨大な雲の写真。
星がどれだけ大きくても、人間の暮らしのサイズは変わらない。そのギャップが妙に愛おしい。
送信を終えると、ゆっくりと椅子に座り直す。
風は今日も遠くから来ている。
影は、ゆっくりと今日を運んでいった。
夜が静かに落ちて、遠い光の気配が雲の縁をやさしく染めていた。
どこから来た光なのか、もう分からない。ただ、この星のどこかで誰かが灯した明かりが、雲の底にひっそりと触れたのだろう。
動かないはずの雲が、ふいに明るさをひとすじ滲ませた。
それが風のいたずらか、光の揺らぎかは分からない。
でも、その一瞬だけ、空が生き物みたいに息づいたように見えた。
「やっぱり……どこかで動いてるんだな」
つぶやくと、雲は相変わらず静かに沈黙している。
だけど、その沈黙の奥に、大きな星の緩やかな呼吸が感じられた。




